13.行きつ戻りつ
夜の悩みは一夜明けると奇妙に薄れて、やがて姿を消してしまう。
夜半過ぎまで考え込んだトーリだったが、結局答えらしき答えも出せず、煮え切らないまま寝床に入った。起き出せばまた日々の仕事が待っている。鳥の世話をして朝食をしたため、掃除洗濯をする。
またこうやって、と思ったが、相変わらずユーフェミアは幸せそうにトーリの料理を頬張るし、何かやっている後ろから唐突に抱きついてぐりぐりと甘えて来たりする。
そうなると、トーリは何だか今まで以上に不思議な喜びが湧いて来るのを感じた。そうしてもやもや感が治まるのをいい事に、結局日常に舞い戻った。
エルネスティーネが来てからもう数日が経つ。
ユーフェミアはここ数日、エルネスティーネと一緒に何やら新しい魔法を作る実験をしていた。エルネスティーネが開発した魔界と地上を行き来する魔法陣を、より正確かつ安全に使える様に、母娘が鼻を突き合わして、ああでもないこうでもないと試行錯誤した。
二人の間には描かれた魔法陣がある。
「違うよ母様。こっちの直線はここで三叉に分けてそれぞれにつながないとこっちの陣が作動しないよ」
「でもそれでこの部分を立体にしちゃうと、こっちの魔力の流れを阻害しちゃうのよ。ここの回路を上手い事繋いで、かつ魔力がロスなく流れる様にしないと、空間穿孔に必要なエネルギーが足りなくなっちゃう」
「いっそ、こっちの術式を丸々削ってみるとか」
「んー? ああ、これねえ……削れるなら削りたいんだけど……」
「……あ、駄目だね」
「そうなのよ。術式が大型になっちゃうから邪魔なんだけど、そこから構築される魔力作用がどうしても必要なの」
「簡略術式を組んでみる?」
「そうねえ……やってみましょうか。出力を下げちゃ駄目よ?」
「うん」
ユーフェミアは人差し指で空中にひらひらと魔法陣を描いた。指の後に淡い光の筋が続き、きらきら光る魔法陣が宙に浮かぶ。それらの線や図形をつないだり切り離したりして、あれこれと試しているらしい。
何だか違う世界の出来事の様だ。
横目に見つつ家事をこなしていたトーリだが、何が起こっているのかさっぱりわからない。
「飯だけど」
遠慮がちに声をかけると、浮いていた魔法陣がパッと消えた。ユーフェミアが嬉しそうにトーリの方に駆け寄って来る。
「お腹空いた。なに?」
「野菜のスープとリゾット。あと炙り肉」
「やった。母様、ご飯。休憩しよ」
「そうね。もう少しっぽいんだけどなあ」
エルネスティーネは頭を掻きながらやって来た。
それで三人での昼食をとる。使い魔たちはまだ戻って来ない。地上での仕事がないというのもあるが、魔界でもあれこれと今まで溜まった用事を片付けているらしい。
昼食を終えるとユーフェミアはふわわと欠伸をして、すぐにソファに寝転がってしまった。エルネスティーネも食卓に頬杖を突いてうとうとしている。
何とも穏やかな昼下がりである。外からは蝉のけたたましい声がするけれど、壁一つ隔てられているから、それが却って静けさを助長している様に思われる。
やや呆然としていたトーリは、炉にかけていた薬缶が吹く音でハッとした。慌てて薬缶を下ろして、ポットに茶葉を入れる。
「……このままずっと、ってわけにもいかないしな」
ぽつりと呟くと、頬杖を突いて目を閉じていたエルネスティーネが片目を開けた。
「なに、どうしたの?」
「あっ……いや、その……」
エルネスティーネはふふっと笑ってから欠伸をし、ぐーっと両腕を上げて伸びをした。
「ふあ……トーリ君、わたしにもお茶頂戴な」
「あ、はい」
トーリはエルネスティーネの手元のカップにお茶を注いだ。エルネスティーネはそれを両手で持ってふうふう吹いている。
「はー……あーあ、もうお酒何日飲んでないかしら……」
「はあ」
「んん、お茶おいし」
この屋敷に来て以来、最初のブランデー以外に酒を飲んでいないエルネスティーネは、何だか一回り小さくなった様に見えた。
そういえば、ユーフェミアが酔っていない母親は可愛くて好きなどと言っていたのを、トーリは思い出した。ずっと据わっていた目つきが柔らかくなって、口ぶりも何だか柔らかいし、豪快さが鳴りを潜めたせいか、雰囲気が大人しい。
「……随分雰囲気違いますね」
「ん?」
エルネスティーネは小首を傾げた。
「そう、かなぁ? こんなに長く酔っ払ってないの久しぶりだから、何だか変な気分……」
「こっちの方がいいですよ」
「うー、そう? でもわたし、素面だと引っ込み思案なのよね……」
と言ってエルネスティーネはもじもじした。何だか仕草まで可愛らしくなっている。
曰く、かつて『赤剣の魔女』という大魔法使いとして地上で名が売れていた頃、その名前故にあれこれと頼み事が舞い込んで休む暇もなかったらしい。
「ユーフェみたいに変身してなかったからね。ほら、見た目が超可愛いでしょ、わたし」
「はあ」
「しかも素面だと気弱なところもあるから、だから舐められ気味でね、特に年かさのおっさんとかから。断ったら断ったで力のある者は義務が云々とか鬱陶しい事言ったり、悪口言われたり。もう嫌になっちゃったの。だからついお酒に逃げちゃって、それでもきつかったから魔族の旦那と一緒に魔界に逃げ出したんだけど」
結局魔界でも夫が偉い地位になってしまって、実力のある魔法使いであるエルネスティーネにもあれこれと仕事が舞い込んで来る様になってしまったらしい。それで業を煮やしてとうとう部屋に引きこもって現在に至るとの事だ。
トーリは頭を掻いた。自分は実力のなさで悩んでいたけれど、実力のある人は実力のある人の悩みがあるらしい。
「あの」
「なぁに?」
「エルネスティーネさんは、その……結婚して、どうでした?」
トーリが言うと、エルネスティーネは頬に指を当てて視線を泳がした。
「そうね……もちろん後悔はないわね。嬉しかったし、幸せだったわ。でも、やっぱり旦那との関係性はちょっと変わっちゃった感じがするかな」
「なんか、旦那さんって俺と似た様なタイプらしいですけど」
「んー、確かに家事万能な人よ。でもうちの旦那はのんびり屋なのよ。トーリ君、結構ずばずばいうタイプでしょう? つまみ食いを一喝された時はどきってしたもん」
「ま、まあ、そうです、かね……?」
改めて言われると何だか恥ずかしい。そういう状況が多いという事もあるけれど、事ある毎に怒ってばかりの様に思われる。
エルネスティーネはくすくす笑った。
「男なのに肝っ玉母さんって感じよね、あなた」
「どうも……」
無性に恥ずかしくなって来て、トーリはやや俯きがちに頬を掻いた。エルネスティーネはお茶をすすった。
「うちの旦那は大抵の事は笑って許してくれちゃうタイプなの。その分威厳とかは皆無なんだけどね。結婚する前なんかは、そんな性格が優しくて好きで、もうめっちゃ甘えていちゃいちゃしまくったなあ……でも人間と魔族でしょう? 結婚するにも色々差しさわりがあって、却ってそれで絶対に結婚する! ってなったんだな」
と言いながら思い出して来たのか、エルネスティーネは何だかほんのり頬を染めて恥ずかしそうに視線を泳がした。
「……ま、まあ、そういう風に蜜月があったわけだけど、まあ結婚してみるとね、何だかそういうのに慣れて来ちゃって、何でもない様に思う様になっちゃうのね。勿論嫌いじゃないのよ? でも心の沸き立つ瞬間がなくなるっていうのかな……ユーフェが生まれてからはそれが一番顕著だったわね。もうわたしも旦那も二人して子どもが一番になったから、ユーフェほったらかしていちゃいちゃするなんて思いも寄らなかったわ。面倒っていうか鬱陶しいっていうか、旦那の扱いはぞんざいになっちゃった」
「そういうもんですか」
「よそは知らないわよ? うちはそうだったってだけの話。特に、魔族と人間だと滅茶苦茶子どもできにくいのよ。旦那が干からびかけるくらい頑張ったけど全然駄目で。もう諦めかけてた時にできた娘だったから、余計に可愛くてねぇ」
そうらしい。半魔族というのは随分珍しい存在の様だ。
「ま、ユーフェとトーリ君がどうなるのかは、わたしにだってわからないわよ。でも別れれば別れたで終わりの気楽な関係から、ある意味責任を互いに負う関係になるわけでしょう? 恋って遊びみたいな側面があるけど、家庭ができると遊びだけじゃない、リアルな生活になって来るわけよ。相手の嫌な所も見えて来るし、今まで気にならなかった事が気になって来たりもする。子どもを作るのかどうかは別にしても、自分たちで関係性を変えようとする以上、無意識でも変化があるものなのかもね」
そう言ってエルネスティーネは椅子の背に体を預け、大きく欠伸をした。
「ふあ……眠いわ。お酒ないとつい食べ過ぎちゃう」
「寝てもいいですよ」
「そうね……」
エルネスティーネはむにゃむにゃ言いながら食卓に突っ伏した。ここで寝るのか? とトーリは首を傾げながらも、別段邪魔にもならないので放っておく事にした。
ぬるくなったお茶を飲みながら、今した話を反芻した。
確かに、結婚というのは関係性を積極的に変えるという行為である。一体何がどう違うのか、具体的にこうだとはトーリに言えないけれど、やはり違う様に思われる。
結婚しても、今の感じが変わらないならば結婚する意味があるのか疑問であるし、変わってしまうならそれに対する漠然とした不安がある。変化があるにしても、それが常に良い方にだけ変わるとは限らない。
自分の両親の事を考えてみた。どこにでもいる農民という風で、生活の必要上当然協力し合っていたが、恋人の様には当然見えなかった。
(……それにユーフェは半魔族なんだよな)
いつも忘れているが、ユーフェミアは人間と魔族の合いの子である。魔族の寿命は長いという。半魔族も、少なくとも人間より長い筈だ。トーリはただの人間だから、長生きしてもせいぜい九十歳が関の山だろう。百歳に至る事ができれば驚きだ。それに長生きした所で年を取れば体は衰えて行く。
エルネスティーネの様に魔法で老化を止めてしまえるくらいの魔法使いであれば、寿命の差など関係ないだろう。
しかしトーリは魔法の才能もない普通の人間である。ユーフェミアより先に老いて死ぬ。残されたユーフェミアがどう思うだろう。
考えれば考えるだけドツボにはまって行く様に思われる。
気分転換も兼ねて買い物にでも行こうと立ち上がった。
○
町は相変わらず埃っぽく、夏の日差しに照らされてそこいらがけぶっているかの様に思われた。アズラクの賑わいはいつも通りだ。人や荷車や駄馬が行き交い、音とにおいが雑多に入り交じって周囲から迫って来る。
買い物に来たはいいけれど、特に目的があっての買い物ではないから、トーリは漫然と市場を歩き回り、目についたものを時折買いながらぶらぶらした。
歩いていても考えがまとまるわけではない。しかしすぐ家に帰ろうという気にもならない。
当てもなくぶらつきながら、目についた店に入り込んだ。喫茶店で、外にも傘を広げて席が置かれている。
店内で注文してから外の席に腰を下ろし、空いた椅子には荷物を置き、トーリは体を伸ばした。
「はー……なんだろうなあ……」
何だかよくわからない。考えなくていいところまで考えている様にも思われる。
頼んだお茶を飲みつつ、ぼーっと往来の人通りを眺めていると、「トーリさん、こんにちは」と急に声を掛けられた。
驚いて目をやると、本を抱えたシリルが立っていた。相変わらずの人懐っこい笑みを浮かべている。
「お、おお、シリルか……」
「今日はお一人なんですか?」
シリルは辺りを見回し、ユーフェミアの姿がないのに首を傾げている。トーリは頬を掻いた。
「まあ、買い物は一人で来る事も多いからさ。お前こそ一人か?」
「姉さんは仕事です。昨日からちょっと遠方のダンジョンに行ってて、三、四日はかかるって」
「そうか。寂しくないか?」
「はい。でも待つのは慣れているので」
死蟲に冒されていた頃のシリルは、療養院のベッドの上で時折やって来る姉に会うのを楽しみにしていた。今では内職をしたり、魔法の練習をしたりして過ごしているらしい。
「立ったままもなんだろ、座れば?」
「あ、いいんですか? じゃあ」
シリルは遠慮がちにトーリの向かいに腰を下ろした。
改めて面と向かって見ると、まだまだ子どもという顔つきだ。こんな少年に嫉妬するなんて、二十六にもなろうという男が何をやっているんだか、とトーリは嘆息した。
「それ、うちから借りてったやつ?」
「あ、はい。面白いんですよ、だからつい出先でも読み耽ってしまって」
とシリルは本をテーブルに置いた。トーリは手に取って何ともなしにぱらぱらとめくってみた。細かな文章と図が並べられていて全然わからない。
「これ、わかるのか? すげえな……」
「いえ、ユーフェさんとシシリアさんの教え方が上手なので……」
「そうか。ちゃんと家庭教師やってるんだな」
「はい。だからこの前家じゃ怠けてるって聞いて、意外だなって思いました」
「そんなもんかね。俺にとっちゃユーフェはあんまり動かない奴なんだよな。いっつも甘えて来るし、本当に面倒な時は食べるのだって俺に食べさせて欲しがるし」
「へぇー、仲良しなんですね」
惚気話みたいな事を話した、と気づいてトーリは赤面した。シリル相手に張り合おうという気持ちでもあるのだろうか。
だがシリルの方はあっけらかんとしている。彼自身はユーフェミアに恋慕する気持ちなどないのかも知れない。嫉妬心すらトーリの独りよがりなのだろうか。
「でもトーリさん、恋人のつもりはないんでしたっけ?」
「え。あ、えーと……」
その辺りが判然しない。どこかで関係性に区切りがあったわけではなく、ただ何となくそういう風になっているだけである。なまじ最初の方はその関係を否定していた分だけ、今更になって恋人同士だと胸を張る事ができないのがトーリの性格である。
言いあぐねているトーリを見て、シリルは不思議そうな顔をしている。
「大人は色々あるんですね」
「うぐ……」
大人どころか子どもっぽい意地でしかない。トーリは誤魔化す様にお茶を口に運んだ。
シリルは無邪気にユーフェミアの魔法の講義をトーリに話して聞かした。無論シシリアが張り切っているから、大半の教授はシシリアによって行われている様である。しかし要所要所でユーフェミアが丁寧に教えてくれるのだ、という事を聞くと、トーリの胸の奥がちくちくと痛んだ。
この感覚はどこから来るのであろうか? 自分の知らないユーフェミアを、シリルが知っているというのが悔しいのだろうか。
今まではユーフェミアは外に出なかった。出る時は“白の魔女”ガートルードとしてである。「ユーフェミア」という少女はほとんどトーリだけのものであり、その様々な姿態はトーリが一番よく知るところだった。使い魔は数に入らぬ。
それが今ではそうではない。ユーフェミアが“白の魔女”とは別にユーフェミアとして外に出て、新たな世界を広げている。
そうだ。俺はシリルに嫉妬しているわけじゃないんだ。とトーリは思った。
(……そうか。俺、ユーフェを独占したいのか)
と、そこまで思い至った。今までは何もせずともユーフェミアはトーリとだけ一緒にいた。今はそうではない。だからユーフェミアが手元を離れてしまう様に感ぜられて、それが不安なのだ。
器が小さすぎる、とトーリは頭を抱えた。シリルが心配そうに身を乗り出す。
「トーリさん、大丈夫ですか?」
「あ、ああ。大丈夫。まあ、楽しくやれてんなら何よりだよ」
「はい。おかげさまで。あ、また今度本を返しがてら伺ってもいいですか?」
「おう、勿論……」
シリルはにっこり笑うと立ち上がり、ぺこりと頭を下げて人ごみの中に消えて行った。
揺さぶられ続けている。
周囲の環境や関係性が変わっていくに連れて、その流れに自分も押し流されて行く様だ。溺れぬ様にと足掻き続けても、どこに這い上がればいいのかわからない。
いや、本当はわかっているのだ。それなのに見ないふりをしている。
トーリはしばらく呆然としていたが、やがてハッとした様に立ち上がって荷物を持った。帰って夕飯の支度をしなくてはならない。
何とももやもや気分で家まで帰ると、庭先に魔法陣が浮かんでいた。淡く明滅する複雑な幾何学模様が幾重にもなって、あるものは軌道を描く様にして回転している。地面にも魔法陣が描かれており、浮かぶ魔法陣はそこから発されているらしい。
エルネスティーネが興奮気味に魔法陣の周りを歩き回っていた。ユーフェミアもその後をついてぽてぽてと歩いている。
「いいわ! 魔力の流れがかなりよくなった! ロスもなさそうだし、空間穿孔の分の力も申し分なし!」
「定点転移の演算術式も上手くつながってるね。これなら転移点のずれもなさそう」
「んー、ユーフェあなた流石ねえ。母様、ここの組み方かなり悩んだんだけどなあ」
「えへへ」
母によしよしと撫でられて、ユーフェミアは嬉しそうに笑った。酒を飲んでいないエルネスティーネ相手だと、ユーフェミアはすっかり娘の顔になって遠慮なく甘える。
(可愛い……)
半ば呆然と足元に荷物を置いて、トーリが思わず見惚れていると、気づいたユーフェミアが駆け寄って来た。ぶつかる様に抱き付いて来る。
「おかえり」
「お、おう。すげえな、これ」
「うん。もう完成」
と自慢げな顔をする。
何だかユーフェミアが一々可愛く見える。トーリは思わずユーフェミアを抱き返してよしよしと撫でてやった。
この小さくて可愛い生き物を自分だけのものにしたい。そういう欲望が確かに自分にはあるらしい。
ユーフェミアは一瞬驚いた様な顔をしたが、すぐにへにゃっと表情を緩めて、嬉しそうにトーリに頬ずりした。
「今日のトーリ優しい」
「……まあ、うん」
「ちょっとー、母様がいるの忘れないでくれるー?」
とエルネスティーネがにやにやしながら言った。トーリはハッとして、ユーフェミアを抱く腕の力を緩めた。
ユーフェミアはむうと口を尖らしてエルネスティーネを見た。
「母様、邪魔しないで」
「はいはい、そうね。そんじゃ、お邪魔虫は退散しましょうかね」
そう言って指をひょいひょいと振った。屋敷の中からローブと帽子とが飛んで来た。それらを身につけつつ、エルネスティーネは飄々と言った。
「試運転がてら帰るわー。お世話になったわね」
「え、母様帰っちゃうの?」
「娘の元気な姿も見れたし、未来の娘婿様にも会えたしね。それに、ここじゃいつまで経ってもお酒飲めないんだもん」
とエルネスティーネはいたずら気に笑った。ユーフェミアは不満そうに頬を膨らまし、エルネスティーネに駆け寄って抱き付いた。
「母様、お酒飲まない方がいい」
「こればっかりは無理! もう母様限界だもん!」
エルネスティーネはユーフェミアを撫でながら笑い、ぽんぽんと背中を叩いた。
「ユーフェ、母様色々言ったけど、あなたはあなたがしたい様になさいな。トーリ君の事、逃がしちゃ駄目よ?」
「うん」
「トーリ君!」
「はいっ」
急に矛先が向かって来て、トーリは背筋を伸ばした。
「いつまでも煮え切らないんじゃないわよ! うちの娘を前に贅沢な!」
「は、はい……」
恐縮するトーリを見て、エルネスティーネはくすくす笑った。
「ま、そのうち魔界にも来なさいね。転移陣も使える様になったし、うちの旦那の料理、御馳走するから」
そう言って、魔法陣の真ん中に立った。何か詠唱すると、浮いていた方の魔法陣がエルネスティーネを中心に回り出す。
「そんじゃねー」
エルネスティーネが右手を上げ、さっと振り下ろすと同時に魔法陣が一気に収縮し、閃光と共に破裂する様に広がった。
眩しさに思わずトーリは目を閉じる。開けた時にはもうエルネスティーネの姿はなく、魔法陣も地面に描かれたものだけが残っていた。
「行っちゃった」
と言ってユーフェミアが寄り添って来た。トーリの腰に手を回して体を預けて来る。トーリは何ともなしにその肩を抱いた。
「なんか、台風みたいだったな」
「母様はいつもそう」
と言ってユーフェミアはあくびをした。
何となくそわそわするトーリである。
今の気持ちの具合だと、勢いに乗ったまま話ができそうな気がする。しかも使い魔もいない二人きりだ。冷やかす輩も野次馬もいない。
「ユ、ユーフェ。あのな」
返事がない。
おやと思って見ると、ユーフェミアはトーリに寄り掛かる様にして寝息を立てていた。力が弱まってずり落ちそうになっているのを慌てて支えてやる。
「な……こ、この状況で寝るのか? お、おい、ユーフェ! ちょっと起きろ!」
「んー」
抱えられたユーフェミアはもそもそと幸せそうに身じろぎして、すりすりとトーリに頬ずりした。起きる気配は皆無である。そのままごそごそと服を脱ごうとする。もはや大事な話どころではない。
「くそお……!」
トーリは何とも片付かない気持ちのまま、ユーフェミアを抱える様にして家の中に連れて行った。
母親の事だの、転移陣の事だのが片付いて気抜けしたのか、結局その日ユーフェミアはずっと寝たままで、翌朝まで目を覚まさなかった。