プロローグ 馬車は行く
東の国には、人生の幸福と不幸をよりあわせた縄に例えたことわざがあるという。そう、確か『禍福は糾える縄の如し』だったか。
かつてそのことわざを聞いた時、俺は素直に受け入れることはできなかった。人生に一つもいいことなど一つもなく、一時期は濡れ衣を着せられたまま殺されるくらい追い詰められていたからだ。しかし
「ご主人様、馬車の揺れは平気ですか? お加減が悪くなったらすぐに言ってくださいませ。膝枕して差し上げます」
「今のところは平気だ。ありがとうエリー」
馬車に揺られながら俺の隣に座る長い黒髪の少女、エリーが俺を心配そうにのぞき込みながら尋ねた。
それに対して、俺は平気だと返事をしながら内心で自分を心配してくれる人が側にいてくれる事の頼もしさをかみしめていた。少し前までの俺では考えられないようなことだったからだ。
「ところで、ラファは平気なのか? あの小さい身体で馬車を引けるのがいまだに信じられないし、誰かに見られたら……」
「わたくしの幻術で見た目はごまかせるので平気です。それよりラファ、少し遅いのではありませんか?」
「ご主人を馬車酔いさせていいならもっと早く走れるよ」
エリーの文句に、馬車を引いている馬が答える。馬のノドでは絶対に出ないような、舌足らずな女の子の声だ。慣れたつもりだったが、何度聞いてもビビりそうになるな。
「おいエリー、あまり無茶を言ったら―――ハックション!」
エリーに注意しようとしたところで、俺はくしゃみをすると身震いをした。どうも寒い。もうすでに雪山は離れたはずだったのだが。
「な、なんだか寒くないか?」
「おそらく、雪山から吹き降ろした風がこの一帯を冷やしているのでしょう。ご主人様、失礼いたします」
俺に一つ断るとエリーは背中からコウモリのような皮膜の翼を広げ、俺を包み込むようにすると体を押し付けてきた。全身が信じられないほど柔らかく温かい彼女の感触に思わず驚き身じろぎしてしまう。
「お、おいエリー」
「ご主人様はお体を冷やしてはいけません。わたくしの身体で暖をとってくださいませ」
俺とは対照的にエリーはいたって真剣に俺の身体をいたわろうとする。それは嬉しいのだが、見た目だけは若い娘である彼女に抱き着かれて、俺は年甲斐もないような顔をしていないだろうか。心配だ。
と、何でもないように取り繕おうとしていると、途端に馬車の速度がガクッと下がった。何事かと馬車の外を見ようとしたその時、額から一本の角をはやした幼い少女がエリーを押しのけるようにして俺に抱き着いてきた。
「エリーはずるい。私だけ働かせて自分はご主人とイチャイチャ……」
「ラファ!? あなた、馬車はどうしたのです!!」
「こんな馬車、馬一頭で十分引ける。ご主人、私も抱きしめて―」
「こら、離れなさい!」
角が刺さらないように、ラファが俺の胸に頬をこすりつけるようにして甘えてきた。それを見たエリーが目をいきりたたせながら引きはがそうとするが、小柄な見た目に反してラファは俺に引っ付いたまま離れない。むしろ俺の身体をがっちりとホールドしてくる。
「いーやー!」
「ちょ、ラファ……きつい……」
自分に抱き着く少女二人を受け止めながら、俺は再度思った。『禍福は糾える縄の如し』とは本当だろう。ここ最近で、縄どころか嵐に放り込まれた枯れ葉のように目まぐるしく俺の運命は変わった。それまでの底辺で這いずるような生活から一転してエリーとラファという仲間を得たが、それと同時に魔王を倒さないと自分が死ぬという事態に陥ってしまった。
「エリー、毛布だけ取ってくれれば大丈夫だ。ラファはもう少し頑張ってくれ」
抱き着く二人の拘束からどうにか抜け出し、彼女たちを抱えて元の位置に戻しながら俺は自分の運命が一変したあの数日間を回想した―――