悪魔と歩むこれからの路
あれからもマリアンヌの献身的な看病の甲斐あって、エミリーは順調に衰弱していった。
そして肝心のエミリーはというと、筋力の衰えた身体ではもう自分でスプーンを持つことも出来ないようで、今ではマリアンヌが手ずから彼女の口にスープを運んであげている。
「⋯⋯はい、エミリー。口を開けて」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯どうしたの? 貴女の大好きないつものナツメグとジャガイモがたっぷり入ったスープじゃない」
エミリーはマリアンヌの作ったスープを口にすること無く、虚な瞳でマリアンヌの顔を見ていた。
「⋯⋯お医者様の話では⋯⋯私はすぐに回復するくらい⋯⋯軽い症状だったって、聞いたわ⋯⋯」
「⋯⋯そう。それなら、いつものようにたくさん食べて早く回復しなくてはね」
「⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯どうかしたの?」
「⋯⋯お、おかしいのよ。私が倒れてから口にしたものはほとんどがマリアンヌの持ってきた料理だけ⋯⋯処方された薬だって欠かさず飲んでいるわ。それなのに、回復するどころかどんどん悪化して⋯⋯」
ブルブルと恐怖で震えるエミリーの身体は、元気だった頃の面影も無いくらいに嘔吐と下痢を繰り返し痩せ細っていた。
エミリーは枯れ枝のような腕で自らの身体を抱きしめ、マリアンヌの事を責め立てるような瞳で見ている。
もうエミリーがスープを口にする気のないことを察したマリアンヌは小さくため息を吐き、カタンと小さな音を立ててベッド脇のサイドテーブルにスープ皿とスプーンを置く。
「⋯⋯何故かしらね? エミリーには本当に心当たりはないの?」
「な、何も無いわ⋯⋯! 私は何もしてない!」
「本当に⋯⋯? ⋯⋯例えば、誰かに恨みを買っている⋯⋯とか」
マリアンヌは先程までのにこやかな笑顔から一転して、スッと表情の消えた冷たい碧の瞳でエミリーを真っ直ぐに見据えた。
豹変したマリアンヌの態度にビクリと大袈裟なほどに肩を震わせたエミリーの表情が見る見る恐怖で強ばる。
「ま⋯⋯まさか、マリアンヌ⋯⋯お前が⋯⋯! わ、私が何をしたっていうのよ!?」
「⋯⋯したでしょう? それはもう、数え切れないくらいに。⋯⋯そして一番許せなかったのは、貴女がオリヴァーの食事に毒を盛ったことよ」
「っ! き、気付いていたのね⋯⋯。でも、それはお姉様に指示されて仕方なく⋯⋯!!」
「そう⋯⋯。全く反省していないようね。まあ⋯⋯貴女はもう助からないのだから、残りの短い人生を楽しみなさい」
その言葉を最後に、マリアンヌはエミリーに背を向けて歩き出す。
「⋯⋯っ! 待ち⋯⋯なさい、マリアンヌ!!」
マリアンヌを追いかけようとベッドを飛び出したエミリーだったが、衰弱しきった彼女の身体はその意思に反して思うように動かず、ゼエゼエと苦しそうな息を漏らしてその場にうずくまるだけであった。
振り返り、エミリーの方へと向き直ったマリアンヌは冷ややかな瞳でジッとその様子を見下ろす。
「⋯⋯最後に教えてあげるわ。貴女が何の疑いも無く口にしていたスープ————そこに入っていたナツメグとジャガイモには毒があるの」
「っ⋯⋯!?」
種明かしを聞いたエミリーはゆっくりと顔を上げる。全てが仕組まれていた事に気が付いた彼女の表情は、怒りから恐怖へと完全に塗り替えられていた。
「ナツメグには、呼吸困難やめまい、嘔吐。ジャガイモ⋯⋯正確にはジャガイモの芽ね。これにも嘔吐や下痢、腹痛を起こす作用があるの。これらが貴女をゆっくりと衰弱させて、死へと導くわ」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯っ!」
マリアンヌの言葉に反論しようと口を開いたエミリーだったが、それが音になることは無い。ただ苦しそうに顔を歪めて胸を押さえるだけであった。
「⋯⋯見下していた私に嵌められた気分はどうかしら? ⋯⋯ああ、もう話すことも出来ないのね。可哀想に⋯⋯」
腰をかがめて床に倒れ込んだエミリーに目線を合わせたマリアンヌは、クスリと笑みを溢した。
エミリーは最後に、せめてもの抵抗とばかりに青ざめて脂汗の浮かんだ顔でマリアンヌのことを睨み付ける。
「おい⋯⋯死神のお出ましだ」
それまでマリアンヌの影でジッと息を潜めていたサタンが声をかけてきた。
「⋯⋯あら、もうそんな時間なのね。じゃあ、エミリー。地獄でしっかりと今までの貴女の行いを反省なさい。⋯⋯⋯⋯また、会えるといいわね」
「⋯⋯っ⋯⋯!」
マリアンヌは今度こそ振り返ることなく、エミリーの部屋を後にした。
彼女の部屋を出る途中でボロボロのマントを纏い、大きな鎌を持った痩身の男とすれ違う。
(⋯⋯あれが死神ね。あとは彼に任せましょう)
「エミリーは後悔に苛まれる中、激しい苦痛のうちに息絶えるでしょう。これで私の貴女に対する復讐はお終い。さようなら、エミリー」
マリアンヌは幾分か軽くなった心地でそう呟いた。
✳︎✳︎✳︎
「復讐を果たした今の気分はどうだ?」
「とりあえず一つ、肩の荷は下りたわね」
「いやァ、無事に成功して良かったですねェ!!」
サタンと話をしていると、どこからともなく姿を現したストラスも2人の会話に交じる。
「ええ、ストラス。貴方のおかげよ⋯⋯本当にありがとう」
「いえいえェ~! マリアンヌさんのお役に立ててよかったですよォ。⋯⋯それでは、また御用がございましたらお呼びくださいねェ!」
その言葉を最後にストラスの身体は徐々に黒い煙となり、ゆっくりと空気に溶けて消えていった。
そのようすをサタンと2人、マリアンヌは静かに見送る。そして僅かな沈黙の後、それを破ったのはサタンであった。
「⋯⋯もう、気が済んだのではないか?」
珍しく探るようなようすのサタンの言葉に、マリアンヌは思わず小さく吹き出した。
「いいえ、まだ私の復讐は終わっていないわ。だから、ウィンザー一族を滅ぼすその時まで⋯⋯貴方の力を貸して頂戴、サタン様⋯⋯」
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マリアンヌの夫であるフレディ・ウィンザー公爵が危篤状態であるという知らせを受けたのは、エミリーの部屋を後にしてから直ぐの事だった。
恐らく、これからこの屋敷では今よりもっと熾烈な後継者争いが繰り広げられることだろう。
(これからは更に気を引き締めなくてはね⋯⋯)
マリアンヌは、僅かに沈んだ気分で自室の扉を開ける。
「お母様ーっ!!」
部屋に戻ると、そこにはマリアンヌの最愛の息子————オリヴァーが待ち構えていた。
「あら、オリヴァー! 来ていたのね」
「うん! なんだかとってもお母様に会いたくなって⋯⋯!!」
「ふふっ⋯⋯嬉しいわ」
ぱあっと花が咲くような笑顔で駆け寄るオリヴァーをマリアンヌは優しく受け止める。
小さく温かい身体をギュッと抱きしめると、オリヴァーはもぞもぞと身じろぎしてマリアンヌに向き直った。
オリヴァーはマリアンヌの顔を目にするなり、赤い瞳を不安げにゆらゆらと揺らしてマリアンヌの事を心配そうに見つめる。
「⋯⋯⋯⋯お母様? なんだかいつもより元気が無いみたい⋯⋯何か嫌なことがあったの⋯⋯?」
「⋯⋯いいえ、何もないわ。オリヴァーの事が大好きないつものお母様よ」
オリヴァーの身体を抱きしめたマリアンヌは先程までの懸念や疲労感もすっかり吹き飛んでいた。嘘偽りなく答え、今にも泣き出しそうな顔をするオリヴァーを安心させる為ににっこりと微笑む。
マリアンヌの笑顔を見たオリヴァーも途端に明るい笑みを見せた。
「僕もっ、僕もお母様のことがだーいすきだよ! ずーっと、何があっても大好き!」
オリヴァーの笑顔に満たされた心地になったマリアンヌは再び愛する息子を強く抱きしめた。
そして、小さいけれど決して当たり前では無い幸せを大切に噛み締める。
「⋯⋯愛してるわ、オリヴァー」
(私は、この子の笑顔を守る為ならなんだって出来る。悪魔にだって喜んで魂を差し出すわ。⋯⋯だから、神様————。どうかこの子に、オリヴァーに幸せな未来を————)
マリアンヌは胸元に輝くロザリオを握りしめ、ひっそりと神に祈る。
足元の影がマリアンヌの行動を咎めるようにゆらりと揺れた気がした。