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12.煮え切らぬ思い


 魔界の空は相変わらず灰色の雲が垂れ込めている。風は生ぬるいのに変に乾いていて、肌を撫でる度に何だかざらざらする。


 魔界は広く、あちこちに様々な種族が暮らしている。

 魔族や幻獣といった連中は、それぞれの種族で自治をしつつも、一応は魔王の元で連合しているという形だ。そういった種族の中で優れた戦士は勧誘されて、魔王軍の戦力として禄を食む事になる。

 中心部には建物の寄り集まる都があり、ここが魔王軍の本拠地である。

 しかし多くの種族は銘々に自分の集落を作って勝手気ままに暮らしている。行政組織はあるにはあるが、整備されているとは言い難い。ひとまず、ある程度の協調性を保つ以外の事は、魔王側からも強制はできないのである。


 ともあれ、現魔王の施政は最低限の治安は保ちつつ、ほどよく住民を放っておくという、魔族や幻獣たちにとっては大変居心地のいいものらしく、反乱らしい反乱は起こらない。魔族同士の小競り合いも基本的には放置である。拡大して戦争レベルになりそうだと魔王軍が鎮圧に出る予定になっているくらいのものだ。

 とはいえ、魔王軍に協調性は皆無なので、いざそういう事態になった時はむしろ混乱を助長するだけになりそうではあるのだが。

 ともかくそういう風に、魔界は物騒ながらも一応安定しているのだが、無論不測の事態というものは当然存在する。


 廃都は霧に包まれていた。

 七代前の魔王が本拠地として使っていた都は、今では廃墟と化していて、モンスターの巣窟になっている。

 七代前の魔王は凶暴な性格をしており、個人戦闘力が非常に高かった事もあって、魔界を力で統べようとした。無論、魔界全土から激烈な抵抗を受けて魔界統一は成らなかったが、その時の戦いで都は崩壊し、荒れ果てるに至った。

 現在はその旧魔王の怨念が残っているとも言われ、実際に空間が歪む、瘴気が濃度を増す、モンスターが凶暴化する、などの実害があったので、結界で囲んで立ち入り禁止区域とされていた。

 その結界が不安定になっている。


 竜人エセルバートは、廃都の外で腕組みして右往左往していた。

 結界の傍にはシシリアがいて、他のアークリッチたちと一緒に結界の構造を調べているらしい。


「……ややこしい結界だ。シシリアたちで何とかなればいいのだが」

『なんでわしらまでここにおらにゃならんのじゃ』


 エセルバートの後ろにフェンリル姿のシノヅキが寝そべっていた。退屈そうである。その横には同じくらいの体躯の真っ黒な狼が座っていた。


『仕方ねえであります。お前も自分も一応幹部なんだから』


 と黒い狼が言った。シノヅキは面倒くさそうに嘆息した。


『魔王軍幹部っちゅうのも楽じゃねえのう』

『なら辞めたらどうでありますか? 魔王軍はお前がいなくてもガルム族一の戦士である自分がいるから問題ねえであります』

『はん、おぬしなんぞに後を任せられるかい。弱っちくて心配じゃ』

『ああん? 喧嘩売ってるんでありますかシノヅキ?』

『どうせ暇なんじゃ。遊んでやろうか、コウゲツ?』

『おうおう、口だけは威勢がいいでありますな、クソフェンリルめ』

『そりゃこっちの台詞じゃ。ほれほれ、どうした? 来んのか、弱虫ガルムが』

『がるるる』

『がるるる』

「やめんか馬鹿ども! 顔を合わせる度に揉めおって」


 歯をむき出して唸り出した魔狼族たちを見て、エセルバートがうんざりした様に言った。魔狼族二匹はぷいとそっぽを向いた。

 そこにフェニックス姿のスバルが舞い降りて来た。


『上空は異常ないよー。でも結界の中は濃ゆい瘴気で一杯っぽいね』

「それは構わん。結界自体に妙な部分は見受けられなかったか?」


 とエセルバートが言った。スバルは面倒くさそうに羽を繕った。


『別にぃ。てかエセルバート、自分で飛べばいいじゃん』

「黙れ、きちんと自分の義務を果たさんか」

『だから見て来てやったじゃん。異常なーし。もう帰ろーよ。ボク農家の所に行きたい』

「黙って待っておれ。どいつもこいつも……」


 エセルバートは苛々した様子で足元の小石を蹴った。


「大体貴様ら、地上にエルネスティーネ様が来ていたのならば、なぜ連れ帰って来んのだ」

『召喚アストラルゲートはわしらしかくぐれんじゃろが。何寝言言っとるんじゃ』

『そんな事もわかんないのー? 雑魚竜人、ばぁか』

「くっ……」


 基本的に魔界と地上を行き来するには、現在は閉ざされている大門か、召喚アストラルゲートのみが方法として確立されている。

 しかしユーフェミアの様な半魔族は、魔族と人間と両方の血を体に引いているという特徴から、単純な転移魔法で地上と魔界を行き来できるという強みがあった。純魔族、純人間は却って行き来が困難なのである。


 そこに誰かが飛んで来た。アーヴァルである。両手で鍋を持ち、肩から斜に下げた紐にランチボックスをぶら下げてにこにこしている。


「精が出るね諸君。お弁当を作って来てあげたよ」

『なんじゃいアーヴァルか』

『相変わらず威厳のねえ男でありますな』

「私にそういうのを求めるのは酷だって。まあ一休みしなさいよ」


 そう言ってアーヴァルはランチボックスを広げた。具挟みパンが沢山詰まっている。鍋には煮込みが入っていた。コウゲツがふふんと鼻を鳴らした。


『ほう、中々気が利くでありますな』

『アーヴァルの料理久しぶりー』

『この恰好じゃ食いづれえのう』


 シノヅキはするすると縮んで人の姿になった。


「これでよし、じゃ」

『なんで人間の恰好なんかするんでありますか』

「弁当がちっちぇえからじゃ」


 確かに、魔狼族の体躯ではランチボックスを丸ごと一飲みにできるくらいである。アーヴァルが頭を掻いた。


「そういえばそうだねえ。いつものつもりで作ってしまったな」

「気が利かないねー」


 同じく人間姿になったスバルは、もう具挟みパンを手に取っている。悪口を言うくせにこういうのは手が早い。そうして大口を開けてかぶりついた。口いっぱいに頬張ってもぐもぐやっている。

 シノヅキもパンを頬張った。ガルム姿のコウゲツはおろおろしている。食べようにも小さいから困っているらしい。

 ところへシシリアとアークリッチたちがやって来た。何だか要領を得ない顔をしていた。


「どうだ、塩梅は」


 とエセルバートが言った。シシリアは肩をすくめた。


「異常はないんだけど、異常がないのが異常なのよねえ」

「どゆこと?」


 とスバルが口をもぐもぐさせながら言った。


「普通、これだけ中で瘴気の濃度が上がってれば、結界にも何らかの影響があってしかるべきなんだけど、結界の方は異常がないの。エルネスティーネの技術は高いけど、まったく変わらないって事はあり得ないからね。だからわからないのよ」

「まあ、異常がないならよいのではないか?」


 とシノヅキが言った。シシリアは嘆息して具挟みパンを手に取った。


「いいんだけど、違和感があるって事。エルネスティーネが急にお酒飲まなくなった様なものなのよ」

「ああ、そりゃ確かに変じゃの」

「でしょ? 一応さらに結界を重ね掛けしておこうとは思ってるけどねぇ」


 と言いながらシシリアはパンをかじった。かじってからパンに気づいたらしく、何だか不思議そうな顔をした。


「あら、これ誰が作ったの?」

「私、私」


 とアーヴァルが言った。


「ああ、そう。うーん、やっぱりトーリちゃんのご飯の方が断然おいしいわねえ」

「まあ素材からして地上のもんとじゃ比べもんにならんじゃろ」


 アーヴァルが顔をしかめた。


「誰だい、トーリって」

「ユーフェのお婿さんだよ」


 とスバルが言った。アーヴァルは目を点にした。


「え? ちょ、何それ? 私知らないんだけど?」

『自分も食べたいであります』


 とコウゲツが前足で地面をちょいちょいと引っ掻いた。ガルムの前足では具挟みパンが持てないらしい。


「ああん? ほれ」


 シノヅキは具挟みパンをコウゲツの口に放り込んだ。


『ちっちぇえでありますな。全然物足りねえであります』

「じゃろうが。おぬしも人化したらどうじゃ」

『ぐむう』

「ちょっと、無視しないでくれる? ユーフェのお婿さんって」

「相変わらず味付けが濃いわねえ」

「酒飲み好きの味付けなの、これ?」

「貴様らいい加減にせんか。アーヴァル様の問いに答えろ。というか私も知らんぞ、そんな話。いつそんな事になっているのだ」


 とエセルバートが割り込んだ。シノヅキが面倒くさそうに手をひらひらさせた。


「もう一年ばかり前からじゃ。料理が上手くて家事もできる男がおるんじゃ」

「でも地上で出会ったのならば人間であろうに、娘様に人間など……」

「あ、エセルバートが馬鹿にしてたってエルネスティーネに言っとこーっと」


 とスバルが言った。エセルバートはギョッとした様に顔を強張らしてアーヴァルの方に頭を下げた。


「申し訳ありません、失言でした」

「そうだぞ。まったく、宰相のお前がこの有様じゃ、地上と魔界の融和はまだまだ先だな」


 とアーヴァルは肩をすくめた。エセルバートは恐縮している。


「でもなんか、聞いた感じだとそのお婿さんって強いタイプじゃないよね? 私と似た様なタイプじゃない?」

「そうねえ。ある意味似てるけど、アーヴァルより気が強いかしらねぇ。わたしたち、いっつも怒られちゃうのよ」

「口うるせえところはあるのう。ま、そんなもん気にしとらんが」

「掃除とか洗濯は互角だけど、アーヴァルより料理は上手いよね」

「私だって地上の材料を使えばおいしく作れるってば! しかし、そうか……お婿さん、名前なんて言ったっけ?」

「トーリじゃ」

「トーリ君ね。うーん、どんな子なんだろ。流石に挨拶に来てくれると信じたいけどなぁ」

「アーヴァル様、魔界と地上との行き来は半魔族以外には厳しいですぞ」

「そうだけど、エルネスティーネがその常識をぶち壊しそうだし、エルネスティーネにできるならユーフェにだってできるだろうから大丈夫じゃないか? 娘婿か……お義父さんって呼んでくれるかなあ……」


 とアーヴァルはなぜかそわそわしている。

 使い魔たちは呆れた表情をしながら、空になったランチボックスを物足りなげに見た。



  ○



 トーリが買い物から帰って来ると、母娘は庭先で向き合っていた。二人の間には魔法陣らしきものが描かれている。エルネスティーネは長い木の棒を持って、魔法陣の複雑な模様をユーフェミアに示しながら講釈している。


「ここを今までは立体で構築してたんだけど、それをやめて平面にしたのよ」

「それで魔力が螺旋状に上がる様になったって事?」

「そうそう。立体にしちゃうと魔法陣自体の出力が上がっても、魔力を穿孔に回す時に抵抗がかかってロスが出ちゃってたのね。だから魔力も直線でしか出せなくて、仕方がないかなあって思ってたんだけど、それで解決できたのよ。でもまだ曖昧なところがあってね、だからあなたも構築手伝って頂戴」

「いいよ、面白そう。あ、トーリお帰り」


 難しい話に呆然と突っ立っていたトーリに、ユーフェミアが駆け寄った。トーリはハッとして頭を振った。


「た、ただいま」

「何買って来たの?」

「卵とか野菜とか、あと肉類かな」

「トーリ君、お酒買って来てくれた?」

「いや、買ってないです」

「ぶー!」


 エルネスティーネは口を尖らして地団太を踏んだ。


「義理の母親にもっと優しくして頂戴よぅ」

「いや、まあ……」

「いいの。母様の言う事聞いちゃ駄目だよ」


 ユーフェミアはそう言ってトーリの腕に頬ずりした。

 何だかいつもよりどきどきする。アンドレアとイヴリスの事があったから、妙に意識する様だ。


「に、荷物置くから」

「うん」


 ユーフェミアは素直に離れた。トーリは逃げる様に屋敷に入る。使い魔たちがいないから静かである。荷物を下ろし、買って来た食材をあれこれと分けて冷蔵魔法庫(フリッジ)や棚に仕舞い込む。

 トーリは外を窺い見た。

 母娘はまだ外で何かやっている。親子の交流というよりは、魔法使い同士の知識の交換といった風である。エルネスティーネの魔法理論に頷いているユーフェミアの表情は至って真面目だ。魔法に関してはあの娘は真剣である。


(……なんかめちゃめちゃ意識しちまうぞ)


 もう見慣れた筈のユーフェミアが、何だか違う様に見える。その表情一つ一つの移り変わりが妙に新鮮に感ぜられる。

 トーリはドギマギしながら昼食の支度にとりかかった。今日は健啖家の使い魔たちがいないから三人分作ればよい。それはそれで楽なものである。


 魚を香草と一緒に蒸し焼きにし、水に浸けておいた貝は玉ねぎや燻製肉、根菜などと炒めた後に乳を注いでスープにする。後は買って来たパンと作り置きのピクルスを出せばいいだろう。


「飯できたぞ」

「はぁい」


 外に出ていた母娘はいそいそと食卓につく。日差しの中にいたせいかうっすらと汗ばんでいる様に見えた。

 三人で囲む食卓というのは珍しい。特に今日はトーリも追加の料理を作らないから、同じ様に椅子に座っている。

 スープを一口すすったエルネスティーネはほうと息をついた。


「ホッとする味ねえ」

「エルネスティーネさん、もう体調はいいんですか?」

「もう大丈夫かな。でもスープだけにしとくわ」

「いつも二日酔いになるからやめてって言ってるのに」


 とユーフェミアが言うと、エルネスティーネは頬を膨らました。


「だって飲み続けてれば二日酔いにならないもん。どうしよ。もう酔いが醒めちゃいそう」


 完全にアル中の理屈である。トーリはやれやれと頭を振り、パンをスープに浸して頬ばった。貝の出汁と乳の濃厚な味わいが合わさって大変うまい。

 トーリは向かいに座るユーフェミアを見た。うまそうに食べている。パンくずが口の周りに付いている。別段いつもと変わる所はないのに、なぜだか妙に目が引かれて困る。もむもむと咀嚼する口元や、パンから滴るスープで濡れる指先などが、トーリの目に嫌に生々しく迫って来た。

 食べるよりもそんな事に気を取られていたら、ユーフェミアと目が合った。眠そうな瞼の下のくりくりした目が不思議そうに細められた。


「どうしたの?」

「いや……うまいか?」

「うん。おいしい」


 ユーフェミアは泰然としたものだ。自分ばかりが意識している様に思われて、何だかトーリは恥ずかしかった。


 食事を終えると、ユーフェミアはたちまち眠そうに目をしょぼつかして、ソファにころんと横になった。午睡と洒落込むつもりらしい。スープだけと言いつつ、最終的にしっかり食べていたエルネスティーネも、満腹ゆえの眠気が来ているらしく、大きな欠伸をして食卓に頬杖を突いている。

 食器を片付けて、軽く居間の掃除をしながら、トーリはまたユーフェミアを見た。

 寝顔はいつも通り穏やかである。閉じた目のまつげが驚くほど長い。耳の方から頬に向かってさらりと垂れた白髪は艶やかである。


 今までもこんな風にユーフェミアを意識する機会というのは度々あったけれど、自分の思いに踏ん切りがつかないのと、想像力だけでは現実味が伴わない事もあって、それほど真に迫って来る事はなかった。

 しかしエルネスティーネの登場や、アンドレアとイヴリスの事など、想像ではない実際の出来事が重なって来ると、それがトーリの内面を刺激した。

 姑から娘が好きなのかと尋ねられ、好きだと答えた。

 そういう事に縁遠そうだったかつての仲間が、結婚を考える相手と幸せそうに笑っていた。


(どうしたもんだろ……)


 思えば、そもそも自分の中の気持ちに整理がついていない。ユーフェミアの事が好きなのは確かだろう。

 最初からそうだったかはさておき、一つ屋根の下で一年以上も暮らし、事ある毎に好きだ何だと迫られて来れば、最初はどうあれ意識してしまう。そうして実際に好きになる。無意識に結婚の事だって意識していたし、嫉妬心だって抱く様になった。

 腹をくくらねばならないだろうか、とトーリは息をついた。

 しかし切り出し方がわからない。寝ているユーフェミアを起こさないでも、と思ってしまう。逃げてばかりいる様に思われて、何とも釈然としない気持ちである。


 母娘が寝ている間に洗濯物を片付け、畑の草を取り、鳥たちの世話をして、薪を運んだり風呂を焚いたりしているうちに夜になった。夕飯を終えて、もう外は薄暗い。

 ユーフェミアはここに来て目が覚めた様で、本を持ち出して広げている。一方のエルネスティーネは酒がない分夕飯をたらふく食べて、早々に寝床に潜ってしまった。


 あれこれと片づけを済ましたトーリは、お茶を淹れながらユーフェミアの向かいに腰を下ろした。

 ユーフェミアは食卓に広げた本に目を落としている。目つきはとろんとしているけれど眠そうではない。


「お茶飲むか?」

「うん」


 トーリはお茶のカップを押しやった。


「シノさんたち、まだ戻って来ないって?」

「うん。わたしの方に仕事もないから、呼ぶ理由もないし」


 そうらしい。トーリは何となく落ち着かなげにお茶をすすった。


「……なあ」


 トーリが言うと、ユーフェミアは顔を上げた。


「その……俺はまだ、お前に雇われてるって事でいいんだっけ?」


 ユーフェミアはきょとんとした顔で小首を傾げた。


「そうなの?」

「いや、俺もよくわかんないけど……」

「でもお給料払った事ないよ?」


 確かにそうである。トーリは頭を掻いた。


「その、さ……俺たち、どうするのかと思って」

「どういう事?」


 とユーフェミアはくりくりした目でトーリを見ている。トーリは何だか恥ずかしくなった。


「いや……結婚とか……」


 ぽそりと言うと、ユーフェミアは目をぱちくりさせた。


「したいの?」

「あ、いや、その……お、お前はどうなの?」

「わたしは別にいい」


 予想外だった。トーリは目を丸くした。


「え、あ……そう」

「うん。トーリはわたしの事好きなんだよね?」

「お、おう。好き、だぞ」

「えへ……だから、今のままでもわたしは幸せ」

「そ、そうか……なら、まあ、うん……」


 ホッとした様な、しかし何だか釈然としない様な、片づかない気分である。向こうにその気がないにせよ、トーリ自身がそういう風に舵を取りかけていたところだから、余計にそう思う。

 しかし、ユーフェミアのこの心変わりに少し怖気づいた。

 アンドレアとイヴリスの事や、エルネスティーネの登場など、様々な要因がトーリを周囲からぐいぐいと押して来たのだけれど、トーリも今の関係性が心地よいと思っているのも確かだ。ユーフェミアの方に積極性がないならば、別に今のままで構わないと、心はすぐ楽な方に傾く。


 だが、それだけでない、何か焦燥の様なものがあって、トーリは煮え切らなかった。ユーフェミアとの関係をもう少しはっきりと前進させたいという気持ちが消えない。それが現状維持を選ぶ自分をちくちくと刺して来る。

 この感情の出所がイマイチわからない。


 トーリは黙り、ユーフェミアは再び本に目を落とした。

 奇妙な沈黙が挟まった時、窓から使い魔の小鳥が入って来た。手紙を咥えている。


「仕事か?」

「ううん。シリルから」


 ちくちくするのが大きくなった。


「何だって?」

「前に貸した本でわからない所があるみたい。質問が書いてある」


 見ると長々した文章が書き連ねられている。何だか難し気な術式の様なものも見える。ユーフェミアがそれを面白そうに読んでいるのがトーリの癪に障った。しかしやめろよなどとも言えないから、トーリは立ち上がった。


「ちょっと散歩して来る」

「ん」


 ユーフェミアはちらと目だけ上げて、それからまた手紙を見た。

 一緒に来ないか、と言いたかったがなぜか口から出なかった。

 トーリは外に出た。夏の宵は涼しかった。既にそこいらには夜露が降り始めているらしく、歩いていると靴の先やズボンの裾が濡れた。


 俺はどうしたいんだ、とトーリは歩きながら頭を抱えた。俺が煮え切らないからユーフェも愛想を尽かしたのか、それとも妥協したのか、もしくは前ほど俺の事が好きじゃなくなったのか、などと手前勝手な事をあれこれと思う。思ってから余計に自己嫌悪の情が湧いた。


「……どうすりゃいいんだ」


 畑の前の柵に腰かけた。空は晴れているが、所々に雲が浮いている。上ったばかりの月が奇妙に赤く大きく、作り物の様に浮かんでいる。

 自分の思いはともかくとして、ユーフェミアにその気がないならば、と思う。だがそれは体のいい言い訳の様にも思われて釈然としない。


 ――ユーフェじゃない。お前だ。お前がどうしたいんだ?


 自分自身に問いかける。

 かつて『泥濘の四本角』で雑用を続けていた時、同じ様な問いをし続けていた。答えはなかった。結局解雇されるまで、不満を抱きつつもずるずると状況に甘んじていた。

 今度は、どうする? 同じ様に、ずるずると現状に甘んずるか? それこそユーフェミアに捨てられるまで……。


 少し萎んで光を増した月の下で、トーリは柵に腰かけて長い事考え込んでいた。



諸事情につき、少し更新をお休みします。

次回更新は来週中頃を予定しています。

書籍版二巻もよかったらよろしくね!


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[一言] 娘婿とすごく意気投合しそうなお義父さんだ
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