妖麗なひと
「おーい、コタロー!そっち行っちゃダメだってばよー!」
俺は、うっかりリードを離してしまったことを後悔しながら、河原をものすごい勢いで駆け下りてゆく、芝犬のコタローを追いかけていた。
俺が生まれる前から佐藤家に飼われているコタローは、もう14歳を超えているはずたが、無茶苦茶元気だった。
というか、コタローは俺をなめきっているのだ。
父さんや母さんが散歩に連れて行くときには、おとなしいと聞くし、実際、日曜日などに家族三人で散歩に出かけると、こいつは二重人格、いや二重犬格かと疑いたくなるほど素直で、甘えん坊で、父さんがリードを持つと、決して父の前には出ず、父さんのかかとの後ろを歩くのだ。
俺がすねて、こいつなんで俺の時と態度がこんなに違うんだよぅ
と、言うと、父さんは決まってガハハと豪快に笑って、
「健、犬は人を見るんだよ!自分より偉いか偉くないかってな!それに…」
父さんはコタローの首のあたりをわしゃわしゃもみながら、
「こいつは、後から生まれて来たおまえを、弟のように思っている。守ってやらなくちゃあいけないものだって思ってる。だからおまえの前を歩こうとするんだ」
なんとも優しい、いとおしげっていうのかな、そんな目でコタローを見る。コタローもそれを見返して、嬉しそうにもっと撫でろとすり寄る。
たしかに、父さんとコタローの仲と、俺とコタローの仲の関係性は違うようだった。
「コタロー、川辺は危ないんだってば、草が茂ってるように見えて、実はそこがもう水の中だったりするんだから!」
丁寧に説明してやる。
その説明が効いたのか、コタローは立ち止まった。
不自然に、唐突に。
「コタロー?」
時刻は夕方、西日がそろそろ完全に落ちて、暗くなる少し手前の、昼と夜の間の夕暮れ時。
そう、暗くなりかけていたから、俺は最初気づかなかったのかもしれない。
コタローの視線の先、あしの葉が高く生い茂った、河原と水辺のきわどいところに、人が、かがみ込んでいた。
「あの…」
と、俺が声をかけようとした瞬間に、その人は、スッと立ち上がった。
足元の悪い川岸で立ち上がるにしては、ちょっと驚いてもいい滑らかな動作で。
そのとき、最後の西陽が一瞬その人…その女性の姿形をくっきりと映し出し、その女性は眩しそうに片頬を歪めた。
それはほんの一瞬のことで、次の瞬間、陽は完全に空の端、町並みの中に沈み、あたりは暗くなった。暗くなったと言っても、まだ薄暗いとも薄明るいともいえる微妙な暗さ明るさだった。
その瞬間のことを、俺は一生忘れないだろう。
たとえ百まで生きたとしても、ふとした拍子に、ふとした瞬間に、フラッシュバックのように、まざまざと思い出すだろう。
妖麗な美女が、そこに、立っていた。