傾国の悪女
「ふぅ⋯⋯慣れないことをしてどっと疲れたわ⋯⋯」
部屋に戻るなり、一気に気の抜けたマリアンヌはソファまで歩く気力もなく、扉にもたれかかって深いため息を吐く。
ノアはエスコートするという宣言通り、ご丁寧にもマリアンヌを部屋まで送り届けてくれた。その間中、常に気を張っていたマリアンヌは心身ともに大分疲弊していた。
「それで、どうだったんだ?」
「サタン様⋯⋯」
サタンは部屋に戻ってきたマリアンヌの姿を確認するなり、興味なさげにテーブルの上に置いてあるクッキーをつまみながら尋ねて来た。
「サタンさまにもお土産買ってきたよっー! ターゲット2人の偵察はもうばっちり!!」
「ほう⋯⋯。では茶でも飲みながら話を聞くとしよう。⋯⋯おい、人間。直ぐに茶の用意を」
サタンはマリアンヌの顔を見ながら、さも当然のようにそう言った。アスモデウスの方を見ると、先程まで隣にいた彼はちゃっかりと席についている。
「はいはい⋯⋯」
マリアンヌは疲れた体に鞭を打ち、渋々と3人分のお茶の準備をすることになったのだった。
✳︎✳︎✳︎
「僕の見立てでは⋯⋯⋯⋯兄のセオは内向的な性格で、純真無垢でありのままの自分を受け入れてくれる寛容な女の子が好きそう。弟のノアは退屈を嫌い刺激を求める外交的な性格で、大胆で積極的な女の子が好みだねっ! う~ん⋯⋯ 2人とも見事に正反対の性格してるねぇ⋯⋯」
「ええ、どちらも一筋縄ではいかなさそうね⋯⋯」
「義弟2人をお前の虜にして仲違いさせるんだろ? それならば、つべこべ言わずやるしかないだろう」
薄ら笑いのサタンから「お前に出来るとは思えないが」という声が聞こえてきそうで、マリアンヌはムッと頬を膨らませた。
「時に、ご主人さま————。恋ってしたことある?」
「え⋯⋯⋯⋯?」
それまで笑みを浮かべていたアスモデウスがやけに真剣な表情でマリアンヌに尋ねる。
マリアンヌは暫しの思案の後、アスモデウスの唐突な質問に首を傾げつつも素直に答えた。
「⋯⋯⋯⋯恋なんてしたことないわ。だって、恋を知る前にフレディ公爵と結婚することになったんだもの」
「それは残念⋯⋯。あの2人を落とすには先ず、ご主人さまが恋を知らなくっちゃ!!」
「そ、そんなこと言われても⋯⋯私はもう既婚者なのだし、今更⋯⋯⋯⋯」
アスモデウスの言葉にマリアンヌがおろおろと困惑していると、ソファで優雅に足を組んだサタンがフンと鼻で笑う。
「恋や愛なんて感情の必要性を感じないな。所詮は自分たちは理性的だと主張する人間が、繁殖するための理由付けをしたに過ぎない」
「ええ〜っ! サタンさまってば相変わらず夢がないなぁ⋯⋯。恋だって愛だって⋯⋯色欲だって、素晴らしいモノなのに♡」
アスモデウスは妖艶な笑みを浮かべ、ぺろりと舌を舐めずりする。ちらりと覗く真っ赤な舌とてらてらと光る唇がいやに妖美で、どうにも居心地の悪さを覚えたマリアンヌは思わず顔を背けた。
「ふん、悪魔が愛を語るなんてバカバカしい」
「悪魔が愛を語って何が悪いのっ!? もうっ! サタンさまのわからずやっ!!」
先程までの大人っぽい表情はいつの間にやら鳴りを潜め、そっぽを向くサタンをキッと睨み付けたアスモデウスは頬を膨らませてポカポカと彼の真っ黒な背中を叩く。
しかし、肝心のサタンにはどこ吹く風で、可哀想になるほどに全く相手にされていなかった。
(この2人って⋯⋯とことん気が合わないのね。でもこんな時にケンカされても困るわ⋯⋯!)
「アスモデウス、落ち着いて⋯⋯!サタン様もアスモデウスをわざと煽らないで!!」
「俺様は悪くない。コイツが悪魔のくせに己の立場もわきまえない幼稚なことばかり言うからだ」
「〜〜〜〜っ! もうっ⋯⋯サタンさまなんて知らないっ!!」
アスモデウスはサタンに向かってスラリと細い人差し指で下のまぶたを引き下げ、挑発するようにベーっと舌を出す。
そんな2人の悪魔の応酬にマリアンヌは頭を抱えた。
(サタン様もアスモデウスも⋯⋯これならうちのオリヴァーの方が余程大人だわ⋯⋯!!)
「ご主人さまっ! サタンさまなんて放っておいて僕たちだけで作戦を考えよっ?」
「え? ええ⋯⋯」
サタンの側から離れたアスモデウスは、マリアンヌの隣に座る。
いつの間にか彼は先程までの幼い表情から、再び艶やかな笑みを浮かべていた。
「あ、アスモデウス⋯⋯?」
「⋯⋯⋯⋯ねぇ、ご主人さま」
アスモデウスは不意にクイっと優しい仕種でマリアンヌの顎を持ち上げ、マリアンヌの揺れる碧の瞳をジッと見つめる。
(⋯⋯⋯⋯?)
「ご主人さまは、恋が分からないって言ったよね?」
「え⋯⋯ええ、そうよ」
マリアンヌが戸惑いつつも答えを口にした瞬間、アスモデウスの雰囲気が変わる。ピンと張り詰めた空気の中、彼は口を開いた。
「————それなら、悪女を演じなさい。傾国と呼ばれたヘレネのように」
アスモデウスの吸い込まれてしまいそうな程の澄んだ空色の瞳から、マリアンヌは目が離せなかった。