エピローグ.
トーリが目を覚ますと、天井が目に入った。吊り下げられたランプに火が灯って、もう日が暮れたらしい事が窺える。
体が何となくだるい。頭は痛くない様だが、薄ぼんやりと膜でもかかった様な気がする。
「起きた」
ひょこっと天井を遮る様にユーフェミアの顔が出て来た。垂れて来た白髪が顔に触れてくすぐったく、トーリは目をしばたたかせながら身じろぎした。
「ユーフェ……俺、寝てた?」
「うん。ワイン飲んでからずっと」
上体を起こすと、ソファに寝ていたらしい事がわかった。
暖炉には火が燃えて薬缶がかかっている。外はしんとしていた。ドアを開けて見ると、確かに食器類はすべて片付けてあった。飾りつけなどはそのままだが、これは後日片付ければいいのだろう。
空は晴れていた。月の光が庭先を白々と照らし、千切れた雲がところどころに薄くたなびいていた。祭りの後という風で、何となく寂しい。トーリは扉を閉めた。
「みんな帰ったのか」
「帰った。お片付けしてくれた」
「そうか……シノさんたちも?」
「うん。居座るのは野暮だって」
トーリは頭を掻いた。折角みんな来てくれたのに醜態を晒してしまったなと思う。
ソファに腰かけて息をつくと、隣にユーフェミアが座って体を寄せて来た。温かい。トーリはその肩に手を回した。ユーフェミアは嬉しそうにトーリの肩に頬ずりした。
「えへへ」
「……賑やかだったな」
「うん。嬉しかった。みんながおめでとうって言ってくれた」
「そう、だな」
照れ臭かったが、悪くなかった。祝福してもらえるというのは嬉しい事だ。
ごたごたしてしまったけれど、ユーフェミアの両親に会えたのもよかった。アーヴァルが気の毒だったので、また機会があればゆっくり話がしてみたいと思う。
色々な事が続いたが、これでひとつ区切りがついたのかも知れない。
尤も、それがどういう区切りなのだかは本人たちもよくわかっていない。しかし夫婦という事になったし、別宅も建築中だし、生活が続くうちに少しずつ変化が実感できるのかも知れない。
いずれにせよ、また明日からは日々が続く。トーリは家事をこなし、ユーフェミアは白金級の冒険者として仕事をする。その繰り返しの中で、また色々な変化が起こるのだろう。もし子どもができれば、それはまた大きな変化に違いない。
しかしまだそこまで考える段階ではない。未来を想像して期待したり不安を覚えたりするには、まだ心が落ち着いていない。
トーリは伸びをして、立ち上がった。
「お茶淹れるわ。エルネスティーネさん、大丈夫だったか?」
「へろへろだったけど、父様たちがちゃんと連れてってくれた」
「そうか。アーヴァルさんと全然話できなかったな……」
「父様、そのうち魔界にも来てって言ってた」
「お……そ、そうか」
それは中々緊張する話である。すくなくとも戦闘能力的にはまったく大した事のないトーリとしては、荒くれ者揃いの魔界というのは少し腰が引ける場所である。
「魔界か……ユーフェは、行きたいか?」
「別に行きたくない。でも父様は来て欲しがってた。トーリにそのうち跡を継いでもらおうって」
「え? なんの?」
「魔王」
「……は?」
「人間が魔王になれば、きっと地上との融和も一気に進む筈って言ってた。よく似てるし大丈夫だろうって」
トーリは口をぱくぱくさせた。ユーフェミアの父親が上位魔族だというのは知っていたが、まさか魔界の王だとは。
(……いや、少しは想像してたけど、マジだったのかよ)
トーリは頭を抱えた。魔王の娘を嫁にしてしまうとは。しかし、目の前のユーフェミアはユーフェミアである。そんな重責よりも、ユーフェミアが好きだという気持ちが先に立つ。
「いや、無理! 魔王とか絶対無理!」
「そう?」
「そうだよ! 大体、俺クッソ弱いんだぞ! 魔界って力こそすべてみたいな所なんだろ!?」
「そうだけど、父様だって弱いよ」
「え? そうなの?」
「うん」
何でも、アーヴァルは上位魔族としては相当弱いらしく、前代魔王の時代には、魔王候補としては歯牙にもかけられていなかったらしい。しかしエルネスティーネの手助けもあって予想外に魔王の座に就いた。
当初はやや混乱したらしいが、結果として穏健策をとるアーヴァルと魔界の現在の在り方ががっちりはまり、すっかり安定したとの事だ。
滅茶苦茶強い嫁に弱い夫という構図は確かに似ているが、そもそも上位魔族であるアーヴァルと、人間であるトーリでは立ち位置自体が違う。
何だか大変な事になって来たとトーリが困惑していると、ユーフェミアが口を開いた。
「でも、わたしはトーリに魔王になって欲しくない」
「あ、そう……?」
「うん。わたし、地上が好きだもん。こうやってのんびり暮らしたい」
確かにそうだろう。尤も、アーヴァルもエルネスティーネも割と好き勝手に暮らしているのだが、そんな事はトーリは知らない。
ホッとした心持で、トーリはポットに茶葉を入れた。
「まあ、それならいいや。俺も魔王とかまっぴらごめんだし……アンドレアたちはどうだった? 結構飲まされてたけど」
「ガスパチョとかマリウスとかクリストフはへろへろだった。ロビンも眠そうだった。でもアンドレアたちは大丈夫そうだったよ。イヴリスとの結婚式には来てって言ってた」
「そうだな。あいつらも結婚するんだもんな……あーあ、やっぱ酒は駄目だな。何も覚えてねぇや」
トーリが何気なく言うと、ユーフェミアの顔が悲し気に歪んだ。トーリは薬缶からポットにお湯を注ぐ。
「ユーフェ、お茶は」
「うー」
ユーフェミアは口を尖らしてトーリに抱きついた。
「うおっ、あぶねっ! お前、薬缶持ってんだから」
「覚えてないの?」
「え? あー、覚えてない、けど。何かやらかした? 俺?」
「……キスしてくれた」
「え」
「キスしてくれた。唇に。みんな見てたよ」
ユーフェミアは上目遣いにトーリを睨んでいる。
トーリは口をぱくぱくさせた。思い出そうとしてもはっきりと思い出せない。何となく映像の断片的なものがよぎるけれど、それが記憶としてのつながりを持とうとしないのだ。
困惑しているトーリを見て、ユーフェミアは悲し気に目を閉じて、トーリの胸に顔を押し付けた。
「ばか」
「ご、ごめん」
「許さない。忘れちゃうなんて」
「いや、酒のせいで」
「キスしたのもお酒のせいだったの?」
ユーフェミアはすっかり怒っているらしかった。ムスッとしたまま、しかしトーリに抱き付いて離れない。
トーリは薬缶を置いて、ユーフェミアの肩に両手を置いた。
「ユーフェ」
「ふんだ」
ユーフェミアはあくまで不機嫌にトーリを見上げた。トーリはためらいなく顔を近づけた。ユーフェミアの目が驚きに見開かれた。
ふにっと柔らかなものが唇に触れる。
あ、この感触は覚えてる、とトーリは思った。
「んんっ」
ユーフェミアは身じろぎして、トーリをぎゅうと抱きしめた。トーリの方もユーフェミアを抱き返す。
重ねられた唇が一旦離れた。
ユーフェミアが潤んだ目でトーリを見た。
「……今は酔ってない?」
「おう。これは忘れないぞ」
「えへ……もっと」
ユーフェミアは飛びつく様にトーリの首に手を回して再び口づけた。
新婚夫婦はしばらくそうやって接吻の応酬を交わした。
すっかり機嫌の直ったユーフェミアは、トーリに抱き付いたままえへえへと笑った。
「幸せ」
「うん」
「これからずっとこうできる。嬉しい」
そう言って胸に顔を押し付けて来る。トーリはその頭を撫でてやった。
今では妻になったこの少女が愛おしくて仕方がない。ただこうして抱き合っているだけなのに、胸の内から幸せな気持ちが溢れて来て止まらないのである。
この感じに困惑しつつも、トーリはそれに身を任せた。腕の中で感じるユーフェミアの体温が心地よく、温かい。
明日からまた暮らしが始まる。
日々の営みは忙しなく、予想外の出来事も飛び込んで来るだろう。魔界がどうだの、魔王がどうだのと、あれこれと気を揉む場面も出て来るに違いない。
しかし、今だけはこの気持ちに溺れていたい。
トーリはユーフェミアを抱く腕に優しく力を込めた。
これにて本当に完結です。
ありがとうございました。