キス
確執が解けてから、芽室はたまに武蔵と二人で神崎を待ちながら宿題をするようになった。
芽室が社会のプリントと教科書を見ながら、頬杖をついて唸り声をあげた。
「わかんねぇ…」
そのプリントは武蔵には昨日、課題として出されてもう終わらせたものだったので、
「それは教科書じゃなく、資料集を見た方がわかりやすいよ」
と、芽室が机に出して置いていた資料集を手に取って、該当するページを開いて芽室に見せた。
その時、芽室の視界に武蔵の右手首が入った。薄く白い線が走っている。
芽室はその手首を掴んで、傷跡にキスをした。
「え」
当然武蔵は驚いたが、芽室は全く何事もなかったように資料集を受け取り、
「ああ、ここな。サンキュ」
と言ってプリントに答えを書き始めた。
武蔵は硬直して、向かいに座る仲間を見つめた。
そんなことが3度ほどおこり、それでも芽室は相変わらず無意識のようだったので、武蔵は楠本に相談した。
「楠本。ちょっと相談があるんだけど」
武蔵からの弱ったような珍しい言葉に、楠本は少し驚いた。
「何かあったのか?」
「うん、ちょっと…」
武蔵は事情を説明した。
「はぁ? 手首にキスしてくる? 本当…なんだろうな」
神崎ならばともかく、武蔵に限って冗談を言ってくるとは思えない。
「それで、他の人間がいる時でもするのか確かめたいんだけど、協力してくれないか」
「そうだな。それは重要だな」
二人きりならまあ、いいかもしれないが、第三者の目があるところでもするとなると、変態だと言われてもおかしくない。
「あれ? 今日は楠本も学校で宿題するの?」
帰ろうとした阿恵が、楠本が武蔵たちに机を寄せ、問題集を開いた姿を見て言った。
「ああ。お前もするか?」
「たまにはいいかな。丁度英語の宿題出てるし」
阿恵はそういって、机を寄せて座った。
武蔵が楠本を見たが、
「大丈夫だろう。口は堅い方だし」
そう言われて武蔵も阿恵の参加を受け入れた。
武蔵の前に芽室が、横に楠本、斜め前に阿恵が座った。
全員宿題を始めたが、しばらくしてから武蔵が楠本を肘でつついた。楠本がプリントから顔を上げる。
武蔵は楠本を見た後、芽室に目を向けた。
「芽室、この問題だけど、どの公式かわかるか?」
数学の問題集を開いて、わざと右手首が見えるように問題を指さす。
すると芽室はその手首を取り、軽くキスしてすぐに離すと、問題集に目をやった。
「これじゃねぇの?」
武蔵の机の上に置いてあった教科書をめくると、公式の一つを指さす。
「ありがとう…」
芽室は何事もなかった様子で再び宿題のプリントに戻った。武蔵が楠本をみると、愕然とした顔をしている。
「——芽室、何やってんの?!」
驚愕してそう叫んだのは阿恵だ。見ていたらしい。
「はぁ? 宿題に決まってるだろう。馬鹿かお前は」
芽室が苛立たし気に答える。
「そうじゃなくて、さっき武蔵にキスしたよね?」
「は? してねーよ。何言ってんだ」
芽室は問いかけの内容に少し動揺しながらも、やはり驚くというより苛立った様子で言った。
「——いや、してたぞ」
「は?」
真面目な幼馴染の言葉に、芽室は固まった。目線を泳がせながら記憶を遡る。
思い出したのか目を見開き、向かいに座る仲間を上目遣いに見た。
「…マジ?」
武蔵は少し顔を赤らめ、黙って頷いた。
「いやいやいやいや、そんなまさかっ」
芽室は半笑いで否定した。自分でも受け入れられないようだ。
「完全に無意識みたいだな…」
「無意識にキスするってなにそれ?!」
楠本の発言に阿恵が非難の声を上げる。
「まあこいつは酒が入ったら、そこらの人間にキスするぐらいだからな。しかも口に。手首ぐらいなら抵抗があんまりないのかもな」
楠本がとんでもないことを言った。
「そうなの?!」
「俺なんか何度されたかわからないぐらいだ」
阿恵の言葉に、楠本が俯いてそう言う。
「——困るんだけど…」
武蔵ががっくりした楠本と同じテンションで呟いた。
「そうだよな。他人がいる時でもするんだもんな」
「え? 俺、今までもしてたの?」
「…大体毎回してる」
「ウソだろ?!」
楠本の言葉に芽室は驚いたが、武蔵の証言にさらに驚愕した。
「傷跡が視界に入った時だけだけど…」
「——悪ぃ」
「…うん」
二人は向かい合って、視線をそらしたままお互い気まずい表情を浮かべた。
「無意識じゃどうしようもないな」
楠本が武蔵に言った。
「そうだな。仕方ないからリストバンドでもするよ。傷が目に付かなきゃ大丈夫だと思うから」
「悪い…」
武蔵に余計な負担をかけることになり、芽室は素直に謝った。
「お疲れ~」
そこに神崎がやってきた。
「あれ、四人で勉強なんて珍しいね。どうかしたの?」
「いや、たまにはと思ってな」
楠本が質問に答える。
「それがさ神崎っ」
「阿恵!」
神崎に事の顛末を話そうとした阿恵を、武蔵が鋭く呼び止めた。続けて言う。
「英語の勉強教えて欲しいんだろう?」
武蔵が睨みがちに阿恵にそう言い、睨まれた阿恵は黙った。
「英語の先生って教えるのヘタだよね。どこ?」
神崎は特に疑問に思うでもなく、カバンを近くの机の上に置くと、椅子だけ引っ張って来て阿恵の問題集を覗きこんだ。
阿恵は武蔵たちの方を気にしていたが、神崎を無視する訳にはいかないので、問題集に目をやった。
「じゃあ、そういうことだから」
武蔵が楠本と芽室に言った。
「ああ、わかった」
「…今度リストバンドプレゼントするよ」
「ありがとう」
それから武蔵は、部活中以外は着けていなかったリストバンドを、学校ではずっとつけているようになったのだった。
傷が知られている時の無責任な噂は大概ひどかったが、リストバンドをつけ始めてからはあまり表立っての噂はなくなった。
神崎は突然リストバンドをずっとつけ始めた親友に当然疑問を投げたが、
「噂がひどいから、ずっと隠しておくことにした」
と言う親友の言葉に、少し違和感を覚えただけで、深くは突っ込まなかった。
そのため、神崎はいまだに芽室の悪癖を知らないのだった。