出会い(1)
神崎秋徳が心臓の病だと言われたのは小学2年の時だった、下校中急に胸が締め付けられるような苦しさに襲われ、それでも救急車を呼ぶほどではなかったので、落ち着いてから母親と病院に行った。
いくつかの病院を転々とした結果、心臓病治療で有名だという病院で、心臓が悪いと診断された。珍しい病気だったようで、特に治療法もなく、根治させるなら移植しかないだろうと言われた。
入院する必要はまではなく、激しい運動さえさければ日常生活は送れるだろうと言われたが、徐々に悪化して長生きはできないだろうと言う医者からの宣告は、秋徳の生活を一変させてしまった。
勉強もできたし、ガキ大将なところがあった秋徳は、学校に行くのをやめた。どうせ死ぬのに行っても意味なんてない。無意識に他の友達と比べてしまうのも嫌だった。
両親は息子が学校にいかないことに、最初は本人にも学校にも相談したし、不登校児の集まりにも連れて行ったが、どれにも馴染まない秋徳に、最終的には息子の好きにさせることにした。
心臓の補助に歩くのは良いと言われていたので、外出は親からも止められてはいなかった。秋徳はよく外に散歩にでかけたが、それはいつも一人だった。友だちとも付き合うのはやめていた。どうしても卑屈になってしまうのが苦痛だった。
たまに3歳年下の妹の遥がついて来ようとしたが、邪魔なので追い払った。
もともと読書家だった秋徳は、本屋や図書館に通って過ごした。
読んでいる物語に共感することもあり、反発することもあり、物語を読むことすらしんどくて、ストーリーのない情報系の本を読むことも多かった。
可能な限り、博物館や資料館にも足を向けた。過酷な運命をおしつけてくる世界が、どうやってできているのか知りたくて、宗教系の本を読むことあったし、自分の体がどうなっているのかも調べたが、専門家が珍しい症状だというだけあって、出版された書籍には秋徳の病のことは載っていなかった。
本やニュースから、世界には自分より過酷な目にあっている人々がいることはわかっていたが、だからと言って自分の運命を受け入れる理由にはできなかった。
2年後の小学4年になったとき、秋徳が住んでいたマンションの隣、空室だった2階建ての部屋に人が引っ越してきた。7,8階を使った部屋だ。
一人でいることに慣れていた秋徳には、隣に人がやってくること自体鬱陶しいと思った。隣の家は当然複数人の家族だった。
妹の遥は興味深々で、同学年の小学1年生の男子が同じクラスに転校してきたらしく、仲良くなったのか隣に遊びに行っていた。共働きで、食事時ぐらいしか顔をあわせない両親にも、遥が隣の家の話をしていたので秋徳にも分かったが、小学6年と中学1年の男子がいて、血がつながらない男性一人が保護者として一緒に住んでいるらしかった。
父親は亡くなっており、母親も病気で入院しているそうだ。
いつも人と比べようとする両親は、高額なマンションに越して来た家族に興味があるらしく、妹の話をよく聞いていた。秋徳には両親のそういう態度も気にいらなかった。血がつながっていても、秋徳と両親は仲がいいとは言えなかった。血がつながっているから余計そう思うのかもしれないが。
秋徳が不治の病だと聞かされた時、両親が一瞬嬉しそうな様子を見せた気がしたのだ。秋徳はそれ以降、自分のために頑張る両親が、秋徳本人ではなく、可哀そうな自分たちのために努力しているような気がして、両親に従う気分になれなくなってしまった。
日本は豊かで平和な国だ。お金さえあれば秋徳一人でも生活するのに支障はなかった。もともと両親は仕事第一で、食事も冷凍やコンビニを利用することが多かった。
「お兄ちゃんも隣に遊びに行かない? 二階建てで面白い造りだよ」
「行くわけないだろ」
「お兄ちゃんと同じ4年生の男の子も、今度引っ越してくるって言ってたよ」
「ああそう」
その情報は嬉しいどころか疎ましかった。それは秋徳にとって、また、健康で明日を疑わない同級生と会う可能性があるということを意味していた。
きつく言い返したつもりだったが、遥は話をやめなかった。
「駆流っていうらしいんだけど、今、入院してるんだって」
「入院?」
「なんか事故で右手の具合が悪くて、食事もとれなかったんだって。1月には退院できるから引っ越してくるって言ってたよ。闘雄さんに写真見せてもらったけど、女の子かと思うぐらい可愛い子なんだよ」
「ふーん」
「お兄ちゃんと同じ学年だから、仲良くなれるんじゃない?」
「僕に学校行けって?」
「小学生は小学校に行くものじゃない」
うるさいので、秋徳はそれ以上遥と話をするのをやめて、リビングから自室に戻った。
年が明けて、この辺りにしては珍しく雪が降った日、秋徳は散歩がてら図書館に行っていた。
雪は牡丹雪で積る気配はなかった。
マンションについた時、駐車場で妹の姿を目にした。両親は他人が家に入ってくることを嫌がったので、妹はいつも隣に遊びに行っていたが、不登校の秋徳も目にしたことのある、妹と同級生の四男だという弘伸もいて、40代らしき女性と、もう一人、遥たちと同じ背丈の短髪の男子がいた。
とてもかわいい顔をしていたので、時期から考えても妹が言っていた自分と同級生だという隣人なのだろう。
「おにいちゃん!」
兄の姿に気づいた遥が秋徳に声をかけ、新しい隣人も顔を向けてきた。
駆流という名のその少年は、家族や隣人と笑顔で話していたが、秋徳に向けたその目には何も映っていないようにみえた。表情も無表情だった。
秋徳はその目が許せず、そちらには向かわず、何の挨拶も返さずに家に向かった。
駆流が引っ越してきてから、妹が隣に遊びに行く頻度はあがった。食卓での話だと駆流は兄弟で分担している家事のうちで、料理を担当しているらしく、妹の遥もそれを手伝っているらしかった。
遥は両親が不在の、残業で遅くなる時や休日出勤の時などに、隣で食事をとるようになった。秋徳は遥から一緒に食事に行かないかと誘われたが、当然断った。前からと同じようにコンビニや冷凍食品で済ませていた。
外や廊下で駆流に会うことがあったが、駆流は大体弘伸と一緒で笑顔を浮かべていた。
その笑顔は秋徳には作り物のように見えて、秋徳を苛立たせた。
駆流が越してきてから半月ほど経った時に、妹が聞いてきた。
「おにいちゃん。駆流の手首に傷があるんだけど、どう思う?」
「傷? どんな」
「一直線の、こんな感じのやつ」
遥はボールペンで右手首に一直線の線を書こうとしたが、インクは手にはうつらなかった。手からすぐのところで、静脈もはっきり見えている部分だ。
インクを写そうと遥は何度かボールペンで手首をなぞったので、赤い線が浮き出た。
「もういいよ。赤くなってるだろ」
「マジックで書いた方がいいかな」
「そこまでする必要ないよ。一本線ってことなんだろ?」
「うん。左じゃなくて右手にあるんだよ。右利きなのに」
「自殺未遂だと思ってるのかよ」
「だって…」
「事故なんだろ。そんな不自然な傷、自分でつけられる訳ないよ。普通はためらい傷とかもあるみたいだし」
フィクションがどれだけ本当に近いか知りたくて、色々調べていた秋徳は、自殺方法にも詳しかった。人よりも死に近い分、死ぬことに興味があったのかもしれない。
「…誰かに、つけられたってこと?」
遥の言葉に、秋徳は驚いて妹の顔を見た。
「なんでそうなるんだよ」
「だって…」
「誰かに何か聞いたの?」
遥は首を横に振った。
「じゃあ放っておきなよ。知りたいなら直接本人に聞きなよ」
「そんなことできる訳ないじゃない! お兄ちゃんのバカ」
遥は怒って立ち去ってしまった。
秋徳は自分の手首を見て、妹が書いた線を思い描いた。一体どんな事故があればそんな傷がつくのか。ナイフの取り扱いを間違えたり、理由はいくらでもあるような気もした。
でも、遥の言葉だけは受け入れられなかった。それは、殺されかけたということだからだ。
秋徳は時々出会った時に挨拶するぐらいで、武蔵家の誰とも親しくしたことはなかったが、今では毎日のように遊びに行っている遥には、なにか思うところがあるのかもしれなかった。それでも詳しく聞く気にはなれなかった。
他人の人生に口を出すほどの余裕は持てなかった。
2月の下旬、激しく雨が降っていた日の夜に、外が騒がしくなった時があった。目を覚ました秋徳が自分の部屋からでると、両親も妹も起きてはいなかったが、廊下から聞こえる声にドアを開けると、闘雄がドアを開けていて中に声をかけていた。すると中からぐったりした駆流を抱きかかえた家主の詫間がでてきて、そのあとに長男の勝優と弘伸が続いた。
闘雄は覗いている秋徳を睨んだが、他の4名はそれどころではないとエレベーターの方へ走って行った。闘雄もカギをしめてそれに続いた。
ぱっと見ただけだったが、武蔵は右手首に包帯を巻いていた気がした。
次の日、遥からなにか情報があるかと思ったが、駆流がまた調子を崩して入院しているみたい、という話だけだった。
気にはなったが話を聞くような間柄ではなかったので、何もわからないまま時間だけは過ぎ、それでも秋徳は自分から遥に駆流のことを何度か聞いた。遥は急に態度を変えた兄を不思議そうに見たが、駆流のことに関しては弘伸から聞いた様子をそのまま伝えてきた。
駆流はまた拒食症を発症して、それがなかなか治らないとのことだった。
原因を聞いたが、遥は知らないと言った。
二週間後に駆流は帰って来た。
外で出会った時、駆流は手首にリストバンドをつけていて、傷の様子は分からなかった。
駆流が帰って来てから10日ほど経った日、寝付けずに本を読んでいた秋徳は、深夜なんとなく外の空気が吸いたくてベランダのドアをあけた。すると外に、歩いている人影が街灯の下に見えた。小柄で短髪の姿は間違いなく駆流だった。駆流は公園のようになっているマンション裏手にあるベンチに座った。
秋徳は踵を返して玄関に向かった。
外に出てベンチに向かうと、駆流は上から見た通りの姿で座っていた。両足の間に腕を入れ、ぼんやりと地面を眺めていた。手首は甲の方しか見えなかったが、駆流はやってきた同級生を一度顔をあげて見ただけで、何も言わず顔をもどし、見るとはなしに地面に目をやっていた。秋徳は聞いた。
「お前、何やってるんだよ」
「——眠れなかったから」
駆流は顔も上げず一言そう答えた。他人事のようないいように、秋徳は思わず駆流の右手を取った。そこに、妹の遥が言った通りの一直線の白い傷があった。その傷の上には、新たに切ったような傷の跡があった。その傷は浅く、赤く見えた。
「お前、何のために生きてるんだよ。人の言うとおりに笑って…。生きてる意味、あるのかよ」
駆流はいつも、その場の空気にあわせているだけのように見えた。秋徳はそれが何より気に食わなかった。なんでもできるのに、何もしようとしない態度が許せなかった。
駆流はなんでもないことのように答えた。
「ないよ、意味なんて。意味も、価値もない」
それは歌うような言葉だった。何一つ自分にも世界にも期待していない。そんな言葉だ。
「僕は許さない! そんなこと絶対に許さない!」
秋徳はそう叫んで、その場から走り去った。今の駆流にはどんな言葉も通じない気がして。それが悔しかった。
家についた秋徳は走ったせいで胸が苦しくなって、胸を押さえて玄関にしゃがみこんだ。誰も起きてはこなかった。涙がでそうで、それも許せず、秋徳は強く目をつぶった。
駆流の微笑が瞼に浮かんで、頭を振ってそれを消し去ろうと必死になった。
絶対に許さない。その言葉が頭の中で何度も繰り返された。
結局その日は眠れなかった。秋徳はベッドの中から天井の一点をみて一晩を過ごした。駆流の、美しいといえるほどの微笑が頭から離れなった。
(許せない。絶対に)