悪夢
前も後ろも分からないほどの暗く深い闇の中、何者かがひたすらにマリアンヌの背中を追いかけてくる。
暗闇にいる筈なのにぼんやりと光を帯び、何故かはっきりと認識出来る人型を模した影。闇黒を象ったそれからマリアンヌは必死に両足を動かし逃げ惑っていた。
「はぁっ⋯⋯はぁっ⋯⋯!!」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
マリアンヌを追いかけてくる影はゆっくりと、しかし確実に一歩一歩をしっかりと地に付けて歩いてくる。
片や、マリアンヌは全速力で息を切らしながら走っていた。
歩幅も速度も違う。————それなのに、一向に2人の距離が開くことはない。
確かに前へ進んでいるはずなのに、進んでいる気がしなくて、マリアンヌにはそのことが一層恐ろしく感じた。
(一体、あれは誰なの⋯⋯!? それに、ここはどこ⋯⋯!?)
出口も見えず、方向すらも分からない暗闇にたった一人————。
助けを呼ぼうにも、マリアンヌにはここがどこかも分からず、いつも肌身離さず持っている頼みの綱であるグリモワールも何故か今は手元に無かった。
(サタン様っ⋯⋯⋯⋯!!)
マリアンヌは心の中で祈るように、かの悪魔の名前を呼んだ。しかし、いつもなら直ぐに己の影から出てくるサタンが姿を見せることは無かった。
それもそのはずで、光の一切当たらない深淵の闇の中にいる今のマリアンヌには影など出来るはずも無く、そのことを理解したマリアンヌの心は絶望で染まる。
「⋯⋯っ! きゃあっ!?」
孤独感に押し潰されそうになった時、突如として走っているマリアンヌの足元にコツンと重量のある何かがぶつかった。突然の事に全速力で走っていたマリアンヌはその勢いのままに転んでしまう。
正体不明のその物体に覆い被さるようにして倒れたマリアンヌは驚いて声を上げた後、ぐにゅりと柔らかさを感じる不気味なそれの正体を確かめる為、恐る恐る顔を近づけて目を凝らした。
「⋯⋯⋯⋯っ!!」
マリアンヌは思わず息を呑む。
そこには、此処に居る筈のない人物が横たわっていた。
————暗闇の中、息を呑むマリアンヌが見たものは血塗れのエミリーだった。
いや、正確にはエミリーだったモノというのが正しいだろう。
既に事切れて、冷たくなったそれをマリアンヌは恐怖に震える瞳で見つめる。
改めて目の当たりにする自らが手にかけた人物の亡骸。思わず手をついて後ずさったマリアンヌの顔は血の気が引いて真っ青になり、心臓はバクバクと速く脈打って、息苦しそうにゼエゼエと浅い呼吸を繰り返していた。
しばらくの間、呆然とエミリーの死体を見ていると後ろから何やらくぐもった唸り声が聞こえて来る。ハッと我に返ったマリアンヌは咄嗟に振り返った。
足元のエミリーの死体に気を取られて忘れていたが、声の主は先程までマリアンヌを追いかけていた影からであった。
「マリア、ンヌ⋯⋯よくも⋯⋯よくも、ォ⋯⋯!」
影が発した聞き覚えのある声にビクリと肩を震わせながらも暗闇にも大分慣れてきた目を凝らして見ると、徐々にその影の姿が露わになる。
栗色の髪に真っ赤に充血した赤茶色の瞳、そばかすの付いた頬。その正体は、マリアンヌが最期に見た死ぬ間際のエミリーの姿であった。
彼女はあの時と同じく、恨めしげな視線でマリアンヌを睨みつけ痩せ細った青白い腕をこちらに向かって縋るように伸ばしている。
(逃げなきゃ⋯⋯! これに捕まったら⋯⋯私は⋯⋯⋯⋯!)
本能が警鐘を鳴らし、マリアンヌはすぐさま立ち上がって逃げようとする。しかし、不思議な事にマリアンヌの足は金縛りにあったかようにその場からピクリとも動かなかった。
「な、んでっ⋯⋯!?」
狼狽しつつも足元を確認すると、先程までピクリともせず既に息絶えていると思っていたエミリーが、マリアンヌの細い足首を折らんばかりの力で掴んでいた。
「なンデ⋯⋯ころシ、タノ?」
「ひっ⋯⋯!!」
ギョロリと落ち窪み浮き上がった瞳と目が合う。血のように赤い瞳からドロドロと流れ出る赤黒い液体がぽたりぽたりとマリアンヌのドレスに染みを作る。
怯えるマリアンヌを見てニタリと笑い、およそこの世のものとは思えないしわがれた声を発するエミリーに、マリアンヌは声にならない声を上げた。
✳︎✳︎✳︎
「!!」
暗闇から途端に意識が浮上し、パチリと目を開いたマリアンヌは勢いよくベッドから飛び起きる。
マリアンヌの額からは脂汗が吹き出し、着ていたパジャマはグッショリと汗で濡れていた。更には、ぼんやりとモヤががかった思考にドロリと纏わりつく不快感。
マリアンヌの気分は最悪であった。
「はぁっはぁ⋯⋯⋯⋯ゆ、め⋯⋯?」
「なんだ、騒々しい。眠る時くらい大人しく出来ないのか、お前は」
「サタン⋯⋯さま⋯⋯?」
暗闇の中で助けを求めた悪魔が目の前にいる。その事に胸を撫で下ろしたマリアンヌは幾分か落ち着きを取り戻し、状況を把握するために辺りを見回す。
そこは、ウィンザー公爵家に来てから嫌というほど見慣れたマリアンヌの寝室だった。カーテンの隙間から覗く薄暗い景色を見るに、まだ日は登りきっていないようだ。
(良かった⋯⋯。やっぱりあれは夢だったのね⋯⋯⋯⋯)
安堵から深く息を吐いたマリアンヌは、寝起きざまに声をかけてきたサタンを見やる。彼はというと、マリアンヌの眠っていたベッドの足元に浅く腰かけて呆れた顔でこちらを見ていた。
「随分とうなされていたが、一体どんな良い夢を見ていたんだ?」
「⋯⋯⋯⋯」
サタンは、未だに青い顔をしているマリアンヌに「この俺が聞いてやろう」と言って、上機嫌に口角を上げる。
「⋯⋯実は————」
サタンの提案にマリアンヌは一瞬、躊躇うようすを見せたものの、自分一人で抱え込む覚悟は出来ずにおずおずと口を開くのだった。