七日目と六十四日前の彼女
「記憶退行ですか」
私が上ずった声音で聞くと、目の前の医者はさりげなくうなづいた。その小さなうなづきからは想像できないほどの重要な話をしているというのに医者はどうでもよさそうな顔をしている。医者は白髪交じりの髭を撫でペンで何かを追記する。私は丸椅子に座っていて、背もたれがないためか背中が冷たく、衣服が噴き出た汗でぺったりと張り付いているような気がした。足元がおぼつかない。しっかりと地に足と付け手で膝を抑える。気を抜けばがたがたと足が貧乏ゆすりを起こす。
ええ、と医者は一息入れる。
「最初は物忘れだと思っていたということでしたね」
医者の確認は私の脳内に響き一間置き、浸透する。
「はい。妻は、茜は一日前のことを言いだすものだから何とぼけているんだと、そう二人で笑ってたんです。それが二日目になると今度は二日目のことを言い出して、次の日になるとその前のことを、四日目になると約一週間前のことを」
「今日は何日目ですか」
「おそらく一週間になります」
「では奥さんはおよそ六十四日前の奥さんになっているはずです」
私は声を失った。記憶の沼に沈んだような気分になった。六十四日と言えば、およそ二か月前。その間の彼女との会話や出来事を忘れていることになる。それが私しか覚えていないとなると、まるであの間の出来事は幻のようなものになってしまう。それはその間の私や彼女が死んでいることと同義だろう。
「なんとか……なりませんか」
絞り出した声音がひしゃげている。大きな熱が頭を覆う。
医者のいうことを信じたくはない。だが実際に向き合っているのは私だ。彼女と向き合いひしひしと感じる病状に現実味が帯びていく。ただの物忘れだと思っていた。ここ数日間での幸せな時間が崩れていく。
「認知症をご存知でしょうか」
「ご存知も何も、まだ彼女と私は二十五ですよ。認知症なんて年寄りの病気です。なんでこんなことに」
「それと同じ部類だと思ってください。認知症は若い方でもなります。そういう症例は少なからず存在するのです。いえ、認知症よりももっと病状が重いかもしれません。一般でいう認知症は日によってむらがあり、記憶が鮮明になったり、逆に何もかも忘れてしまったりしますが、奥さんは日を増すごとに前の日の倍の日の記憶が消えていくのだと予想されます。二日前は二日前の、三日目は二日目の倍の四日前までの、四日目は四日目の八日前の記憶を。記憶が退行するのは規則性があるようです。このような症例は世界で数件しかみられておりません。規則性が見られるこのような病名を『記憶退行』と名付けられています」
「その、『記憶退行』とやらは治るんですか」
「残念ながらまだ治療法は確立されていません」
ぐるん、と視界が回った。彼女の笑顔や目の前の深刻そうな医者の表情、そして、私の曇った顔が外界から見受けられる。自身の力が入っていないにもかかわらず、理路整然と私の体は背筋を伸ばし医者に向き合っている。目の前の医者は何の灯を見せず私に現実を突き付けてくる。
「失礼ですが、奥様のご家族は」
「いえ、妻は学生の頃に母を亡くしてからというもの、一人だと聞いています」
「申し訳ないですが、こちらとしても打つ手がない状況でして。この病院におられるよりかはご家族と一緒にいた方がいいと思いまして。奥さんの記憶が退行し、子供に戻るにも、時間はあまりないと推測されます。ですから」
言いにくいことを医者は歯をきつく噛み言おうとしていた。その様子から先ほどの理路整然さは欠けていく。彼は私に最大限の気遣いを行っているのだろう。忘れるとしたら、過去の妻が一緒にいたい人の元にいる方がいい。
「分かりました」
私は医者と同じように苦い飴を舌の上に転がしながら応えた。
病院の待合室で彼女は待っていた。雑誌をぺらぺらめくりながら首をかしげている。その瞳は疑問符が浮かぶ。黒々として彼女の澄んだ瞳に未来の光景が映る。私が今話しかけたら、きっとそれは未来の私がタイムトラベルしてきたように妻は映るかもしれない。
いや、まだ彼女は二か月前の彼女だ。さして変わらないだろう。
私は雑誌に集中する彼女にそっと近づき、その顔を見つめる。外見は今の彼女だ。ふっくらと太ってきた白紅の頬。細い唇。目にはくっきりと縁取る黒のアイシャドウ。弱弱しい肩に手を置けば、彼女はびくっと小動物のように驚いた。振り向く彼女の仕草は通常のそれと変わらない。
「あら、茂。もういいの?」
私はその呼び名に落胆を持ち、恐々と口を開く。
「ああ、行こう」と手を差し出せば、彼女は私の手に手を重ねる。よっこらせっと掛け声とともに彼女が立ちあがる。ガラスのように滑らかな病院の床に立つと、こつっとハイヒールのかかとを鳴らす。その音で床一面にひびが入り、彼女の袂から崩れていくような気がした。冷たい彼女の手がすっぽりと私に収まる。
あったかーい、と笑いつつ私達は病院から逃げ出した。外は一面の赤と黄色の秋ごろもを羽織っている。それが一本道となって目の前に開かれており、私達の道を照らす。ひらひらと私達の足元に一葉の紅葉が落下してきた。あたりはすっかり冬へと向かい佳境になっている。隣の彼女はぼんやりとその紅葉を見つめて、次の瞬間思いっきり踏んだ。ひらりと舞った彼女の薄手のTシャツはこの季節には不似合いだった。香った彼女の匂いは、夏の汗のにおいがした。海の青さや、空の高さがよみがえる。波のさざめきが静かにざわめく。その場所にいた彼女の麦わら帽子とほんのりと日焼けした肌。ぺっとりと張り付いた手と手の温度。そっと私に差し出される手。
頬にしっとりと添えられる。
「大丈夫? 体調が悪ければ病院引き返すよ」と彼女の乾ききった声。
瞬間戻ってくる秋の空間が私の瞳に刺さる。赤い色は目に毒で瞬きしてしまう。
「大丈夫。茜は? 何か悪いとことかない?」
「平気」その割に鳥肌で、寒そうに身を縮こまらせていた。「ただ、」
「ただ?」
「なんだかおかしいの。昨日まではからっからに晴れていて、暑くって、溶けそうだったのに今日はまるで秋みたい。昨日まで夏だったのに知らないうちに秋になってる」
私は何も言えなかった。その場の張り詰めた空気を飲み込んで彼女の手を引き、家へと向かう。ひょこひょこと、彼女は歩きづらそうに足をひきずり進む。私はそれに合わせてゆっくりと進んだ。その間、彼女は「地球温暖化かな」とか「逆か、地球冷凍化」といろいろな面白い単語を編み出していた。
「地球寒気流行」
その単語が編み出され、少しだけふっと微笑んだ。彼女の突飛な想像力には驚かされてばかりいる。これこそ彼女の一つの特徴かもしれない。物を忘れていっても彼女のこれは変わらない。
「そんな流行があったら太陽が仲間外れになるよ」
意地悪にも合の手を入れてみると椋鳥みたくむくむくに顔を膨らませる。その表情は既視感があり、私はまた『茂』と呼ばれた名前を思い出し内心げんなりし、一方で落ち着き払っていた。
「流行したとしても、恥ずかしがり屋の太陽さんは地球さんには合わせない」
「それじゃあ、太陽は地球が好きみたいじゃないか」
「好きなんじゃない?」
したり顔の彼女がこちらに何かを求めてくる。その何かを私はそっけなく振り払い、彼女がしたように落ちてくる紅葉を力強く踏みしめた。道を間違えずに彼女を誘導する。決して私が誘導しないように、私の心に大きな重しをこれ以上増やさないように歩み続けた。
ひょこひょこと茜がこちらへ向かって歩いてくる。手には小さなマグカップ。台所からリビングまでの身近い距離でも彼女の歪な歩みは私の心に不安を掻き立てる。私はマグカップを受け取り、中を覗いた。その光景はここ数日似たような光景であり、私が茜にある重大な告白をしたあの日と一寸違わない動きで構成されていた。
ふと茜の方を見る。私の心のわだかまりが彼女を見て目を細めさせる。彼女の小さなまつ毛一本一本をとらえる。うっそうとした小枝の先は化粧が施されているせいかきらりと輝く。とげとげしたまつ毛の鋭さは私の心を刺す。
マグカップの中身は真っ黒なコーヒーだった。私の息を吹きかけると波紋が揺らぎ、伝わる。
「茜」あの言葉をもう一度言おうとした。
ん? なぁに?
そんな茜に心臓が胸を引き裂き飛び出してくるんじゃないかってほどに、飛び跳ねる。胃液がこみ上げて口から滴りそうだ。どろりとした黄色い塊が口の奥までやってきて舌に触れる。私はその液を唾を飲み込むように丸呑みして、食道へと引き戻した。
「いいや、なんでもない」
コーヒーがつるりとした平面になる。私はそこに口をつけ、舌がやけどするにもかかわらず一気に飲み干す。すっぱさと苦さが混じりあう。その後に迫りくる甘酸っぱいイチジクの味を吟味する。
突然、二か月も進んだ時間を感じない彼女ではない。むしろ、ひしひしと感じる不可思議さに見て見ぬふりをし、自身の動揺を抑えているのだろう。こうしていつも通りマグカップを私に差し出すのもその証拠だろう。日常を味わいここにいることを確かめようとしている。私が動揺させるようなことをこの上言うのはおかしな話だ。彼女には昨日の彼女のことを、昨日の彼女にはそのまた昨日のことを、だから教えられない。病状すら。
ひょこひょこと歩き出す彼女に手を差し出すのは私の役割だった。学生時代と変わらずに二人で歩いている並木道で散歩をする。次の日から私と彼女は仕事続きでこの日のみゆっくりできる。だからゆっくりと休日を過ごしていた。学生時代はこうしてゆっくりできていたのに、いつからか散歩することが少なくなり、二人の間に仕事という秘密の壁で隔たりが出来てしまった。
不安に思った彼女は私にあることを促していた。婚約指をさすり、ちらりちらりとウエディングの雑誌を見せたり話したり。それは隠しているのか見せびらかせているのか分からない割合で示してくるから、私もほとほと呆れてしまって言い出せずにいた。一言でブルーになってしまっていた。彼女もやり始めた手合い、引っ込みがつかなくなってしまい、常に私へと圧力をかけてくる。
ごくり、と唾を飲み込み、秋の並木道を手を握り歩む。隣の彼女も私とともに固唾を呑む。ひらひらと舞い散る枯葉を見て、もうそんな頃合いだなあ、マフラーはまだ早いんじゃない?と手ごろなネタを掴んではふる。枯れていく葉っぱを見て、今日ぐらいしか彼女のことを借りることが出来ないんじゃないかって思うと、ついつい焦ってしまった。彼女の足元に枯葉が行かないよう私が先だって萎れる葉っぱをつぶしていく。
あのさ、と言い出して彼女の瞳がようやくか、とあきれ果てたように瞼を伏せる。
「一緒にこれからも隣にいてくれない?」
茜の冷たい指が私の手を力強く握る。かちん、と婚約指輪が同士が触れあう。銀色の指輪に秋ごろ物赤さが宿っていた。彼女の手から伝い赤く頬が群れて、口を緩ませる。もう片方の手で私の頬へと彼女の手が差し出される。凍てついた私の頬は彼女の冷たさが染み出し、逆に顔が熱っぽくなる。
はい。
澄み渡った彼女の声が脳に響く。とんっと小さく弾けた不安やじれったさの裏に幸せを見つける。彼女の悪戯な手が落ちる。滑るように鞄をごそごそといじった。そこからあるファイルを抜き出して私に見せた。
「ところで、ここに結婚届あるんだけど、このまま役所行っちゃう?」
「なんで結婚届を常備してるんだよ」
これが退行する一日前の出来事だ。とんでもなく幸せだった。突飛なことに次の日も彼女は私にまた散歩に誘うことになる。そして再び同じことを繰り返そうとした。お互い仕事があったにも関わらず不思議に思った私はその日の仕事を休み一日、二日様子を見、そして七日目医者に見せた。
彼女は忘れている。忘れていく。一日なら一日前の。二日なら二日目の。三日なら四日前の。倍に、倍に。私の差し出した手も、言葉も彼女の中でももうないことで、幻で、きっと彼女の中での私はまだ『恋人』なのだろう。
「『あなた』って明日からは言い放題ね」なんて言っていた彼女はいない。「茂」と呼び続け、次第に私のことも忘れてしまう。その日を迎えるにはあと五日とかからないだろう。彼女がこのまま忘れてしまのに八日。それまで一緒にいなければならない。彼女の病気のことを仕事場に話し仕事を休む方がいい。彼女の仕事場にも……
コーヒーの中にぽとん、と雫がこぼれた。彼女の瞳からとめどなく水滴がコーヒーに落ちた。
目をしばたたかせて、泣く彼女を一心に見つめた。どうすればいいのかなぜ彼女が泣いているのか、私には理解できなかった。一昨日も昨日もこんなことはなかった。夏のこの日もきっとこんなことはなかった。あったとしたら私の記憶に刻まれているはずだ。
「ごめんなさい」彼女が発する一音一音に懐かしさを感じる。「なんだか何にも覚えていなくって。ごめんなさい。ぜんぜんなんで泣いているか分からないの。大事なことを忘れているみたいに、胸がぽっかりと空いている」
「大丈夫さ」
「大丈夫じゃない。とっても大切なことだった気がするのに。茂、何か覚えてない?」
ここで覚えていると言ったところで、彼女は戻ってくるのだろうか。
いや、私は今、彼女が死ぬ前提で仕事を休もうとを考えていた私にあの言葉を再び言えるのだろうか。何を考えていたのだろうか。彼女が必死に思い出そうとしているにもかかわらず、私は死ぬまでの距離を必死に考えている。仕事を、お金を、その先を。
「何にもないよ」
コーヒーをごくっと飲み込み、のどに苦みを押し込めた。