2.夏のかき氷
気が付けば新緑が深緑へと移り変わり、遠景もすっかり緑色に染まった。
夏の日差しがそこに降り注ぐと、葉の一枚一枚がきらきらと光る様に思われた。ちょっと動くだけで汗ばむ様な陽気である。もう初夏といった気候で、すぐに夏本番が来るだろう。
「……変だな」
トーリは畑の際で腕組みして立っていた。頭に巻いた手ぬぐいの上から、つばの広い麦わら帽子をかぶり、怪訝な顔をしている。
その隣に立つシシリアは黒い日傘を差して、頬に手を当てて首を傾げていた。
「変ねぇ」
「だよね? なんでこうなったんだ……?」
二人の目の前には、異様に大きく成長した果樹があった。リンゴも柑橘類もスモモも、もう成木と言って差し支えないくらい大きい。トーリの背丈はとうに追い越して、この春に植えたばかりとは思えぬ様だ。
「ユーフェが魔法とか使ったんじゃねぇだろうな……」
「そんな事はないと思うけどねぇ」
シシリアは面白そうな顔をして木の幹を手の平で撫でた。
「魔界の木は短い間に一気に成長するものだけれど」
「ここ地上ですけど?」
「そうよねえ?」
とシシリアは屈んで、根元の土を指先でつまんだ。すり潰す様にして細かくし、手の平に載せてしけじけと見た。
「あら?」
「何かわかった?」
「これ魔界の土みたいね」
「え?」
トーリは眉をひそめて根本の土をすくい上げた。特に色や質感が違うという感じではないが、土中の栄養素や魔力が違うのであろうか。
「どうして魔界の土が……」
「誰かが持って来たんじゃないかしらぁ? そういえば、ちょっと前に魔界に行って、地上に戻る時にスバルが妙に大きな袋を抱えてたっけねぇ」
「それだ」
スバルは果物の収穫を心待ちにしていた筈である。トーリから果樹の成長はゆっくりで、収穫までには数年かかると聞かされて随分がっかりしていた。だから早く成長させようと一計を案じたに違いない。そのスバルは朝食を終えた後、文字通り羽を伸ばしにどこかへ飛んで行った。
「でも魔界の果物ってまずいって聞いたんだけど」
「ええ、まずいわよぉ。大きいけど、その分大味で、しかもえぐみがあったりするの」
この果物もそうなったら嫌だなあ、とトーリはげんなりしながら果樹を見上げた。
「折角植えたのにまずいんじゃなあ……」
「あら、でも基本は地上の土なんだし、魔界のものみたいな味にはならないと思うわよぉ」
とシシリアが言った。そうだといいなあ、とトーリは頷いた。もし味が変わらないのであれば、初期生育が早いのは喜ぶべき事ではある。
ともかく、今更どうこうできる話ではない。トーリは気にしない事にして、畑の方に顔を向けた。こちらは順調である。
芋の後にまかれた豆が既に芽を出している。昨年に比べて雑草も減り、野菜も元気に育っている。
合間を鶏やアヒルが歩き回って、銘々に虫などをついばんでいてくれるから、虫害も少ない。新芽や若葉をつつくのだけは注意しなくてはならないが。
鶏もアヒルも、既に卵を提供してくれる様になったから食卓が華やぐ様になった。
癖がなく食べやすい鶏卵は茹でたり焼いたりするのに使い、大きいが少し癖のあるアヒルの卵は、パスタやパン、ケーキの生地を作るのに使う事が多い。
シシリアが日傘をくるくる回しながら言った。
「ねえ、トーリちゃん。今度海にでも行ってみましょうよ。折角の夏なんだもの」
「俺に言われても困るよ。そういうのはユーフェに言えって」
「あら、そう? でもトーリちゃん、ユーフェちゃんの水着姿見たいでしょお?」
トーリは返事をせずに草取りに戻った。
昨年の夏は、近くの川まで弁当を持って遊びに行った。ユーフェミアの衣装持ちは水着にまで及んでおり、可愛らしいものから大人びたもの、やや過激なものまで、着せ替えの様にトーリに着て見せていたのを思い出す。
(……まあ、全部似合ってたんだよなぁ)
正直、見たくないと言えば嘘になるのだが、それをシシリアに素直に言えば碌な事にならないのは目に見えている。努めて冷静に草を取っていると、シシリアがトーリの背中をつついた。
「ねえ、トーリちゃん。ねえねえ、トーリちゃんってばあ。なんで黙ってるのぉ?」
「なんだよ、やめろよ」
「もう、男の子なんだから、恥ずかしがらなくていいのよぉ? お姉さんに正直に行ってごらんなさいな」
「なんでだよ、嫌だよ」
「やーん、可愛いー。うふふ」
なぜかシシリアは嬉しそうにトーリの首に手を回して、頭を抱く様にしてうふうふと笑っている。ドでかい胸が後頭部に押し当てられて落ち着かない。というよりも暑い。
「邪魔するなら家に入っててくんない?」
「えぇー、そんなつれない事言わないで、トーリちゃん。お姉さん、寂しいわぁ」
とシシリアは却ってトーリにべったりとくっついた。不快にならない程度の香水の淡いにおいが漂い、それが汗のにおいと混じって何ともくらくらする様な心持だ。
シシリアは基本的に本を読んだり、ユーフェミアの作業部屋に籠ったりして、シノヅキとスバルに比べれば大人しい方なのだが、時折思い出した様に、こんな風にうざったいくらいに絡んで来る。実験や研究で溜まった鬱憤を晴らそうという魂胆なのかも知れない。
鬱陶しいと思いつつも、力づくで振り払うなぞ思いも寄らない、というよりもシシリア相手に力では敵わない事を知っているトーリは、やりづらいなりに草取りを続けた。
シシリア相手に耐性が付いて来たとはいえ、こうやって過剰なスキンシップをされると、理性はどうあれやはり心臓は高鳴る。シシリアのくっついている背中がじっとりと汗ばんで来た。
「トーリちゃん、暑い?」
「暑いよ。いい加減に離れて欲しいんだけど……」
「あら、それじゃあこういうのはどーお?」
とシシリアは何か呪文の様なものを唱えた。すると二人の周囲を影の様なものが取り巻いて、日の光を遮った。影自体が冷たいのか、何だかひんやりする。
「え、なにこれ……」
「お姉さんはアークリッチなのよぉ? こんな魔法くらいお手の物なんだから」
そういえば、アークリッチ姿のシシリアは、いつも影の様なものをまとっていたと思い出した。あの影にこんな効果があったとは知らなかったが、確かに涼しくて心地よい。
「……いや、でもくっついてていい理由にはなんねえぞ?」
「えぇー、だってくっついてないと涼しくないわよぉ? それに、外からは影で隠れて見えないし、色々できちゃうわね」
「え?」
「あっ、今何か想像したでしょ? うふふ、どんな想像したのぉ、トーリちゃん? 教えて教えて。ちょっとえっちな事考えちゃったぁ?」
「言いがかりにもほどがある!」
トーリは逃げようと身じろぎしたが、シシリアの力はトーリよりも強い。
どたどたしていると、急に風が吹いた。影が吹き払われて、シシリアの日傘も宙に舞った。日差しが再び降り注いで来た。
トーリが周囲を見回すと、庭先ではためく洗濯物をバックに、ユーフェミアが立っていた。頬を膨らましている。
「ユーフェ……」
ユーフェミアはぽてぽてと駆けて来ると、シシリアとトーリの間に割り込んでトーリに抱き付いた。口を尖らしてシシリアを睨む。
「シシリア、めっ!」
「あらあら、見つかっちゃった……」
「……魔界に強制送還されたいの?」
「あぁん、ごめんなさぁい、ユーフェちゃん。ちょっとおふざけのつもりだったのよぉ」
シシリアはやんやんと頭を振りながら、ユーフェミアをよしよしと撫でた。ユーフェミアは頬を膨らましたままシシリアを押しのけ、トーリを抱く腕に力を込めた。
「トーリももっと抵抗して」
「俺は悪くないだろ! 大体シシリアさんの方が力も強いんだって……」
魔法使いなのに、シシリアは華奢という言葉からは程遠い。
シシリアからは解放されたけれど、今度はユーフェミアに捕まった。トーリは困った様にユーフェミアを撫でた。
「ユーフェ、そうくっつかれてると仕事が……」
「いいの」
ユーフェミアは断々乎としている。こうなったら言う事は聞かないので、トーリは諦めた。ユーフェミアをくっつけたまま家に入る。
中ではシノヅキがソファに寝転がっていた。寒さにはめっぽう強いフェンリル族だが、暑さはあまり得意ではないらしく、泳ぎに行ったりする他は涼しい居間からあまり出ようとしない。
「シノさん、だらけすぎ。溶けそうだぞ」
「マジで溶けちゃいそうなんじゃ。お外は暑くてかなわんわ……」
シノヅキはごろんと寝返った。何となく催促する様な視線をトーリに向けた。
「甘くて冷たいもんが食べたいのう」
「食べたい」
「食べたいわぁ」
ユーフェミアとシシリアも同調した。それでみんなして期待する様な目をしてトーリを見ている。トーリはやれやれと頭を振った。
「なんかあったかな……ユーフェ、ちょっと放せ」
ユーフェミアは素直にトーリを解放した。
台所に入って、冷蔵魔法庫を開ける。下ごしらえした材料や、買い置きの生鮮品、乳、手作りの瓶詰め、ソースやスープストック、朝練った昼食用の生地などが所狭しと並んでいる。
「あー、桃のシロップ煮があったな……ユーフェ、魔法で氷とか出せるか?」
「うん」
ユーフェミアはぷつぷつと何か唱えた。空中に大きなつららが現れた。
「えーと、鉋、鉋……」
トーリはつららを鉋で削って器に入れると、細かく刻んだ桃をシロップと混ぜ、削った氷の上にかけた。仕上げに庭にあったミントの葉を飾る。
「ほらよ」
「わあ……」
女子たちは見た目にも涼し気なかき氷に目を輝かして、早速匙を突っ込んで堪能している。一気に掻っ込んだらしいシノヅキは、こめかみに手をやって顔をしかめた。
「いてて……」
「一気に食うからだよ……」
「トーリちゃんって、何でも作れるのねえ。凄いわぁ」
とシシリアは嬉しそうにかき氷を舐めている。
「いや、この前町で食ったから……」
「おぬしの町行きでレパートリーが増えたのう。ええ事じゃわい。おかわり!」
「はいはい」
魔法薬の定期納品が始まってからというもの、それをギルドに持って行くのはトーリの役割になっていた。買い物も兼ねる時もあるし、ユーフェミアが一緒に来る事もある。そういう時に、トーリは店や屋台で買い食いして、家で作る料理の参考にしていた。毎日三食作っていればレパートリーも減って行くものである。マンネリにならぬ様、トーリはトーリなりに何とかしようとしていた。
家に入ってしまったし、もう昼も近づいたし、このまま昼食の準備をしようかとトーリはエプロンをつけた。
朝のうちに塩と香辛料で漬けておいた豚肉を出して大きめに切り、同じ様に根菜などもごろごろと切った。
台所の隅に置いてあった壺の蓋を開けて、中身を出す。自家製のザワークラウトだ。すっかり発酵してぷくぷくと泡立っている。
「……やっぱこの時期は発酵早ぇな。次仕込んどかにゃ……」
豚肉と野菜、ザワークラウトを一緒に鍋に入れて火にかける。セリセヴニアの煮込みのアレンジだ。
(パンがまだあるし、生地は夜に回すかな……レバーパテは今日食べきっちまわないと駄目だから出して……朝の蒸かし芋と混ぜりゃ丁度いいな。微妙に余った昨日の煮込みは水分飛んでるし、パスタ入れてチーズかけてグラタンにしちゃおう)
冷めた蒸かし芋をサイコロ状に刻み、レバーパテとオリーブオイルと混ぜる。昨晩の煮込みは茹でた乾燥ショートパスタと一緒に深皿に入れて、パン粉とチーズを振りかけた。オーブンに熾火を入れて予熱しておき、昼食前に焼き色をつければいいだろう。
そうこうしているうちにスバルが帰って来た。
「たっだいまー。楽しかったあ……あれっ、なんか食べた跡がある! なにこれ!」
「削った氷に桃のシロップかけたの。ひんやりあまあま」
「なにそれおいしそう! ずるい!」
「一人で遊びに行っとったおぬしが悪い」
「おにいちゃーん、ボクも食べたい!」
とスバルは台所に駆け込んで来た。
「もう昼飯になるからデザートにな。手ぇ洗え」
「えぇー……はーい……」
「てかスバルお前、勝手に木に魔界の土やるなよ」
「あっ、ばれた? えへへ、だって早く果物食べたいんだもん」
「まずい果物できても仕方ねえだろう」
「そんな事ないよう、ちゃんと魔界の農家に聞いたら大丈夫だって言ってたもん。あ、でも魔素の混じった最初の実だけはまずいかもって」
「ふぅん……?」
つまり、最初の実さえ我慢すれば、後は地上のものと変わらない果物がつくという事だ。そう考えるとさほど悪い話ではない。
「最初の実って、最初についた一つって事? それとも一年目の実全部?」
「え? ……えーっと……」
スバルは視線を泳がした。詳しく聞いていないらしい。トーリは肩をすくめた。
「まあ、終わった事だからいいけどさ。今度魔界に行った時にちゃんと聞いとけよな」
「はーい」
「おーい、飯できるぞ。氷の器下げて、食器出して」
「はぁーい」
食事が並ぶと食卓はたちまち陽気になる。この連中はだらけていても夏バテとは無縁の様で、食欲だけはちっとも衰えない。
「トーリ、リゾット食べたい」
「またかよ……じゃあ夜作るか。でも米がもうあんましないんだよな……午後買い物に行って来るわ」
「うん」
「トーリちゃん、ザワークラウトまだあるぅ?」
「あるよ。シシリアさん、ザワークラウト好きだな……」
「うん、大好き! 山盛り食べたいわぁ」
「もっと量仕込まねえと駄目そうだな……シノさん、煮込みのおかわりは?」
「おくれ! 肉多めで頼むぞい!」
「ボクも!」
「トーリ、お芋頂戴」
「はいはい」
トーリは料理を取り分けながら、合間に自分もつまむ。中々香辛料の使い方が上手くなって来た様に思う。シノヅキが四杯目の煮込みを平らげて、満足そうに皿を置いた。
「はー、うまかった。セニノマの奴、仕事がないからって帰るなんぞ、勿体ないのう」
「だねー、こんなにご飯おいしいのに。またビスケットとお茶で過ごしてるのかな?」
とスバルが言った。
納屋も完成したせいで、セニノマは魔界に帰った。かなり名残惜しそうだったが、やはり仕事がないのは落ち着かないらしい。
トーリは煮込みの皿をパンで拭いながら言った。
「飯だけでも呼んでやれば? 流石に食生活が心配になるし」
「セニノマがそうしたいって言うならいいよ。それか、また何か仕事頼む?」
「あー、それもありか……鳥の小屋を増築でもしてもらおうかな」
「鶏増やすの?」
「そうすりゃ卵も増えるしな。どっちみち、ヒヨコを孵したら手狭になって来るし」
「じゃ、近々また呼んであげよ」
「おう、そうしてやれよ。よし、俺買い物行って来る。食器は流しに下げといて」
「待てー! ボクのひんやりあまあまを作って行けーっ!」
「あ、そうだった……ユーフェ、もう一回氷出してくれ」
「うん。わたしも食べたい」
当然シノヅキとシシリアも食べたがる。トーリは肩をすくめて、氷を削る為の鉋を取りに行った。