6:背後でのこと
周囲を見回す。
煌びやかな街の光の中。
ささやかな街灯の下。
影の濃い路地裏の隅。
足を向けた全てで、同じように視線を走らせる。
だが、そこにあるのは仕事帰りの疲れた顔や、夜遊びに繰り出すのだろう、陽気な学生たち。そして既に出来上がった酔っ払いやたむろする浮浪者くらいしかない。
時間が経っても、その割合が変化するくらい。最後には、ほぼなくなってしまう。
エヴァンが求める月は、どこにもない。
天を見上げた。
曇り空だ。
今日は空にすら、月はなかった。
***
「いらっしゃい――なんだ、お前か」
「客に向かってなんだはないだろう、なんだは」
「もういい時間だからな、来るとは思っていなかったんだよ。特に最近は顔も出さなかったしな」
「忙しかったんだよ、いろいろと」
そういいながら、空いた席――そもそも大多数が空席だったが――に腰を下ろす。例の通りカウンター席だ。ちょうど、店の主人であるジャレッドの真ん前に。
「シャノンは?」
「もうあがったよ」
馴染みのウェイトレスは、今日はもういないようだ。店内の壁掛け時計に目を向ければ、確かにもう時間も遅い。成人もしていない少女に働かせる時間ではなかった。
そも、こんな廃墟群一歩手前の地域、それも酒場で労働力として数えられている時点で、そこにいささか倫理観の欠落というものも感じられるが、この場にはそれを咎めるような者はいなかった。
『違法ではない』『本人が望んだ』。実にいい免罪符だ。
ついでと店内を見渡せば、ザ・ブルーティットはいつも通りの中途半端な賑わいを見せていた。四つのうち三つが埋まったテーブル。カウンター席にも数人座っている。盛況というほどでもなく、閑古鳥というわけでもない。酒飲みがたむろする時間ということを考慮すると、客足は他所より少なくはあったが。
「忙しかったってことは、大学にはちゃんと行ってるんだな」
「まあな」
適当にメニューを眺めながら、小さく頷く。
迷う素振りを見せた挙句、結局選ぶのはいつも通りの安酒だった。
「行く当ては見つかったのか?」
「見つかった……というよりも、元に戻った?」
「なんだ、別んとこじゃなくて鬼教官に頭を下げたのか。あんだけ嫌ってたくせに」
「嫌ってはないさ、苦手なだけで」
渡されたグラスを軽く傾ける。癖の強い、きつめのハーブが舌に痺れた。
「さんざん愚痴をこぼしてるじゃないか」
「それは別だよ、別……それに、こっちから頭を下げたわけじゃない」
「まさか、向こうから戻ってきてくれって頼んできたわけでもないだろう」
「残念ながらね。あの人曰く俺には才能がないらしいからな、まずありえない」
「じゃあ、何でだよ。偏屈な奴なんだろう? その教授は」
グラスを持ったまま、エヴァンは動きを止めた。止めて、明後日の方へと目を向けた。
注文も捌き終わっているらしい、暇を持て余したジャレッドは完全に聞く態勢だ。
そして、それに困るのはエヴァンだった。
今さらながら、自身が呼び戻された理由をおいそれと話せないことに気が付いてしまったわけだ。
エヴァンは自身が厄介な出来事に巻き込まれてしまった、あるいは自分から首を突っ込んでしまったのだと、とっくの昔に自覚していた。そしてそれは他人に話すだけで伝播してしまうかもしれないものだということも、また理解している。
考古文化人類学研究室にまた席を与えられることとなったエヴァンは、その翌日から担当教授――アンナ・フォーラスからみっちりと世界の裏事情について叩き込まれていた。
そこには一般のものには秘するべき、という大前提が強く提示され、その理由についてもまた脳髄に刻み込まれていた。
知識とは持つだけでその持ち主の格を高めてしまう。そして、なまじ知識を保有してしまったがために見識が広がり、健常に生きたいなら享受すべきではない事実に気付くきっかけとなってしまう。
あるいは、退屈にのみ悩まされた上位者や己らの力の拡大を図る邪なものどもの目に留まりやすくなってしまう。悪目立ちしてしまう――と。
「……なんでって、まあ、事情が変わったとしか」
目の前の、ごく普通の世界に、安寧の中に生きる男性にそんな理不尽な目に合っては欲しくない。
だからこそ口をついたのは、どこかで聞いたようなセリフだった。もっとも、その語気から考えの深浅の差が如実に表れていたが。
「だから、それが何だって聞いてんだよ」
「何だっていいだろうに」
もう聞くな、そう手で払ってやればようやくジャレッドも身を引いた。「つまんねえな」と小さく残して。機嫌を損ねた、というわけではない。そこまで彼の器量は狭くない。ただ、今日はサービスを期待できそうにないようだ。
「……んなことはどうでもいいんだよ。それより、あー、なんだ。聞きたいことがあってな」
「なんだ」
そうして話題を変えれば、素直に応じてくれる。仕事柄なのか昔馴染みだからか。なんにせよ、そういうところはありがたい。
だが、苦し紛れの急な話題転換だ。それも、エヴァン自身も内容をまとめきったものでもなし。
だから、自然と口から出るのもまとまりのない言葉だ。
「あー、そうだな。最近、この辺で迷子なんか見かけなかったか?」
「迷子? ガキか?」
「いや、別嬪さん」
「そりゃもう迷子扱いできないだろう。それに、こんなところに別嬪さんなんて来るわきゃない。一番街か三番街あたりの洒落た酒場に行くだろうさ」
「まあ、そりゃそうか」
ザ・ブルーティットに訪れる客なんて、だいたいがくたびれた労働者やあまり身なりのよろしくない貧困層、あるいは周辺地域の変わり者くらいだ。
若さと希望とに満ちた年代が目指すのはこの都市で最も華やかな場所と相場は決まっていた。
だが、エヴァンが探している人物は、少々事情が異なる。
彼女は身を隠す必要があった。
あの雨の日は追手に凶行に及ばせないようにと人目を求めたが、一度逃げ切ったのなら今度は見つからないことを重視するはずだ。
そうなればこういった人目のつかない裏街に潜む可能性も捨てきれない。
……とはいえあまり期待はしていなかった。
そもそも今日はここ最近の疲れを癒そうと単に酒を飲みに来ただけだ。こんなことを聞くつもりもなかった。ゆえに、なんの情報も得られずとも特別落胆はしない。
ただ万が一を考えて、目の前の、付き合いの長い男の顔を伺う。
そこには何かを隠しているという風はない。
エヴァンを揶揄うためにとも、そしてエヴァンからすらも匿おうとしている、なんて様子は伺えない。
どちらかといえば、いつもとはまた角度の違ったにやついた笑みが癇に障るくらいだった。
そのことに安心すればいいのか、やっぱり落胆すべきなのか、それともイラつけばいいのか。
考えるのも面倒だ。エヴァンはその答えを酒に任せた。
「なんだ、それじゃあ最近はその人の尻追っかけんのに忙しかったってのか?」
「半分くらいはな」
「ほーう」
どこか楽しそうにジャレッドは胸を反らした。
「なるほどねえ。珍しいじゃないか、お前が誰かに惚れ込むなんて」
「それくらいには、綺麗な人だったよ」
本当、それくらいには、魅力的だった。
容姿もそうだが、その在り方も。
容姿だけで言えば、もはや魅力的というより魅惑的だろうか。視覚的な美しさだけでなく、本能から圧倒されるような何かがあった。
人間程度の感性など介在できないような、異端の魅力があった。
だから、そこに向けられる自身の感情はそれほど重要視していなかった。
エヴァンが見たのは、彼女の精神だ。
どこか不安定で、頼りなく、救いを求めているくせに、しかし誰かのために自身を犠牲にしようという高潔さも持つ。
他者を拒絶しているようで、他人というものを求めてる。
彼女もまた、ちぐはぐな人だった。
だから、惹かれてしまった。だから、助けてあげたいと思ってしまった。
気まぐれ以上に。その場限りではなく。どん底から引き上げ切るまで助けたいと思った。
それも、空回っていたようだが。
グラスを傾けながら思い返せば、驚くほどに鮮明に、彼女の姿を思い描ける。
客観的な映像として見る機会があったから、ということもある。しかし何より、彼女との出会いは色々と鮮烈的だった。
思い出の中では不要な邪悪な怪物は隅っこに追いやって、地上に落ちてきた美しい月だけを思い浮かべる。
今は、どうしているのだろうか。
不自由な目に合っていないだろうか。
心配してみたところで、何かエヴァンにできることもないのだが。
「そいつは、一度くらいは拝んでみたいな。もしもう一回会えたってんならうちの宣伝も頼むぜ。サービスするってな」
「……会えたらな」
グラスを、傾ける。
心に浮かんだ様々なものを、アルコールで流し込んだ。
***
暗い。
窓もなければ昼でも光が差さず、光がなければ歩く男の影も作らない。
そも、すべてが影に包まれている。
しかし男は何もかもが闇に沈む中、まるですべて見通せているかのように淀みなく歩む。
カツン、カツンと冷たく音が響き、それは遠くまで反響を続け、いつまでも消えない。
濁り切り、重苦しさを宿した空気をまるで苦とせず男は進む。
長い廊下も、長い階段も。
やがて、かすかな明かりが前方から差した。
蝋燭の頼りない灯だ。
愚者ならばそこに希望を見つけ、智者ならばそこに疑念と警戒を抱く。しかし狂者ならばそこになんの興味も見せない。
そも、ここは男の庭だ。警戒も何もない。
橙の明かりが多くなればなるほど、物音が、人のささやきが増えてくる。それは歩くほど勢いを増し、やがては騒音にも等しいほどになる。
その一つに近づき、扉のようなものをくぐればその先は強い腐臭が満ちていた。
部屋は、決して狭くはない。むしろここでは一番広く面積がとられている。何の温かみもない、装飾すらもない石のタイルと、適度に木材やありふれた建材で補強しただけの壁面。
調度品と呼べるものは一切用意されず、ただだだっ広いだけの空間は、例えるならばホール、集会場というべきか。
しかし窓も通気口すらもないそこは風通しというものが存在せず、籠もり、滞留した空気が臭気の広がりも抑えている。
腐敗を身に宿した集団がたむろしては、そこは人の過ごす空間とはまるで思えない、不衛生極まりないごみ溜めの様な有様を呈する。
生きたごみが、イーストタウン脇を通過したルズベリー川の下流で薄汚いヘドロが蠢くのとよく似ている。
そこに男は足を踏み入れた。
「おお、シャルワトル様」
しわがれた声が、すぐに反応を示した。
老爺とも、老婆ともとれる性を放棄しつつあるこじんまりとした、そして小汚いもの。
一人が反応すれば、それはまるで水面に落ちた一粒の雫のように、同心円状に広がっていく。
シャルワトル様。シャルワトル様。シャルワトル様。
親に餌をせがむ雛鳥のように。存在そのものの醜さと血走った目が愛嬌をまるで感じさせないが、在り方はほぼ等しい。
それに、シャルワトルと呼ばれた男は表面上は取り繕いつつ、しかし目だけは冷たいものを向けていた。
「いったいどうしたと言うのです、皆さん集まって」
「ティオラス様が、いなくなってしまわれたのです」
収拾がつかないと思われた騒ぎは、シャルワトルが声を発すればすぐに収まった。そのことだけが彼らがまだ理知を脳に備えていることを示す。
シャルワトルの問いには、一人の老人が代表して答えた。
「ほう、それはまたどうして」
「わかりませぬ。ただ突然に姿を消し、地上で彷徨を続けているご様子」
「なるほど、遊び惚けているわけですか。なら、放っておいても問題ないでしょう」
「しかし、いまだ見つかりもしないのです。もしこのままそらにお帰りにでもなられたら……おお! 我らはしるべを失ってしまいます!」
老人は垢やらなにやらに塗れ、元の色から随分に離れた腕をわなわなと天に震わせる。
慟哭に悶えるそれを一瞥し、シャルワトルは知れず溜息をこぼした。
そして、柔和な笑みをその相貌に浮かべ、安心させるような声音を取り繕って見せる。
「落ち着いてください。ならば捜索の手を出せばよいでしょう」
「既に還りし者たちを遣わしております。しかし、成果はただの一度しか得られておりませぬ。それも、失敗に終わりました」
使い物にならなくなった一人の代わりに、また別の枯れた声が答えた。
「失敗? まさか彼女が力を振るったと?」
「いえ、妨害にあったようです。こざかしいことに銃器ごときで歯向かったそうな」
「生半可な火器では、傷もつけられないはずなのですがねえ」
ふむ、といかにもわざとらしく顎に手を当てる。
「シャルワトル様、我らはいったいどうするべきでしょうか」
「やはりこの街ごと浚うべきでしょうか」
「それならば取りこぼしはあるまい」
「同時に贄も手に入る」
「半分も捧げれば、大地の女神も怒りますまい」
「それがいい」
「それがいい」
「シャルワトル様、是非に」
「ご指示を」
「シャルワトル様」
「シャルワトル様」
シャルワトル様、シャルワトル様、シャルワトル様――
老若の区別なく、性の垣根もなく、醜い雛鳥どもの合唱はホール中に、いや、この地下施設全体にでも響き渡るのではないかと思われるほどに膨れ上がった。
それを、ただ柔和な笑みでのみ受け止める。
「皆さん、ですから落ち着いてください。そう急いてしまっては余計に事を重大にしてしまいます。彼女も、そらに帰るようなことはあり得ません。アイビッドを出た様子がないのなら、何も慌てる必要もないのです」
そう身振りも添えて伝えれば、やがて騒ぎも収まる。次いで起こるのは不気味な相談、悪巧みの会議だ。
「では、いかようにいたしましょう」
「手を増やしますか」
「いや、まずは目を増やそう」
「目ばかり増やしてもまた妨害にあってはかなわん。ティオラス様を攫った輩も、愚劣なものどもとはいえ何か抵抗しうる手段を手にしているのやもしれん」
「しかし早々かなう器は手に入らん」
「数で補えばよい」
「イーストヘイルからまた浮浪者でも攫えばいい」
「あそこのは質が悪い」
「しかし他は余計な連中に目を付けられる」
「払えばよい」
「無駄な消耗を被るだけだ」
企みはすでにシャルワトルの手を離れ、ささやきの域を出ない相談事も数が揃えば耳にやかましい。
ろくな答えの出ない堂々巡りを続けるそれを一歩引いたところから眺め続ける。
何か解決策を紡ぎだそうとしているようで、実際はただ答えを待っている。自ら行動も起こせない。
外の人間を彼らは愚劣と下に見るが、彼らはそも獣よりも下にいる。
そのことを、困ったことに指摘する者はいない。
シャルワトルは、ただ眺めるだけだ。
「まったく」
笑みは崩れない。