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悪魔の影




 運命を分ける晩餐会の後、マリアンヌはオリヴァーを部屋まで送り届けた。

 うとうとと船を漕ぐオリヴァーの着替えを手伝い、ベッドまで手を引く。珍しく「まだ眠くない」とぐずるオリヴァーに子守唄を歌って聴かせ、気持ちよさそうに眠る彼の顔をしばらく眺めた後、額にそっとおやすみのキスをして部屋を出た。


 マリアンヌは確かに未来が変わった事に喜びを噛み締めながら、今はひとり自室へと戻る帰り道の途中である。



「今度は上手くいってよかったな?」


(⋯⋯! どこに消えたかと思えば、そんなところにいたのね)


 マリアンヌは自身の影からズルリと姿を現したサタンを見やる。

 どうやら、サタンとは心の中で念じるだけで会話出来るようであった。これならばオリヴァーに独り言を言う可笑しな母親だと幻滅される心配はないだろう。


「貴様、俺様の事を疑っただろう。ずっと見ていたんだからな」


(ごめんなさい、反省しているわ。だから、そんなに睨まないで。⋯⋯でも仕方ないじゃない、なかなか未来が見えなくて焦っていたのよ)


「まあ、良い。今回だけは大目に見てやる。⋯⋯それで、お前はこれからどうするんだ。具体的な復讐方法は考えているのか?」


 サタンと心の中で会話しているうちに、マリアンヌの自室の扉が見えて来た。

 周りに誰も居ないことを確認し、そっと口を開く。


「ええ。目には目を、歯には歯を。————そして⋯⋯毒には、毒よ」

「⋯⋯ほう、面白い。ではお前もあの女と同じようにスズランの毒を使うのか?」

「いいえ。今の時期、スズランは手に入らないわ。それに、スズランの毒は強すぎる。出来ることならゆっくりと、本人も気が付かないうちに身体を蝕む毒がいいわ。⋯⋯⋯⋯だって、簡単に死なれては面白くないでしょう?」


 マリアンヌは碧の瞳をギラリと妖しく光らせて言った。

 復讐に燃えるその姿を見たサタンは至極愉快そうにクッと笑い声を漏らす。


「⋯⋯やはり、お前を選んで正解だったな」

「ありがとう、と言うべきかしら?」

「王直々の褒め言葉だぞ? 当然だろう」

「はいはい」



✳︎✳︎✳︎



「ストラスを喚べ」


 偉そうにふんぞり返りマリアンヌお気に入りのソファを陣取ったサタンは、長い足を組みながらそう言った。


「⋯⋯意味がわからないわ」

「物分かりの悪い人間だな。だから、それを使って召喚するんだよ」


 さも当然と言うように、サタンはマリアンヌが持つグリモワールを指差す。


「わ、私に他の悪魔とも契約しろって言うの!?」

「そうだ。だが、安心しろ。あくまで仮契約だ。既にお前の魂は俺が予約済みだからな」

「だったら、貴方が協力してくれればいいじゃない!」

「ハッ⋯⋯! 俺は悪魔の王、サタン様だぞ? 王たる俺が何故そんな面倒な事をせねばならないのだ。あくせく働くのは下々の者の務めだろう?」

「はぁ⋯⋯怠惰な王様だこと。魂以外に私が悪魔に渡せるものなんて持ってないわ。まさか⋯⋯オリヴァーの魂を寄越せ、なんて言うんじゃないわよね? それだけは何があっても絶対に許さないわよ」

「⋯⋯ふん、あいつには家畜の肉でも与えれば良い。なんせフクロウだからな」

「⋯⋯そ、そんな物でいいの⋯⋯? なんだか拍子抜けだわ⋯⋯」

「まあ本来は召喚者の魂や寿命だが⋯⋯。この俺がいるからには否とは言わせないさ」

「私としては魂をあげる相手はどちらでも構わないのだけど。オリヴァーが無事なら何でもいいわ」

「⋯⋯契約し甲斐のない奴だな。つまらん」


 サタンは心底退屈そうに頬杖をついた。こうして見ると威厳も何も感じられず、とてもじゃないが魔界を統べる王には見えない。

 マリアンヌがジッと恐ろしい程に整った顔を見つめていると、その視線に気付いたサタンは顔を上げる。


「ちょうど今夜は新月だ。闇に紛れて秘密の儀式を行うにはうってつけだろう」


 サタンは悪戯っぽくニヤリと口角を上げて言った。



✳︎✳︎✳︎



 時計の短針が天辺を指してからしばらく経った頃、マリアンヌとサタンはすっかり寝静まった屋敷を飛び出してひっそりと裏庭まで来ていた。


 しんしんと降り積もる雪を踏みしめて、白い息を吐きながら枯れ草や木々が並ぶ道を歩き続ける。

 見るからに怪しい真っ黒なフードのついたマントを身につけたマリアンヌは、ここまで誰にも見つからずに辿り着けたことにホッと息を吐いた。

 空を見上げると月は完全にその姿を隠しており、辺りは痛いくらいの静寂と何処までも深く暗い闇に包まれていた。

 サタンの言うとおり、秘密の儀式をするにはうってつけの日だろう。


 しかし、そんな中でも不思議とサタンの姿だけは認識出来るのだから実に奇怪なものだ。闇そのものといっても過言では無い黒髪と瞳を持ちながらも、陶器のように白く艶のある肌がまるでそこだけ光を浴びたようにぼんやりと輝いていた。


(やっぱり悪魔って不思議だわ。何故かしら、ついつい見入ってしまう魅力があるわね⋯⋯⋯⋯)



「この辺りでいいか。⋯⋯おい、手頃な枝を探せ」


 呆けていると不意にサタンに声を掛けられる。

 こんな時間にここまで来た目的を思い出したマリアンヌはハッとした後軽く頷き、素直にサタンの指示に従って近くに落ちていた大ぶりな枝を拾い上げた。

 しゃがんだ時にマントの隙間からちらりと覗いたマリアンヌの薄青色のドレスは、ランプ一つだけの心ともない灯りを頼りに屋敷から足元が覚束無い中長時間歩いて来たせいで雪で濡れて濃い青色に染まっている。

 更には何度か小枝に引っ掛けてしまった為か、裾はボロボロになって汚れてしまっていた。


「⋯⋯これでいい?」

「ああ、いいだろう」

「こんなもの⋯⋯一体何に使うの?」

「その枝を使い地面にストラスの召喚陣を書け」

「え!? こ、これを⋯⋯!?」


 マリアンヌが手にするグリモワールにはお手本となるストラスの召喚陣が書かれていたが、暗闇で頼りない足元の中、練習も無しにぶっつけ本番でこれを書くには相当に骨が折れそうな作業だった。


「ほら、早くしないと夜が明けるぞ。まあ⋯⋯お前が悪魔召喚するところを屋敷の連中に目撃されて魔女裁判にかけられたいならちんたらするがいいさ」

「⋯⋯⋯⋯わかったわよ」

「フン、最初から素直に従えばいいものを」


(いきなりこんなもの書けって言われたら普通の人間なら誰だって困惑するわよ! ⋯⋯それにしても、このストラスの召喚陣とやらは、やたらに複雑でしかも曲線が多いわね⋯⋯⋯⋯)


 マリアンヌはうんうんと唸りながらもグリモワールを片手に枝を握りしめ、地面に曲線を描いていく。


「ねえ、サタン様。⋯⋯もしこの召喚陣を間違って書いてしまったらどうなるの?」


 マリアンヌはふと思い浮かんだ疑問を退屈そうに時々欠伸をしながら作成途中の魔法陣を眺めるサタンに投げかけた。

 その質問を聞いたサタンは待ってましたとばかりにニヤリと口角を上げる。


「ほんの僅かでも間違えたらストラスは来ない。代わりに理性無き獣が現れて、お前を襲うだろうな」

「⋯⋯!? そういうことはもっと早く言ってよ!!」


(流石は悪魔の王様ね⋯⋯! 人を困らせるのが大好きでたまらないって顔をしているわ!!)


 サタンの言葉にマリアンヌは心の内で悪態をついた後、それまでなんとなしに書いていた召喚陣を目を皿のようにして誤りがないかじっくりと観察する。

 細部まで逃すまいと、限界まで開いた瞳でグリモワールと地面に描いた召喚陣を見比べる作業は目が回りそうであった。


(復讐の前にこんなところで死ぬなんて笑えないわ⋯⋯!)



 苦戦しながらも十数分後、どうにかストラスの召喚陣が完成した。


「こんなもので良いのではないか? 初めてにしては中々やるな」

「そりゃあ、命がかかってると聞いて必死になって書いたもの」

「よし、獣の肉は用意したな?」

「ええ、勿論」

「それじゃあ、俺の後に続いて呪文を唱えろ」

「わかったわ」


 サタンの言葉にしっかりと頷き、マリアンヌは再びグリモワールを開く。

 その瞬間、辺りの空気がピンと張り詰めたような気がした。



「⋯⋯来たれ。我は汝を召喚する者なり」


 サタンに続いて、マリアンヌも呪文を唱える。



 ————来たれ、我は汝を召喚する者なり。序列36番目にして地獄の大君主、ストラスよ。我が問いかけに応じ姿を現せ。


 呪文を唱え終えた瞬間、地面が激しく揺れ、召喚陣が眩い光を帯びてそれまで辺りを支配していた暗闇を跡形もなく呑み込んだ。






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