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月に惑う愚者  作者: 南天
8/20

8:真昼に見た月



 差し込む陽光に目を開けた。


(……しまった)


 いつの間にか眠ってしまっていたらしい。

 突っ伏した机から顔を上げる。枕にしていたノートが数ページ先までしわになっていた。

 幸い借り物の学術書は机の隅に追いやられていて無事だ。あれに涎でも垂らしていたら目も当てられない。


 時計にゆっくりと目をやると、まだ午前の早い時間だった。講義にはまだまだ余裕が――


「ああ、休日だったか」



 ***



「どんな感じですか、あいつは」


 講義などないというのに、考古文化人類学研究室には何人もの学生がいた。しかし皆各々の研究に没頭し、会話など無いに等しい。今も同フロアの他研究室からは若干の話し声が聞こえるというのに、こちらは皆無だ。


 だから、唐突な男性の声は学習室にはよく響いた。

 デール・フリントン。件の人物の――一応友人関係にある男はこの研究室の主と向かい合っていた。


「ああ、基礎の基礎もままならない。本当に才能が――感受性、親和性がないな」


 もっとも、片や安楽椅子に座り紙束を眺め、片やその紙面に書かれた長ったらしい文章の評価が貰えるまで立ったままという、上下関係のはっきりとした形ではあったが。


「……以前も、そう言ってましたものね。だからこそ、驚きです。またあいつと轡を並べることになるとは」

「当分先のことだよ」

「それでもです」

「事情が変わらなければあのまま追い出していたさ。そちらのほうがあれにとっても幸せだっただろう」

「組み立てた人生のプランが崩されるというのはなかなかに厳しいと思いますが」

「精神性から崩れててしまうよりはましだろう」

「それは、そうかもしれませんが」


 無感動で無感情な会話だ。

 他生徒も、誰一人関心も向けない。

 しかし。


 紙面に目を落としていた教授――アンナは顔を上げた。人形のように、色も温度も碌に感じられない顔。しかし今ばかりは微小な笑み、それも意地の悪そうな笑みが薄っすらと垣間見える。


「やけに食い下がるな。なんだ、嬉しいのか」

「懐かしいと思っただけですよ」

「形だけならついこの前までだって同輩だっただろうに」

「学ぶものが違えば、溝は埋まれます」


 デールは僅かに視線を横にずらす。そこには他者と一切のコミュニケーションをとらない、同研究室のメンバーがいる。

 幾つも年上の院生や、外からの研究生。そしてデールの同期。それら全員が各々机や本棚に噛り付く。外の部屋では実験に勤しむものもいるだろう。そこには年齢という差以前の、不可侵の壁があるように見えた。

 真面目に学業に取り組んでいる。そう言葉を取り繕うのは容易い。しかし、その程度で片づけるにはあまりにも室内の空気が重い。


「まあ、あまり変わらないかもしれませんが」


 彼らは何も仲良くお勉強をするために集まっているわけではない。単純に師がいるから、あるいは参考となる文献が山のようにあるからわざわざ休日にまで大学に出向いているのだ。


 それでも、特別仲が悪いというわけではない。単に互いに忙しく、得意分野が異なり、そして談笑にふけるほど精神的に柔軟ではない。それが彼らの関係をここまで無味乾燥としたものに引き下げている。


 一言でいえば、余裕がないのだ。

 そしてその最たる原因は、最後の一つ。



 彼らが学ぶのは人外の法。

 それを理解し、そして扱うということは己をまた人ならざるものへと近づける行為に他ならない。

 どれだけ言葉の上で覚悟を決めようと、精神の奥深くまでを浸透し犯そうとするそれを平然と受け入れられるものなどそういやしない。皆無意識的に拒絶を選び、それゆえに外法と向かい合う際には精神を固く閉ざす。

 いずれ耐性ができればそれもなくなるのだろうが、その頃には精神性ががらりと変化していることなどザラにある。

 どちらにせよ、対人関係というものへ割く意識はなかなか持ちえない。


 あるがままに飲み下せるのはそれこそほとんどが生まれから常と異なる者や、既に狂ってしまった者たちくらい。


 そういう意味でいけば、やはり件の学生――エヴァンには才能があるのだろう。

 生まれはただの人間。多少の波乱はあれど、先日まで魔術的教育も、そして人外の起こす怪異に巻き込まれたという経験もなし。狂人というには平穏に満足し、そして享受しすぎている。

 だというのに、これまで人間が積み上げてきた常識という精神の基盤を根本から揺るがす知識を植え付けられても、気味が悪いと多少顔をしかめる程度でやり過ごす。


「似てるようで、正反対だったな、お前たちは。あいつは外法に対しておそろしく鈍感で、一方でお前は過剰なほどに敏感だ」

「……似てましたか」

「似ていたよ。頭の出来や趣味趣向などな。お前たちのような軽薄な男が二人もうちに来るのかと、当時は驚いたものだよ」

「軽薄というのは、少し心外です」


 そうデールがささやかな否定をすれば、今度こそアンナの笑みは目で捉えられるほどになった。


「そうだったな。薄っぺらい取り繕いをしているところもよく似ている」

「……」


 空気が死んだ。

 いや、もともと死んでいたものが更に枯れ果てた。


「お前もやはり、難儀なやつだ。届くはずのない結末に手を伸ばし続けるなど」


 アンナは続ける。

 デールが目指す道を、その目的を、その到達点を、無駄なものだと切り捨てる。

 無言の奥にどんな意思を持っているのか、くたびれた顔の裏にどんな過去を持っているのか、それを知った上で彼女はデールの願いを嘲笑った。


「諦めは、まだつかないのか」


 それは、どんな心情によるものか。

 単純な侮蔑だろうか。揶揄いだろうか。それとももっと別の何かだろうか。

 無愛想な男と睨み合うアンナの顔には、僅かに吊り上がった口角以外に見て取れるものがない。感情を読めるものがない。

 表情がない。


「……いいんですよ、俺のことは」


 睨み合いは長くは続かなかった。アンナも「そうか」と小さく残した後は、再び手元の紙束に視線を戻した。


「……なんだかんだで優しいですよね、あなたは」


 それに、彼女は答えない。おかげで独り言の様なものになってしまった。

 話し声は、また皆無となった。

 紙を捲る音と筆を走らせる音。たまに足を組みなおしたり机や椅子の軋む音以外、何も聞こえない。


 そんな息の詰まりそうな静寂の中で、デールは小さく溜息をこぼした。



 ***



 休日。

 やっとの休日。

 増える一方の課題も今日ばかりは頭の片隅に追いやった。今日は休むと決めたのだ。別のことに一日時間を使うと決めたのだ。


 しかし寝ぼけ頭が冴え渡る頃には朝食に適した時間はとっくに去っていた。

 そして昼食は外で摂ろうと、普段大学に向かうのとは趣の違うカジュアルな服に着替え、いくつかのアクセサリーを身に着け、コートに袖を通した頃には日は天高く昇っていた。


 急がねば家を出るまでに日が沈んでしまう。

 そう自身をせっつかせて、エヴァンは賑わいを見せるアイビッドの街中へと身を躍らせた。



「どうせなら、一番街にでも行くか」


 肌寒い気温。しかし真昼の温かい日差しが降り注ぐ街並みは穏やかな光景を作り出していた。

 休日だからか無用に急ぐものもおらず、ゆったりとした時の流れを肌に感じる。街中を歩く時も、停留所で路面電車を待つときも、ぼうっと街並みを眺め続けていたが、どこもそれは変わらない。


 好ましいと思う。


 最近は本当に忙しく、そしてあらゆる律から外れる非日常だったせいか余計にそう思う。

 それこそ夢のような――楽しいという意味ではなく、むしろ精神が汚染される悪夢のような、と言うべきだが――毎日だったのだ。

 だから、目の前にあるいつも通りの平凡な世界は荒みかけたエヴァンの精神に対する癒しとなっていた。


 しかし、心の片隅、その深いところまで根を張らせたとある懸念が、いつも通りでしかない光景に少しばかり落胆させてもいた。


 見慣れた光景。目を瞑ってでも容易に頭の中に思い浮かべられるような近所の景色も、改めてじっくりと視界に収める。それでも、目的のものは見つからない。




 路面電車に揺られることしばらく。

 騒がしい電動機や車輪の音に負けないくらいの賑わいが窓越しにも感じられるようになった頃。一番街の端っこ付近でエヴァンは降車した。そのまま都市の中心部まで行くのだろう電車を見送って、また歩き出す。


 まずは昼食でも摂ろう。そうぼんやりと目標を定めてはいたのだが、立ち並ぶ飲食店にそっと視線を向けるだけで足を向けることはない。そのままぶらぶらと歩きまわっているうちに、気付けば繁華街から少し外れた小さな広場に出てしまった。


 今は役割を持たない街灯に囲まれた円状の空間。申し訳程度の色味のない花壇とベンチ。

 中心には噴水があり、そこにもやはりベンチが円状に配置されている。

 お昼時だからか、広場にはたくさんの人がいる。そして彼らをターゲットとした屋台や露店があちこちで客の呼び込みをしている。

 憩いの場であるはずの広場、公園とはいえ、人がこれほどまで集まれば静けさは遠ざかってしまう。街中と大して変わらず、エヴァンは早々に通り抜けてしまうことにした。



 開けた空間であるせいか、天から降り注ぐ日差しが余計に眩しくなる。人ごみの中ということもあるのだろうが、もう冬も間近だというのにコートの下が少し暑い。風も吹かないせいで尚更だ。


 少しでも涼しさをと。視覚だけでも冷涼感が欲しいと、エヴァンは広場の中心に目をやった。

 爽やかに水を撒く噴水にそれを求めたのだ。



「あ……」


 しかし、エヴァンの目は吹き上がる水よりも、その受け皿の水の流れにも留まらない。

 鬱陶しく思い始めていた暑さも、思考の中から弾き出されてしまった。


 陽光に照らされ、煌びやかに輝く金の色。

 かつての夜に見たときより幾分鮮やかに見えるが、見間違えはしない。


 こんなところで。

 こんな時に見つけるとは。


 人の山の真っただ中。

 しかし人の壁の内側と、ある意味で外からは最も目立たない位置なのかもしれない。


 なんとなく裏をかかれた、そんな気分になって、エヴァンは思わず苦笑を浮かべる。

 しかし悔しさなんて面倒くさい感情は浮かばない。ただの安堵と、そして僅かばかりの高揚が胸中を占めていた。




 混雑した広場を横断しようとしていた足が、くるりと向きを変える。行先は当然中心。屋台の軽食を手にふらふらと歩く通行人にぶつからないようにすり抜けていく。


 途中、彼女の顔がこちらに向いた。

 美麗な顔は変わらず。しかし、少しやつれたようにも見える。

 アメジストの瞳が何かを捉えた。その視線の先を思えば、勘違いでもない限りその正体もわかるというものだが、表情が少しばかり歪められたのを見てしまってはどうにもそれを否定したくなる。それも、逸らされた顔に確かめる術を失ってしまったが。


 ようやく人の波を抜け、凪いだ中心部へと踏み入れた。

 不思議なほどに静かだ。彼女以外誰もいない、なんてことは当然なく、周辺のベンチには何人かが休憩中だし、立ち話に興じる婦人方もそこかしこに目立つ。

 ただ、ほんの少しだけスペースが空き、そこにポツンと置かれた簡素なベンチ、その端っこに彼女が――ティオラスが座っている。


「よう」


 そして、少しの尻込みを飲み込んで、エヴァンは背けられた顔に声をかけた。


「……! ……何か」


 一度だけ驚いた顔を振り向かせて。そうして目も合った。すぐにそっと外されたが。


「いやなに、休日に一人っきりてのが寂しくてね、声をかけてみただけさ」

「……そう。なら他をあたって」

「つれないね」

「そう? 見ず知らずの女性にいきなり声をかけるような男に対する返答なんて、だいたいこんなものだと思うのだけれど」

「それは失礼。でも、見ず知らずっていうのちょっとひどくないか」

「私と君は初対面のはずだけれど」

「おかしいな。面識はあるはずだけど」

「……嘘を言わないで」

「本当さ。まあ、こっちはあの時酔っ払いだったわけだけど……しっかり覚えてるよ」


 おどけて見せれば、対照的に彼女は肩を僅かに震わせた。


「……そんな、はず」


 そして、見開かれた瞳が今度こそしっかりとエヴァンを捉えた。


「……悪い。少しいじめすぎた。でもそっちだって悪いんだぜ? いきなり人の記憶飛ばしちまうんだから」

「……本当に」


 形のいい唇から、震えた声が紡がれる。

 言葉の意味を読み取って、ティオラスは一度瞑目した。


「本当に、覚えてるのね」


 そして、再び目が開かれたときにはそれも消えてなくなっていた。代わりに訪れたのは冷涼な雰囲気で、日差しもどこか弱まった気がした。

 ……なんということはない。日が陰っただけだ。


「よければ聞かせて頂戴。どうして覚えているの。どうやって思い出したの。あなたの記憶はしっかりと鍵をかけたはずなのだけれど」


 もはや睨み付けられるほどに鋭くなった視線を真正面に受けながら、エヴァンはきまりが悪そうに頬をかく。


「まあ、なんというかなあ。思い出したというか、思い出させられたというか」

「それは、誰に……?」


 一層圧が強くなる。

 苦笑を浮かべるように、口の端が歪んだ。


「そう怖い顔しないでくれよ。美人に睨まれると怖いんだ……悪い人じゃあないさ。うちの大学の教授だよ……いや、悪い人なのか?」


 性格は。

 思わずこぼれ掛けた本音も届いたのか届かなかったのか。

 彼女のまとう冷たい雰囲気が和らいだ。


「大学……? そういうこと」


 代わりに、どこかもの悲しさを感じさせる吐息をこぼした。


「知ってるのか?」

「……有名よ」

「へえ」

「へえって……」


 アンナ・フォーラスという女性は有名と言えば有名だ。しかしエヴァンにとってのそれは学内での話。学外――というよりも、ティオラスが指すのはいわゆる裏の世界というやつの中での有名という意味なのだろう。

 そのことに驚きは……やはりない。だから、気の抜けた生返事なのだ。


「それにしても、こんな昼間に見つけられるとはな。失敗したよ」

「……もしかして、私のこと探していたの?」

「そりゃあね。あんな派手なことに巻き込まれちまえば、心配もするだろう。もうアイビッドから出て行っちまったのかと思うくらいには探したよ」


「おかげで最近は寝不足だ」そう、目の下を凝りでも落とすようにこれ見よがしと揉み解す。


「……謝罪はしないわ」

「貰う気もないよ」


 エヴァンが鼻で笑い飛ばせば、彼女はそっぽを向いてしまった。


「いや、本気でもうどこか別の街にでも行っちまったものかと思ってたんだけどな。出ていくほうが正しい判断にも思えるし」

「どこに行ったって変わらないわ。それに……」

「それに?」

「……どこに行けばいいのかも、わからないんだもの」


 そう小さく呟いて、ティオラスは目を伏せた。


「……隣、いいか?」

「……どうぞ」


 目を伏せたままの彼女の隣に腰を下ろす。

 三人座れればいいほうだろう、そんな狭いベンチの中で少しの距離を開けて座れば、自分で開けたはずの距離がそのまま彼女とそれ以外にできた溝に思えた。


 性別はともかく。体が触れ合うほどに距離を詰める間柄でもない。

 彼女には、それが許される誰かがいるのだろうか。家族でも、友人でも。それが許される誰かがいるのだろうか。

 ふと、そんなことが頭に浮かんだ。



 彼女もおそらくはここアイビッドの生まれなのだろう。たいていはそうだ。大多数のアイビッド市民はこの街で生まれ、そして育ってきた。


 以前アンナは鉄道などの移動手段の発達によって世界が広がったと言った。

 確かに短時間で、そして命の危険性もなく長距離移動が可能な鉄道の存在は、生まれた地に縛らるという常識を変えたことだろう。

 人類は望む世界へ移るという選択肢を手に入れたのだ。


 だが、それでも大抵の人間は故郷から離れず、その地で育ち、その地に骨を埋める。そんな選択を取ることがいまだに多い。出稼ぎにと外に出向いたとしても、晩年には故郷に帰る。そんな話もよく聞く。


 昔ながらに所有する土地や、慣れ親しんだ文化。単純に愛着。そして何より、その地に住まう家族や友人という存在が新たな一歩を踏み出すのを躊躇わせる。


 一時期、それこそ産業に革命が起こり、多くの人手が都市へと流入した時代こそあった。

 しかしそれももうずいぶんと落ち着いた。

 アイビッド外からの流入者によって作られた移民街――当時は文化の違いから危険だの不潔だのと忌避されていた地も、今ではすっかり都市の一部だ。


 田舎から都市に移り住む時代は過ぎ、ビジネス的な用途以外はせいぜいが休暇中の旅行など一時的な移動にしか鉄道が用いられることは多くない。



 広がった世界。しかし人は自ら殻に閉じこもる。一歩が踏み出せない。


 彼女もまた、足踏みしていた。逃げ出せずにいた。


 アイビッドの外には親族や友人もいないのだろう。頼る人が、いないのだろう。

 その上彼女は、きっと故郷であるはずのこの都市でも一人なのだ。


 どこにも逃げる場所がないのだ。



 勝手な想像だ。失礼な思い込みかもしれない。

 それでもやはり、触れることすらない肩から感じる彼女の寂し気な空気は。

 一人足掻こうとしている無謀で、逞しく、そしてどこまでも儚い様は。

 それはいつかの誰かに似ている。そんな気がした。



「……なんだ、やっぱり迷子か」

「……どうしてそうなるの」

「いや、何でもないよ。こっちの話」


 帰るところすらない、どうしようにもない迷子。迎えに来てくれる誰かも、手を引いてくれる柔らかな手のひらも、どこにもない。




「――それよりさ、昼飯食いに来たんだよ。一緒にどうだ?」

「え?」


 急な話の転換に、ティオラスの顔がぱっとこちらを向いた。気の抜けた声がどうにも可愛らしかった。


「昼飯。朝はなんだかんだで食いそびれちまってさ、腹減ってるんだ」

「……食事、か」


 どこか遠くを見ながら、思案気に呟いた。


「やっぱ、嫌か?」

「いいえ。久しぶりって思ってただけ」

「久しぶり?」

「ちょうどあなたと会った日から、摂ってないもの」

「は?」


 そうして何てこともないように。しかしエヴァンの度肝を抜かすようなことを平然と口にした。

 今度はエヴァンが間抜けな声を上げる番だ。


「え……今まで飯食ってなかった、だって?」

「少しくらい食べなくても平気だから」

「少しって期間じゃないだろ! 一週間以上は経ってるぞ!?」

「問題ないわ」

「頑丈だなあおい」

「でも、その、お腹は空いているから……できれば……」


 それを聞いて、座ったばかりだというのにエヴァンは再び腰を上げた。


「じゃあ行こうぜ。早急に。せっかくスタイルもいいってのにガリガリにでもなっちまったらもったいない」

「でも私、お金がっ……」

「いいよ、それくらいなら払うから。ほら、行こうぜ」

「あ……」


 そうして、彼女の手を取った。


 小さな手だ。柔らかな手だ。温かくて、しかし孤独という冷たさに悩まされた、儚げな手。


 これからは、自分がこの手を取り続けよう。

 エヴァンは一人、胸の内で誓いを立てた。


 本気で嫌がられない程度には。

 そう、情けない条件が付け加えられていたが。




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