3:逃走劇
「……どうして?」
もう一度、小さな呟きを耳が捉えた。
今度のそれは冷たさよりも、恨めしさよりも、歪さよりも。困惑が色濃く乗った呟きだった。
どういう意図を持つ疑問なのか、今度はエヴァンが首をかしげる番だ。
しかしそれがどんなものだったとしても、答える言葉は変わらない。
「そりゃ当然。困ってる女の子を見捨てるなんて、紳士のすることじゃあないからな」
気障ったらしくそう口走り、エヴァンはとうとう引き金へと指をかける。
的は、いつの間にかエヴァンの背後――彼女の正面遠くに佇んでいた不気味な影だ。
濡れそぼったカーキのコート。
ぶらんと垂れ下がった両腕。
握られた刃の異様に長い〝ナイフ〟。
フードの奥底から透けて見えそうな、暗い、昏い瞳。
彼女は、ずっと早くにそれに気付いていたのだろう。
だから、エヴァンを拒絶したのだ。
巻き込まないために。
「よう、不審者野郎。それがお前のオモチャか? 随分頼りない棒きれじゃあないか」
異様に長く、薄汚れたナイフ。
何かがこびり付き、雨に濡れた程度では落ちなくなってしまった使い古し。
「ここはアイビッドでも一番華やかな街だぜ? そんなお古はここには似合わない。かび臭い路地裏に帰っちまいな」
銃身を、不届き者の頭に向ける。
照準は布に隠された眉間を捉える。
脅しにはそれで十分だ。
しかし相手は止まらない。
ゆっくりと歩を進め、命の危機などまるで存在しないかのようにひたすらに一点を目指す。
その瞳に、きっとエヴァンは映っていない。
「……聞いちゃいねえ」
無理やり捻り出した喧嘩腰も、相手にされなければただのバカみたいだ。いや、実際バカなんだろう。馬鹿にでもならなければやってられない。
「脅しじゃねえぞ? その眉間を撃っちまったっていい。なんてったって目撃者はいないんだからな」
背後の彼女は、いざとなったら口裏を合わせてくれるだろうか。僅かな逡巡は脳の奥底へとしまい込んだ。
脅しは十分。
距離も十分。
ナイフと拳銃では明らかに拳銃が勝る。
そんな状況。
優位に立っている。そう考えてしまっても問題ない。
しかし、威勢のいいことを言いながらもエヴァンは内心苦い顔をしていた。
相手が足を止めないのだ。
そこにどうしても不可解さと不気味さを覚えてしまう。
それをさっさと排除しろ。そう最上位の指令系統の片方である本能から絶えず命令が飛ばされる。
おかげで引き金がものすごく軽い。
撃つ覚悟は――ある。
だがそれは最終手段だ。
相手がどうしようにもないほどの悪党で、守るべき彼女がこんな目に合う謂れのない人ならば。
相手が凶行に及ぼうものなら。
そうであったならば、エヴァンには罪を犯してでもそれを止める覚悟があった。そうしたい理由があった。
それでもやはり、退いてくれればそれが一番だ。
「……ビビったか?」
そんな思いが通じたか、ふとエヴァンの十か二十歩ほど先でそれはふらりと足を止めた。
そして、だらんと垂れ下がった腕、革の手袋に握られていたナイフがするりと地に落ちる。
カラン。
錆付いた金属音を耳が捉えた。それも、すぐに雨音に掻き消える。
これで場は収まるはずだ。丸腰で殴り掛かってくるようなことはないだろう。凶器を捨てることで相手に発砲を躊躇わせる、そんな心理戦を展開しよう、なんて風にも見えない。
もう安堵していいはずだ。
しかし、とある違和感だけが消えずに脳裏に残った。
違和感が、連鎖的に不安感を引き連れてきた。
なぜナイフなんだ? あいつは確か、金槌を持っていなかったか?
得物が違った。
いまだジクジクと痛む肩は、金槌に殴られたせいだ。間違えるわけがない。
単に持ち替えただけだろうか。
邪魔者であるエヴァンをより確実に排除するものを選んだだけなのだろうか。
「何とか言えよ。それとも、怖くて震えて声も出ないか?」
震えそうなのはこちらだ。
わからない。
相手が一体何を考えているのかがわからない。
引き金にかかった人差し指。そこに今にも力が込められそうになる。
思考が回る間にも、葛藤に呻く間にも事態は動く。
ふらりと立ち止まった襲撃者は、またしてもふらりと歩き出す。
そして、近くにまで来てようやく差異が見えてきた。
(……別人?)
先に出会った奴は、もっと大きかった。
先に出会った奴は、おそらく〝男〟だった。
だが、目の前の人物は、おそらく〝女〟だ。
(……本格的に、ヤバいのに首突っ込んじまったかもなぁ。〝複数〟いるのかよ)
謎が一つ解けたとしても、まだ解せないものがある。なぜ得物を捨てたのか。話し合いで解決しよう、なんて雰囲気でもない。
もはや軽口も出てこない。
雨滴に混じって、冷や汗がどっと肌を伝う。
何をしてくるかがわからない。奇怪な行動をとるせいで予測がつかない。
エヴァンはただ拳銃を構え続け、そして相手の出方を慎重に伺い続けた。
「……てけり・り」
何かが、聞こえた。
***
「……は?」
変化は一瞬だった。
ゆっくりと、そして微細な変化だ。
しかし、決定的に崩れてしまったという意味ではやはり一瞬だ。
目の前に立つ襲撃者の体が不可思議に波打った。
ゆったりと余裕のあるコートの下で、体であろうものがもぞもぞと動き出したのだ。体をひねったわけでも、何か動作をとったわけではない。
何かが膨張するような、収縮するような、そのどちらもを繰り返すような。
ゆったりとした布が、はちきれそうなほどに膨張していく。袖に収まらないほどに何かが肥大し、この時期に着るには薄すぎる布を容易に弾けさせた。
不愉快な臭気が辺りに広がる。
しかしそれ以上の衝撃的な光景に、気にする余裕もない。この時点では、気づけてすらいなかったかもしれない。
「ああ、確かにこれは拳銃じゃ無理だわ」
びちゃり、と。
雨とは違う粘ついた赤い液体が路面に舞った。体の残骸なようなものが引っ付いた何かが転がった。
目の前にいた、〝人間だったもの〟の上半身が弾け飛び、代わりに歪に盛り上がった肉の塊が取って代わった。
辛うじて、頭と腕のような突起が見えるが、大半は脈動する肉塊だ。どす黒い肌色で、ゼリーのような半濁の表皮の下には肉体を構成するような器官が薄っすらと透けて見えた。
赤い液体が、いつの間にか闇色の粘液へと変わっていた。
それは明らかに化け物だ。
恐ろしい。
気味が悪い。
そんな陳腐な感想でしか言い表せない、そんな化け物だ。
足が震える。手が震える。声が震える。
冷汗が際限なく溢れ出し、激しい動悸のせいで血管による処理が追い付かない。どくんどくんと体中が心臓になったかのように跳ね回る。一方で脳が要求する血液量が増大し、しかし見合った量は届いてくれない。
眩暈がする。
いっそ笑えてくる。
それでも、無様に逃げ出すようなことはしない。みっともなく泣き叫ぶようなことはしない。
それは矜持か、それともアルコールが残ってるだけだろうか。どっちだろうか。
「――今なら」
背後から、声が掛けられた。
一瞬それが誰のものかわからなかったが、すぐに彼女だと思い当たった。
一度は恐ろしいと思った彼女の声が、今はそこはかとない安心感を与えてくれた。
「今なら、逃げればきっと見逃してもらえるわ」
「……そうは見えないがなあ」
「いいえ、大丈夫よ。だって、あれの目的は私だけだから。関係のないあなたは、きっと見逃してもらえる。そうさせる。させてみせる」
きっぱりと言い切る。震えもない。薄っすらと香る絶望と、そして何よりも強い覚悟がそこにあった。
恐怖を堪えるのに忙しい自分と違い、彼女には随分と胆力があるようだ。
どんな自信が彼女にあるのだろうか。
目の前にあるのはエヴァンの知らない世界だ。だから、想像できない。
それでも確実に助かる、そう思わせる何かが彼女の言葉にはあった。
先のようなよくわからない強制力とはまた違う、しかし未来が見えるかのような、あるいは未来を決定づける力でも持っているかのような、そんな力強さがあった。
今なら、この地獄から逃げ出せる。
「でも、駄目だ。それじゃああんたは逃げられないってことじゃないか」
「私は大丈夫よ。それに、拳銃なんかでどうにかなる相手じゃないわ」
さっきから、いったい何が大丈夫だっていうんだ。それがわかれば苦労もしない。ただ、それがわかっても自分は同じ選択をしただろう。
「なあ、あんた。名前は何ていうんだ?」
「――え?」
「俺はエヴァン。エヴァン・レイクスだ。これでもエリートなんだぜ? で、あんたは?」
「わ、私は――って、今はそんなことを言ってる場合じゃ!」
肥大した体を、その重量などまるで感じさせないように悠然とそれは歩く。
肉体が脈打ち、ミミズが這うように、絵の具が垂れるように、タールが伸び広がるようにそれは形を変えながら歩く。
「大事なことさ。薄情な話だけどな、友人か赤の他人かじゃあ、やる気に随分差が出ちまう。だから、大事なことなのさ」
残酷な話だが、目につく全てを救おうなんて、無理な話だ。きりがない。必ずどこかで線引きをする必要がある。エヴァンにとってのその一つのラインが、『友人』だった。
「友人……」
手のような突起が盛り上がる。伸びる。膨れ上がる。それは大きな腕となり、力強い五指が生えた。
「……ティオラスよ。ティオラス・ヴァーノン」
「ティオラスか。きれいな名前じゃないか」
「……あまり、好きじゃないのだけれど」
「……それはすまんかった」
どうにも、先ほどから決まってくれない。
それでも、強張った顔が苦い笑みには変わってくれた。
歪で、醜悪で、凶悪な拳が握られる。
ゆっくりと、緩慢に、悠々と、それは持ち上げられる。掲げられる。
そんな意図はないのだろうが、強大な体を見せびらかすように振り上げられた。
「まあ、なんだ。友達は、大事にしないとなっ!」
すっかり軽くなった引き金が、とうとう引かれた。
***
「やっぱりダメかぁ!!!」
「だから言ったじゃない! 無理だって!」
悪魔を払うはずの銀の弾丸はどうも不良品だったらしい。
通りはした。
放たれた弾丸は粘液とゼリーの中間のような化け物の体に穴をあけ、きれいに通過した。
通過しただけだった。
怯むことも悲鳴を上げることも、そして必要以上にその内容物を吐き出すこともなければもう効いていないとみていいだろう。
「じゃああんた――ティオラスはどうするつもりだったんだ! 教えてくれよ、手伝うから!」
「わ、私は、その……」
「……うっそだろまさかの考えなしか……!」
「そういうわけじゃ……い、いいからほら! 早く走って!!」
拳銃が通用しないなら、もう走って逃げるしかない。
現在は二度目の追いかけっこの真っ最中だ。
人気の途絶えた街中をひたすらに走る。
目的地は警察署だ。そこまで行けば……解決とは言い切れないところが恐ろしい。それでも拳銃ではなく散弾銃や小銃なら、機関銃ならなんとかなるかもしれない。どれだけ配備されているのかは知らないが、そう信じて走るしかない。
少なくともエヴァンには他に打てる策がない。
「……! こっち!!」
「きゃっ」
ティオラスの手を取って、急な方向転換をする。肌すら切り裂きそうな風切り音が真横を通過し、崩落音と、場違いにすら思えるべちゃりと何かが潰れる音を耳が捉えた。
「なんでもありだなチクショウ!」
肉塊が、飛んできた。
横目で確認したところ、体の一部を弾き飛ばしたようだった。
おそらくは腕の一部だろう。
エヴァンたちは咄嗟に通りに飛び込んだため無事だったが、たったそれだけで直線状に放置されていた屋台の一つが吹き飛んだ。
「……誰も死んでないだろうな」
この時間帯にこの天気だ。
明かりも灯っていなければ、人影もなかった。もし万が一屋台の中で居眠りにふけっていたのだとしても、この騒ぎに気付かないというのも考えにくい。何せすぐ近くで拳銃一発を放っているくらいなのだから。
あの屋台は間違いなく無人であった。明日の朝に持ち主が間抜けな叫びを上げる程度で済むだろう。片づけを怠った自分を恨んでくれとしか言えない。
だが、これが店舗や民家ならどうだ。
あの威力を見るに、レンガや石の壁程度簡単に砕いて見せるだろう。そうなれば、屋内にいた人にまで被害が及ぶかもしれない。
幸いここは繁華街だ。住宅と一体型の店舗は少なく、運悪く〝当たり〟さえ引かない限り人は死なない。
誰一人野次馬が現れない、それどころか窓から覗く顔の一つも見当たらない以上、そのことをよく表して――
――いや、そもそも。
今のような大きな音でも、誰も騒ぎに気付かない。そんなことがありえるのだろうか。
喧嘩とはわけが違う。
巻き添えを恐れて顔を出さないだけかもしれない。この異様な状況を肌で察して、部屋に厳重にカギをかけ、布団に包まり嵐が通り過ぎるのを待っているのかもしれない。
それでも己に被害が及ばないか、確認くらいはしたくなるものだろう。安全圏からそっと様子を伺うくらいはするものだろう。
それすらもない。
街が起き始める気配がまるでない。
そもそも、なぜ寝静まってしまっている?
「……っ! クソッ!」
生憎考えている暇は与えてもらえない。
背後に無機質な圧迫感を覚え振り返ると、あの化け物もまた路地を曲がるところだった。
目が合うことはない。溶けだしたかのような表面には目や口のようなものが見当たらない。
それでもソレは確実にこちらを視認している。
また、腕が振り上げられる。
「あっぶねえなあ!」
隣を走っていたティオラスを抱えるようにして横に飛ぶ。
粘液の塊のような、ぶよぶよとした肉塊のような何かが脇をすり抜けた。
飲食店の立て看板が弾き飛ばされる。これで明日のモーニングメニューは店に入ってからのお楽しみだ。
中心街に来たのは失敗だったか。
遅い時間ではあるが、普段はいくつかは店が開いていたりする。明け方まで明かりが消えない店だっていくつもある。閉店後の片づけ等で帰りが遅くなるものがいる。警備のために残るものもいる。
そのはずだったのだが、どこまでも静かで、薄気味悪さすら覚えるほどに無人だ。
こんなことならどこかのバックストリートにでも紛れるべきだったか。
中心街は一本道が広く、そしていちいち長い。商売には向くのだろうが、こうして追われている状況に限っては都合が悪い。なかなか視線を切れず、いくら相手の足が遅くとも一向に撒くことができない。
「こっち!」
「おいっ! そっちはっ」
今度はティオラスが手を引いた。ようやくの曲がり角を危なげに曲がる。唐突なことで危うく転ぶところだった。
ここを曲がるつもりはなかったのだ。
そちらに向かえば警察署から遠のいてしまう。
「本当にこっちでいいのかっ!?」
彼女が飛び込んだのは三番街へと向かう通り――今いる中心街から北西方向に続く通りだ。途中で右折すればいい話ではあるが、中心街をひたすら北上すればたどり着く警察署とは方向が違う。
「まずはっ、人通りのあるところまで行かないとっ」
「そりゃそうだけどさあ!」
警察署は二番街に位置する。中心街から僅かに離れる程度で、二番街自体人の多さとしても三番街よりも多いはず。だから、エヴァンは真っすぐ警察署を目指していた。
しかし南北に伸びるアイビッドという都市の特性上、距離的には三番街よりも遠くはなってしまうので、彼女の行動もおかしいとは決めつけられない。
二番街へとたどり着くまでに、途轍もなく走る必要がある。そのことが、必死さゆえに勘定から漏れてもいたから尚更だ。
だが、人通りのあるところ。
本当にそんな場所があるのだろうか。
そんな不安が、エヴァンにより人のいる可能性の高そうな二番街を目指すことを優先させていたのだろう。
なにせ中心街がこのありさまなのだ。
今この世界には、自分と彼女の二人と――あの化け物一体しかいないのではないか。そう思えるほどに静まり返っている。
今までに感じたことのないほどの疎外感。
人の輪からつまはじきにされた、なんて程度の話ではなく、世界そのものから排除されてしまったかのような――あるいはその逆でほかの人間がすべていなくなってしまったかのような空虚な雰囲気が周囲を満たしている。
月すらも見守ってくれない。
雨音だけがギャラリーだ。
そもそも、ギャラリーがいていいのだろうか。巻き込む人が増えるだけではないのか。
相手が人間なら、人目に付くのはまずいと諦めるかもしれない。
しかし相手は化け物だ。人間の形をしている時からすでに話が通じなかった、生粋の化け物だ。化け物がその程度で諦めるのだろうか。
やはりここで無理を通してでも警察署へ向かうべきではないのだろうか。
いや、警察署に行ったところで、そこも無人だったら?
そうなればもう、どうすればいいのだろうか。
「ああくそっ! わかったよ! ついてってやる!! どうとでもなりやがれってんだ!」
自分の頭はもう限界だ。何もいい案が重いつかない。
おそらく、彼女にはエヴァンにはない知識があるのだ。それもあの化け物にも通ずる何らかの知識が。もしかしたら弱点だって知っているのかもしれない。
だったら考えるほうは任せてしまうのが一番だろう。
なら自分は、せいぜい盾になるくらいの活躍を期待していてもらおうではないか。




