11.変化
「……で、エルネスティーネさんは?」
「母様は二日酔い。寝床で唸ってる」
そう言いながらユーフェミアはバターをたっぷり塗ったパンにかぶりついた。トーリはやれやれと頭を振った。
「麦粥作れるけど、食べるかな?」
「わかんない。でもほっといていいよ。お腹空いたら出て来るから」
「飲んでる最中はいくらでも飲む癖に、翌日いつもああだものねぇ」
とシシリアが薄笑いを浮かべながらパンにジャムを塗った。
突然のエルネスティーネの登場から一夜明け、いつも通りの朝が戻って来た。朝餉の献立は焼き立てのパンにジャム各種、貝入りのミルクスープに具入りのオムレツ、ザワークラウトに茹でた腸詰などなどである。
昨夜一人でブランデーを飲み干したエルネスティーネは、案の定二日酔いでダウンしているらしかった。強いんだか弱いんだかよくわからない。
「トーリ、スープお代わりじゃ」
「はいよ」
「ボク、オムレツもっと欲しい」
「オムレツはもうないぞ。昨日の夜も焼いちゃったから卵が足りん」
「えー」
旅行に行く直前はあまり食材を買い込んでいなかった。サモトックで買って来た魚介類や加工肉などはまだ沢山あるけれど、他の生鮮品はあまり多くない。畑で採れた野菜と鳥小屋の卵くらいだが、昨日の夜と今朝の食事でそれもほとんど使い切った。
「とりあえず、洗濯終わったら買い物に行って来るわ。誰か来る?」
「わしらはパスじゃ。一応エセルバートに連絡取ってやらにゃならんでのう」
「めんどっちいけどねー。一旦魔界に戻らなきゃかもだね」
「そうねぇ。流石に放置し過ぎな気もするしねぇ」
ユーフェミアが休暇を宣言したから、使い魔たちも地上に居座っている理由が薄れたらしい。理由がなくても居座っている連中だが、ここ最近は完全にそれが顕著だったから、流石にそろそろバランスを取った方がよさそうだと思っている様だ。
荷物持ちがいた方が一度にあれこれ買えるから楽なのだが、一人ならば一人でも構わない。トーリは空いた皿を重ねて台所に運んだ。
それで朝食を終えて、トーリは食器を片付け、昨夜から放置していた洗濯物を運び出して井戸端で一気に洗った。洗った傍からどんどん干して、旅行に持って行った着替えも、エルネスティーネのローブも夏風にはためいた。
「よし、と。買い物行くか」
それで屋敷に入ると、ユーフェミアが一人で本を読んでいた。トーリは首を傾げた。
「あれ、みんなは?」
「魔界に帰った。お仕事あるんだって」
そう言ってぱらりとページをめくり、手元のカップからお茶を一口飲む。どうやらエセルバートと連絡を取った結果、すぐに魔界に来いとの事だったので、慌ただしく魔界に戻って行った様だ。
セニノマはエルネスティーネを恐れているのか今日は来ていない。今のところセニノマに頼む仕事もなさそうだから、あえて呼び出す必要もなさそうだ。
「エルネスティーネさんの事は実家に伝えたのか?」
「うん。でも父様は居場所がわかってるならいい、って笑ってた」
随分鷹揚な御父君である。ユーフェミアはふあと欠伸をした。
「母様にやって欲しい仕事があるとか言ってた。でも母様は嫌がるだろうから、代わりにシノたちが様子を見に行った、って感じ」
「ああ、そういう事か……」
何だか魔界は色んな事が大雑把だなあ、とトーリは思った。
ともあれ、そういう事ならば使い魔たちの分の食事は作る必要がなさそうだ。トーリは買い物籠やリュックサックを引きずり出して、財布の中身を検める。サモトックの宿代だとか、あれこれ買ったりした分減っているが、まだまだ大丈夫そうである。冷蔵魔法庫や食品棚の中身を見ながら、何となく買うものの見当をつける。
さて行くかとリュックサックを背負うと、寝室の扉が開いて、エルネスティーネがふらふらと出て来た。
「ユーフェ、お水頂戴……」
「起きた」
「今持って来ますよ。エルネスティーネさん、腹減ってます? 麦粥とか作りましょうか?」
「うう、要らない……」
よろよろとやって来て食卓に突っ伏した。トーリは肩をすくめて、台所から水を汲んで来た。
エルネスティーネはちびちびと水を飲んで息をついた。
「頭痛い……」
「だから言ったでしょ」
とユーフェミアはエルネスティーネをよしよしと撫でている。どっちが母親だかわかったものではない。
「迎え酒が欲しいわ……」
「駄目。そういう事してるからずっと飲む事になるの」
「うー」
「俺、買い物行って来るけど、ユーフェお前はどうする?」
「今日はいい。よろしくね」
「トーリくぅん、お酒買って来てぇ」
「はあ……」
「駄目だよトーリ。絶対買って来ないでね」
「もう!」
エルネスティーネはむくれたままテーブルに顎をつけた。何だかユーフェミアがいつもよりしゃんしゃんしている。どうもこの母娘は娘の方が立場が上らしい。
トーリは苦笑しながらリュックサックを背負い直して家を出た。
さて、そういう風にトーリが出かけて、家は母娘水入らずとなった。ユーフェミアは面白そうでもなく、面白くなさそうでもなく、いつも通り曖々として昧々とした表情で、ぱらりと本をめくった。
その隣でぐったりしていたエルネスティーネは、テーブルにつけていた顔をユーフェミアの方に向ける。酔いでまだ顔色は悪いが、表情はいたずら気である。
「なぁに、ユーフェあなた妙にちゃきちゃきしちゃって。トーリ君の前でちょっといいトコ見せようって魂胆なの?」
「違うもん」
ユーフェミアはぷいっとそっぽを向いた。
エルネスティーネはにやにやしながら手を伸ばしてユーフェミアのほっぺたをつついた。大変ふにふにしている。
「ねえ、ホントは母様が来て嬉しいんでしょう?」
「うん。だからお酒は駄目。お酒飲んでる母様は嫌い」
「厳しいわねえ。誰に似たんだか……」
エルネスティーネはふらふらと立ち上がり頭を掻いた。
「ちょっと母様水浴びるわね」
「ん」
それで風呂場に入って行った。ユーフェミアはうんと伸びをした。
ユーフェミアは母親の事が好きだ。元々魔法も彼女から教わったし、魔法を教える時のエルネスティーネはカッコよかった。ただ酒癖の悪さだけは昔から嫌で、そういうカッコいい姿が台無しになる様に思われた。
風呂場から水音がしている。残り湯に浸かっているらしい。ユーフェミアは漫然と本の上の文字に目を走らせていたが、段々うとうとして来た。いくらでも眠れるのはこの娘の得意技である。
それで読むともなくぼんやりと本に目を落としたままでいると、エルネスティーネが風呂場から出て来た。水を浴びたおかげで幾分か心持がすっきりしたらしく、顔色も悪くない。燃え立つ様な赤髪を結い上げて、肩にかけたタオルで顔を拭っている。
「はー、さっぱりした。こら、また寝る気?」
とユーフェミアの後ろから覆いかぶさる様に抱き付く。
「にゃ」
「まったく、ユーフェは昔からよく寝る子だものねぇ。そんなに寝てばっかりじゃトーリ君に愛想尽かされるわよ」
「そんな事ないもん。トーリは優しいもん」
「あらそう」
エルネスティーネはユーフェミアの向かいに腰を下ろした。
「でも結婚したならせめて母様には教えなさいよ、それくらいは」
「まだ結婚はしてない」
「あら? お婿さんなんでしょ?」
「わたしはすぐそうしたいけど、トーリがまだ煮え切らないの」
「ふーん。うちの娘を前にしてねえ……こんなに可愛いのに」
エルネスティーネは眉をひそめてまじまじとユーフェミアを見た。
「まあ、好きだとは言っていたから時間の問題ね」
「えへ」
ユーフェミアはにまにまと笑った。
素直でなかったトーリが、最近はちゃんと好きだとか可愛いとか、照れながらも口に出してくれるのが嬉しいのである。思い出すだけで顔がにやけて来る。
エルネスティーネがにやにやしながらお茶のポットを手に取った。
「ユーフェ、ちゃんと変身してる?」
「うん」
「ならいいわ」
「でもあの姿はお婆ちゃんって事にしてるよ」
「え、なにそれ。どういう事?」
ユーフェミアは、“白の魔女”としての活動はガートルードという別人を仕立てていて、ユーフェミアという少女はトーリの恋人として別にいる状態にしている、という事を説明した。
エルネスティーネはけらけらと笑った。
「考えたわねぇ。まあ、その方が色々楽だわね。どうせこの屋敷には誰も来ないし」
「だからトーリとデートもできる。楽しい」
「はー、青春ねえ。ユーフェあなた最近何してるの? サモトックに行ってたって?」
「うん、でも二泊しただけ。いっぱいお昼寝して、ちょっと海で泳いだ」
「どこ行っても寝てばっかりねえ、あなたは」
母娘はあれこれと四方山話をした。エルネスティーネは引きこもっているだけだったから大して話題はないが、ユーフェミアには話す事が沢山ある。惚気話も多分に盛り込まれ、大人しい娘の熱っぽい様子にエルネスティーネは愉快そうに笑った。
「幸せねえ、あんたたちは」
「うん。トーリが来てから幸せ」
「そりゃいいわ。母様も父様と一緒になった時はそりゃ幸せだったわよ」
「今は?」
「今は、まあ、普通よ」
「なんで?」
「父様が偉い人になっちゃったからよ。おかげでのんびりできなくなっちゃって、あれこれ仕事させられる様になって。そういうのが嫌だったから地上から魔界に移ったってのに、これじゃ本末転倒じゃない」
「母様忙しいの?」
「忙しかったわよ、とっても。だから嫌になって部屋に引きこもったの。そもそも、わたしが魔界の連中に何かしてやる義務なんかないじゃない。あの連中は放っておいても何とかなっちゃうんだから」
「そうだね」
ユーフェミアは頷いた。この母娘は揃って魔界が好きではないらしい。エルネスティーネはお茶をすすって息をついた。
「ま、結婚すると良くも悪くも色々変わっちゃうものね」
「そうなの?」
「そりゃそうよ。結婚って別にゴールじゃないもの。でも暮らしは続くし、ユーフェも生まれるし、そうなると母様、結婚する前ほど父様にお熱じゃなくなっちゃうし」
ユーフェミアはもじもじした。
「わたしのせいなの?」
「ううん、違うわ。母親ってそうなのよ。子どもができたら一番が子どもになるの、不思議な事にね。今だってユーフェが一番大事よ。父様は二番目」
「……わたしも子どもができたら、そうなるのかな?」
「どうかしらねえ。でも母様がそうだったんだし、あなたもそうかもね」
「母様は、それが嫌じゃなかった?」
「嫌じゃなかったわよ。だってこんなに可愛い娘ができたんだもの。父様を好きだった時の気持ちはあの頃とちょっと違うけど……物事って変わって行っちゃうものなのよ。年も取るし、心も揺れるものね。別に嫌な事じゃないわよ? でも思い出すと、寂しくなっちゃったりね。もうあの時の気持ちや思いは戻って来ないのかな、とか」
そう言われると何だか不思議な気がする。
ユーフェミアはトーリの事が大好きだ。大好きというその気持ちそのものも好きである。トーリの事を思うとほわほわして来る感じが好きなのだ。しかし結婚して、関係性が変わればその気持ちも変わってしまうのだろうか。
子どもができるとか、そういう事は想像できない。特段欲しいとも思っていない。
もしそうなら、別に結婚なんかしないで、このままの暮らしを続けるのもいいのかも知れない、とユーフェミアは思った。
エルネスティーネは空のカップを弄びながらもじもじした。
「真面目な話しちゃった……ああもう、お酒飲みたい」
○
市場にいた。相変わらず色々な品物が並んでいるが、サモトックに行った後だと、品揃えも結構違って見えるなとトーリは思った。
肉や卵を買い、畑で作っていない野菜を見繕った。昼食用のパンも買ってしまう。使い魔たちの分がないからいつもより量は少ないが、それでも買う物を買えば持ち重りがするくらいだ。
リュックサックを背負い直し、籠を持ち直し、さて今頃ユーフェミアたちは家でどうしているかと考えた。トーリの話題が出ているのだろうかと思うと何だか緊張する。
未来の義母相手はまだ緊張気味、というかどう扱えばいいのかわからないところがあるから、トーリも慎重だ。下手な事を言ったりやったりして、ユーフェミアとの付き合いを許されないという事態に陥っては困る。
(……俺、もうあそこが居場所なんだなあ)
しみじみと思う。恥ずかしさ、照れ臭さが先に立つから煮え切らないユーフェミアとの関係であるが、心の中では彼女と添い遂げる事に異論はない。異論がないどころかすっかりそのつもりになっている。ただ生来の性格のせいでその一歩が踏み出せない。
しかしここに来て、色々な事が心を揺すぶって来るから困る。
シリルへの嫉妬心もそうだし、いよいよ母親という存在が出て来て、関係性を認めてもらう段階に来てしまった以上、腹をくくらねばならぬかと思う。しかしそういう事が初めてでもあるから、何だか不安でもある。
とりあえず、今日も今日とて飯づくり、とトーリは買い忘れがないか考えながらぶらぶらと市場を歩いた。こうやって日常に逃避するせいで進まないと思いつつも、日々の仕事はトーリの意思と関係なしにやって来る。
しばらく歩いて行くと露店市に行き着いた。うまそうなにおいがそこいらじゅうに漂っている。
お菓子でも買っていくかと思っていると、向かいから見知った顔が来るのが見えた。
「お、アンドレア」
「トーリか。久しぶりだな」
私服姿のアンドレアは機嫌よさげに歩み寄って来た。
「今日は休みなのか?」
「ああ、長期探索の後なんだ。希少なアーティファクトを発見できたから、数日休む事にした」
「景気がよさそうだな」
「そうだな。そっちも変わらないか?」
「うん、まあ。でも今ちょっと客が来てて……ユーフェのお母さんなんだわ」
アンドレアは目を丸くした。
「あいつの母親か……緊張するだろ?」
「するよ、そりゃ。でも割と気さくな人だから、こっちが身構えなけりゃ話は早そうなんだけど……あれ? その子は?」
ふと、アンドレアの少し後ろで、隠れる様にしてトーリを窺っている女の子がいるのに気づいた。年は二十を少し超えたくらいだろう。大人しそうな顔立ちで、茶色い三つ編みを右肩から前に垂らしている。
女の子はもじもじしながら会釈した。
「イ、イヴリスです……トーリさん、ですよね? お話はアンディから聞いてます」
「あ、どうも……アンドレア、どういう関係? 妹、とかじゃないよな?」
アンドレアが照れ臭そうに頭を掻いた。
「恋人だ」
「お……マジか!」
何だか嬉しくなってトーリはアンドレアの肩を叩いた。
「よかったなあ!」
「はは、ありがとよ……イヴ、前に話したと思うが、トーリは俺の友人で、恩人だよ」
「うん。優しそうな人だね」
イヴリスはおずおずと微笑んだ。とても可愛らしい。
「驚いたなあ……どこで会ったんだ?」
「イヴはギルドに出入りしてる商会で働いていてな。『蒼の懐剣』の結成時辺りから道具の売買なんかでたまに顔を合わせたりしていたんだが……気づいたら惚れてた。付き合い出したのは割と最近だが……近いうちに結婚しようって思ってるよ」
「そ、そこまで行ってるのか?」
「それくらい好きなのさ」
と言ってアンドレアは笑った。イヴリスは恥ずかしそうに笑って、もじもじと手を揉み合わした。
「アンディ、恥ずかしいよ……」
「恥ずかしがる事ないさ」
堅物のアンドレアが幸せそうに表情をほころばしているのを見て、トーリは何だかむず痒い様な気分になった。友人の幸せが妙に嬉しい。
「なんにせよおめでとう。仲良くやれよ」
「ああ。お前たちは相変わらずなのか? 母親が来るくらいだから、そっちもそろそろ結婚か?」
トーリは固まった。何と言ったものかわからず口をもごもごさせた。
「まあ、その、何というか……」
「煮え切らんな、お前も」
アンドレアは苦笑しながら、少し照れた様にトーリを見た。
「実は、俺がこうなったのはお前らに当てられた様な感じなんだよ。冒険者なんぞやってちゃ、明日の命もわからねえ。恋人だの結婚だのはないもんだと思ってたが……むしろそうだからこそ、大切な人との時間を大切にしなきゃいけねえと思ったよ。いいもんだな。こういうのも」
「ぐむ……」
トーリはバツが悪そうに頬を掻き、アンドレアを見た。
「まあ、なんだ。ともかく体は大事にしろよ? 無茶してイヴリスを泣かすんじゃねえぞ?」
「そうするさ。お前もいい加減にユーフェミアの気持ちに応えてやったらどうだ? いつまでも知らん顔してるのも気の毒だぞ」
「お、おう……」
アンドレアはにっと笑うと、ぽんとトーリの肩を乱暴に叩いて、イヴリスと一緒に歩いて行った。
(結婚かあ……)
今までは何となく先延ばしにし続けていた事が、友人がそういう状況になった事で急に現実味を帯びて浮かび上がって来た。
あくまでも雇われ家政夫だと自分を誤魔化して来たが、そろそろ潮時かも知れない。ただでさえ、無意識的にユーフェミアとの結婚を考えてしまうのである。そのせいで十歳以上も下の少年に嫉妬心まで醸し出す始末だ。自分にも他人にも嘘ばかりついていたのではどうしようもない。
「……あー、くそ。俺のヘタレ野郎」
トーリはばりばりと頭を掻いた。自分の心は決まっている筈なのに、いざそれを表に出そうとすると恥ずかしくなってしまう。
ともあれ、市場の中で頭を抱えていたって仕方がない。ひとまず家に帰り、昼食の支度をせねばなるまい。
こういった決意や大事な話というのは、どういったタイミングで切り出すべきなのだろう、とトーリは思った。
考えてもわからない。
わからないから後回しにする。
そうやって後に回し続けている。
「……しっかりせにゃ」
トーリはふうと息をついて荷物を持ち直し、市場を抜けて行った。