9:お食事
「そういやさ」
ちょうどお昼時も過ぎ、客入りもまばらとなった喫茶店。特に温かな日差しの降り注ぐ今日はテラスのほうが人気なのか、エヴァン達が居座る店内には人気が少なく、二人掛けのテーブルの周囲は静かなものだ。
そんな穏やかな景色の中で。
そして食事も一段落した頃。
腹も膨れ、また本当に食事は少なめでも問題ないのか、無事思わぬところで散財することにならずに済みそうだと誰かが密かに胸を撫で下ろした後。
今なら、話を影から聞かれるようなこともない。
そんな静寂の中。
「なにかしら」
口をつけていた珈琲のカップを置き、ティオラスは長い睫毛を数度瞬かせた。
「いや、前に聞きそびれたことを聞いておこうと思って」
「聞きそびれたこと?」
すらりとした人差し指を緩やかに折り曲げて、口元にあてた。自然な仕草なのだろうが、
いちいち様になるのは美人の特権だろうか。
空腹も満たせたからか血色もよくなり、温かみを取り戻した頬が先ほどよりも艶っぽい。
先日のことへと思考を馳せているのだろう、しかし即座に思いつく様子はなかった。
自身が聞きそうなことといえば、簡単に思いつきそうなものなのだが。そう思いながらも、こうして一時でも平凡な時間に浸れているのだろう彼女を見るのは嬉しかった。
だから、少し先を言うのが躊躇われてしまう。散々不安と緊張の中を過ごしてきたのだろう。今はその合間。休息の時。それを邪魔するのは、エヴァンとしても本意ではない。
止めてしまおうか。
今なら適当に誤魔化しも効く。
そんな意気地のない提案がちらりと挙げられる。一筋の光明のようなそれに、思わず目が引かれてしまう。
(いや……)
またいつでも、こんな穏やかな時間を過ごせるようにして見せる。そうするつもりでいるのだ。
だから、今は憎まれ役にだってなってみせよう。
ちょうど、いつかも話を聞こうとしたのは喫茶店でのことだった。同じ店ではない。あそこは三番街手前の高級店。それにあの時は閉店後だったし、なんなら店の外だった。
しかしどこか似た雰囲気を持つ店でもあるからか、どうにも仕切り直しという感じもする。
気分を取り繕うには、ちょうどよかった。
「まあ、こんな席でする話じゃあないかもしれないが、今回を逃すとまた聞けなくなりそうでな」
「……前も言ったと思うけども、あなたが知る必要のあることじゃないの」
そう聞けば、さすがに考えが透けて見えたのだろう。〝どれ〟を聞くのかまでは絞れずとも。
そして彼女はそれらを語りたがらない。そこにエヴァンへの配慮があるのはわかっているが、エヴァンとしてもそう簡単に引く気はない。
「いやあ、ここの会計、誰がするんだっけなあ。自分の分だけ払って帰っちまうかなあ」
「なっ……!」
だから少し、こちらもカードを切ることにした。
とはいえ揶揄いの範囲から抜けきらない、ひどく稚拙なものだ。
……しかし思った以上に効果は覿面だった。
ティオラスは一瞬にしてカッと耳まで赤くしたかと思うと、今度は周囲へと目を走らせ――広い店内の端っこ、カウンターの向こうで新聞を広げる店員を一瞥して、顔をさっと青ざめさせる。
軽いジャブのはずが、切り札並みの威力を発揮するなんて。いったい誰が想像できるだろうか。
予想以上の反応に、エヴァンは目を丸くして眺めるしかできなかった。
正直なところ――面白い。
澄ました顔と、儚げな顔ばかりを見せていた彼女の新しい一面。それはすごく新鮮だった。しかしここまでの反応をされてしまうと、申し訳なさも沸いてくる。
「……いや、冗談だよ」
だから切ったカードもすぐに取り下げることになった。
もう少し眺めているのもよかったかもしれない。そんな未練は心の奥底にしまっておくことにしよう。
「……あまり、揶揄わないでちょうだい……慣れてないの」
「趣味が悪いのは重々自覚してるがなあ、これを慣れさせちまうのももったいないな……」
特に意図したわけではないが、エヴァンの口にした言葉に彼女はまたしても過剰に反応する。もはや才能だろう。揶揄いたい欲求――ちょっとした嗜虐心が掻き立てられる。
おかげでそれなりの覚悟を決めて切り出したはずなのに、そんな空気もどこかに行ってしまった。
ありがたいと思うべきか、それとも誠実さが薄れてしまったと嘆くべきか。
エヴァンはとりあえず場の雰囲気に任せることに決めた。そうすることが一番ということもあるのだと、そう知っているからだ。もう少し揶揄っていたいという欲求がしつこく這い出てこようとしているわけでは断じてない。
「仕方ないわね……変に嗅ぎまわって、彼らに目を付けられるのもなんだし」
「話してくれるか。それは助かる」
まだ焦りの消え切っていない彼女にそう言えば、恨みがましい視線が飛んできた。それをまるで気づかないとばかりに受け流す。
そのまま飄々と、赤くなったり青くなったりで忙しい彼女を眺めていた。
しかしようやく落ち着いた頃、そんな態度を許さないとばかりにティオラスはまとう雰囲気をまるで正反対に――静謐なものへと変えた。
それに気づかないほどエヴァンも鈍感ではない。軽薄な笑みは八割方しまい込んで、真剣さと取り換える。残った二割は余裕として残された。
「だけど、これだけは理解しておいてちょうだい。私は本当に、あなたを巻き込みたくないの。私のことを、友人と言ってくれたあなただから」
少しの揺れも見せない、真っすぐな瞳が向けられる。下手に見つめてしまえば、飲まれそうになる。それほどに深く、それほどに力強い。
それは彼女の誠意だ。
初対面だったエヴァンに、優しい人物なのだと理解させた意思だ。エヴァンが惹かれた、彼女の魅力の一つ。それから目を逸らすなんて選択肢は到底ありはせず、真正面から受け止めた。
「こっちだって、友人だからほっとかないんだよ。あんまりあれなのも嫌われちまうから困ったもんだけどな、一度決めたらしつこいぜ? 俺は」
たまには折れそうにもなるけれど。なんだかんだでしぶとく立ち上がって、そして走り続けてきた。そも、それくらいのしぶとさがなければ今の位置――あの偏屈な教授の支配する研究室に入ることすらできやしない。
その教授に、一度は心を折られかけてしまいもしたが。
根比べはすぐに勝敗がついた。
余裕を残しておいて正解だった。
折れたのは向こうだ。
「……それで、何が聞きたいの?」
敗者であるティオラスは肩を落として、悄然としたさまを見せていた。別に何かを競っていたわけでもないのだが、勝敗が決まってしまった以上権利というものが生まれる。
「ああ、そうだなあ」
自然エヴァンも勝者の特権のように、悠々と質問を選び始めた。
聞きたいことはいくつかある。くだらないことから、重要なことまで。
なら、まずは。
「ティオラスは、なんであんな連中――果ての信奉者だっけ? そいつらに追われてるんだ?」
「……果ての信奉者? 彼女がそう言ったの?」
返ってきたのはやや困惑気味の表情だ。
彼女、というのはエヴァンの師であるアンナのことだろう。エヴァンに何かを吹き込めるのは今のところ彼女だけ。ティオラスもきっとそれを承知している。
「ああ。違ったか?」
「いえ……特に呼び名を持たない集団だったから。そう、そう呼ばれてたの」
どこか感慨深そうに頷く彼女をじっと見守る。質問はもう投げたのだ。あとはもう聞きに回るだけ。
「……それより、彼女から聞いていないの?」
少し待てば、恐る恐るといったほど慎重に、遠いはずの喧騒にすら負けそうなか細い声が対面から届いた。
「え? うん、まあ」
一度だけ、たった一度だけ似たようなことを聞いてみたことがあった。
彼女のことを直接、というわけではないが、件の集団が何を目的に活動しているのかをアンナに問うたのだ。
「無駄なことを考える暇があったら呪文の一つでも覚えろ」
そう、取り付く島もなかったわけだが。
おかげでもっと聞きたいことすら、及び腰になってしまって聞き逃している。
「そう……」
ティオラスはあからさまにほっとした様子を見せた。そうなっては、エヴァンとしては気になって仕方ない。
しかし事が事なため、無理やり聞き出そうというのも気が引けた。
何がなんでも隠したい。そんな思いがこうもわかりやすく見えてしまっては、特に。
それに彼女の味方をするとは決めてしまっているのだ。核心に迫る情報の一つではあったが、必須ではない。そこまで話したくないなら、最悪それでもよかった。
訪れたしばしの沈黙を誤魔化すように、エヴァンは底が近いカップを傾け続けた。
その間に、何かしらの覚悟を決めたのだろう、形のいい唇がゆっくりと開いた。
「単純な話。もともと私は彼らの仲間だった。そんな私が彼らのもとから逃げたのが原因よ……私は、彼らにとって重要な人物だから」
案外すんなり答えてくれたことに、エヴァンは拍子抜けしてしまう。もう少し渋るか、それか沈黙を通すと思っていたのだ。
おそらく重要な部分はまるきりぼかしているのだろう。空白の時間は覚悟を決めるだけでなく、どこまでを話すかを考えていたのだろう。それくらいは理解していた。そして、そこを敢えてほじくろうとも思わない。
エヴァンはエヴァンで、彼女が話せそうなラインを見極めようとする。しかし判断材料が少なすぎて、結局曖昧な、相手に任せるような質問の仕方しか思いつかない。
「それは……危ない感じに?」
「危ない、というのがどういうことを指すのかはわからないけれど、そうね……ただ、重要な役割を担ってもいるし、象徴としてしか見られていない節もある。どちらかといえば、今はまだ後者かしら」
「なるほど、そっち方面か……」
何かに利用されている、なんて方向性でないことにひとまず安堵した。
彼女は連中の仲間――こうして逃げ出した以上、仲間と一括りにしていいのかはわからないが――だった。
そこに驚きはある。
しかしほんの少しだ。
どちらかといえば納得が強い。彼女が異端の技術を持つことは知っている。ならば異端の集団に所属していることも結びつけるのにはわけないし、何より彼女は連中のことに精通している、そう感じさせる言動をしていた。
だから、想定の中の第二候補くらいであった。
「じゃあ、追われてるっていっても命の危険はないのか」
「ええ」
「そいつは安心した」
「……あんなところに戻りたくはないけれどね」
「それは、まあ何とかしないとな」
「……本当にしつこいのね。まだ関わるつもりでいるなんて……また怖い目に合うわよ?」
「それくらい覚悟の上さ。それにな」
余裕ありげに、エヴァンはピンと人差し指を立てる。
「前とは違う。俺もそういう方面に足を踏み入れたんだ、このあいだみたいな無様は晒さないさ」
完全に劣等生扱いされていることは、今は伏せておこう。
ティオラスの胡乱げな視線も、目を瞑ってしまえば無いに等しい。
ただ、音ばかりは耳を塞がなければどうしようもない。これ見よがしな溜息が、エヴァンの心に直接吐きかけられた気がした。
「じゃ、そのためにもう少し話を聞いておこうかな」
「まだ、何か聞くことでも?」
「あるさ。連中のそもそもの目的とか、何をやってる集団なのかとか――前は答えてもらえなかったけど、あの化け物の正体とか」
あんな化け物を使役してまであいつらは何をしようというのか。ある意味、これが一番重要な問題だ。それに、エヴァンの想像が正しければ、あれはそもそも――
「一つずつお願いね。こっちも考える時間が欲しいから」
「隠す気満々だな」
「不要なことは省くだけよ」
彼女も調子を取り戻してきたのか、言葉に余裕が乗り始めた。先の勝敗はすでに無かったことになったらしい。
再びじっとりとした睨み合いが繰り広げられる裏で、エヴァンは思案する。
ランチタイムを過ぎた今だからこそこうも人気が少ないわけだが、ティータイムにでもなればそうもいかない。場所を変えれば済む話ではあるが、素直についてきてくれるかどうか。
また逃げられでもしたらかなわない。
一つ一つの機会は大事にするべきだ。
できるだけ知りたいことを。できるだけ隠されないようなことを。それを選別する。
それにはやはり判断材料が足りない。しかし、彼女自身のことを聞くよりはよっぽど気が楽だ。
「じゃあ、あいつらはそもそもどんな集まりなんだ? 何をしようとしてる?」
「漠然としてるわね。ただ、そうね。一言で言うなら宗教家と、その信者の集まりよ」
宗教。確かに格好はわからないでもなかったが、それでもエヴァンが想像する優しそうな神父やシスターとイメージがかけ離れすぎている。
ただ、納得も早い。
アンナが〝信奉者〟と評したのだからそういったものなのだろうとはぼんやりと理解していたのだ。
エヴァンが彼女の言葉を咀嚼していると、ティオラスは「そして」と、一度言葉を切った。
言うべきかを迷っている。口にしたくない、というより言葉を選んでいる。そう感じる。
「そして、何をしようとしているか、ね」
困ったように額にしわを作る。
「革命か? 世界征服か? いや、宗教家ってんなら宗教戦争でも起こそうってか?」
だから続きを促すように、エヴァン自身が思いつく例を挙げる。適当なものだが、どれもあながちありそうだと考えたものだ。
「いいえ、そんな小さなことじゃないわ」
しかしはっきりと否定される。それも、小さいとすら付け加えられて。
「……小さくはないと思うがね」
「小さいわ。彼らが望むのは、この地球という星すら小さな足場でしかないのだもの」
「それは、規模の大きな話なことで」
まさか宇宙規模の野望があるとは。それを知らされてしまえば確かにエヴァンの想像とはスケール差がありすぎる。
それがどんなものなのかと改めて想像を巡らせてみるも、エヴァンには到底思いつかなかった。
「彼らは、彼らにとっての神様のもとにかえりたいのよ」
「は? 神様って……あの神様?」
「想像しているようなものとは違うでしょうね。ただ、それはいいのよ。考えるだけ無駄。いえ、想像すらしないほうがいい」
「ふうん」
頭に思い浮かんだ宗教画や彫刻などのイメージを、エヴァンはなんとなしに消し去った。
「彼らにとって私たちはみんな星の一部。その星は宇宙の一部、そして宇宙そのものはその神様の一部なのよ」
宇宙の起源。そこに宗教を当てはめるのは、そうおかしなことではない。今でこそ科学が発展し、あらゆる自然現象――それこそ星や宇宙の誕生にも論理的な解釈を与えることが可能になりつつあるが、観測技術が未成熟だった過去においてはそれも難しかった。
「だから彼らの目的は星々の中心、ソラの始まりにまで帰ること。始源そのものである神様のもとへ還ることなの」
「……つまり、宇宙船でも作ってみんなでお空の旅でもしようってのか? そんなの、やりたいようにさせときゃいいんじゃないか」
「地球も丸ごとも巻き込まれちゃうけど、いいの?」
想像はとうに超え、告げられる言葉への理解も超えつつある中で編み出した予想は、またしても斜め上な答えに踏みつぶされる。
「……それは困るな」
「でしょう。彼らがしようとしてるのは、宇宙の中心を目指すんじゃなくて、広がり続ける宇宙を無理やり縮めようってことなの」
「なんだ、連中オカルティストじゃなくてマッドだったのか。あれだろ? 宇宙は膨張してるってやつ。だとしてもどういうこったよ。時間でも巻き戻そうってのか」
「いいえ。もっと乱暴に」
彼女はゆっくりと首を横に振る。
「今の宇宙の在り方を広げた布だとすると、それを畳んで縛って一まとめにしようってところかしら」
「そんなこと、できるのか?」
「それに近いことはできるわ」
「うっそだろ」
流石に絶句する。ぽかんと開いた口もそのままだ。
「まあ、彼らの力では無理ね。だから自分たち以外の手を……彼らの神様たちの手を借りるの」
「…………神様、ねえ」
神様。
エヴァンが知る限り、どの時代もどこの地域でも、信仰されてきた存在はなかなかに自由な存在だ。だが、世界そのものを滅ぼしかねないことに手を貸すようなものは、そうはいなかった。いたとしても、それを防ごうとする、対となるようなものもいる。
だから、あまり現実的なものとは思えない。
そもそも、突飛な話である以上現実的も何もないのだが。
「なら、ティオラスはそれに賛同できなくて連中のもとから逃げ出してきたと」
「そうね」
一瞬の迷いもない返答に、エヴァンは胸を撫で下ろす。一方で、何かしらの重要な役割を持っているらしいことを思うと、安堵ばかりもしていられない。
彼女の話すすべてを信じるには、さすがにエヴァンは常識から抜けきっていない。
狂信者たちの誇大妄想と考えたほうが、より納得がいく。
しかしティオラスのことは信じている。そして、どんな結果をもたらす企みだとしても悪巧みであることに変わりはない。そこに彼女を関わらせたくはない。
ティオラスを連中から遠ざける理由がまた一つ増えてしまった。
「……なるほどね」
「自分で言うのもなんだけど、信じるの?」
「頭ごなしに否定はしないさ。まあ、信じたくはないけれど」
「それでいいのよ。こういう話は、知らないほうがいいことのほうが多いの」
「それがそうも言ってられなくてね」
ティオラスがどれだけエヴァンを邪悪な意思から遠ざけようとしても、エヴァンは自らそれらを知らなければいけない、学ばなければいけない立場に立っている。そして、そこから降りるつもりもない。
「これも、ずっと気になってたんだけどさ」
だから、エヴァンはもう一つ聞きたいことを、それもおそらく知れば痛みを伴うだろう一つの事実を聞くことも厭わない。
葛藤があった。
このまま知らないままにしておくのが良いのだと。それを認めないまま本当に前を向けるのかと。
「……あの化け物、本当は人間だったりしないか?」
あの雨の日に撃ち殺した化け物。
はじめこそ人の形をしていたが、一度変化を見せれば体は何倍にも膨れ上がり、膂力は人外のそれとなり、そして自己意識すら持たない異形の存在。
「どうして、そう思ったの?」
しかし、あの日のティオラスの言葉に、ほんの少しの違和感を抱えてしまったのだ。
『自由意志が摩耗してしまっている』
それは、以前は存在したということでは?
もともと、意思を持つ人外の存在だった、という可能性も十分ある。しかしわざわざ人の形をとって見せたことがどうにも頭を離れない。
「いや、ただの勘さ。これといって確信はない」
「やっかいな勘ね。想像力が豊かなのはいいことばかりじゃないみたい」
「……それじゃあ」
「……半分正解で、半分外れ。あれは確かにもともとは人間だった。でも、今はもう完全に化け物よ」
(ああ。やっぱり)
嫌な想像は当たってしまうものだ。
たとえ、それがもう人間と呼べない存在だったとしても、エヴァンは一人の人間の命を奪ったわけだ。
(まったく、嫌になる)
晴れて自分は人殺しだ。
しかし、かえって気が楽になった。ずっと刺さっていた棘が抜けたような、そんな気分だ。傷口は痛む。それでも邪魔な錘がなくなった。
想像以上に、人殺しという現実をすんなりと受け入れてしまっていた。
それは散々悩み続け、そして自分である程度の答えを出していたからだろうか。相手が人外の姿をとっていたからだろうか。もう人間ではないのだとお墨付きをもらったからだろうか。
(いや、違う)
ぐるぐるとした思考の端で、ぼんやりと正面に座るティオラスの顔を映し出した。
気高く、美しく、可愛らしく。
そして寂しげな人。
彼女の味方をすると決めたから。
もし、次があったとしても。
その時もエヴァンは、躊躇なく引き金を引く。そう覚悟しているからだ。
本当に、自分は薄情な人間だ。
思わず口の端が動いてしまうのをエヴァンは感じていた。自嘲気に歪められたそれを見て、ティオラスが怪訝そうな顔を浮かべる。
しかしそれに、どちらも何も言わない。
「まあ、いいわ。それと、もう一つの意味でも半分だけ正解ね」
「……もう一つ?」
「そう。彼らは文字通り半分だけ人間なの。いえ、比率でいえば……人間の部分のほうが多かったはずなのだけれど。時間が経てばそれも逆転してしまうのでしょうね」
「なんか、寄生虫にでも侵されたみたいな言い草だな。うじゃうじゃ体の中で増殖していくやつ」
「イメージとしては間違っていないわ。人の体に別の生き物の死骸が埋め込まれてできたのが、あの怪物なの」
うげえ。
声に出さずとも、顔が歪むのを止められない。
しかし、身体にあんな変化をもたらす生き物の存在はエヴァンは知らない。
生物学的知識も、少なくはないはずなのだが。よっぽどのマイナーな種、あるいは細かく分類した中での生物ならまだしも、それほど特異な能力を持った生き物を知らないというのは珍しい。
「その生き物――ショゴスは大昔に異星人に作られた生き物でね。現行生命すべての起源となったとも言われてるの」
「ああ、そっち系ね」
ただそれが常識外の話であれば別だ。
そちらの方面はまだ不勉強なのだ。
「それにしてもなんでそんなものを……組み込んだんだよ。そのショゴスってのを直接飼いならせばよかったんじゃないか? 絶滅でもしたのか?」
「絶滅はしていないわ。ただ、そう簡単に手に入る存在じゃない。しかも力も大きいし、最悪飼い主が噛みつかれることになる」
「そうなってくれれば、楽でよかったんだがな」
「本当にね」
自滅してくれれば話は早い。後処理が大変かもしれないが、暗躍されるよりはよっぽど楽だろう。
「結局、人間を使うのが一番安全なのよ。御しやすい上に対価も何も必要としない。ネックとなるのがその能力の低さだけど、ああやって他所から補ってやれば問題ない。人間をベースにした以上能力低下は避けられないけれど、それでも恐れを知らない強力な兵士が出来上がる」
「冒涜って言葉を知ってるのかね、連中は。仮にも宗教家だろうに」
「目的のためならどうでもいいのよ」
目的。
それは宇宙の中心、すべての始まりである神様のもとへ還ること、だったか。
「それに、ショゴスと一つになるということは神のもとに還る一環、そう教えられていたからね、彼らは喜んで受け入れたわ」
「なんでそうなるのか、俺にはわからんな」
「こじつけなのよ。すべての始まりが彼らの神なら、人間――生命の原初に還るのはその第一歩なの。彼らにとってはね」
「狂ってんな」
「本当は、指導者たちが都合のいい駒を欲しがっていただけなのにね」
「腐ってもいるのか」
もう、乾いた笑いしか出てこない。
平気で騙すほうも、嬉々として騙されるほうも狂っている。
救いようがない。
そんなもののために、エヴァンは悩まされていたのだ。そしてどれだけ覚悟を決めたところで、これからも悩まされるのだ。
いっそ、純粋な化け物であったならどれだけ気が楽だったことか。
「――んじゃ、次だ」
話を切り替えるようにわざと声色を明るくしてみれば、力ない溜息が返ってきた。
「私としては、もう諦めているけれど……いいの?」
何が? そう口が開きかけたところで、彼女の意図がわかった。
人だ。
ドアベルが涼やかな音を立てる。入店した客は店員と一言二言やりとりをし、そのまま席に着く。選んだのは店内だった。
壁時計に目を向けると、そろそろ三時になる。エヴァンたちが入店してから既に二時間近く経とうとしている。この時間帯からは、また人も増え始めるだろう。
「あー、場所、変えようか」
「ええ。構わないわ。いつまでも店に居座るのもどうかと思うし」
テーブルの皿も、カップも。もうどちらもが空だ。
「……それで、その」
「なんだ?」
いざ席を立とう。そのタイミングで、ティオラスが何かを口ごもる。手をしきりに遊ばせ、落ち着かない様子でそわそわと身を揺らす。あまり見ないその姿に、エヴァンは何事かと彼女を見やる。
すると、不安げに、そして上目遣いに震えた瞳と目が合った。
「ほ、本当にお金は払ってくれるのよね?」
「……なんか、ごめんな?」
思わぬ発見、新たな一面というものを見るのは楽しいし、喜ばしいことだ。しかししばらくは彼女を揶揄うのは控えめにしておこう。
エヴァンは一人苦笑のような、申し訳なさを浮かべたような、そんな変な顔をする羽目になった。




