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夕暮に佇む

 中学生の語彙なんて、たかがしれてる。


 目の前の女性を表すのに最適な表現が、このときの俺にとっては、妖麗な美女だったのだ。


 その女性は、外国人か、外国の血が混じっているのではないかと思われる容貌をしていた。 


 長い髪は茶髪と呼ぶにはなめらかで光沢があって、ツヤがあって、透明感さえあって、でも金髪と呼ぶには、しっとりしたハチミツのような濃厚さを併せ持っていて、飴色、と呼んだらいいだろうか?

 白い、袖なしのワンピースを着ていた。

 その布地よりも白い色をした両肩が、あらわになっていた。

 

 ウエストマークされたデザインのワンピースは、女性の細身ながらも、そこはじゅうぶんに大きい二つのふくらみと、細いウエストを強調していたし、ふわりとした布地の下の腰から下のラインは、細く長い脚がそこに隠されていることを信じさせてやまなかった。


 そして…顔…


 神話の中の女神が、祝福でなく呪いをかけて、女性をおとしめよう、とするのではないかと、そんな心配さえしたくなるほどの美貌。

 ギリシャ神話を少し読んだことがあるが、神話の中の女神たちは、たいへんに嫉妬深いのだ。


 最後の夕陽にキラリと輝いた瞳は、琥珀色だった。


 目の形もスッと通った鼻も、最高の彫刻家の手になるもののように見えた。


 そして、唇。


 ひかえめな大きさの唇は、あかく紅く、なぜだろう、その紅さは化粧によるものではないと、本能的に、俺にはわかった。


 その唇が、動いた。


「ごめんなさい?」


 俺の口からは、「へ?」というまぬけな声が出た。


「川辺は草が生い茂って見えて、実はもうそこが水の中だったりするのよね?」


 女性はワンピースをつまんで、ちょっと持ち上げた。


「もうちょっと早く教えてもらえたら、濡れずに済んだんだけれど」


 細い網紐で足に固定されてるタイプの女性の白いサンダルと、それにつつまれている、サンダルより白い足は、濡れていた。


「…ごめんなさい」


 俺が言うと、女性は、ふふっと微笑んだ。


「私が勝手に川にはいったんだもの、あなたが謝ることはないわ。それに…」


 女性は首をかしげてこちらを見た。


「…さっきの説明は、私じゃなく、そちらの芝犬君にしてあげたものだったんでしょ?」


 そこで俺はコタローの存在を思い出した。

 コタローは、説明する必要もなかったと思うが、雄だ。雄だからなのか、若い女性が好きだ。

 散歩の途中で、女子高生が、あの犬可愛いー、なんて近寄ってこようものなら、飛びつかんばかりの勢いで、リードをもった俺をぐいぐいひっぱるのだった。


「コタ…」


 そんなコタローの様子が、いつもと違っていた。

 

 俺の前に立っているのはいつものこととして、その耳は、斜めに伏せられ、歯はキリリとくいしばられ、尻尾は股の間にはさまれ…


 女性の手が、スッと、コタローのほうに向けられた。


 俺はひやりとした。


 コタローが、その手に噛みつくのではないかと、一瞬危惧したからだった。


 だが、コタローは、俺の大事な家族の一員であるコタローは、そんなことはしなかった。



 コタローの鼻先、十数センチのところで、女性は手を止めていた。


「ごめんなさい、驚かすつもりじゃなかったの。何もしないから大丈夫。そう…あなたはこのコを守っているのね?」


 コタローは、うなだれて、クゥンと、小さく鳴いた。


 コタローの身体から、警戒心という名の緊張がとけたのを、俺は感じた。


 いつのまにか緊張していたのは俺のほうもであった。

 

 緊張がとけて…いやなんで緊張していたのかわからないんだけど…


「とにかくそのあたりは危ないですよ、早く上に上がりましょう」


 俺は女性に手を差し伸べた。


 女性は俺の手を取った。


 ひやりとした手で、細く長い指をしていた。


 あたりはすっかり暗くなっていて、外灯がポツンポツンと立っていたが、雑草の生い茂った河原のバンクを登るには十分な明るさではなかった。

 俺は途中でつまずきかけ、なぜかコタローと美女に、むしろ引き上げられるような形で、歩道に上がった。


「ありがとう」


 と、言ったのは美女のほう。


「いえ…でも、川岸までは、もう降りないほうがいいですよ。あと…その…危険だから気をつけたほうがいいです」


 女性はパチクリとまばたきすると、


「そうね、気をつけるわ」


 俺は慌てて続けた。


「いやその、川のことじゃなくてですね、あなたのような人が、ひとりでこんな時間までこんなひと気のない場所にいたら危ないですよ!」


 俺は、顔を真っ赤にしてたと思う。


 女性はさらにパチクリパチクリとまばたきしたあと、


「ありがとう、気をつけるわ」


 言って、微笑んだ。

 極上の笑みだった。


 耐性のない、中学二年生男子を真っ赤にさせて、いたたまれなくさせるには、十分すぎるほど。


 「そうね、危ないかも。だから、明るいところまで送ってくれる?橋の所まででいいわ」


 俺が答えるより早く、女性は歩き出していた。

 橋のたもとまでは、50メートルもなかった。

 その距離をなぜか、女性、コタロー、俺の順に連なって歩いた。

 俺は女性の髪がサラサラ音を立てているのではないかと錯覚しながら歩いた。たとえそんな音がしたとしても、俺の心臓がバクバクいう音でかき消されていたことだろう。



 あっというまに橋のたもとに着いた。歩道と車道がわかれている大きな橋で、すぐ近くにはコンビニもある。

 もうここは、明るいと言っていい場所だった。


「じゃあ…気をつけて帰って下さいね」

「じゃあ、あなたも、コタローくんも気をつけて帰ってね」


 俺は照れくさくて答えなかった。コタローはクゥンと返事をした。


「いくぞ、コタロー!」


 俺は女性に背を向けて、コタローのリードをひっぱって走り出した。そのまま家まで走って帰りたかったが、あいにくすぐに信号待ちにつかまった。


 そっと橋のたもとを振り返ってみたら、そこには、もう白いワンピースの妖麗な女性の姿はなかった。


 信号が青になると、俺はがむしゃらに走った。コタローも俺を追い越し、風のように走った。

 途中すれ違ったオバさんが、ちょっと危ないわね、なんて言っていたような気もしていたが、とにかく急いで家に帰りたかった。


 家のドアのなかにころがりこむと、コタローの足を拭こうとそばに来た母さんが、


「健、あんたコタローを散歩させてくれるのはいいんだけど、コタローもいい年なんだから、あんまり無理はさせないでよね」


 と文句を言った。


 俺は、どっと力が抜けて、玄関にへたりこんだ。


 隣で舌を出しながらハァハァ言ってるコタローを、ギュッと抱きしめた。


「あんたもうふざけないの!早く手洗いうがいして、ご飯にしましょ」


 母さんの声を聞きながら、俺は、はあっと息を吐いた。


「行くか、コタロー」


 ほっとして、リビングに向かった。

 ほっとして?


 この世のものとも思えない美女を目の当たりにして、俺はよほど緊張していたらしい。


 なんだか笑えてきて、コタローと先を争うようにしてリビングに向かい、あんたはまず洗面所でしょー!と、母さんに怒られたのだった。

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