5:目覚め
すっきりとしない目覚めだ。
昨日はどれだけ深酒をしたのか。カーテンを閉めることも、まして着替えることもなくベッドに沈んでいたらしい。
差し込む陽光に顔を焼かれて起きてみれば、えらく行儀の悪い寝方をしていたようでエヴァンは思わず頭をかいた。
ぼさぼさの髪。指通りが悪い。
インナースプリングが効きすぎて若干寝心地の悪いベッドに俯せに、それこそ死んだように眠っていたせいで首が凝っている。
頭はぼんやりとする。胃のむかつきも若干ながら覚える。アルコールが抜けきっていないのだろう。
すっきりとしないどころか、最悪な目覚めだった。
見回せばあまり整頓されていない、しかし汚れているとも言い難い寝室が目に入る。
六番街にある格安賃貸のフラット、その一室。
大学入学を機になんとか独力で用意できた自宅だ。
(記憶飛んでんなあ……)
自宅には、帰ってこれたようだ。しかし昨夜どうやって帰ってきたのかがまるで思い出せない。そんなにひどい酔い方をするほど飲んだ覚えもないのだが。そう内心首をひねるも、今目の前にあるものが事実だろう。
その辺の浮浪者に交じって路上で寝る、なんて姿を晒さずに済んだのは非常に幸運だった。
そういえば昨夜は雨に打たれたのだった。
そう思い至り、いまだに冷たく、そして湿った衣服を脱ぎ捨てる。
「――いっつ」
コートを脱ごうと肩を動かせば、ひどく痛んだ。寝違えたにしても酷すぎる。昨日どこかにぶつけでもしただろうかと記憶を掘り返してみるも、酩酊という甘い毒に侵された記憶はどこもかしこも食い破られてしまっていた。
「……何してたんだ、いったい」
疑問をこぼしてみても、何も変わらない。
頭の中には靄がかかったどころか、すっぱりと切り取られてしまったかのように記憶が残っていない。
曖昧にも思い出せない。寝ながら帰ってきたとでもいうのだろうか。
「いつつ……」
そろそろと、蝶の羽化よりも慎重に袖から腕を引き抜いていく。痛む肩周辺に詫びを入れながら露わになった患部を見やれば、ひどい痣になっている。腫れがないことに少しだけ安堵した。
「ほんと、何してたんだか」
濡れた衣服そのままでいたのだが、幸い風邪はひかなかったようだ。
体の怠さや頭痛、頭の重さが自らの存在を頻りにアピールするが、それはもう慣れ親しんだ症状。寒気や熱っぽさはない。ただの二日酔いだ。
それでも割と程度は酷いほうで、本音を言えばこのまま休んでしまいたかった。
昨夜省略しただろうシャワーを終え、改めて腰を下ろしてみれば酷い倦怠感が主張してくる。安物の木の椅子が嫌に腰に響く。
どうしたものかと手慰みに机の上の本へと手を滑らせた。何の気なしにペラペラと捲れば、古い紙のにおいが鼻まで届く。
嗅ぎなれたにおい。
もう、忘れることもないのだろうにおい。
寝室の隣。本来はリビングと呼ばれるのだろうが、良くて書斎、悪くて物置とでも呼ばれそうなほど物の積みあがった部屋に、紙を捲る音だけが静かに響く。
必死に学び、必死に覚え、そして今でも何度も読み返すために捨てるに捨てられない、そんな本の山の中の一冊を最後の一ページまで適当にひっくり返す。
中に目を通したわけではない。
それでも、隅々まで読み込んだおかげで表紙どころかどこか適当な一文を拾っただけでおおよその中身を思い出せる。
固い裏表紙を閉じれば、パタンという音とともに僅かに埃が舞った。
視線が手元に誘導される。
そのすぐそばの、小さな置時計にまで目が行った。
もうすぐ昼だ。
昨日までは出るはずだった講義も、とっくの昔に終わっている。
だが。
「……行くかぁ」
研究室は首になった。それは卒業に必要な要件が達成できないということだ。
だから、行く意味がなくなった。
他の研究室に身を寄せるつもりはない。
そう昨日、ジャレッドに言ったのだが。
「高い学費も払ってるしなあ」
制度の整いつつある義務教育と違い、大学はまだまだ学費が高い。
気は進まない。非常に億劫だ。好奇やら奇異やら、ひどいもので侮蔑や嘲笑の目に晒される。それが心底嫌だ。
けれど、ここで落ちこぼれてしまえばこれまでの努力が無駄になる。学費も、時間も、そして学んできた知識も。
そして何より、エリートになれない。金持ちになれない。
たった一つの意地も果たせない。
たった一つの恩も返せない。
「……だりぃ」
頭の重さは少しだけ軽くなっていた。
***
アイビッド大学は二番街の中ほどにある。
街の北西側――二番街と三番街の間を更に奥に行った辺り――にある六番街からまず中心街行きの路面電車に乗り、そこから二番街行に乗り換えるのが一番早い。
それでも待ち時間などを含めるとどうしても時間はかかってしまうもので、エヴァンが大学の門をくぐる頃には太陽も西に傾き始めていた。
陽が落ちるのも、もうだいぶ早い。
あと一、二時間もしないうちに空は茜に色づくだろう。
厚みのある十字型の本館と、その横にくっつく形で増設された箱型の新館。この二棟がアイビッド大学を構成する基本要素となっている。
本館はいかにもな古さと、数世紀前の華美な建築様式で趣深い。しかし昔は白く美しかったのだろう石灰岩の壁面は、今は風食され煤で真っ黒だ。
一方の新館はまだできてから百年も経っておらず、赤レンガのシンプルな造形で近代的な様式となっている。そのおかげか隣接する本館とはどこか調和がとれていない。雰囲気を合わせるためにいくらか装飾に気を使ったようだが、それでも不十分だ。
もっとも、こちらも既に煤け始めているためその違和感もいずれはなくなるのかもしれない。
広い敷地を誇るアイビッド大学、その開放された敷地内には今から帰りだろうか、エヴァンとは反対方向に歩むものも少なくなかった。知った顔も、知らない顔も、エヴァンへと目を向ける者はほとんどいない。今のエヴァンは、本人やその周囲を除いたその他大勢と変わりなく、ただの風景だ。
それが明日以降、しばらくの間は与れない地位だということを思うとどうしても気分が重くなってしまう。それに連動するように、足取りも重くなる。
今日も、酒の力を借りることになりそうだ。
冷たいタイルと色の少ない芝や花壇を横目に、アーチ状のゲートとその下に設けられた入り口を目指す。
中に入ってみれば、すり減った大理石の床と重みのある石の壁が迎えてくれる。
かつて大聖堂として利用されていたらしい本館は、華美な装飾が目立つ外装とは裏腹に、内部は実用性が重視され、案外質素だ。大学として再利用する際、そして新館を増設する際にもろもろが取っ払われたのだそうだ。
自らが都市の中心だとばかりにこれでもかと主張する尖塔群や時計台、鐘楼などはそのままに。
一方で大きな窓に嵌められていたであろうステンドグラスは外され、シンプルな格子窓に取って代わられている。
礼拝堂はいくらか縮小されてしまっているが、祭壇含めホールという形で残されているため、本館はそこだけ見ると大学とはまるで思えないだろう。
本館の半分以上の面積を占めていた礼拝堂は、高い天井を新たに床を設けることで区切られ、現在は三階構造へと変わっている。
建物としての規模が大きいため部屋数も多く用意できているのかと思いきや、通常の建築群とはどうしても意匠がずれてしまうため、空間利用が難しい。もともとの小部屋等を改装した他はほとんどが大きな講義室となっていた。
そのためエヴァンが目指す個別の研究室群は新館に集中していた。
本館の連絡路から新館へと移り、一般的な講義室等のある一階を抜ける。
個別の研究室の増えてくる二階へと足を踏み入れると、下位学年は姿を消す。たむろする学生の総数が一気に減り、いやに静かだ。
だから、エヴァンの背へと掛けられる声もよく通る。
「遅い出勤だね」
「……出なきゃいけない講義がなくなったもんでね。それもちょうど今日から」
振り返れば、どこか不健康そうな見た目の男が目に入る。
短めのブラウンの髪と、落ち窪んだともいえるほどの彫の深い顔。実際、あまり健康には気を使っていないのか、目の下には濃い影が差している。
デール・フリントン。
エヴァンの同期で、〝元〟同研究室の友人だ。
下位学年の頃からそこそこ気の合うやつだったのだが、いつからか少し疎遠になっていた。ちょうど、研究室に配属されて少ししてからだったか。どうもその頃から一線を引かれているような、そんな感じを彼から受けるようになったのだ。
今思えば、デールが陰鬱な雰囲気をまとうようになったのも、そのくらいからだった。
以前はもっと、それこそ流行り廃りを気にする性格で、今のように擦り切れそうな衣服を着るような男ではなかった。どちらかといえば快活な方に類し、共に夜の街に繰り出すこともしばしばだった。
彼の変化にはエヴァンは当然のように戸惑いを覚えたが、周囲はそうではなかったらしい。特に考古文化人類学に所属するメンバーは、みな特別な反応を見せなかった。エヴァン以外の同期のメンバーさえ、だ。
エヴァンの自嘲めいた返答に、デールは「そうかい」とだけ小さく頷いた。
事情も知っているはずなのに、冷たい奴だ。
なんて考えることも、もはやない。事務的意外な会話は碌につながらないのだと、とっくに思い知らされていた。
「それで、今日は一体どんなご用事で?」
彼のほうから話しかけてくるのも、ずいぶんご無沙汰だ。
「ああ、そうだ。教授が呼んでる」
わざわざ皮肉や嫌味を、まして慰めなどを言うやつでもない――なくなっていた。
だからやはり事務的な内容なんだろう、そう考えてはいたのだが。
「……今更何の用だってんだ」
「さあ、それは自分で聞いてくれ」
デールから告げられた用件は、エヴァンの想定の遥か外にあるものだった。少なくとも冷めた思考に混乱をもたらすには充分過ぎる内容だ。
エヴァンが知る限りの教授はそう簡単に一度口にした言葉を撤回するような人物ではないし、浅慮な発言もしない。用意周到な性格から、先の発言が何かの間違いだったということもやはり考えにくい。
言伝を済ませたデールはもう用はないとばかりに行ってしまった。我関せずの体を完璧に取られてしまっては、デールの表情から用件を察することもできなかった。
廊下に一人ポツンと残されたエヴァンの思考はもう疑心に塗れ、碌に機能してくれない。
「……行くしかないか」
だから、とにかく行ってみるしかない。
憂鬱さが、どっと増した。
***
最上階である四階の最奥まで足を運べば、名前も効能もよくわからないハーブの香りがふんわりと漂ってくる。
発生源は、手近な講義用の一室や生徒用の待機室ではなく更に奥、資料庫の隣で半開きになっている扉の向こう。教授の私室からだった。
廊下にまでこんな匂いを撒き散らして、いったい何のつもりなのか。よそから苦情は来ないのか。既に放逐された身であるというのに、そんなことがつい気になってしまう。
考古文化人類学研究室は新館四階、その最奥に設けられている。いくら大きな研究室とはいえ、広いワンフロアをすべて使っているなんてことはなく、他研究室も一つか二つ同じフロアに割り当てられている。
騒音を出せば苦情が飛んでくるし、異臭なんて撒こうものなら事務課のほうからお小言すら頂く羽目になる。
そのどちらもがなさそうな以上、まだ気づかれていないらしい。
騒ぎになる前に窓でも開けて――そう手が伸びたところで、やめた。何の用で呼ばれたのかは知らないが、自分はもうここの所属ではないのだから、と。
四階まで上った分、余計に重くなった気さえする足を引きずって、とうとう教授の私室まで辿り着いてしまった。
ハーブの香りがより濃くなる。
それより、この部屋から放たれる異質な気配、彼女独特の威圧感のようなものがひしひしと感じられる。
こんな時に限って、四階はひどく静かだった。この扉の向こう以外、まるで無人のようにさえ思える。所属するメンバーの人柄ゆえ、普段からあまり騒がしくはないが、今日は輪をかけて大人しい。筆を走らせる音も、紙を捲る音すら聞こえない。
重苦しい。周囲を取り巻く空気にすら、エヴァンの陰鬱な雰囲気が移ってしまったように息苦しい。
行かないという選択肢が欲しくなる。この扉を開けないという選択肢が欲しくなる。しかしそんなことをすれば、後々どんなことになるかもわからない。
(きっと、そんな大した用事じゃないだろう)
そう、希望的な観測をもって無理やり自分を納得させて、エヴァンは半開きのドアにノックをした。
***
不思議と、ハーブのにおいはどこかに行ってしまっていた。
「遅い。このまま夜まで待たせる気なのかと思ったよ」
代わりに、気付け薬のように玲瓏な声が鼓膜を揺さぶった。
扉を開ければ、広いようで狭い部屋が目に入る。矩形で構造上は充分以上の広さが確保されているはずなのだが、こうも物に溢れかえればここまで狭くなる。
本棚からあふれ出すほどの学術書や歴史書、彼女自身がしたためた本など、『考古』と名の付く研究室らしく古めかしさが勝る本の山。
どこから集めてきたのか、およそ近代の文化の産物、距離的に近しい文化域からの出土品とは思えないような不明なオブジェクト。
用途不明の薬品や、怪しげな実験器具。
それらが辛うじて丁寧に整頓され、ようやくできた生活スペースにシンプルなデスクと回転式の肘掛け椅子が置かれている。
彼女は――エヴァンを呼び出した考古文化人類学研究室の教授はその僅かなスペースに悠々と腰かけていた。
アンナ・フォーラス。
一見すれば、通常の成人女性よりも明らかに低い背丈から、幼い子供と勘違いしてしまいそうになる。外見にはそぐわない、しかし年齢相応なのだろう落ち着いた雰囲気から、よく躾けられた貴族の子女というのが一番近いだろうか。
もしくは――人形か。
人形。それは彼女を例える一つの異称だ。
様々なものから到底外れた容姿を持つ彼女が侮られず、親しまれず、愛されずにいる理由でもある。
部屋の半ばほどで足を止め、エヴァンは緊張と不安、そして幾ばくかの不満を抱えた瞳で彼女を眺める。
くすみを一切持たず、いっそ病的なほどに白い肌。癖も何もない長髪は白金のようには輝かず、色素が抜け落ちてしまったかのように薄いアイボリー色をしている。
肌との境界が曖昧なほどに彼女は白く、それに抗うかのように濃い色の服を好む。
すべてを見据えているかのような、あるいは何も映していないかのような錆びた青色の瞳は、今は手元の古い紙束をまとめたファイルに落とされ、時折ページを捲るために小さな手が動かなければ、机に座らせられた精緻なビスク・ドールなのだといわれても気づかないかもしれない。
呼吸音すら薄く、心音など当然届かない。
血が通っているのか、意思を持つのか、それは本当に生きているのか。
それがいまいちわからない。
一方でその身からは深く齢を重ねてきたかのような落ち着きと思慮深さ、厳格な軍人や、あるいはどこぞの工房の頑固親父よりも重い無言の圧を持つ。
アンナ・フォーラスという人間は、ひどくちぐはぐな存在なのだ。
骨格に異常がある、成長を阻害するような何らかの病気を抱えている、恐ろしいほどの才女で教育課程をいくつも飛び越えてきた、若さを保つ外法に手を染めている、正体が悪魔や妖精の類である、などなど彼女のその異質でアンバランスな在り方については諸々の噂があるが、真相を知る者はいない。どうやってこの歴史と権威を持つ大学で教授という地位にまで上り詰められたのか、それを知る者もいない。
物にまみれ、圧迫感のある部屋の中。エヴァンの自室と似た様相ではあるがその規模が違う。何より、その中心に置かれた少女という存在が決定的に異なる。
この少女――女性と二人きりというのは、ひどく胃が痛くなる。無言のままでいられると尚更だ。彼女のまとう独特な雰囲気と、威圧的な風格はそれだけで精神力が削られる。
エヴァンはもうずいぶん慣れたほうであったが、それでも今日ばかりは別だった。
エヴァンが訪れてからどれくらい時間が経ったか。体感では、無限にも感じられる。しかし実際は一分にも到底及ばないだろう。そういうものだと、エヴァンはすでに学習している。
しかし引き延ばされた感覚の中、居心地の悪さを覚えることには変わりない。廊下にいた頃から、ともすれば朝目覚めたときから感じていた重苦しさが時間を追うごとに強くなっていっている。そんな気がした。
目の前の彼女は椅子に腰かけたまま。入室を許可した相手に目を向けることもなく、いまだに黄色味の強い羊皮紙を眺めている。
用件があるらしいのは彼女だ。それゆえ彼女のほうから話を切り出すのかと思っていたが、どうも文字を追うのに忙しいらしい。
鋭く細かい棘を浮かべた静寂の中に立ち続けるのも辛く、仕方なしに根負けしたエヴァンのほうから口を開くことになった。
「あの、それで、用事というのは何ですか」
「……ああ、そうだったな。あまりに来るのが遅くて忘れるところだった」
「それは、すみません。てっきりもうここに来ることもないとばかりに思っていたので」
「だろうな。私も呼ぶつもりはなかった」
ならなんだというのだ。
思わずそう叫びたくなるが、なんとか頭の中だけに留められた。
「用事というのは、当然お前についてのことだ。端的に言えば、首の撤回だよ」
「……は?」
「だから、首の撤回だ。昨日はもう来なくていいと言ったが、それを取り消す。それだけだ」
「いや、なんで?」
そう簡単に口にしたことを反故にしない、そんな彼女に対する先入観がそうさせるのか、アンナの言うことが、口にした言葉が、エヴァンの思考回路にはうまく収まってくれない。
だから、つい語彙も何もない稚拙な言葉が口から飛び出してしまった。
しかし、今ばかりはそれで充分だろう。
おおざっぱでも、詳細にでも。途切れてしまったエヴァンの思考回路を動かすにはどちらでもいいから理由が必要だった。
「……お前には、欠片も才能がなかった。そういう意味では、お前をここに入れてしまったのは私のミスだったのだろう。器は問題ないというのに、その中身が致命的に合わない。だから、お前をここに置いておく理由がなくなった」
「いや、その、もっとわかりやすく言ってもらえると助かるんですけど」
「噛み砕いたところでお前にはわからんさ――だがまあ、事情が変わった。そうだろう?」
そう問われても、エヴァンには何が変わったのかも分からない。
昨日の昼前に首を告げられ、そして今日デールに会うまでの間。いや、おそらくはもう少し前。たった24時間程度のうちに彼女の判断を変えうる何かがあった。
しかしその大部分が酒を飲み、そしてただベッドに沈んでいただけなのだ。
だから、わからない。答えられない。
必死に考えをめぐらしてみてもそれは変わらず、エヴァンはただ戸惑うだけだ。
何かズレが生じている。
そう感じたのはエヴァンだけではなかったらしく、アンナはようやく眺めていたファイルから顔を上げた。
俯き顔から変わり、真正面から向き合う。
小さく、そして〝綺麗〟な顔だ。一つの狂いもなく、完璧な造形をしている。
そこに表情らしいものはない。
あるのは、エヴァンの心のうちすべてを見透かすような、あるいはそれらにまったく関心も見せないような、二つの錆びた青色だけ。
その無表情が、エヴァンの顔を捉えたことでわずかに歪む。眉根が寄せられた。
何か不都合が、あるいは不機嫌になるようなものでもあったのか。
しかしそれがエヴァンにはようやく見つけた人間味に見えて、逆に安心をもたらした。
「ああ、そういうことか」
そして、一人で何かを納得し、小さく頷く。
「処理をされているとは知っていたが、思考誘導どころか……そうか、忘れたか。〝忘れさせられた〟か。だが、残念ながら忘れたではもう済まされん」
理解の追い付かないエヴァンをよそに、アンナは手にしていた冊子を閉じた。そして、エヴァンの顔――否、頭の中でも覗いていたかのような目が、今度こそエヴァンの目と合わせられる。
その時の感覚を何かに例えるなら、鍵開けだろうか。
暗い霧の中を進み、鬱蒼と茂った雑草雑木を掻き分け、たどり着いた小さな家。固く閉ざされた扉。その鍵。それが丁寧に、しかし決して正当な手段ではないやり方でいとも簡単に外される。
鍵を開けた手は、また深い霧の中に去っていった。しかし去り際に扉を僅かに開けたようで、中にいたものが、あったものが、溢れるように這い出てきた。
それは記憶だ。
雨の夜の記憶だ。
暗く闇が落ちた世界で、エヴァンは月と出会ったのだ。
そしてまるで幼い子供が見るような、とびきり趣味の悪い夢の中の怪物のようなものと追いかけっこをしたあと、月に逃げられた。
月は――ティオラスは、エヴァンの記憶に鍵をかけて、どこかに行ってしまった。
その時の彼女は、ひどく寂しそうな顔をしていた。
***
「だっせえ……」
目まぐるしく移り変わる景色は秒も掛けずにあるべき位置に収まった。そうして、急な記憶のフラッシュバックに若干痛む頭を抱えながら最初に口から飛び出したのが、自身の不甲斐なさを責める言葉だった。
結局、エヴァンには何もできなかった。彼女を助けるなんてできなかった。ただ茶々を入れただけ。
彼女にとって、自分はただのお荷物だったのだろう。それを――記憶の再生という形である種客観的に――まざまざと思い知らされてしまった。
「思い出したか。ずいぶん力業を使われたようだが、体に違和感はないか? 記憶に欠落はあるか?」
「……いえ、ないと思います」
「それは何よりだ」
彼女にしては珍しい気遣い。
しかしそちらに意識が向けられることはない。それよりも気にするべきものが他所にある。
ティオラスは何か超常の術を持っている、それは漠然と理解していた。それがまさかアンナにも通ずることだったとは。
驚きは――それこそ驚いたことにまるでなかった。
むしろそれが当たり前のことのようにすら思える。それほどアンナという女性は異質だったから。
それでも、エヴァンは思わず片手で目を覆う。
思考も、理解も現実に追いついている。しかし心だけはいまだに諸々を受け止め切れていない。
ひどい無力感に襲われ、その上日常の一つすら崩れてしまった。
狂ったように叫びださないだけ、まだましだ。
「……それで、どうしてこんなことをしてくれたんですか」
だから、目を覆ったまま問うた。
「どうして、とは?」
「忘れていたほうがよかった、そういうものだからあいつはこんなことをしたんでしょう?」
半ば自棄になったように吐き捨てる。
「言ったろう、忘れたではもう済まされないんだよ」
しかし冷徹で、そして重みのある言葉が唾棄した疑問を容赦なく押し潰した。
「あいつはお前の記憶を封じることで連中のことを忘れさせようとした。そうして、また日常へと帰れるように、もうこちら側へ足を踏み入れないように、と。だがそれは考えが甘い。お前は一度真実を覗いてしまった。見てしまった。気づいてはいけないものを知ってしまった。それも飛び切りたちの悪いものを。ただそれだけで、お前はただの有象無象から一歩抜け出してしまった。この上ないほどに不幸にもな」
「何か、まずいんですか」
「まず目を付けられる。他の誰かよりは、何かしらの目に留まりやすくなってしまう。お前が望もうが望むまいが、お前がこれまで過ごしてきた〝平穏な世界〟から引きずり降ろされてしまう。そうなれば、知っていたほうが対処しやすい」
だから記憶の封を解いた。
なら、アンナが自身をここに呼び戻したのは? わざわざ首を撤回するのは?
「……それが、どうして首の撤回に繋がるんです? あいつらに……あのコートの連中に気を付けてさえいればいいんでしょう?」
「察しが悪いな。まあ、それが普通か」
いつの間にか元の位置に戻っていた眉が、再び顰められる。
「連中――果ての信奉者だけが厄介者というわけじゃあない。この街には連中以外にも、腐るほど邪なものが潜んでいる」
そう言うとアンナはエヴァンに背を向けた。
回転椅子がキイと軋んだ。
そのまま背後の壁で開け放たれたカーテン、大きな格子窓の向こうに覗くアイビッドの街へと目を向けた。
それに倣うよう、エヴァンは少しだけ近づき、窓の外を見る。
そこにあるのは、普通の街並みだ。エヴァンが暮らす六番街や馴染みの深い三番街より発展し、日暮れが近いというのにいまだ賑わいを見せる二番街。中心街ほどではないが道行く人は昨夜と比べ物にならないほどに多く、そして誰も彼もが笑顔や、それに類する力強い、生命の明るさを感じさせる顔つきをしている。そうでないものも何か良くないことでもあったのか、ぶすくれた顔や落胆に沈んだ表情などひどく人間らしい顔をしている。
それこそ、昨夜が本当に夢の出来事だったと思えるほどに平穏な光景がそこにあった。
「見えないだけ、姿を見せないだけで厄介な連中はこの街には吐いて捨てるほどいるんだよ」
「その割には、平和そうな光景ですけど」
「気づかなければ何の問題もないのさ。巻き込まれるのはもっぱらそういう方向に敏感なやつか、よっぽど不運なやつくらいだからな」
アンナが肩越しに振り向き、何か含みのある視線でエヴァンを眺めた。それも、小さな溜息とともに霧散した。
「……それか、どうしようにもないほどに規模の大きくなった邪悪が暴れでもしない限り、彼らが巻き込まれるようなことは早々ないさ」
もう十分だと、また椅子を正面に戻す。
今度は、椅子は軋まない。
彼女の言う規模がどれほどのものなのか、エヴァンには想像がつかない。深刻そうな顔も、楽観的な声音も見せない、目の前の小さな賢者からそれを伺うことも、やはりできない。
「……今の時代、そう酷いことは起こらないだろうがな。今はどちらかといえば低級な連中が稚拙な悪事働くくらいだ。ただ、数が多い」
「数?」
「増えたんだよ、そういう連中が。いや、数自体は昔から多かったんだろうがな、人類の持つ技術が発達し、世界が広くなってから一塊にいた害虫どもがばらけてしまった。鉄道の発達など致命的だ」
「化け物が鉄道に乗るっていうんですか、そりゃ、ずいぶん可愛らしく思えますけど」
エヴァンの軽口を、アンナは鼻で笑い飛ばした。
「本当の化け物はそんなもの使わんだろうさ。だが連中に感化された人間や、人に紛れなければ悪事もままならないような下等な種族にとっては便利なものさ」
人に紛れる。昨夜のあの歪なひとがたも、そこに分類されるのかもしれない。
……あれの正体も、アンナに聞けば答えてくれるのだろうか。昨夜の出来事も知った風な口ぶりだ、もしかしたらどこかで見ていたのかもしれない。
ティオラスには曖昧にぼかされてしまった。
しかし、アンナは無駄に隠すような性格ではない。
聞けば、きっと滔々と答えてくれるだろう。
望んだままに答えてくれるだろう。
だからこそ、聞こうと思えない。
少なくとも、今は。
きっとそこには、望まない真実が待っている。そう、エヴァンは無意識的に感じ取っていた。
今のエヴァンは、もう一杯一杯だ。これ以上精神に負担をかけるような情報は頭に入れたくはない。
だから、頭に浮かんだ素朴な疑問も、口をつくことはなかった。
エヴァンの小さな葛藤を知ってか知らずか、アンナも話に区切りをつけた。
溜息ともまた違う、深い吐息の後に背凭れに背を預けた。
「お前はこれから様々な厄介ごとに巻き込まれるだろう。だから、それらに対処するための知識と技術を身に着けさせる。そのために呼び戻したんだよ。ここはもともとそういうところだからな」
そうして、ようやくエヴァンはこの場に呼び出された理由を知ることになった。
「……初耳です」
「公にするようなものでもないからな。大衆は信じない。どこかでそういったトラブルに巻き込まれでもしない限りな。でないと、妄言と切って捨てられるか、異常者として見られるか、はたまた火にでも炙られるか水底に沈められるか」
時代錯誤でありながら、しかし冗談にもならない内容を、薄笑いでさらりと告げた。
「それとお前のように運悪くトラブルに遭遇した奴らに――そこに善悪のどちらの思惑がなかったとしても、やたらめったらに吹聴されるのも都合が悪い。どれだけ迫真に語ったところで十中八九信じられないだろうが、もし知られてしまったら困ることでもある。信じられて困ることでもある。だからまあ、万が一のためにこうして敢えて取り込んだりするわけだ。条件次第だがな。お前は運がいい。この大学の学生だったのだから」
「……まあ、一人くらい放っておいても問題はないんだが」
最後に小さく呟かれた何某は、努めて聞かなかったことにした。
しかし改めて言われてみれば、確かに一般常識からおよそ外れたような解釈をした書物や、更に言えばただの狂人の妄執を書き殴っただけのスクロールを読まされたこともあった。
あれがそうなのだろうか。
「なんにせよ、明日からもまた来てもらう。講義の内容はがらりと変わるがな。お前も他の連中と同じ内容を――」
そう言いかけたところでアンナは顎に手を当てて暫し考え込んだ。
「……いや、お前の場合はもっと基礎が必要か。それに、同じものを学ばせたところで習熟度にも差が出てしまう」
才能がない。
彼女が下した評価が脳裏に過る。
それはきっと、努力では埋められないものなのだろう。しかしそのことにエヴァンは嘆けばいいのか、憤ればいいのか、いまいちわからない。
それに、どうやらエヴァンが超常の術を学ぶことは既に決定事項らしい。
それは、別にいい。
むしろ好都合だ。だから、逆らうつもりはない。
「まあ、暫くは個別で基礎を重点的にというところか」
話が締めに向かうのを感じる。
予定の組み立てにと彼女は筆に指をかけた。ペン先をインクに浸す。万年筆を使わないのは、彼女のこだわりなのだろか。いつだったか、そんな疑問を持ったことを思い出した。
彼女は次いで手近な紙を引き寄せ、何やら物騒なメモ書きを連ねていく。半端な情報しか載せられない走り書きだが、情報の切れ端を集めてみれば浮かび上がるのは過密なスケジュールだ。
それが、明日から自身が学んでいくことになるものなのだと思うと、頭が痛くなる。
だが、それもいい。
「では、今日はもう帰っていい」
そう言われてしまう前に、一つだけ、聞きたいことがあった。これだけは聞いておきたかった。
諸々の整理も兼ねて、今までほぼ聞きに徹していたエヴァンはようやく己の意見を、疑問をぶつける。
「――あの」
「なんだ」
アンナの視線がゆっくりとこちらに向けられる。固定される。無機なガラス玉にエヴァンが映り込む。
「先生なら、あいつらのこと、なんとかできるんですか」
あいつら。
あの、異形のひとがた。
人のようで、人ではない。生命の道筋からまるで外れた化け物。
エヴァンは、その一体を辛くも仕留めることができた。
しかしそれは全くの偶然だ。
少なくとも、エヴァン自身はそう考えていた。たまたま、急所に当たっただけ。たまたま、相手の準備が整う前に終わらせることができただけ。
次も同じことができる、そんな楽観はエヴァンにはできない。
だから、自身より優れた人物に頼る。それは間違ったことじゃないだろう。
アンナはエヴァンにとって未知の術を持っている。知っている。そして、当然扱えもするのだろう。それだけでなく彼女はその在り方から超然としている。
つい、期待してしまう。
彼女にとって、連中がなんの脅威にもならないというのなら、それなら――
「面倒ごとは、嫌いだよ」
――。
そんなエヴァンの期待は、彼女の無情な声音に砕かれる。
できるとも、できないとも違う答え。
それは『できない』と断言されるのとどちらが残酷なのだろうか。
「追われてる人がいるんです」
「知ってるよ。だが、私が手を出すようなことじゃあない」
「俺のことは、助けてくれるじゃないですか。なら、あいつだって――!」
「お前とあれは、違うんだよ」
「っ」
どこまでも、無情。
いや、とうとう冷たさが露出した言い様に、エヴァンも口を引っ込めるしかない。
「悪いことは言わない。忘れろ。そいつのことだけは忘れてしまえ。こればっかりは、忘れたほうがいい」
それきり、彼女も口を開くことはなかった。
聞く耳は、きっと持たないのだろう。
やはり。
自分で何とかするしか、ないのだろう。
忘れる気など、さらさらなかった。
***
「難儀な奴だな、あいつも」
教え導くべき生徒が去った後。
狭苦しい部屋に再び静穏が戻る。
自分以外誰もいない、誰一人いない空間で、アンナは小さく呟いた。
「そこまで鈍感というわけでもないだろうに」
そう言って、どこからか金属の塊を引っ張り出す。
小さな手に収まらないほどの、ちょうどレンガブロック一つ分ほどの大きさの金属塊。
冷たい。もう冬になるという頃合いだ。手のひらから急速に奪われていく熱に、神経が過敏に反応する。
しかしそのことに、眉一つ動かさない。
アンナはもう片方の手に持ったままだった筆を、金属の表面に走らせた。
『静穏たれ』
そう、一文が刻まれる。
金属は、冷たさを失った。