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退行少女  作者: 千羽稲穂
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十日目と三百十二日前の彼女

 短針と長針がぴったりと真上をさす。私は机の上の白い粒たちを眺めて、かちかちとなる音を待っていた。煩わしいほどになる音は気が滅入る。点滅する視界に気が触れたのかと一瞬思うが、単に自身の瞬きだと遅れて知り、滑稽な自信を笑い飛ばしてしまう。もたげる頭を手で支える。

 昨日の彼女の記憶が私の中に残っている。それは今から半年前の彼女であったし、そうすれば倍となる今日は一年前になるだろう。私と彼女が出会ったのは三年前で、その期日まであと二日とない。

「あれ? 私、確か家に帰った気がするんだけど」

 寝間着姿で起き出した彼女がダイニングにいる私と目が合う。目の前の白い粒を手で払い、隠そうとしたが、もう手遅れで彼女は私の姿を見て立ちすくんだ。

「こんな夜更けにまだ起きてどうしたの?」

 小さな目が細くなり、微笑みを含ませている。が一方で周囲の様子を窺っている。対抗した後はこうして状況を確認する。不自由な足に構わず歩き回り、環境を感じる。その中で暗がりの中灯りをポツンとつけているのは不自然だっただろう。自分のミスだ。

 彼女は自身の目をこすり、その後で目の下に人差し指をさす。

「くまちゃんが住んでるし」

 そうしてひょこひょこと私の袂にやってきて頬に手をやる。白雪を頬にあてているようなふんわりと柔らかい感触がした。すぐに溶けていく。目の前の彼女が白い息に吸い込まれる。赤い紅葉が一枚脳内に落ちていく。赤く染まる脳内のキャンパスは冷たい手でひんやりと癒されていく。

 塗りつぶされたキャンパスの中で昨日の彼女や一昨日の彼女が笑っていた。そうして中央には私と結婚届を出した彼女。ちらりと見える銀の指輪は誇らしげだった。手にはあの時だした結婚届。踏みしめる落ち葉の音に気を取られて、視界をそちらに向けてしまう。が、すぐに見直す。だがそこには私の名前しかない。目の前の彼女達は九人。

「あなた」

 彼女達は同時に私を呼んだ。

 すぐに顔を上げる。時計の秒針はたゆまず歩み続ける。刻み付ける音に耳の奥が恐怖を催す。じわじわと先ほどの夢がせりあがってきて、のどの奥でひゅーひゅーと穴が空いたような音が鳴る。落ち葉を踏みしめる彼女たちの音が未だに耳の傍で鳴り響いているようだった。染み渡る夢の恐怖に過呼吸気味に息を吐いたり吸ったりする。心音が痛い。机に突っ伏し寝てしまっていたらしい。その時間の経過が胸の痛みを通し重しとなって私の重い脳に圧し掛かる。

 もう限界だ。

 嗚咽交じりに声が漏れる。

「ごめん。大丈夫じゃない。もう無理かもしれない」

 瞳に浮かぶ彼女の姿が毎分死んでいく。毎日毎日未来の彼女が消失していく。この景色を何回も、いや彼女は戻っていくのに私は覚えていなければならないのだ。

「俺は何分気絶していた」

 どこにいるか分からない彼女に向かって問いかける。

「ほんの数分」

 ことん、と机にマグカップが置かれた。手にすっぽりと収まる。ココアが入ったカップからは甘い匂いが漂ってくる。同棲していなかったころ、彼女は私がコーヒーではなくココアが好きだと勘違いしていた。そのままの彼女がそこにいることが私にはひしと感じられ、手からマグカップを落としてしまった。けたたましい音が散らばる。私は椅子から立ち上がった。ゆでられ、割られた心の芯は緊張の糸を切ってしまった。

 霞んだ脳内視野に濁流となって襲ってくる感情に腹の底にたまった声がぐるんぐるんと暴れまわりながら口の外へ吐き出される。台風となった声は震えていたり泣いていたり様々であり、言い尽くせないほどの不安や後悔、恐怖が混ざっていた。目の前の彼女が死んでしまう重圧に私は耐えられなかった。脳は澄み切らず夜だと言うのに叫び声をあげてしまう。

 もうやめてくれ。もう死なないでくれ、と叫んでも昨日をかなぐり捨てて今日という昨日へとやってくる。

 ふと声の濁流の中へ茜の秋色づいた鮮やかな色が混ざりこむ。その色はあの日の私のプロポーズと似た色だった。寂しい覚悟の色だ。

「大丈夫」

 彼女の手が再び頬にあてられた。その後背に回り背中から私を抱きしめる。生気のない体温に声は凍らされる。固まった声がのどを突き刺しこれ以上吐き出さないように止める。

「大丈夫だよ、きっと」

 その言葉に突き刺された喉奥の熱がふきだした。温まる吹き溜まりに目が圧迫される。固まった声が溶け出し今度は瞳からしたたり落ちる。豪雨に襲われたように顔が濡れていく。

「大丈夫じゃないさ。だって君は……」

「そうだとしても、大丈夫」

 より強く彼女は私を抱きしめた。顔が背にもたれかかる。ふんわりと柔らかい優しさが私の痛みを緩和する。

「私が忘れたって、茂は覚えていてくれるでしょ」

 背中から彼女の体温ではない熱い何かが感じ取れた。つーっと背中を伝う。それは彼女の瞬き一つでまた一つ落ちている。背中に雨が刻まれる。

「茜、気づいてたんだ」

「さすがにわかるよ。ちょっと老けたでしょ。それにさ、新米らしさが抜けてる。分かるよ。出会った時から毎日見てたんだから。

 私忘れちゃったんだよね。いろいろ大事なこと。もしかしたらさ、それは茂が頑張って私に言ったこととかさ。忘れちゃいけないことがあったんだよね。だからかな、私なんでか起きた時胸の中のつっかえがとれないの。つっかえを意識するとね、自然とこうして涙がでるんだよ。

 だから、大丈夫なんだよ。きっと大丈夫だよ」

 大丈夫と私達は言い合いながら、しばらくそうしていた。だんだん立つのも疲れてきて、床に座り込む。すると互いの鼓動が近しくなり、どくどくと彼女の血脈が間近に聞こえた。部屋に薄明かりが立ち込める。鶏の代わりに大きな鳥が羽ばたく音が外からして、二人して息を潜めて大きな息を吸い吐き始めた。彼女のまつ毛が背中を撫でた。それと同時に私もゆっくりと瞼を閉じた。

 再び暗闇から開けた時には彼女はキッチンに立っていた。フライパンからは焦げた匂い。黒い煙を立ち上らせている。慌てて彼女はコンロのスイッチを切るが、あちゃーという擬音語からもうだめだめなのが見ないでもわかる。体を動かすとかけられていた布団が滑り落ちた。全然気づかなかった。

「あ、おはよー」

 きょとんと彼女を見つめる。

「ご飯もうすぐで出来上がるから待ってて」

 黒こげのベーコンエッグを皿に敷いて、フライパンを流し台に放り込んだ。コーンスープをコップに注いで机に並べた。私はだるい体を起こして椅子を引き、座り、机に並んだ簡素な朝食を眺める。黒く原型をとどめないベーコンに目玉焼きに失敗してぐじゅぐじゅになったスクランブルエッグが添えられている。スクランブルエッグはぼろぼだ。いただきます、と並べられた箸でエッグをつついてみるがぼろぼろと箸をすりぬけ口に運ぶ前に机に落ちてしまう。それがあんまりにおかしくて、箸を音を立てて机に置き、笑ってしまう。

「なんで笑ってるの。最高傑作でしょ」

「うんうん、いつもは俺が作っているからね。茜にしては上出来だ」

「え、作ってたの」

「ちなみに」私は鋭く目で彼女を指さす。「俺は目玉焼きもだしまきも失敗したことがない」

「天才じゃん」

「茜は俺をもっと崇めるべきだったよ」

 部屋に外からの木漏れ日がさす。目をしばたかせて、思考が安定する。コーンスープを飲み干し、心が落ち着くのを感じるとマグカップを置いた。机の上に会った白い粒たちは片付けられており、きれいさっぱりその姿を消していた。

 それから私は彼女に彼女の病状を伝えた。彼女の記憶は日々退行していっていることや、今は一年後の世界だということ。プロポーズのことは伏せて、同棲していたことまで洗いざらい教えた。

「仕事は?」

 彼女が思い出したように聞く。

「職場にはまだ電話していない」

「無断欠席はいけないよ」

「無断欠席とか、久々に聞いたよ。もう大学生じゃないんだって」

 彼女はいろいろ考慮してそれでも何か話そうといつものように変なことを喋り出す。それに私は微笑んで、心を落ち着けた。お互い不安でいっぱいだったのかもしれない。溢れだしそうな不安を二人の受け皿で支えていた。

「まるでタイムトラベルしたみたい」

 あっけらかんと比喩する彼女はしたたかで、物ともしていないみたいだった。

「さしずめ私は茜のタイムトラベラーの添乗員」

「なら、案内してくれない? 添乗員さん」彼女の手が差し出される。白い蛇のような腕に誘われて自然と笑みをこぼしてしまう。

「了解」

 彼女の手を取った。


 彼女の足取りは出会った頃と変わらない。当時、既にこういってはなんだがあのヘンテコな歩き方になっていた。その歩き方の理由をさりげなく聞こうとしたが全て交わされた。巧妙な彼女の口車は不思議な彩をしていて、私が入る余地を消していた。

 そんな彼女の手を握り、歩く。

 秋晴れのすがすがしい散歩日和だ。いつもの公園は紅葉が咲き乱れ、赤さを宿している。その光景は煌々と紅葉が輝いているよう。

「ここは変わらないのね」

 彼女の甘えた瞳が向けられる。既視感がある。私の言葉を待っているのだろう。どのような言葉か、その重みを知っているはずなのに、それ以上を要求してくる。

「ああ、出会ったときのままだ」もちろん私は乗らない。

 暫く私達はそうしてじっくり紅葉を楽しみながら歩いていた。足取りは彼女の足取りをもとに。私は彼女の杖代わりに。

「学生時代を思い出すね」

 ぎゅっと彼女の手が握られる。苦い汁を無理して吸い込んでいる。私はその覚悟を受け取って握り返した。彼女も私ももう既に知っている事実にやんわりと答える。

「大学のキャンパスが広くって。でも私は変に頑固だから、杖を使いたくなくって。こんな足で移動していたっけ。ゆっくり歩いてるもんだから場所取っちゃって、みんなの道をふさいじゃって。いらいらしてた。そこで茂は私に手を差し出してくれた」

 紅葉がざーざーと冷たい風に吹かれて姿を薄れさせる。どんどん木からおっこちていくのを見て少しだけ物悲しくなり、一瞬だけの美を私に写させる世界が残酷に思えて仕方なかった。目を伏せて、残酷さに耐え忍ぶ。そこに写る過去の彼女を胸に秘める。

「最初は私を馬鹿にすんなって思ったんだよ」

 彼女のあっけらかんとした表情を見ないようにした。

「だって、歩くぐらい一人でできるし。私を見下してるって思ってた。ひどいやつだ。同情してる。そんな哀れな目で見んなって……思ってた」

 最初の頃の彼女は意固地さで頑固で心を開かなかった。自分一人でできるって私を払いのけて、いろいろな暴言を吐かれた。私が女の子だから? こんな足だから? とか。笑顔なんて見たことがなかった。いつも口をへの字に曲げて、鋭利な刃物のような目を俺に向けていた。

 ――茜じゃなきゃしてないよ。

 そんな彼女に真実を明かすと、彼女はぼろぼろと泣き始めた。私が何か話すと茜はすぐに泣く。だから私は今の茜の病気を茜自身に打ち明けるつもりはなかった。

「……ありがとう」

 ほら、今も泣かせてしまった。

 彼女の瞳にうっすらと浮かぶ透明な粒たち。反射する紅葉は色濃く映されている。季節が血を流している。体を削り、次々と。

「私、死んじゃうんだね」

「ああ」

「嫌だな。怖いよ。だって、今日の私が明日には死んじゃってて、一週間後にはこの体冴え機能してないかもしれないんだよ。足が動かなくなったときだって怖かったのに」

 足を引きずり彼女は公園のベンチに進む。私は支えて、一緒にベンチに座った。

 ほんの一息ついて彼女は手を私の頬にあてがう。

「冷たい」と私が呟くと「幽霊みたいでしょ」と彼女は意地悪く目を三日月形に細めた。

「うん、茂、ちょっと落ち着いた」

「茜も」

「いままで大変だったでしょ」

「茜が死ぬって思うと気が気でなかったよ」

「だからって職場に休む理由言わないのはだめだよ。もう学生じゃないんでしょ?」

「君が死ぬのを逆算して仕事を休めって? できない。俺は君がいないとどう生きていいか分からない」

「そんなやわじゃないでしょ。この肉食系男子」

 私は彼女にあてられた手をそっと触れた。なめらな彼女の腕を支えて、冬の冷たさを指先から伝わせる。秋が終わるころには彼女がもういないなんて考えられなかった。ここに冷たさがあるのに。

「これから大変だよ」彼女の声色が深刻さを増していく。「この足、自分から傷つけたころに戻るかもしれない」

 初めて聞いた事実に唾を呑む。一語一語忘れないように鼓膜をつぶさにふるわせる。音の振動を肌で感じ取る。

「絶望していたんだ。全てに。だから飛び降りた。足はその時悪くした。茂に会うまで私は自分を生きる死人だと思っていた。ただ残った命の火が消えるのを待つだけの幽霊。大学に上がったら死のうとすら思ってた」

 笑顔が紅葉が茶色く変色するように枯れていく。しわしわに萎れていき、からからに乾いた葉を見せ始める。

 堪らず私は喉の奥につっかえていた言葉を突発的に口に出してしまう。

 ――結婚、しよう。

 はらりと彼女の瞳から涙が伝う。一本筋の小川が頬にひかれ、うっすらと跡を刻み付ける。灯る頬の紅のぬくもりが空気中に漂う。薄桃色の香りがした。

「ありがとう」

 彼女は鞄に視線を移し、私の頬から手を離した。すぐさま鞄に手を掛けるが、私はその手を握り、一歩先を行く。

「結婚届はもう常備しなくてもいいんだ」

 その言葉の意味を知った彼女はひどく傷ついた顔をした。灯った頬のランプが粉々に砕かれる。両手で口をふさぎ「なんてことを」とぼやく。私はそれでもいいんだと抱きしめた。彼女は腕の中でごめんなさい、と何度か言った後、それでも最後にはありがとうと言って、一緒に抱きしめあった。彼女は傷ついたが嬉しくて仕方ないと言ったような表情を示し続けた。世の中を怨み終わるよりも彼女の最後を祝いたくなった。せめて最後くらいは。

 だから、私は次の日もその次の日もこの言葉を彼女へと紡ごうと決めた。

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