第32話 博士の定期検診と、剥奪された『名前』
【午後・第四救護団事務所】
その日の午後。午前の依頼を片付け、昼食のパスタを三人前平らげたアタシは、至福の時を迎えていた。
事務所の革張りソファに寝転がり、白衣を頭まで被って毛布代わりにする。この特注白衣は、エリザが開発した『環境適応型・魔導繊維』とかいうふざけた素材でできており、夏は涼しく冬は暖かい。まさに全天候型の着る布団だ。
意識が泥のように重くなり、深い眠りの底へと沈んでいく。このまま夕飯時まで、誰にも邪魔されずに惰眠を貪る。それこそが今の任務……。
「……ん?重い……」
呼吸が阻害される圧迫感に、意識が強制浮上した。金縛りか? いや、霊的なものにしては質量がしっかりしている。
胸から腹にかけて、まるで漬物石のような、しかし妙に柔らかくて温かいナニカが乗っかっている。内臓が圧迫され、胃の中のパスタが逆流しそうだ。
アタシは不快感に眉をひそめ、鉛のように重い瞼を無理やりこじ開けた。
「あら、やっと起きたの?アリス」
視界いっぱいに、見目麗しい美女の顔があった。透き通るような白磁の肌に、宝石のような翠玉の瞳。そして、人間離れした長く尖った耳。知的な銀縁眼鏡が、その整いすぎた顔立ちに冷ややかな理性を添えている。
彼女はあろうことかアタシの腹の上に優雅に腰掛け、どこから出したのか、湯気の立つティーカップを傾けていた。優雅な午後のティータイムを、人の腹の上で開催してやがる。
「……ゲッ。耳長女」
アタシは半目で呻いた。最悪の目覚めだ。
エリザ・フォン・アインズベルン博士。王立魔道研究所の博士にして、この最強白衣の製作者だ。
「どけよ、耳長女。人の腹を椅子にするな。パスタが出るだろうが」
「失礼ねぇ。せっかくアフターサービスに来てあげたのに。相変わらず寝起きが悪いのね」
エリザは悪びれる様子もなくクスクスと笑うと、カップの中身を飲み干してから、ようやく立ち上がった。
ふわりと香る、高級な茶葉と薬品の混じった匂い。彼女が退いたことで、圧迫されていた肺に空気が戻ってくる。
身体を起こし、気だるげに部屋の隅を見ると、ルインが直立不動で震えているのが見えた。顔色が悪い。
「……いつ入ってきたんですか博士?」
「転移魔法よ。ドアを開けるなんて原始的な行為、面倒くさいじゃない」
エリザは埃ひとつない純白の白衣を翻し、当たり前のように言い放つ。普通に不法侵入だぞコイツ。これがエルフの世界の常識なのか?
「ねえ、眼鏡君。お茶はないのかしら?」
「え?あっはい、今、お持ちします」
ルインが弾かれたように給湯室へ向かう。完全に下僕の動きだぞ、もっとしっかりしろ。そのままエリザは懐から板状の魔導端末を取り出し、アタシに向けた。
「さあ、白衣のデータを見せなさい。……ふむ。物理衝撃のログが面白いことになってるわね。随分と派手に暴れ回ったみたいじゃない」
エリザは端末を操作し始めた。空中にホログラムの数値が浮かび上がり、彼女の指先に従って明滅する。
だが、ふとエリザの手が止まった。
彼女の視線が、端末から窓の外へと逸れる。そこにあるのは前庭に鎮座する、蔦に覆われた不気味な巨大鉄塊――ネネの新たな住処だ。
「……ん? なにかしら、あの汚らしい鉄くずは」
「ああ、あれか。新しいネネの部屋だよ。今はちょっとワケありでな。そういや、この前来たときネネと知り合いっぽかったけど」
「私とネネは『同期』よ。研究所に入った時期も同じで、よく隣の席で徹夜して論文を書いたわ。……私の数少ない、人間の友人」
「へぇ、同期だったのか」
長命種であるエルフと人間が同期というのは妙な響きだが、研究者としてのキャリアが同じということだろう。エリザは窓辺に歩み寄り、複雑な表情で蔦の要塞を見つめた。ガラス越しに見るその鉄塊は、世界を拒絶するように堅く閉ざされている。
「今、絶賛引きこもり中だぞ。昨日ちょっと顔が見えちまってな。それ以来『顔を見るな』って大騒ぎしてた」
「顔を……?そう、まだ『呪い』は解けていないのね」
エリザは深く重い溜め息をついた。その吐息には、友人としての悔しさが滲んでいるようだった。その時、タイミング良くお茶を持ってきたルインが、その空気を察して恐る恐る尋ねる。
「あの……博士。ネネの過去について、何かご存知なんですか? 噂では『悲劇のアイドル』と呼ばれていたそうですが……」
「アイドル、か。……人間たちはそう呼んでいたわね」
エリザはソファに座り直し、ルインが淹れた紅茶の湯気をじっと見つめた。その翠玉の瞳は、今ここにはない過去の光景を、冷たく映し出しているようだった。
「ネネは天才だった。植物毒の生成理論に関しては、ハイエルフの私ですら舌を巻くほどの革命的な発想を持っていたわ。魔法科学と植物学を融合させたあの子の理論は、間違いなく時代を数十年進めるものだった」
エリザの語り口は淡々としていたが、そこには確かな敬意があった。博士のコイツにここまで言わせるのだ、ネネの実力は本物なのだろう。
だが、エリザの声は次第に氷のように低く、冷たくなっていく。
「でも、彼女のその才能は、誰の目にも映らなかった」
「……どういうことだよ」
「彼女が血の滲むような努力をして論文を発表しても、学会の連中が評価するのは『登壇した彼女の美しさ』だけだったのよ」
部屋の空気が、ずしりと重くなった気がした。
「彼女が新種の薬草を発見しても、新聞の見出しは『美しすぎる植物学者、花畑で微笑む』だった。中身なんて誰も読まない。彼女が画期的な毒の精製に成功しても、上層部は『こんな可愛い子に毒なんて扱わせるな』と研究を取り上げた。『もっと華やかな、香水の研究でもしていなさい』ってね。……彼女がいくら叫んでも、いくら論理を尽くしても、周囲には『小鳥が可愛くさえずっている』ようにしか聞こえていなかったのよ」
アタシは眉をひそめ、舌打ちを噛み殺した。それは、「無視」されるよりも残酷で、暴力的な扱いだ。
研究者にとって、自らの成果こそが魂だ。それを「可愛い」という薄っぺらいフィルターで塗りつぶされ、無害化され、愛玩動物扱いされる。実力の世界で生きる奴らにとって、それは何よりも反吐が出る話だった。
「研究者にとって、自分の理論を否定されることより辛いことがあるか分かる?……それはね、『議論の土俵にすら上げてもらえない』ことよ」
エリザは悔しげに、膝の上で拳を握りしめていた。爪が食い込むほどに強く。
「彼女は、名前すら奪われたのよ。『あの可愛い子』という記号に置き換えられて」
「……うわぁ。胸糞わりぃ話だな」
アタシは吐き捨てるように言った。
才能がある奴が正当に評価されないってのは、いつの世も腐るほどある話だ。だが、その理由が「容姿が良すぎるから」というのは、あまりにも救いがない。
「ある日、あの子は実験室で泣き崩れていたわ。『……私がどれだけ頑張っても、みんな私の顔しか見ない。私が笑えば笑うほど、私の研究が死んでいく』って」
エリザは静かに痛みを込めて言った。
「だから彼女は、笑顔を捨てた。前髪で顔を隠し、光を遮断し、嫌われるような毒舌を吐いて……『可愛い女の子』という役割を殺して、ようやく『一人の研究者』になろうとしたの」
「……それが、あの引きこもりの正体か」
「そうよ。あれはただのコンプレックスじゃない。研究者としてのプライドを守るための、彼女なりの必死の抵抗なのよ」
部屋に重い沈黙が流れる。
ルインは何も言えずに俯いている。
アタシは、窓の外の要塞を見た。
ネネはずっと戦っていたのか。世界中の「好意的な無関心」という、真綿で首を締めるような悪意と。
エリザは勢いよく立ち上がり、パンッ! と手を叩いた。
「よし!湿っぽい話は終わり!さあアリス!メンテナンスの続きよ!ネネのことは心配だけど、今は貴方の白衣の耐久テストが先よ。私の攻撃魔法を全力で受け止めなさい!」
「はぁ!?ふざけんな!話の温度差で風邪引くわ!」
アタシはソファから飛び退いた。今の話の直後に、なんでアタシが実験台にならなきゃならねぇんだ。お前の「全力」なんて食らったら、白衣ごと消し炭になるわ!
「お断りだ!アタシはこれから優雅な午後の……」
アタシが拒否しようとした瞬間、エリザは懐からずっしりと重そうな革袋を取り出した。
ジャラッ……と、重厚で甘美な、金貨の擦れる音が鼓膜を震わせた。それは、世界で最も美しい旋律。
「協力すれば、特別協力費を出すわよ? 中身はもちろん金貨」
「……喜んで!科学の発展のために、我が身を捧げましょう!」
「アリス……お前ってやつは……」
ルインが呆れ果てた顔で呟く横で、アタシは0.1秒の速さで敬礼した。背に腹は変えられない。それに、ネネの過去には同情するし、アタシなりに思うところはある。不条理に対する怒りもある。
だが、それはそれ。今夜の焼肉代は別問題だ。金貨が貰えるなら、アタシは喜んでサンドバッグにもなるし、ピエロにもなろう。それがプロというものだ。
その頃。
植物要塞の中で、ネネは膝を抱えていた。
外から聞こえる同期の楽しげな声と、アリスの悲鳴(という名の歓喜)を聞きながら。
「……エリザ。……お節介」
ネネは長く伸びた前髪をぎゅっと握りしめた。
けれど、その口元は少しだけ緩んでいるようだった。理解者が近くにいる安心感が、分厚い鉄の壁を越えて、彼女の元へ届いていた。
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