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月に惑う愚者  作者: 南天
4/20

4:ぶつり



「ここまでっ、来ればっ!」


 ティオラスが足を止めたのに習って、エヴァンも歩を緩めた。


「ここでっ、いいのかっ?」


 たどり着いたのは、まだ一番街の端っこ。

 街並みは随分大人しくなり、邸宅も増えてくる。ここらに店を構えているのは資本家階級の好みそうな非大衆向けの高級店。その比率が高い。

 ここから更に先の三番街は、つまりそういう区画なのだ。


 見た限り人はいない。

 しかし、どことなく先ほどまでとは雰囲気が違う。視覚情報からは判断できないが、気配というのだろうか。ここは先ほどまでの場所とは違う。

 ただ単に住人が屋内に引っ込んでいる。ただの雨の日、ただの夜の時間の光景が広がっている。

 そんな当然の世界へと帰ってきた。エヴァンはそう実感できていた。


「それで、どうするのさ。どこかの家にでも頼み込んで匿ってもらうか?」


 彼女ほどではないが、走ってばかりではさすがに疲れる。両者の呼吸が整った頃を見計らい、エヴァンはこれからの方針を問う。


「……いいえ。ここまで来れば、もう大丈夫」

「楽観過ぎないか? あれが人目を気にするような奴には見えなかったぞ」

「気にするのよ、あれでも。そういう風に命令されているから、そういう風にしか動けないの。自由意志なんて、とっくの昔に摩耗してしまっているわ」

「……ふうん?」


 あまりにもさらりと、彼女はなかなかに信じ難いことを口にした。おかしなこと、常識からは想像しづらいことを言っているという自覚はあるのか、信じてもらおうという気概すら感じられない。

 だからこそ、エヴァンはその言葉を嘘や妄想の類だと断じることができなかった。


「だから――あの化け物に関してだけはもう気にする必要はないわ」

「追手は普通にいると」

「……そういうこと」


 相手は複数。それを知ってしまったのだから、油断なんてできやしない。ただ、周囲の物影には今のところおかしな姿は見えない。


「本当に、本当に悪いことをしたと思っているわ。無関係なあなたを巻き込んでしまって」

「それは、別にいいって言ったろ」

「あの時とは状況が違うでしょう。それに、私のミスで状況を悪化させてしまった」

「ミスって……」


 まさかやっぱりここも危険だ、なんてことはないだろうな。そう警戒心を二、三段階上げて忙しなく、しかし慎重に視線を走らせる。

 が、その様子を見てかティオラスが首を振って否定した。

 納得するかせざるべきか、エヴァンは小さく肩を落とした。



「なあ、いろいろ聞きたいことがあるんだけどよ。本当にここが安全だってんなら、少しは事情を話してくれると助かるんだが」


 そう適当なカフェのテラスを後ろ手に指さす。閉店後だ。だが、しっかりと雨避けはある。簡易な柵に囲われ、複数のテーブル席が用意されている。その天井は店の壁から張り出したテントに覆われ、若干弱まりつつある雨脚を完璧に防いでいた。


 あまり悠々としている時間はない。しかし、知っていると知らないではできることも変わってくる。あの化け物の対処法くらい、知っておきたいところだった。


「知らないほうがいいと思うけど……それに、話したところで信じて貰えるか」


 だが、彼女はまたしても提案に応じる気はないらしい。雨に濡れ続けるのも厭わずに、彼女は一歩も足を動かさない。


「……あんなの見ちまった後なんだ、信じるなってほうが難しいと思うけどな」

「……」

「話したくないことは話さなくていいからさ、せめてあいつがなんなのかくらいは教えてくれ。まったく見当がつかなくて」

「ただの化け物、じゃあダメかな?」

「ダメだな。せめて特徴とか弱点くらいは知りたい」


 でないと、再び遭遇した時もやはり逃げるくらいしかできない。



「……いえ、やっぱり必要ないわ」

「あるさ」

「いいえ、ない。エヴァン――君は、もうあれと出会うことはない。だから、知る必要もないの」

「なんでそう、断言できるんだよ」

「言ったでしょう? あいつらの目的は私だけなの。だから君にまで被害が及ぶようなことはもうないの」

「……せめて、安全なところに行くまではついてくぜ。こんな一時しのぎじゃなくてな」


 そう言えば、彼女はどこか嬉しそうな、しかし困ったような顔を浮かべた。


「お節介ね」

「性分でね。下心含めて」

「なに、それ」


 薄っすらと彼女の表情が変化する。初めて、彼女が笑った気がした。


「そういうこと、初めて言われたから。なんだか……変な気分ね。少しだけ、嬉しい」

「ほう。それはどっちが?」

「どっちだと思う?」


 ああ。やはり笑っていた。

 だがそれは、軽口に興じるくらいの余裕ができたのとは、少し違う。

 どちらかというと、儚さが強い。

 今にも壊れてしまいそうな脆さと、それに相反するような折れない芯が見えた。

 そんな気がした。


「なら……やっぱりこうするしか、ない」


 そっと、手を伸ばす。

 白く、艶やかな指先が緩やかに広がり、撫でるように優しく、掬い取るように柔らかに伸びる。


「何を――」


 油断はしていなかった。

 でも、彼女に対する警戒心は持ち合わせていなかった。既に猜疑心は隅に押しやって、違和感含めて受け入れてしまっていたから。



 自然と、目が吸い寄せられる。

 釘付けになってしまう。

 ほっそりとした指に意識が絡めとられてしまう。

 釘で打ち付けられたかのように、蜘蛛の糸に捕らわれてしまったかのように、全身が動くのを拒んでしまう。


 そして、世界そのものが書き換わっていく。

 世界から、音が消えていく。


「……直接なら」


 それは、どこかで……ほんの少し前にも感じた感覚だ。


 そして、伸びた手。

 そこに何か不吉なものが、そのすべてが集約されているような気がして、エヴァンは思わずその手から逃れるように一歩身を引いた。

 ほんの少し、逃れようと思っただけだ。

 しかし想定した以上に体の感覚は覚束なく、そしてやはり想定以上に体は大きく仰け反った。そのことにまた驚愕する。


「じっとしてて――」


 そんな言葉が、聞こえた気がした。

 それには不可思議な魅力と、そして不可思議な強制力が籠っている。

 きっと、抗えない類の何かなのだろう。

 己の体への命令権が、支配権が徐々に奪われていくのがその証だった。

 体が更に重たくなる。かと思えば、感覚の喪失とともに重力すらも感じられなくなる。

 もはや立っているのか倒れているのか、それを判断するのも視覚からのぼんやりとした情報でしか判断できない。


 手が、また近づいてくる。

 そこに意識が向かっていく。奪われていく。



――だがそれ以上に、エヴァンの意識を引き付けるものがあった。


 一歩身を引いたことで視界が広がった。

 彼女の顔、そして近づいてくる手だけに向いていた意識が視界の広がりに合わせて物理的に解放される。解放された僅かなリソースが、薄っすらと周囲にも向けられていた。



 そしてそれが、目に入ったのだ。



 灰色の石畳、そしてアスファルト。木製の洒落たテーブルセットや、ベージュから赤までと複数種類のブリックタイルの壁。セットとなるはずの賑わいは太陽とともに置き去りにしてきてしまったようだが、見慣れた街の景色がそこにある。流行り廃りの早さから、真新しさがちょっとだけ含まれる、それでもやはりいつもの光景。そこに、その中に混じった、カーキ色。

 薄く汚れたように見える、カーキ色。


――その色は、駄目だ。


 そのカーキ色は、人の形をしていた。

 そのカーキ色は、静かにそこにあった。

 そのカーキ色は、手を伸ばしていた。


 異様に白く、異様に細く、異様につるつると滑らかな手を。ティオラスの背後から、彼女の頭に向けて伸ばしていた。

 それは奇しくも彼女と少しの差異しか持たないポーズ。傍から見ればとても奇妙で、ともすれば間抜けにすら見える。まるで繰り返しのような光景で、しかしまるきり異なる異質な光景。


 あいつは、彼女に何をするつもりだ。

 あいつは、ティオラスに何をするつもりだ。


 害する以外、あり得るのか?



 それを認識するや否や、脳に熱いものが注がれる。支配権が一気に奪い返され、体を、意識を絡めとっていた不可視の何かが一気に払われた。


「っ!」


 今まさに彼女へと魔手が届く。その直前に、エヴァンはティオラスを片手で抱き寄せた。

 驚愕と困惑の小さな悲鳴が耳元でした。そんな気がした。


 伸ばされていた手は空を切る。

 それをどういう心境で捉えていたのか、エヴァンにはわからない。フードの下の表情は読み取れず、怒気のようなものも感じられない。いまだに〝気配〟すら感じられない。


『自由意志なんて、とっくの昔に摩耗してしまっているわ』


(意思どころか……!)


 人間でないことは、わかっている。変貌した後の、恐ろしいまでの圧迫感を身をもって知っている。

 しかし、今ここに〝ある〟これは、生命にすらも思えなかった。



「何で動けてっ――!」


 抱き寄せた胸元でティオラスが困惑の声を上げる。彼女はまだ、背後のそれに気付いていないようだ。

 だが、説明する暇も惜しい。


「化け物が出てくる心配は無いんじゃなかったのか!」


 エヴァンの目の前で、力気の感じられない五指が、泡立つ。

 ぼこりぼこりと皮下で筋肉が唐突な沸騰を迎え、中身が弾け始める。弾けるように、膨張を始める。


 反射的に、もう片方の手は再び拳銃を引き抜いていた。

 黒鉄の感触と覚悟をありったけ詰め込んだかのような重さが手のひらに収まった。


 そしてやはり反射的に。

 躊躇と理性が追いつく前に――引き金を引いた。

 撃鉄が落ち、薬莢内で火花が起きる。鉛の弾頭が、目を覚ます。

 雨音を掻き消して、けたたましい発砲音が夜闇を裂いた。


「きゃっ!」


 間近で唐突に響いた炸裂音に、ティオラスが耳をふさいだ。構っている暇はない。


 カーキのコートに穴が開く。何かが噴き出る。赤いそれは、おそらく血なのだろう。たとえ急速に色を失い、薄暗い何かに変わったとしても、血なのだろう。


 化け物は呻きもしない。怯みもしない。

 ただ指先周辺だけの小さな変化が、一気に全身へと向かう。

 びちびちと肉が波打つ。風もないのにコートが撓む。

 あの異常な姿になるつもりだ。そうなるように、命令されているのだ。


「させるかっ!」


 そうなってしまえばもう勝てやしない。

 その前に、撃ち〝殺す〟。


 二発目を放つ。三発目を放つ。四発目を放つ。


 四度の銃声と四度の衝撃。焼けた薬莢が四つ地面に踊る。カランと金属音を上げ、パシャリと水を跳ね上げた。


 銃弾は放たれる。

反動に手首が跳ね上がりそうになる。それを堪えながら。しかし休む暇などないと間断なく、ただただ引き金を引き続ける。

 至近距離だ、そのどれもが外れることなく、およそ急所と考えられる位置に吸い込まれていく。

 鉛の弾丸は容赦なく肉体に風穴を空ける。

 風船、あるいは気泡のように膨らんだ皮膚が弾け、変異しきっていないからか大量の内容物が吐き出された。


 化け物も、ただ為されるがままではない。

 呻きも上げない。怒気もない。

 しかしおそらくは持つことすらも許されていないだろう感情は、敵意は、生存本能は、それらすべては起こす行動に込められている気がした。


 変異が終わるより前に、眼前の敵を仕留めようと圧迫感が備わった腕を伸ばす。

 先に見たものより半分も届かないサイズの、しかし人のそれとは大きく隔絶した人外の手。それが、エヴァンの頭を握り潰すように伸ばされる。


 黙って突っ立っていれば、死ぬ。

 エヴァンの頭など簡単に潰れてしまう。

 車にひかれるより、鉄骨で殴られるより、高層ビルの屋上から飛び降りるよりよほど酷い潰れ方をするだろう。

 だからその前に、


「倒れろぉぉぉおおお!!」


 五度目の銃声。

 炸裂音が耳に痛い。音、というよりも衝撃が耳を苛む。鼓膜がいかれてしまったのか、自身の腕の先の出来事だというのに、まるで遠くのもののように聞こえた。


 銃弾は放たれる。

 放たれた弾丸は空気を切り裂き、内部からの圧迫に破れかけたフードの下へと飛び込んでいった。


 何か、致命的な何かが弾け飛んだ。

 化け物の体がビクリと跳ねる。

 それを認識しても、エヴァンの指は止まらない。


 引き金を引く。

 そして六度目が――――出ることはなかった。

 弾切れだ。


「クソッ!!」


 先に一発撃っていたのだ、弾を込めなおしたわけでなければ、六度目は決して放たれない。

 しかし六度目がなくとも、状況を劇的に変化させることには成功していた。


 どしゃり、と鈍い音を上げて肉塊が路面に沈む。

 糸が切れた人形のように倒れ伏す。


 中途半端に人から離れ、膨張しつつあった体は萎んだ嚢胞のように大きく撓んでいる。表面はどろどろと溶け出し、イーストタウンの工場地帯でよく見るような排水にまみれたかのようだ。


 破けた嚢胞からは血液にはまるで見えない半液状の何かがこぼれ出し、不気味な水溜りを作る。薄暗く、粘つき、鉄錆よりも腐臭に近い臭いを振りまく不浄の水溜り。そこに排水が合流し、不明な化学変化を起こしている。


 五発の銃弾を撃ち込んだ。その成果が、目の前にあった。


 倒れた化け物は、動かない。

 それでも、たった一発が撃てなかっただけでエヴァンはどこまでも不安を抱えたままだった。

 銃弾が効かないというイメージが先行しているのだ。何発撃ちこんだところで安心などできない、というのが本音だった。


 震える指先は引き金を撫で続ける。

 荒くなった息が煩わしい。

 運動をしたわけでもないのに、全身が熱く、騒がしいほどに唸る心臓から目まぐるしく血流が吐き出される。


「……エヴァン、大丈夫?」


 崩れ落ちた肉塊をただ見つめ続けるエヴァンの耳に、気遣わしげな声が届いた。キーンと甲高い音が響き続け、馬鹿になってしまった耳にもよく通る、不思議な声だった。


 煩わしいだけだった荒い吐息が頭に上った血を、それに伴って溜まってしまった熱を吐き出していく。


「……大丈夫、なんだよな?」


 片腕にあった柔らかく、そして温かな感覚を手放す。

 ティオラスの声に我に返ったエヴァンは、誰にともなく呟いた。

 そこには複数種の不安が内包されていた。


 もう起き上がらないか。

 もう起き上がらないのか。


 その大半を占めるのがこの二つの疑問だった。

 同じようで、正反対の疑問。不安。


 撃った。

 撃ち殺した。

 エヴァンは、一つの生命を――本当に生命と呼んでいいのか怪しいが――殺したのだ。


 それはこちらの命を容易く奪う化け物だ。

 しかもこちらに敵意を持っていた。勝てるとも、殺せるとも思っていなかったそんな化け物が再び起き上がるようなことは叶うことなら無しにしてほしい。


 それは化け物だ。人間じゃない。だから、殺したって何の問題もない。

 そのはずなのに。〝人間〟を殺してしまったかのような、禁忌を犯してしまったかのような感覚が精神の深いところに小さく、しかしなかなか落ちそうにないシミを作った。



おかげで達成感というものはまるで感じられない。不安ばかりが渦巻いて、安心というものが得られない。

 代わりに様々な感情が――およそ気持ちのいいものではないものがどっと浮かんで、処理の追っつかない精神が破裂しそうになる。


 いつの間にか雨は小降りになっていた。

 頬をしっとりと伝うのは雨滴よりも脂汗のほうが多い。


「本当に、大丈夫?」

「大丈夫な、はず」


 隣に立つティオラスにもう一度声を掛けられて、エヴァンは無理にでもその思考を引っ込めようとする。声音から、きっと心配そうな顔でもしているのだろう。簡単に想像がつく。


 しかし恰好でもつけたいのだろうか。こんな情けない思考をしていることを、彼女には知られたくないのだろうか。

 覚悟を決めたつもりでいたというのに、こうも簡単に揺れ動いてしまう。その弱さを知られたくないのか。

 焦りや不安など、およそ弱々しさばかりが占める表情のまま、そちらを向くこともできない。


(大丈夫、〝化け物になる前〟に殺せた……)

(大丈夫、相手は、〝人間じゃない〟……)


 渦巻く思考に、ひとまずの決着を与える。


 気丈を取り繕おうと軽く唇を舐める。雨滴に濡れた唇よりも、舌のほうが乾ききっている気がした。

 安堵の溜息を隠れ蓑に、胸の中に溜まり始めた未消化の感情を吐き出した。


「……さっきまでいなかったってのに、どっから沸きやがった」


 同時に悪態を吐けば、少しだけでも気が紛れる。


 これもある意味、偽らざる本音だ。

 気配がない。それは、この化け物の性質上仕方のないことなのかもしれない。しかし正面にいたのだ、近づくまで気づかないなんてことがあるのだろうか。

 そんな理不尽がまかり通るのならば、警戒なんて無意味じゃないか。


 そこまで考えて、そういえば直前にティオラスが〝何か〟をしようとしていたことを思い出す。

 霞がかかったように、激しい酔いに襲われたかのようにその時のことは思い出すことは難しい。

 それが何だったのか、いまだ判断はつかない。しかしそれが原因なのだろうと、一応の納得はいった。


 疑問一つを解消すれば、胸の中の濁りもまた少しは薄まった。冷静さが徐々に戻ってくる。

 早鐘を打っていた心臓も落着きはじめ、それに伴って頭も冷えてくる。


 そして、周囲に意識を割くだけの余裕もできてくる。


「しかし、これはまずいかもなあ」


 耳鳴りが収まり、穏やかな雨音も捉えられるほどに回復した。

 しかし、静かだった夜の街は、今は俄かに騒がしさを見せていた。遠くからは小さな悲鳴すら聞こえる。

 ちょっとした恐慌だ。


(ああ、普通こうだよな)


 発砲騒ぎがあったのだ、混乱が起きて当然のこと。


 あまりの非常識さの連続に、エヴァンはつい他人事のような感想を思い浮かべてしまう。

 警察署は遠い。

 通報を受けてから警察官が到着するまでには十分な余裕がある。しかし、ここはいわゆる高級住宅街にほど近い。寝静まった資産家の家に忍び込むような不届き者がいてはいけないと警邏中の警官がいてもおかしくはない。


 発砲したのは自分だ。このままぼけっと立ち尽くしていれば、お縄につくのもやっぱり自分だ。

 だが、焦るべきだというのにこの当たり前の騒がしさにほっとしてしまっていた。

 先ほどのように無理やり取り戻した平静じゃない。

 恐ろしい夜が終わった、そう肌で感じ取れてこその平静だ。



「早いとこ、ずらかろう。警察の力は借りたいけど、いらん疑いはかけられたくない」


 粘つくタールは、雨に溶け始めている。

 肉も、骨も、全てを溶かして排水溝に流れ始めている。

 カーキのコートだけが、そこに残るのだろう。


 被害者の姿がなくとも、転がった薬莢と撃ち切った拳銃。そしてそれを持った人物がいれば、あとはもう解決先含めて事件として成立してしまう。

 それは困る。


「……ティオラス?」


 だから早く逃げてしまおう。警察に助けを求めるのは少し様子を見て、ことが落ち着いたらしれっと顔を出そう、そう頭の中でシナリオを組み上げながら横に立つティオラスへと促す。


 しかし、彼女からの返答がない。

 そのことを不審に思って、彼女がいるであろう隣へと顔を向ける。




「――ごめんなさい」


 そして、冷たい手のひらが、エヴァンの額を捉えた。



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