背負う覚悟
「⋯⋯馬鹿馬鹿しい。真面目に聞いて損した」
マリアンヌが先程見た悪夢の内容をサタンに話すと、彼はフンッと揶揄うように軽く鼻を鳴らした。
「なっ⋯⋯何よ、サタン様っ! せっかく話したのに⋯⋯!!」
マリアンヌは未だバクバクと早鐘を打つ胸を押さえながら、途端に興味を失い詰まらなさそうに頬杖をつくサタンを睨みつける。
「ハッ⋯⋯所詮夢だろ? 現実にはそんな事起こり得るはずがない。————何故なら、あの女はお前が殺したのだから。⋯⋯そうだろ?」
「⋯⋯⋯⋯」
「夢は夢でしかない。⋯⋯が、夢は深層心理の現れともいう。つまりはお前の罪悪感が見せた夢だ。口では強がっていても、あの醜い豚を殺した事を本心では後悔しているようだな」
「そっ、んなことは⋯⋯!」
(違う、と言いたいけれど私は⋯⋯本心ではエミリーを殺めたことを後悔しているの? だから、あんな夢を見たのかしら⋯⋯?)
痛いところを突いたサタンの言葉に咄嗟に反論出来ず、マリアンヌは俯いて口を閉ざした。
黒曜石のような瞳でジッと見定めるようにしてマリアンヌを見つめるサタンは、深く長いため息を吐く。そんな彼の視線から逃れるように顔を伏せるマリアンヌの瞳は、心ともなくゆらゆらと揺れていた。
「まだまだお前は甘いな。⋯⋯迷いはその身を滅ぼすことになる。時に非情にならなければ、お前たち親子に安寧はない」
「っ⋯⋯⋯⋯!!」
その言葉を聞いた瞬間、マリアンヌは俯いていた顔をガバリと勢いよく上げる。マリアンヌの脳裏には最愛の息子の顔が浮かんでいた。
「⋯⋯オリヴァー⋯⋯あの子のためなら、私は⋯⋯⋯⋯」
震える声でそう呟く。
マリアンヌは死に戻る前の自分とオリヴァーの無残な死に様を思い出していた。
悲惨な運命を受け入れて、抵抗しようなんて考えもしなかった無力で愚かな過去の自分。そんな自分のせいで、何よりも大切な息子を失ってしまった。
(でも、神様が————いいえ⋯⋯気まぐれだけど優しい悪魔が、私にもう一度チャンスをくれた。私はどんな事をしてでも、この一度きりのチャンスを掴み取らなければならない。次こそは絶対に、オリヴァーが笑顔でいられる世界を作ってみせるわ⋯⋯!!)
運命をただ受け入れているだけでは、再び同じ結末を迎えてしまうだろう。抗わなければ、自分たちに未来は無い。
運命に抗ってでも、幸せは自分の手で掴み取るのだ————。
(私は分かっていたつもりでいて、心からは覚悟を決められていなかったのかもしれないわね⋯⋯。でも、もう決して迷わないわ⋯⋯!)
マリアンヌはギュッと力の限り拳を握り、強い意志を以て口を開く。
「今は⋯⋯少しも罪悪感が無いと言えば嘘になるわ。でも、決して後悔なんてしていない⋯⋯! 必ずやり切ってみせる。だって私はオリヴァーを守るためなら何だってするって誓ったもの!!」
「⋯⋯⋯⋯」
マリアンヌの力強い宣言を受けたサタンは、目を細めて問うた。
「⋯⋯お前の敬愛してやまない神にか?」
サタンの漆黒の瞳は、暗く冷たい眼差しでジッとマリアンヌの次の言葉を待っている。彼に嘘など通用しない事をこれ迄の経験から学んだマリアンヌは、その心の内を偽り無く明かした。
「ええ、そうよ。たとえ悪魔に魂を売ったとしても信仰までは捨てていないわ。でも、神様は悪魔と契約した私を見捨てるでしょうね。⋯⋯けれど、きっと慈悲深い神様ならオリヴァーを守ってくれるわ。私は、そう信じてる」
「ハッ⋯⋯とんだ茶番だな。考えてもみろ、愚かな人間よ。神に願っても、信じても最期まで救いなど無かっただろう? 現にお前たちを救ってやったのは誰だ?」
「そ、れは⋯⋯⋯⋯」
マリアンヌは頭では理解していても、その問いの答えを口にしたくなくて言い淀んだ。
しかし、それを見兼ねたサタンが答えを口にする。
「俺だ。⋯⋯俺たち悪魔が、無知で世間知らずなお前に知恵を貸してやってる。本当はお前も分かっているはずだ。お前達人間が信仰する神なんかよりも、悪魔の方がよほど人間に親切なんだよ」
「⋯⋯⋯⋯でも、大きな代償が必要じゃない」
「そりゃそうだ。誰しも見返りもなしに他人に尽くすなんてありえないだろう? それに、無償や善意などよりも対価があった方が信用出来るではないか」
「⋯⋯⋯⋯それも、そうね」
サタンは先程から苛立ちを隠すことは無く、マリアンヌへの言葉も鋭い棘を帯びている。そのことを不思議に思ったマリアンヌは窺うように彼へと尋ねた。
「サタン様、なんだか朝から機嫌が悪いんじゃない⋯⋯?」
「⋯⋯ふん。お前が誰のモノなのか理解していないからだ」
サタンは心底面白くなさそうな顔をして、吐き捨てるようにそう言った。
(もしかして⋯⋯ 昨日、私がサタン様じゃなくて、神様に祈ったことをまだ根に持ってるのかしら? それに、曲がりなりにも悪魔と契約しているのに、今でも変わらず神を信仰しているわけだし⋯⋯。でも、だからといって今の言葉は聞き捨てならないわね)
マリアンヌは小さくため息を吐いた後、サタンの大きな間違いを訂正するために口を開いた。
「サタン様⋯⋯一つだけ言わせて頂戴。私の魂はいずれ貴方のものになるけれど、私の心は私だけのものよ」
マリアンヌの言葉にサタンは目を丸くした後、嘲るように鼻で笑った。
「ハッ⋯⋯! 心なんて形の無い不確かなモノは要らぬ。俺様は、お前の魂さえ手に入ればその他はどうでも良いのだ」
「⋯⋯そうね。サタン様には理解できないでしょう。でも、心は人間にとって一番大切なモノよ⋯⋯。だから、貴方たち悪魔には絶対にあげない」
マリアンヌはニッと口角を上げ、挑発めいた笑みをサタンへと向ける。その碧の瞳は揺らぐことなく、真っ直ぐに前を見据えていた。
朝日が登り、薄暗かった部屋に光が差し込む。太陽の光が優しくマリアンヌの顔を照らした。
悪夢を見て飛び起きたマリアンヌの寝覚めは最悪であったが、遠くでピチピチと小鳥のさえずりが聞こえてくる爽やかな朝の訪れであった。
朝の新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込み、大きく吐き出す。
「気持ちの良い朝ね。今日からもまた⋯⋯よろしくね、サタン様」
マリアンヌはそう言って、強い意思を込めた瞳でサタンに向かって微笑んだ。
もう、マリアンヌの瞳には先程までの迷いなどは微塵も感じられなかった。