2.新しい職場
「じゃ、じゃあ、あの姿は魔法で作り出したもの、なんですか?」
「そう……見た目が華奢だと舐められるから、って母様が」
どうやら、魔法によってあの姿に変わり、喋る言葉も自動的に変換される様になっているらしかった。
“白の魔女”ユーフェミアのまさかの正体に、トーリは完全に混乱したが、何とか状況を吞み込んだ。あの怪物みたいなのの世話をする必要はない、とわかって安心したが、ここで引き受けると何だか美少女だとわかって手の平を返した様な気がして、誰に取り繕うわけでもないのに、やきもきした。
「あの、でも、俺ができるのは家事とか雑用ばっかりで……」
「知ってる。それをして欲しいの」
「だ、だけど、町からここって遠いでしょう? 通うのは無理だし」
「ここに住んでいいよ。住み込みOK」
「ぐう……で、でもなあ、未婚の男と女が一つ屋根の下ってのは……」
「わたしは気にしないよ」
「で、でも……」
「……そんなに嫌なの?」
悲し気にそう言ったユーフェミアはひどく儚げに見えた。目元にうっすらと涙が浮かんでいる。トーリは大慌てで手を振った。
「わわわ、わかった! わかりました! 雇われますよ!」
ユーフェミアはパッと顔を輝かした。あまりわかりやすく表情は変わらないが、嬉しがっているのがよくわかる。
ユーフェミアはさっと踵を返して屋敷の扉に手をかけて、開けた。
「来て。入って」
「あ、はい。お邪魔しまーす……ッ!?」
トーリは中に入って仰天した。とんでもなく散らかっている。尋常ではない。
脱ぎ捨てられた服がそこここに散らばっており、あちこちに本が積み上げられ、書き損じの紙が丸められて部屋の隅に積み上がっている。下に屑籠でも埋まっていそうな雰囲気だ。
窓際の机の上には紙と本とが雑多に積み重なり、その脇には空のインク壺が、空の薬瓶などと一緒に転がっていて、吊り下げられた照明から天井にかけては蜘蛛の巣がかかっている。
部屋の中は埃っぽく、歩くだけで埃が舞い上がる。
暖炉からは灰が溢れていて、かけられた大鍋は、汚れや煤がこびりついて外側が膨らんでいる様に見える。
食卓らしいテーブルの上にはシチューだか何だか、よくわからないものが入っていたらしい鍋が置かれたままで、ハエがぶんぶん飛んでいた。ひどいにおいだ。
「これはひどい」
「最初のお仕事……掃除、お願いね」
ユーフェミアはそう言うと、足の踏み場もなさそうな床を器用に歩いて、奥の部屋に入って行った。あちらが私室なのだろうか。ちらと見えた限り、あの部屋も凄そうだ。
「……マジで高い金もらっていい気がして来た」
トーリはエプロンをして腕まくりをして、頭に手ぬぐいを巻いて、むんと気合を入れた。こうなった以上、全力でやってやろう。少しずつでも片付ければいつか片付く筈だ。
ひとまず歩けるスペースを作らねば、とゴミを拾い始めると、何かがごそごそと動いた。
虫かネズミか、と目を細めると、真っ黒なスライムがぬるりと出て来た。そのまま跳ね飛んでトーリに襲い掛かる。
「うおおっ!」
トーリは咄嗟に手に持っていたゴミを投げつけた。床に落ちた黒スライムは、ぷるぷる震えながらトーリの方ににじり寄って来る。
「なんでこんなもんがいるんだ!」
トーリは自分の荷物から剣を引き抜くと、飛びかかって来たスライムを両断した。どろりと溶けて動かなくなる。
ホッとしたのも束の間で、部屋のあちこちから、スライムや大きめのネズミが這い出して来て、それがみんなトーリを狙って来た。
「なんで掃除に来てモンスター退治してんだ俺は!」
スライムも大ネズミも大したモンスターではない。小一時間の戦闘の末すべて駆除した。予想外の戦闘が勃発した事にトーリはげんなりした。
苦労して床を歩いて行き、奥の部屋の扉を開いて中を覗き込む。こちらもひどく散らかっていた。本や服が散らばっている。
ドでかいベッドの上に丸くなった布団があった。
「あのー、ユーフェミアさん?」
「んゅう……」
布団がもそもそと動き、その端から顔だけぴょこんと出て来た。
「なぁに?」
「もう寝るんですか……? じゃなくて、なんでスライムとか大ネズミが家の中にいるんですか!」
「前にやった魔法の実験で、出て来ちゃった……」
「出て来ちゃったじゃありませんよ、こっちはえらい目に遭った」
「でもトーリは冒険者でしょ? スライムくらい問題なし」
そう言われてしまうと返す言葉がない。
「……掃除道具ってどこにあるんです?」
「玄関脇……わたしはいっぱい怠けるから、お願いね」
そう言って布団に潜り込んで丸くなった。すぐに寝息が聞こえて来る。本当にこれがアズラクの町で畏怖されている“白の魔女”だろうか、とトーリはやや訝し気な気持ちになりながら、玄関わきの掃除道具を引っ張り出した。
「一日じゃ終わんねえな……まず水回りと暖炉回りからやるか」
でなければまともに料理もできそうにない。
まず家じゅうの窓を開けた。もうもう埃が立ち上って窓から溢れて行く。それから暖炉の灰を掻き出して、菜園スペース辺りに捨てる。何度か掻き出して、最後に箒で掃いて、すっかり綺麗になった。ひとまずこれでちゃんと火が燃やせる筈だ。
次は調理場周りである。
調理場は暖炉脇の入り口をくぐった先に小さなスペースとして据えられていた。窓の前に調理台があり、上の棚には調味料らしい小瓶や壺が並んでいる。調理場用の井戸が設えられているらしく、小さなポンプと流し台があった。しかし流し台は汚れた食器で溢れている。ポンプはしばらく動かされた形跡がなさそうだ。
暖炉とは別の調理用のレンガ組みのクッキングストーブがあるが、ここも灰が溢れていた。
トーリは暖炉と同じ様に灰を出して捨て、おそらく食材置き場であろう棚の中の、干からびたり腐ったりしているものをすべて捨てる。
それから食器棚を見たのだが、
「食器汚なっ!」
洗い方が甘いせいで、料理の残りがこびりついて固まり、簡単に取れそうもない。トーリはげんなりしながらも、棚や流し台の食器や調理器具をまとめて外に出し、井戸端で片っ端から洗った。
「ユーフェミア……一体どうやって生活してたんだ?」
独り言ちた。割と本気で気になる所である。
何とか洗い物を終えた頃に、日が暮れかけて辺りが暗くなり出した。
今日はひとまずこれまでだ、とトーリは調理場に立った。ぶら下げられた燻製肉と玉葱を取る。棚には使えそうな麦粉や乾燥豆もあった。生鮮品が少ないが、ないものは仕方がない。
「うげっ、下の方が傷んでるじゃん……」
芋の籠を引っ張り出して見ると、下の方が腐ってぐしゃぐしゃである。どこもかしこも滅茶苦茶だ。ひとまず使えそうな芋だけ救出する。
種火の行き来をするのはまだ怖い。だから居間の暖炉を使う事にする。
暖炉に火を起こし、水を張った鍋をかける。埃まみれだった燻製肉の表面を一応トリミングする。芋、見つけ出した萎びた人参、玉ねぎを刻んで乾燥豆と一緒に鍋に入れる。固まりかけた塩と、しけった乾燥ハーブで味と香りをつける。
それを煮込んでいる間に、粉を練って伸ばし、フライパンに広げて焼いた。発酵種がなかったから無発酵だが、十分だろう。
そうやって夕飯の支度をしていると、ユーフェミアがのそのそと起き出して来た。目をこすりながらあくびをしている。
「ふあ……いいにおい。なぁに、それ?」
「ああ、あったものの適当シチュー……ぬおおっ!?」
トーリは慌てて目をそらした。ユーフェミアはバスローブの様なものを羽織っていたが、その下には何も着ていないらしく、合わせの所から胸元や太ももが惜しげもなくさらされて、目に毒である。
「もう少し何か着ていただけませんかね!!」
「んー……? うん」
ユーフェミアは別に恥ずかしがる事もなく、奥の部屋の中に戻って行った。ごそごそと衣擦れの音がする。
これは気が気でないぞ、とトーリは心臓が激しく打つ胸を押さえた。
何度か深呼吸を繰り返し、トーリは料理に戻った。シチューを味見して、調味料を足す。
亜麻色のチュニックを来たユーフェミアがやって来て、トーリの肩に手を置き、背中に寄り掛かる様にして鍋を覗き込んだ。
「おいしそう」
「ちょ、危ない!」
というか柔らかいものが押し当てられて気が気でない。しかもチュニックだけしか着ていないから丈が短くて白い足が実によく見える。
(ちょっとこの人距離感バグってない!?)
トーリは逃げる様に手早く食卓を片付け、ユーフェミアを座らせた。ユーフェミアは綺麗になったテーブルを指で撫でて面白そうな顔をしている。
「ここが綺麗なの、久しぶり」
「わーお」
いつからあの状態だったのだろう、と思ったが怖いので聞かなかった。
シチューをよそって、素焼きのパンを添えてやると、ユーフェミアはうまいうまいとぱくついた。材料も調味料もなくて味気ないかと思ったのだが、そうでもないらしい。
「おかわり」
「よく食うなあ……」
結局シチューを六杯平らげたユーフェミアは、再び眠そうにあくびをした。
「おいしかった……ごちそうさま」
「あ、そうですか」
今までこの人は何を食べていたのだろう、とトーリは思った。そうして、テーブルに置かれていた鍋の中の物体を思い出し、考えるのをやめた。
夜には掃除をするわけにはいかない。食器だけ片付けて、今日はおしまいである。
「あの、俺はどこで寝ればいいんですかね?」
「あ……一緒に、寝る?」
「駄目でしょ! それは、駄目でしょ!」
「そう……でも、ベッドひとつしかないの」
「それでよく住み込みOKって言いましたね……」
「一緒に寝ればいいかな、って。ベッドは大きいんだよ? 二人で寝れるよ?」
とユーフェミアはあっけらかんと言った。
あれ、これ俺男だと思われてない? とトーリは妙に悲しくなった。そう思われていても困るけれど、まったく思われていないのも釈然としない。
(いや、そもそもこの人滅茶苦茶強いんだぞ。仮に俺が理性を失って襲い掛かっても、簡単に撃退できるからこその余裕じゃないのか……?)
そう考えると納得出来る。単身で白金級のモンスターを倒せる実力者なのだ。トーリなど相手にもなるまい。
しかしそれで自分の出来心を誘うなど人が悪い。
ともかくトーリは一緒に寝る案は却下し、本やゴミに埋もれていたソファを掘り出して、無理やりそこに寝転がった。埃っぽくてかび臭くて、心地の良い寝床ではなかったけれど、それでも気づいたら眠っていた。
翌日は朝から大掃除である。ユーフェミアは昨夜の残りのシチューを食べながらそれを眺めている。
「トーリ、凄いね。手際がいいね」
「そりゃどうも!」
トーリは散らばった屑紙を集めて庭で燃やし、空き瓶の類を一度すべて家の外に出した。本も一旦すべてまとめて部屋の隅に置いておく。随分床が見える様になって来た。
それでその日は夜が来たのだが、食材があまりにもない。トーリは残った芋を丸ごと暖炉の熾火で焼き、皮を剥いてほぐした所に、玉ねぎと燻製肉を炒めて少量の水でソースにした様なものをかけた。
「すごい。同じ材料で違うお料理だ」
「味はほとんど同じですけどね……」
調味料が変わらないのである。それでもユーフェミアは満足そうに平らげてしまった。
そうして翌朝である。芋もなくなり、燻製肉も使い切った。玉ねぎはまだあるが、それだけではほとんど何もできない。
玉ねぎと塩とハーブだけのスープを飲みながら、トーリは言った。
「流石に買い物に行かないと今後の食事が作れませんよ。いつもどうしてるんです」
「町に行ってるよ」
「どうやって」
「魔法でぴゅーって」
「俺はそういう事ができないんですけど」
「じゃあ一緒に行こ」
「は」
それで朝食を終えて外に出た。きちんとローブを着たユーフェミアが、杖を持っていない方の手でトーリの手をきゅっと握る。ほっそりしているのに柔らかくて、すべすべしていて、トーリはドギマギした。
「放しちゃ駄目だよ」
そう言うと、ユーフェミアは何か唱えた。するとここに来た時と同じ様に体が浮かび上がり飛んで行く。めまいがするくらいに速い。眼下の風景がすっ飛んで行く、と思っていると急に勢いが落ちて、足の下に感触が戻った。
「着いた」
路地裏にいた。両側に高い建物がそびえて、見上げる空は狭い。
やっぱり“白の魔女”すげえ、とトーリは思いながら、気を取り直して買い物に出た。ユーフェミアもぽてぽてついて来る。
畏怖されている“白の魔女”と一緒にいたら、何か言われるんじゃないかとトーリは少しびくびくしていたのだが、道行く誰もが気にしていない。むしろユーフェミアの可憐さに目を引かれて二度見しながら通り過ぎて行く様なのばっかりである。
「……誰も“白の魔女”だって気づきませんね」
「仕事の時はいつも変身してるから」
そうだ。あの巨大な老婆が“白の魔女”だと人々は思っているのだ。今隣にいるユーフェミアは、艶やかな白髪の美少女である。そこを結び付ける者はいるまい。
(……じゃあ、今俺は誰も知らない超絶美少女と一緒に歩いているわけか)
デートに見えたとしたら何となく自慢げな気分にもなるけれど、あまりにも釣り合わない様な気もする。
ともかく、鼻の下を伸ばしている場合ではない。当面の食材を買い込んでおかねばわびしい食事をもそもそと頬張る羽目になる。
しかし下手に生鮮品ばかり買って腐らしても困る。買い物の頻度は高いのだろうか、とユーフェミアに尋ねると、冷蔵魔法庫があるよ、と言った。
「どこに」
「わたしの部屋」
「どうしてそこに」
「寝てる時、冷たい飲み物が欲しくなるから。寝床でね、寝ながら取れるの」
何という自堕落! とトーリは額に手をやった。
「それ、台所に移動してもいいですか?」
「いいよ。というかもう一台作ってあげる」
冷蔵魔法庫は複雑な魔法式を何重にも組み上げて、箱の中を一定の低い温度に保つ高価な魔道具である。そんなものを事もなげに作ると言うこの少女に、トーリはもう勝手にしろと思った。
いずれにせよ、それならばあれこれと気を遣わずに買い物ができる。
しかし、買い物のリストを見ていると、とてもではないが一度の買い物では持ち切れなさそうだと思った。芋もないし、粉もいつのものだかわからなかったから、主食になるものを買っておかねばならないのだが、芋だの米だの小麦粉だの、そういったものは大袋だと大変重い。しかもかさばる。
そこに肉だの野菜だの卵だのを重ねていくと、何だか危なっかしい。雑用とはいえ冒険者だったから体は鍛えてはいたトーリだが、あれもこれも担いで歩くと落っことしそうでいけない。
「何回か行ったり来たりしないと駄目ですね」
「なんで?」
「荷物が多いですから。持ち分けても持ち切れませんよ」
「あと何を買うの」
「まだ肉も野菜も買ってないですよ。調味料も欲しいし、他にも細々したものが要るし」
「じゃあ荷物持ちがいれば、行ったり来たりしないでもいい?」
「え? まあ、それはそうですけど」
「来て」
と、ユーフェミアは人気のない路地裏に入って行く。トーリは首を傾げてその後を追った。
袋小路の様な場所に、ゴミなどが散らばっていた。ならず者のたまり場になっている所の様だが、今は誰もいないらしい。
「ここで何を?」
「待って」
ユーフェミアは杖を掲げて小さく何か唱えた。すると魔法陣が広がり、ぱっと光る。
その魔法陣から巨大な銀毛の狼が出て来た。トーリはあんぐりと口を開ける。
狼は大きな口を開けて、笑う様な顔をした。
『わしの出番かユーフェ! 敵はどこじゃ! 誇り高き魔界のフェンリル族が一の戦士、シノヅキの強さ、思い知らせてやろうぞ!』