十三日目二千四百九十六日前の彼女
運命の日だった。私はここからの彼女のことを知らない。彼女は天涯孤独だと言っていたし、絶望をしていたとも言っていた。その詳細はなにもかもうやむやに死んでしまった。昨日の彼女は極上の空想をプレゼントして、眠りについた。私は一休みしたが、私を知らない状態に陥るのが恐ろしくないと言ったら嘘になる。現にこうして眠れずダイニングで彼女が起きるのを待っている。息を殺し、彼女が起き出すまで、じっと寝室のドアを見つめる。
暫くして、私はようやく急な眠気に襲われた。一瞬寝て起きてを繰り返すようになった。熟睡できずやはり起きてすぐさまドアを見つめる。あのドアから次に出てくる彼女の姿を浮かべて震える。寒くなったからか足元の冷気が気になってくる。足をこするがいっこうに温まらない。頭を下げて手で温めようと腰をかがめる。
――お母さん。
その時かすかだが寝室から彼女の声が聞こえた気がした。私の目の前にはフローリングの床におろした生白い足。気のせいと眠気眼に思ってしまったがすぐに思い直して起き上がろうとする。だが机に頭を当ててしまい、激痛が走る。そうして、机の下から抜けて立ち上がり転がりそうになりながら歩く。フラフラの状態で寝室のドアを私から開く。ダイニングの光が寝室に差し込む。濃い闇に眼がなれていないため、彼女を見つけられない。ぐしゃぐしゃになったシーツに、彼女の姿はその上にはない。
「誰?」
彼女は脆く崩れそうな声を発していた。そちらに顔を向ける。部屋の隅で小さく身を丸まらせている彼女がいた。目からほろほろと何度見たか分からない雫の光が落っこちる。
「俺は……」
「ここどこ? お母さんの遺体は? 骨を抱えてたのにどこにもないの。どこにやったの?」
彼女に寄ろうとしていた足を止めてしまう。身を固めて、彼女の抱えている者の重さを痛烈に感じる。
彼女の母親に合わせてもらったことは二度ある。一度は彼女の過去をうっすらと聞いたとき。彼女と私が付き合い始めた頃合いだと思う。私は彼女のことを聞きたくて、さりげなく聞いて、ぽろぽろと断片的だが教えてくれた。その時に墓まで案内してくれた。二度目はプロポーズする前だ。一か月前に訪れ覚悟を決めた。が、しかし不安を抱えたままで結局プロポーズするまでそこから二週間もかけた。
どんな時も私は彼女にしっかりと中身を聞かなかった。彼女が話したくなさそうにしていたためでもあったし、私が詳細を聞くと抱えきれないものを背負うようで気が引けたのもあった。
だが、今、まさに彼女の過去と向き合っている。
遺骨を抱え込むような態勢を彼女は変えない。そこにないとしても彼女は母を感じて痛いのだろう。
たどたどしい動きで私は彼女と向き合った。その場で座り、視線を合わせる。彼女はなおもこちらを向かない。
「ねえ、おじさん誰? 私をどうするつもり?」
彼女の体が震える。何を想像しているのか、この子が女の子なら容易だ。だが私は何をして、どうして彼女をなだめれいいのか分からない。今彼女に何を言おうが彼女は信じてくれないような気がした。この部屋の隅っこに佇んでいる。たくさんの彼女が死んだ。彼女という多くの彼女の墓の前で逡巡している。
彼女の姿は変わらないまま中身の精神年齢が全く違う。おかしな生物になってしまった彼女に茜を感じることができない。私の知らない茜を心のどこかで想っていた恋心を抱けない。今の彼女は茜ではないのだから。
手を差し出す。それも払いのける。
「やめて」と小さな悲鳴に心がさされる。赤く滲みだす心の傷は次第にひらひらと舞う紅葉に変わる。佇む私はさながら一本の木のようだ。見守っていたいのに彼女にとっては恐ろしい影をつくるものにしかなれない。
歯を食いしばる。目の前の彼女に向き合っているのがつらい。今までの彼女が思い出されて、もう茜が死んでいることが感じられて心が重い。
忘れないと言っていたじゃないか。
熟れた気持ちを必死に揺さぶる。そこにいる彼女を見捨てて死のうとすら思ってしまう。包丁はキッチンにある。夜の間に朝食を用意してもう用をなさない包丁。もういいだろう。私は疲れていた。今までは彼女に救われたこともあったが、もう茜の体には私が見放されている。茜すら私がいることを望んではいない。
手で顔を覆う。顔を洗うみたいにごしごしと顔をこすり、首をうなだれる。手を放しゆらりと幽霊みたいに立ち上がった。彼女に背を向けて寝室から出ようとした。ささくれだった気持ちにそっぽをむける。
「泣いてるの?」
振り向く。彼女の視線がようやく合わさる。
頬に自身の手をやる。しかし私の頬に涙が伝っているわけでもなく、瞳に涙が浮かんでいるわけでもなかった。それでも彼女は私の顔をひどく憐れんでいた。暗闇の中憐憫の光が私を照らし出す。
「あなたも大事な人を亡くしたの?」
押し殺していた感情が戻る。目の前にいる彼女が茜と重なる。全く違う彼女。私とともにいた茜の発展途上の姿を携えている。なぜだか懐かしくなった。中身の記憶も、このころの茜を知る由もなかったのだが、私は親しみを覚えだす。ふと自身の脳内に一筋の光の柱が降り立つ。天使のはしごのように幾重にも光の加減が変わる。照らされた地面に落っこちていたのは彼女のしぐさや言葉だった。突飛な言葉が彼女は好きだった。変な言葉であるほど話に乗ってきた。空想上にある物事を真剣に取り組み育み、それが一番今必要なことであるかのように振る舞う。そんな茜の一つ一つが、目の前でうずくまる彼女の向けるしぐさや言葉が同じだった。
心が震えだす。泣いていない。悲しんでいない。が、それでも突飛なことを言い放ち、私が乗ってくるのを待っている。
ああ、今目の前にいるのは、茜そのものなんだ。
「うん、泣いてる」
彼女がすくっと立ち上がる。頬に浸された涙の跡をぬぐって、頬を赤らめる。すると、彼女は私が乗ってきたのを確認し、満足そうに続ける。
「誰がお亡くなりに?」
「大事な人だったんだ。結婚を誓った、そして先日結婚を申し込んで、結婚した、とてもとても大事な人だったんだ」
「それはとても悲しいことね」
「君は?」
「私は母を。今は骨が見当たらないんだけど、ずっと抱えてたの」
「君だって悲しいよ」
「あなたに比べれば……」
彼女は私の方へ歩こうとするが、上手く歩けずその場で転がりそうになる。私はそれを見て彼女を支える。こんなことしょっちゅうあった。だからもう慣れていた。
彼女はこれをすると、少しむっと顔を膨らませ、少しするとにこやかな笑みを浮かべる。目の前の彼女は少し違いむっと顔を膨らませるのみだったが、その表情一つ一つは茜であるのは変わらなかった。
「あれ、なんで? 足昨日まで歩けたのに」
その慌てた表情に心の傷が化膿しだす。私も彼女も同様にこの場では傷を負うものだ。
寝室の暗がりの中、彼女の手は私の手にすっぽりと収まっている。夜寝る前、私はダイニングに行き、机に突っ伏す形で寝て、彼女だけを寝室にやったのでどんな形で寝たのか知らなかった。だから私は知らなかった。今なお彼女の手には指輪が通されていることに。
昨日の彼女が指輪をしてそのまま寝たのだと考え、創造するだけで胸が痛くなる。昨日の彼女もおとといの彼女も私に向けて指輪を手向けた。そうして応援しているようだった。冷たい指輪が伝線する。金属の硬さは私に強固な意志を向ける。
先ほどまでの蛆が沸いた私の思考が恥ずかしくなる。
これではいけなかった。
「突然、こんなこと言い出すのはいけないとは思ってる」前置きを踏まえて、私は彼女の手を握る。指輪の感触が手に残る。
「この手で私の頬を叩いてくれないか」
彼女の目が点になる。
彼女がしどろもどろしていて、どういったわけかわからないみたいなので、うんと頷き、確信をもって告げる。その手で、私の頬を叩いてほしいと。
私が彼女と付き合い始めた頃、彼女の癖を指摘したことがある。私や彼女自身の頬に手差し出す癖だ。私は少し気になった程度のことを彼女に告げたのだが、彼女は驚いて頬に手をやった。確かその時も散歩していた気がする。近くの公園で夏の暑い日差しを避けて、日陰を歩いていた。だいぶ彼女の先導に慣れてきた頃合いで、日陰をまたぐのは楽々だった。
その日差しが驚いた彼女に差し、すこしだけ焼けた肌を私に見せる。健康な張りがある肌。夏の影法師。麦わら帽子。生きとし生けるものが私たち二人を祝福しているようだった。
蝉争さえ聞こえない。
――知らずにやってた。
彼女はそう言ったけれど、少しだけ間を置き、遠くを見やり、思い出を掘り起こしていた。ううん、と今度はさっきの発言を取り消した。私が生まれる前の、もっとずっと昔、前世のころなんだけど、と変な前置きをして、くすくす笑っていた。私はまた彼女のおとぎ話が始まったのかとおどけて続きを促した。
──ある女の子が私に教えたの。頬に手をやると、私の魂が違う誰かに乗り移る。自身にすると自身の痛みをつぶさに感じられる。だから私はそれをするようになった。
実際のところ彼女のそういった理由は適当であったり、嘘であったりしたからあまり信じてはいなかった。そうなんだ、と私は感嘆の声をあげて今作ったであろう言葉やお話に取り入ったが、今にして考えてみると、とても素敵なことのように思えてくる。
彼女が私の頬を伝い、私に魂を与えてくれている。
茜は、私に魂をあげてもいいよと、いつだって言ってくれていた。
「変なの」
彼女の手が私の頬をはたく。視界がブレ、次に脳が動いたように感じ、最後に頬に痛みがはたいた場所から外に向かい広がった。赤さを私に広げる。さらさらと流れる全身の血液がそこにある。中心に向かいぬくもりを取り戻す。ぶれた視界や脳が戻るころには、世界が開けていた。
紅葉が木の枝から落ちていく様を思い出す。
もう季節も終わりだ。
「君は」息切れを起こしそうになる。「信じないかもしれないが」
一息つく。
「俺は、タイムトラベラーなんだ。未来の君から俺は頼まれてやってきた。お母さんに執着しないように、お母さんをさらってほしいって」
それから、いうことがたくさんあった。彼女と一緒にいろいろしたかったことや、彼女がどれほど幸せだったか。私の知る茜はとても美しかったことを。
「君は、将来、幸せになるんだ。事故で足が不自由になるけど、その足がきっかけで大学で彼氏と出会うんだ。それから一緒に彼氏と散歩したり、笑いあったり、季節を共に過ごすんだ。それで、その彼氏と結婚して、一緒に人生を歩いていく」
これからの言葉は言えない。それなのに口が滑っていく。
私がどれほど彼女のことを思っていたのか、きっと自身の感情以上に体が叫んでいる。彼女と私の将来の姿がこの目にちらつく。ちりん、と季節外れの風鈴が私の脳内で鳴り響く。
それは夏の始まり。
「結婚した後は新婚旅行だ。夏が好きだったろう。だから君と旦那さんは海がきれいな国に旅行する。そうして季節が過ぎても、君と一緒に過ごしていく。子供が三人ほしいね、なんて言って、結局二人しかできなくって、それで落ち込んだりもしたけれど、お互い励ましあったりなんかして、いつまでもいつまでも同じ場所を散歩して、それで夏にはやっぱり夏の日差しを目いっぱいに浴びていって、君の手には杖なんか持たせずに、先導してくれる相手がいて。それで、君は幸せになるんだよ」
どれもこれも虚飾で染め上げられた、そんな幸せな夢だったが、願わずにはいられなかった。彼女の傍で、どんなことがあっても支えていこう。
「ああ、私は君と結婚してよかったよ」
言い知れない言葉が、結婚の誓いがこぼれる。溢れてしまう言葉の海。将来の夢。どれもももうないものだ。しかし、そうだとしても、私は、彼女ののことが諦められなかった。傍にいることがこんなにも幸せなのだから。
「結婚、したんだよ」
夏がとんと暮れてしまう。茜色に染まっていく世界。目の前の彼女は沈んでいく。そこに茜が覆って、私のことを褒めているように見えた。
「愛してたよ、茜」
彼女は私の手を握り、耳元で囁いた。
「その人とっても幸せ者だったんだね」
ひっぱたいた頬に彼女は手を添えた。痛んだ頬は熱をはらむ。そこに冷えた魂が染み渡っていく。浸透していき、彼女がやっぱり茜ではないことをひしひしと感じてしまう。ここにいるのはもはや異なる人物であり、違う道に進んだものだった。私が結婚を誓った、将来を見繕った相手ではない。それなのに染み込んだ魂に茜がちらつく。魂の欠片が茜色に染まっている。目の前の紅葉の中から一葉の茜を見つけるぐらいこんなんな見分け方でも私はそこにいると分かった。
「彼女はとっても幸せ者だった。君もきっと大丈夫」
瞳の裏に染めあがった散歩道の景色を遠くから眺める。冬に似た風が吹きすさぶ。荒れた小道に茜が立っている。紅葉で見えなかった。瞳のガラスがくもり、よく見えなかった。