第七話 夜の森で出会ったもの
「う……」
節々に響く体の痛みが俺の意識を呼び覚ました。身をよじって起き上がり周囲に耳を澄ませると、草木や枝が夜風にそよいでこすれあう音が聞こえる。ここはやはり魔獣の森の中なのだろう。そう感じたことをきっかけに、だんだんと視界もはっきりとしてきた。
「そうか……助かったのか。俺は……」
体中を改めて確認した。すると、驚いたことにところどころ打撲で内出血を起こしているのか痛みを感じる部分はあるが、特に目立つ外傷はなかった。奇跡的にも、骨折一つしていない軽傷で済んだのだ。
「まさか、枝葉がクッションになったのか?」
頭上を天幕のように覆いつくす枝葉。月や星の灯りすら通さないそれらの、いちばん分厚い部分に落ちたのだろう。その証拠に、俺の服には無数の折れた小枝や葉っぱが引っ掛かっている。
だが、助かったところで絶望的な状況に変わりはない。夜の魔獣の森は、すこし耳をすますと獣の唸り声が聞こえるような状態だ。頭上を枝葉が鬱蒼と茂っているせいで、数歩先の視界すら怪しい。
「助かった……でも、これからどうしたらいいんだ」
魔獣の森置き去りの刑は、そもそも死刑が前提の刑罰だ。森を脱出して国へ戻っても俺は殺されるだろう。かといってこの森は人外魔境。俺もサバイバルの技術は一通り身に着けてはいるがここでは何の役にも立たないだろう。
結局のところ、俺は身動き一つとれない。できることといえば、痛む体を引きずって茂みの中に身を隠すのがせいぜいだった。
「あいたたた……チクショウ。あいつらひどいことをしやがる」
主な怪我は墜落時のものだけだが、他にもここに落とされる前に殴られたり蹴られたりした傷が響いている。本格的に動き出すためには、もう少し休憩しなくてはならないだろう。
「なんで俺がこんな目に……」
痛みと夜闇への怯え。そしてレヴィスに受けた理不尽への無力感が口をついて漏れる。だが、その呟きは誰に届くこともなく暗い夜の森へと吸い込まれていった。
「……っ! なんだ!?」
すさまじい轟音と、突き刺さるような殺気に俺は驚いて身構えた。だが驚いたのは俺だけではない。森の中で眠っていただろう鳥や獣たちがギャアギャアと慌てた声を上げて逃げ出していく。
そしてそのあと、何か固いもの同士が激しくぶつかり合うような音がすぐそばから響いてきた。そしてここにいても感じられるほどの獣臭と血の臭い、そして魔物特有の気配から、すぐそばで俺よりも圧倒的に強い魔物が誰かと争っているのだとすぐに分かった。
すぐに俺は考えた。今出て行くのは間違いなく危険だ。だが、このまま茂みに潜んでいても巻き添えで死ぬかもしれない。それなら、俺が居ることを悟られないうちに距離をとっているほうが安全だ。
覚悟を決めて潜んでいた茂みを飛び出す。そしてその直後、俺は森の中がずいぶん明るくなっていることに気づいた。
「魔獣の森が明るくなってる。どうして……」
たった数時間前まで、森の中は数歩先も見えないほど暗かったはずだ。いったい何があったのかと辺りを見回した俺は、すぐにその原因を見つけた。
「なんだ、これ。木が全部枯れているのか?」
俺の頭上を覆うほど茂っていた木々が、見る影もなく枯れ果てていた。葉っぱは全て茶色く変色して乾燥しており、水分を失ってしまったせいで自重を支えきれずに折れてしまった木もある。まるで、この周辺だけ長い時間が経ってしまったかのようだ。
「いったい、何が……」
呆然と呟いた時だった。俺のすぐ背後で、枯れ果てた木々を揺るがす恐ろしい唸り声が響き渡った。俺が振り返ると、そこに現れたのは樹々をなぎ倒しながらこちらに迫る巨大で醜悪なイノシシだった。
「うわ!」
とっさに飛び退いてイノシシの突進を交わす。イノシシは家一軒ほどもある巨体ながら、早馬にも匹敵する猛スピードで駆け抜けていった。あれに真正面から跳ね飛ばされれば、まず助からないだろう。
イノシシの突進は俺からそうはなれないうちに止まった。イノシシの突進によって木々は薙ぎ倒され、地面には深く爪痕が刻まれる。そしてイノシシは鈍重な動きで、なぜか俺の方へと向き直った。
「なんだよ。俺になんの恨みが……」
「見つけた!」
その時、俺の後ろから女の子の声がした。こんな危険なところに人が居るのか? その疑問から振り返った俺だったが、俺の背後には誰もいない。では声はどこから響いたのだろうか?
「おや……? どうしてこんな所に人間が?」
頭上だ。声は頭上から俺に向かって降り注いだ。見上げるとそこには、満月と星々を背に俺とイノシシを見下ろす一人の少女がいた。
空恐ろしいほどの美貌だ。レヴィスのパーティーにいた女の子も王国中で一、二を争うような美人ぞろいだったが、頭上の少女とは比べるべくもない。星々が輝く濃紺の夜空に漆黒の髪を流し、白く整った顔でこちらを睥睨している。均整の取れた体を惜しげもなくさらすような露出の高い服装をしているが下品ではなく、気品と威厳が両立していた。
「そこの人間! 今は戦闘中です。巻き添えになりたくなければ、直ちに立ち去りなさい!」
怪訝な顔もつかの間、少女は俺に向かってそう警告を発した。そうか、争っていたのはこのイノシシと少女だったのか。
もちろん、俺は巻き添えになるつもりなんてさらさらない。少女の警告に従い、この場から逃げ出そうとしたその時だった。
ドンッ、と鈍い音がした。目の前の景色が立ち並ぶ木々から回転する夜空へと切り替わる。
(あ、れ? いやそうじゃない)
違う。回転しているのは俺の体だ。そう気が付いた時には俺の体はイノシシに突き上げられて中を舞っていた。
「なんてこと!」
少女が声を上げる。俺の体はまたも地面に叩きつけられると、糸の切れた人形のように倒れたまま動けなくなった。息もできず、呆然と目前のイノシシから目をそらすこともできない。
そうして視界に移るイノシシは、どこか無様に転がる俺を嘲笑っているかのようにも見える。いつの間に突進してきたのか、あるいは足音に気が付く暇さえないほど早く俺を突き上げたのだろう。
「おのれ……魔猪ボルゲア! 何が理由でご主人様の領土を荒らす! 何が目的だ! 何が楽しい!」
魔猪ボルゲア。その名前は俺も知っている。凶悪な魔物がひしめき合う魔獣の森の中でも王として知られる魔物だ。俺の住んでいたモークア王国が精鋭の兵士や腕に覚えのある者たちを五百人も集めて討伐隊を編成して送り込んだものの、たった一人の命からがら逃げ帰ってきた者を除いて全滅したという。
「お前が暴れるせいでご主人様の領土はひどいありさまだ! これ以上、お前たちの好きにはさせない!」
少女が怒りの声を上げる。そして身を一度縮こませると、一気に全身を伸ばし、それと同時に少女の背中から蝙蝠のような皮膜の翼が飛び出した。
「なんだ、あれ」
それを見て、俺は倒れたまま唖然として呟いた。見れば皮膜の翼が生えただけではない。その手にはどこから出てきたのか、刺々しい深紅のメイスが握られ、こうして見上げているだけの俺すらも圧倒するような、魔物とは似て非なるプレッシャーが彼女から放たれた。
「ハァァッ!!」
裂帛の気合とともに少女が宙を翔ける。一瞬で肉薄したかと思うと彼女は手にしたメイスをボルゲアの側頭部に叩き込んだ。あの細腕から生み出されたとは思えないほどの威力がボルゲアを吹き飛ばす。ボルゲアもひづめを地面に食い込ませて踏ん張ったが、地面に溝を四つ刻みながら森の奥へと押し込まれた。
そうして生まれた隙に、少女は俺のところに来ると軽い小物でも抱えるように俺を抱き上げて、森の中の目立たない場所へと運んだ。
「この度は私とボルゲアの抗争に巻き込んでしまい申し訳ありませんでした。立てるのなら今すぐに逃げてください」
「君は……?」
「自己紹介をしている余裕はありません。さあ、早く! すぐに立ち上がれないなら、私が時間を稼ぎます!」
少女が立ち上がり、またボルゲアと対峙する。俺も逃げたかったが体が痛くて思うように動けず、少女がボルゲアと戦っているのを見ているしかない。
(なんだ……? 心臓が、動悸を――)
少女とボルゲアを目にした時から感じた、心臓の熱と動悸を感じながら。