十二日と千百四十八日前の彼女
机の上に並べられた白い粒を見つめる。すぐさまゴミ箱に全て捨てた。こんなもので眠れるだなんて浅ましかった自身を殺したいくらいだった。憤り、先日の彼女を思い出し落ち着く。一昨日の夜から私は職場に連絡を入れ、茜の事情を説明した。無断欠勤した割に茜のことを話すとみなすぐに受け入れてくれた。診断書を茜の職場に送り、電話をし、といろいろ対処をしだした。彼女は忙しくする私を、隣で不思議そうにのぞき込んでいた。一昨日決めたように私は昨日もプロポーズと病気について話した。何度でも私は続ける。毎日生きている彼女を祝いたい。そこにいる彼女を肯定し、一緒にいることの幸福を分かち合う。それだけのはずが、病状を聞き過去の茜と向き合うより数段心持軽かった。
ダイニングのテーブルにつき、今日の朝ご飯を眺める。黒こげの朝ご飯と反して今日のは私が作っているだけあっておいしそうな見た目をしている。が、これだけではつまらなく感じてしまう。
あの日の彼女は死んでしまったが未だに舌の上に苦みが残っている。舌を口内でかき回し、焦げた味を吟味する。ほんの一昨日の出来事が何年分にもなって積み重なる。
がたん、と音が寝室からなった。暫くして、足を引きずりつつこちらに恐る恐るやってくる音がした。ゆっくりと扉が開く。
「なんでここにいるの?」
不愛想な彼女の顔のおでましだった。学生時代よく見ていた彼女のしかめっつらだ。だが逆に安心する。まだ私の知る彼女の姿であったし、自身の時間に耽溺することができる。思考状態はフラット。やれやれ、と余裕を見せて、彼女にあの頃と同じ笑顔を見せることが出来た。
「君は僕に攫われたんだ」
ぐるんっとひと回転する。もともと彼女の空想は私の専売特許だった。いつしか奪われ、彼女が使いこなし、私から結婚を引き出した。久々の手段だ。それに、彼女がこういう空想が好きだって実はひそかに初めて会った時から知っていた。
案の定、ふふっと笑って、すぐに隠す。
「冗談じゃない。私の家は? どうやってここに。でも、あんたがこんなことするようには思えないし」
「結婚したんだよ」
もう一押しすると彼女の曇った表情は澄み渡る。臥せった目がゆっくりと見開き、私がよく見知った明るい彼女へと変貌する。一瞬にして過去に戻ったり、現在に戻ったりとタイムトラベルを繰り返す。そのさまを見たくて、私は再び意地悪したくなる。
「過去の茜を僕は攫ってきたんだ。結婚するために。プロポーズするために」
すぐに顔に影を差す。私のことを悪いやつか良いやつか見定めている。それは表情ですぐにわかる。茜の感情はすぐにわかる。彼女が見てきたのと同様に私も見ていた。この頃から。ずっと。
「本当は?」
彼女の声は明るい。私を次の言葉で信用しようとしている。
「さあ」
私は一蹴すると、椅子から立ち上がり、彼女に手を差し出した。すると彼女はお決まりのようにその手を掴む。途端、彼女は私の手を引く。体を引き寄せてもう片方の手で頬に手をやる。私の頬に彼女の掌が染みる。温もりも冷たさも混濁したおぼろげな頬の中で、彼女の痕跡を探した。彼女の口からふわりと笑い声が木漏れ日のごとく隙間をぬい私へこぼす。
「私、ちょっと感じてた。一目見た時からこの人と結婚するんじゃないかって。
いいよ、君に攫われてあげる」
ダイニングの橙の灯篭がぼんやりと照っている。ぬめりのある光沢。ちかりと視界の端に光る何かが見えた。よくよくかぎ分けてみたら、外し忘れた結婚指輪が彼女の左薬指にはめてある。思わず私は彼女の指輪へ重ねるように自身の手を差し出す。その手の指には結婚指輪。互いの指輪はかちりとなり、ワイングラスで乾杯するようにかちあった。
「今日は忘れられない日にしてね」
彼女の言葉はあんまりに皮肉染みていて笑みがひきつる。
「忘れさせないよ」
誓いを含ませた。