第4話 消えた戦場
アルガスとレダは、果てしない書架の間を駆け抜けていた。
編集者の追跡をかわしながら、二人が向かう先は一つだった。
**――削除されたはずの“第七歌”。
英雄譚の中でもっとも血なまぐさい、あの戦場。**
「おいレダ、速すぎるぞ!」
「私は変わってない。君が鈍ったんだよ、アルガス!」
軽口を叩く彼女の後ろ姿は、確かに生きている。
だがアルガスの胸の奥には、言葉にできない不安が渦巻いていた。
レダは“すでに死んだはずの仲間”だ。
叙事詩が書き換えられたせいで、彼女の死の記録は曖昧になっている。
この姿が本当に彼女の“存在”なのかすら疑わしい。
(……だが、それでもいい。
今ここにいるレダを守り抜く。それだけだ)
そんな決意を胸に、アルガスは走る足をさらに速めた。
「ここだ!」
レダが立ち止まったのは、巨大な書架の影にぽっかりと開いた“裂け目”の前だった。
まるで本のページが破れ、向こう側が露出したような異様な光景。
裂け目の奥には、白い霧が渦巻いている。
その向こうから、聞き覚えのある音がかすかに響いてきた。
**金属のぶつかり合う音。
獣の咆哮。
人の悲鳴。**
「これは……」
「第七歌、“白峰の戦い”。
私たちが初めて全滅を覚悟した、あの場所だ」
レダが静かに言う。
その声には懐かしさと、わずかな恐怖が混じっていた。
「ここを辿れば、私たちの叙事詩を書き換えた“最初の痕跡”に近づけるはずだ。
この戦いから、物語は少しずつ変質し始めていた」
「行くぞレダ」
「もちろん」
二人は裂け目へ飛び込んだ。
次の瞬間、視界が開けた。
風が吹き抜ける。
血の匂い。
雪の上に無数の足跡と、黒く染まった痕跡。
「ここは……確かに白峰の戦いの跡だ」
アルガスは息を呑む。
しかし何かがおかしい。
「敵が……いない?」
本来ならば、この戦場は獣鬼〈フェロウ〉の大軍と激突した激烈な戦いだった。
雪の斜面には倒れた仲間、崖上から矢の雨、指揮官の怒号、獣鬼の影。
それが——ない。
あるのは、**戦いの“痕跡だけ”**。
足跡はあるが、兵士の死体はない。
剣の折れた破片は散らばっているが、誰一人として戦っていない。
「……まるで“戦いが起こらなかったこと”にされたみたいだ」
「それが改変の力だよ、アルガス」
背後から、冷たい声がした。
「誰だ!」
振り返ったアルガスに、白い外套の人物が歩み寄る。
その姿は“編集者”そのものだった。
「これから私のことはラドナと呼んでください。
君たち二人が、ここに来ることは分かっていましたよ。
英雄譚を改変し始めた“最初の場所”に、いつか辿り着くと思ってね」
「ならば答えろ!なぜこんな改変をした!?
俺たちの戦いを、死闘を、歴史を無かったことにする理由は何だ!」
ラドナは困ったように微笑んだ。
「理由は単純です。
読者が求めていないからですよ」
「読者……?」
「彼らは過剰な悲劇を望んでいない。
長々と続く残酷な戦いは“読みづらい”。
君たちの苦闘は、冗長で、重く、時に退屈ですらある」
雪がきしりと鳴る。
「だから……削除したのです。
“必要のない苦しみ”を」
「ふざけるな!」
アルガスは叫ぶ。
「俺たちが血を流さなかったら、英雄譚なんて存在しなかった!
勝手に苦しみを取捨選択するな!」
「英雄よ。“物語”は読者が消費するものです。
あなたの真実がどうであれ、必要とされなければ――」
ラドナは指を鳴らした。
次の瞬間、戦場の景色が白く塗り替わる。
雪が灰色に、痕跡が霞となって消えていく。
足元の地面さえ、白紙のように溶けていった。
「――消します」
「やらせるか!」
アルガスは剣を抜き、白化する雪原へ跳び出す。
ラドナが掲げた羽ペンが空中で輝き、文字の雨を生み出す。
《戦場の残滓、無効化》
《英雄アルガスの動きを“鈍重”に修正》
《レダの存在を不安定化》
「くっ……!」
一瞬、アルガスの足が重くなり、視界が揺らいだ。
レダの身体が半透明になりかける。
「アルガス、まずい!このままじゃ私は――!」
「喋るな、レダ!お前は俺が守る!」
剣を振るい、降り注ぐ文字の雨を斬り払う。
斬られた文字は霧となって消え、世界の白化を抑え込むように散っていく。
「文章を……斬った?」
「俺の叙事詩は俺のものだ!
改変の文字なんざ、いくらでも切り裂いてやる!」
アルガスが叫ぶと、剣が淡く光った。
その光に反応するように、足元の雪が一瞬、元の色を取り戻す。
「どうやら……本当に“抗う力”を持っているようですね」
ラドナは羽ペンを持つ手に力を込めた。
「ならば、本格的に削除させてもらいましょう。
あなたの英雄譚ごと、この戦場を“なかった書”に」
空が裂け、巨大な黒のページが舞い降りる。
《第七歌、完全削除処理開始》
その瞬間、世界がかすかに震えた。
足元の白紙化が加速する。
雪原が紙のようにめくれ上がり、無の空間が露出し始めた。
(まずい……これじゃレダが……!)
半透明になりかけているレダの姿が揺れる。
「アルガス……!行って……!私はもう……!」
「黙れ!!」
アルガスは叫んだ。
「お前を失わせるものか!もう二度と!」
怒りの叫びと共に剣を地面へ突き立てる。
次の瞬間——
戦場の空気が震えた。
風。
血の匂い。
仲間の叫び声。
そして獣鬼〈フェロウ〉の咆哮。
「……これは、記憶……?」
レダが呟く。
いや、違う。
「これが“白峰の戦いの真実”だ」
アルガスの剣が、戦場そのものの記録を呼び起こしたのだ。
白化しつつあった世界が、少しずつ“本来の戦場の姿”へ戻っていく。
ラドナが渋面を浮かべる。
「まさか……あなたがここまで“物語への干渉”を……!」
「俺は作者じゃない。編集者でもない。
だけどこの剣は……俺が歩いた真実を覚えている!」
剣が脈打ち、白峰の戦場が再構築されていく。
レダも徐々に透明度を失い、確かな輪郭を取り戻していく。
「アルガス……!」
「行くぞレダ!
俺たちの戦いを、改変なんかに奪わせはしない!」
再構築されつつある戦場の中で、獣鬼の影が動く。
かつての敵――だが今は“記録の残滓”だ。
「戦えるかレダ!」
「もちろん!」
二人は背中合わせになって構えた。
ラドナが羽ペンを掲げる。
「愚かですね。
過去にすがりつく英雄に、未来などありませんよ」
「未来を奪おうとしているのはお前だ!」
剣を構えるアルガス。
羽ペンを掲げるラドナ。
再構築される白峰の戦場。
三者が交錯し――
戦いの幕が、今まさに上がろうとしていた。




