2:邂逅
「クソッ、ひでえ雨だ。傘なんて持ってねえぞ」
すっかり夜も更けた後。
日が落ち始めるにつれ人が増え始めた後にも居座り続けたエヴァンだったが、終業の時間になると店仕舞いだととうとう蹴りだされてしまっていた。
今はザ・ブルーティットの入り口の前。
目の前に広がる景色は街灯が極端に少ないということもあって闇色の壁でしかない。前もろくに見通せないほどの暗闇と降り注ぐ雨の中、記憶と照らし合わせてようやく建物の影が見えてくる。
静かな店内から一歩外へと出てみればこの土砂降りだ。安寧の地から放り出され、途方に暮れている状態である。
幸い、気分だけはそれほど悪くない。今の空模様と同じくらいに荒れていた心持ちであったが、酔いがすべてを有耶無耶にしてくれていた。
平衡感覚、そして若干の胃のむかつきと引き換えに、頭の奥底に積もっていた淀みはアルコールにすっかり溶けてしまっている。今のエヴァンの頭の中には将来への不安も教授への罵詈雑言も世界の理不尽さへの嘆きも何も残っていない。
当初の目論見としては大成功である。
だが新しい苦難はまた別だ。
深酒をした後はいつも夢心地で、後悔するのはやはりいつも翌日ばかり。それなのに今日ばかりは心地のいい酩酊感に文字通り水を差されてしまっていた。
間違いなくこの真っ暗でどんよりと濁ったような夜空のせいだろう。
決して手の届かない天井から落ち続ける雨漏りは服を濡らし肌を濡らし、そして不純物を多く含んだそれが体を少しずつ侵していく。
あの見るからに体に悪そうな煤が雨に溶けていると言うのだから、不快に思うのも当然だ。
単に衣服が水気を吸ってしまうだけでもふらつく体にとっては鬱陶しいというのに、連鎖するように膨れ上がる諸々の不快感に顔をしかめずにいられない。
頬から顎を伝う水滴を拭う。
袖も濡れている。またすぐ別の一筋が落ちてきた。まるで切りがない。
一つ大きな舌打ちをするだけして、エヴァンはようやく足に指令を出した。
繰り出されたのは進めの指令と急げの指令。
どちらも酔った頭でもスムーズに受理された。体のほうも余計には濡れたくはないのだろう、動き出した体は素直に帰路を急ぐ。
若干足取りは怪しいが、一面水に浸っていては水たまりを避けるなんて面倒なこともする必要もない。何より靴も裾ももう浸水を許している。おかげで一歩足を踏み出すたび、不快感は積もりゆく一方だ。
長いようで短かった路地裏を抜け、ようやく表通りへと出る。
せせこましい裏通りに比べ幾分開けているせいか、より頬を打つ雨粒が強くなった。
手で傘でも作らないと前を向くのも億劫なくらいだ。
見たところ道行く人は少ないようだった。
いるのは自分と同じような酔っ払いや、濡れとは無縁の快適な乗り物。強まるばかりの雨脚の中、歩行者に限ればほぼいないと言っていいだろう。
気が早い人は暖かな布団に包まれて夢の世界へと旅立っていてもおかしくはない時間なのだ、そこに疑問は覚えない。
ただ、同じ不幸を分かち合う者がいないというのはどことなく寂しいものだ。
自分も早く夢の世界に逃げ込みたい。できるだけいい気分を保ったままベッドに飛び込みたい。
そう暖かなベッドを想像し、冷たい雨に打たれ冷え始めた体と比較する。僅かな疲弊と酔いに包まれた体で飛び込めばそれはいったいどれだけ気持ちいいことか。
そしてこのまま雨に打たれ続けることのどれだけ不快なことか。
バランスは今のところ拮抗している。しかし均衡が崩れるのもすぐだろう。
急かすような意見がにわかに増え始め、エヴァンは歩調をもう一段階上げた。
そうして広い一本道を進むさなか、ふと、視界に金色が混じった。
唐突のことで、エヴァンは一瞬それがなんだかわからなかった。
頭が回っていなかったというのもあるだろう。
雲に隠され雨に消え、顔をのぞかせない月を思い起こされるような、柔らかな金色だった。
ただただ、それはきれいだった。
金色は――髪だった。
光に誘われるように視線は金色を――女性の横顔を捉え、ピントも可能な限りに調節される。
影をはじくような白い肌。すらりとどこか冷涼な印象を与える輪郭に、背中にまで伸ばした、緩やかにウェーブのかかったブロンドヘア。雨に濡れ、水気を含んだ様は妙に色っぽい。
十歩も距離はないが、アルコールの影響が拭い切れず、若干ぼやけた視界では表情までは見て取れない。しかし目が覚めるような美人だった。少なくともそう都合よく捉えられるほどには美しい造形をしていたような気がした。
いいものを見た。
そう単純な思考ばかりが席巻し、エヴァンは幾分気分をよくする。
現金な話だが、雨に濡れた甲斐があった。
そう先ほどまで非難と愚痴の嵐だった一大勢力が手の平を返すほどにはエヴァンの視線はその女性へと釘付けになっていた。
彼女は自分と同じように路地裏から飛び出してきたようだった。小走りで、これまた自分と同じく傘を手にしていない。
きっと自分と志を同じくするものなのだろう。疑いを持つこともしない。
妙な親近感を勝手に覚え、デリカシーと呼ばれるものが幾分低下した状態でエヴァンは不躾にも女性をじっと見つめていた。
目を奪われたのだと、目の保養なのだと、そう言わんばかりに眺めていた。軽く口笛すら吹きそうだった。
そう、魅せられていたことが幸いしたか。
アルコールでうまく機能しない頭に、よくわからない緊張感が顔を出した。それは何かを警告するようで、火照りと冷えで狂い掛けていた体温も一気に片方へと傾いた。
なぜか、背筋に冷たいものが走った。
その原因は女性のほうにあるようだ。
唐突に訪れた妙な焦りと違和感。
それを解消したく、エヴァンは原因である女性へと更に意識を傾けた。
彼女のどこがおかしい?
ただ、美人なだけではないのか?
急いでいるのも自分と同じ理由だろう。
わからない。
わからないから更に細かく分析する。
彼女はこちらに気づくこともなく、いや気を払うことすらない。わき目も振らずに歩を進めている。
走っている。
直進する。
直進している。
その先は、車道だ。
それに気づけば、酔いも霧散するというものだ。
深夜にほど近い時間帯とはいえ、車通りが全くないわけではない。
信号も、赤だ。
エンジン音がする。
それが前から来ているのか、それとも後ろから来ているのか、そこまで頭が回ることはなかった。
考える余裕がなかった。
視線の先の女性が、それにすら一切意識を向けていないことに――迫る車を無視して飛び出そうとしていることしか頭になかった。
「ちょっ、おいっ!」
早足から駆け足へ。
急な重心の変化に一瞬体が倒れそうになる。
それを何とか踏ん張りこらえ、エヴァンは女性へと駆け寄った。
「おいって!」
「――えっ?」
そして、今にも車道へと飛び出そうとしていた女性の腕を何とか掴んだ。
クラクションが耳に痛い。
間近で浴びたフラッシュで目が眩む。
しかし、その中で。
驚愕と焦燥と――そして恐怖の浮かんだ表情を、エヴァンは見た。
***
「あんたっ、信号くらい確認しろよ! というか車が来てることくらい――」
「――離してっ!!」
「おいっ!?」
ひどく怯えた表情で彼女は叫んだ。
同時にエヴァンの手を振りほどこうと激しく体を捩る。思わず手を放しそうになった。
「落ち着けって!」
確かに急に腕を掴まれたら、それは怒るし怖いだろう。
彼女の目には今のエヴァンは不審者か何かに映っていてもおかしくない。そのことに理不尽さと若干の憤りを覚えずにはいられないが、しかし今はそれどころではない。
車に轢かれるところだったのだから。
最悪死ぬところだったのだから。
どれだけ急いでいたのかは知らないが、相手のことを思えばこそここで引くわけにはいかない。こちらも酔っ払いだ、説教なんてしない。しかし注意くらいはするべきだろう。
そのためにはまず彼女を宥める必要がありそうだった。
相手が動転していると、こちらは平静を取り戻すものだ。
ひとまずの危機も去ったということもあって、落ち着きの戻ってきたエヴァンは少しばかりバツの悪さを覚える。
正しい行動をした。
その自信はあるが、掴んだままの腕と相手の必死さがそれをより顕著にさせる。
先ほどまで無遠慮にこの女性を眺めていたというのもあって尚更だ。
相手は酔っているようには見えない。
しかしヒステリーは間違いなく起こしているだろう。
(美人に睨まれんのは怖いんだよなあ)
これは憎まれる。恨まれる。最悪自分が警察に突き出されるかもしれない。
そう最悪の可能性すらも覚悟して、改めて相手の顔へと目線を移す。
しかし、そこにあったのはエヴァンの予想とは違ったものだった。
てっきり自分に対して怯えと恐怖とを含んだ視線を向けているものだと思っていた。
だが、どうにも視線は自分に向いていない。
そのことに一瞬、ほんの一瞬呆けてしまう。
「ダメッ!! 避けてっ!!」
今度は、ひどく絶望した表情で彼女は叫んだ。
しかしやはり、視線は自分に向いていない。
それは、背後に向かっていた。
「えっ?」
確かめよう。
そう思ったわけではない。ただ何となく、何となくエヴァンは半身になって背後へと顔を向け――
――そして、昏い瞳を見た。
ゾクリ、と得体の知れない悪寒が体中を駆け抜けた。
しかしそれも一瞬だ。
次いで訪れたのは痛み。体を凍てつかせそうなほどの寒気にも劣らない、強烈な痛みが体を貫く。
「――ってぇ!!?」
体にため込まれた冷たさが、悲鳴とも怒声ともとれない声とともに吐き出される。
それがいなくなれば後はもう、熱いものが肩を起点に勢いよく広がっていくだけだ。痛みと熱と、そして衝撃。一番最後に訪れたもので、エヴァンはようやくその正体を知ることになった。
槌だ。
ごくありふれた金槌が己の肩の筋肉にめり込んでいた。
それは今なお深々と沈んでいく。めり込んでいく。地面に縫い付けんとばかりに力が込められている。
何故?
痛みで思考がパニックを起こす中、当然の疑問が頭に浮かぶ。しかしその答えを得るより先にまたある疑問が、ある可能性が浮かび上がる。
〝もし〟を思い浮かべてしまう。
そしてそれは前者に比べ簡単に答えを示してくれた。
もし振り返っていなければ。
もし体を少しでも動かしていなければ。
もし、相手にその気があったのなら。
もしかしたらそれは肩ではなく、頭に当たっていたかもしれない。
「――何っ、すんだっ!」
あまりの痛みに麻痺した腕ではそれを払うことができない。もう片方も女性の腕を掴んだまま。
だから、痛みを――恐怖を隠すかのように沸き上がった怒りは、そのすべてを足に込められた。
躊躇も自重もない。半ば反射的に膝蹴りが放たれる。
不安定な体勢ではあった。
しかしその中でも渾身の力を込めて繰り出された膝は見事不気味な襲撃者の腹を捉えていた。
常人ならばそれだけでノックダウンしそうなほどにきれいに鳩尾へと突き刺さる。
「うっそだろ!?」
しかし手応えは芳しくない。
相手は苦痛に悶えるどころか、反応の一つも見せやしない。
まるで意に介することなく、一歩引くことすらない。蹴った反動でこちらが押し返される始末だ。
足に根っこでも生えてるんじゃないか、そう思いたくなるほどにそれは動かない。
確かに人を蹴った感触だった。酔っぱらって岩かなにかと見間違えている、なんてこともない。
幸か不幸か、肩へと噛みついたままだった金槌は外れていた。痛みと破壊を与え続けていた凶器から逃れられた。
しかしそれは二度目を誘うことにもなる。
徐に腕が振りかぶられる。
コートの袖が捲れ驚くほどに白い、そして細い腕がのぞく。雨に濡れてらてらと光るそれはなめくじのように見えた。
徐に腕が振り下ろされる。
エヴァンの目にはその動作はひどく緩慢に見えた。だというのに、いつの間にかそれは目の前にまで迫っていた。
不味い、そう考えた時にはもう遅い。
それは今度こそ頭を捉えるだろう。
風を切りながら、しかし粘つく液体の中を進むかのようにゆっくりと近づくそれをエヴァンは見つめる。見つめるしかできない。
バランスの崩れた体では次のアクションをとるまでに時間がかかってしまう。それはほんの僅かなラグだ。しかし致命的なラグでもあった。
武骨で、重厚で、シンプルで。
そして塗料とも錆とも違う何かがこびり付いた鉄の塊が、今まさにエヴァンの眉間に振り下ろされようとして。
「っ!?」
ぐい、と体が後ろへと引かれた。
今度こそ踏ん張りがきかない。
思わぬ方向へと力が働き、エヴァンは為されるがままに引きずられた。
千鳥足ともタップダンスともとれるほどに足は忙しなく動き、何とか地に倒れることだけは防ごうとする。
そう悪戦苦闘する中でも事態は動き続けたままだ。
再びクラクションに耳が潰れる。
フラッシュによる目の眩みは、もう慣れてしまった。
腕を引かれた。
というよりも、腕を掴んだままだった。
エヴァンが自発的に動いたのではなく、ここにいたもう一人、金髪の女性が動いたことでそれに引きずられてしまった形で窮地を脱することができていた。
彼女はそれを意図していたようで、ふとした拍子に外れたエヴァンの手を、濡れた手で、白く、しかし暖かな手で掴み取っていた。
「あ、あんたっ、いやっ、一体なんなんだあいつは!」
「今は走って!」
「わ、悪いっ……」
混乱をそのまま形にしたような叫びは厳しい一喝でもって切って捨てられる。そうすればもうこんがらがった思考ごと潰されてしまう。結果冷静ともまた違う、ただの思考の空白状態へと落ち着いた。
道路を渡り切り、そこでふと、一度背後へと目を向ける。何か情報が欲しい、そう無意識にでも至ったのだろう。
鳴りやまないクラクションがそこにはあった。
何故か? 理由は単純だ。あの男――恐らくだが――もまた無理矢理にも道路を渡り追いかけてこようとしているからだ。
「どんな神経してんだよ……」
悠々と、車などまるで妨げにもならないとそれは歩を進めている。常識が欠如しているのか、危機意識が蒸発しているのか。
命を顧みず、ただまっすぐ正面を、こちらだけを見つめてそれは進み続ける。
もう、細部など見えないほどには遠のいた。
しかし、あの昏く淀んだ目が頭から離れない。
見えないはずなのに、見えてしまう。
無機質で、もはや純色と呼べるほどに平坦で、鮮やかで、しかし正反対に濁り切った、昏い瞳を。
悍ましい闇に呑まれそうになったところで、エヴァンは勢いよく頭を振った。こびりついた泥を落とすように、水面から顔を出した直後のように。
言われたばかりだろう、今はただ走り続けるべきだ。
あんな異常者に付き合ってやる理由もない。
さっさと逃げるべきだ。なんならこのまま警察に駆け込んだっていい。いくら怠慢さが目立つアイビッド市警だって今起こっている問題を無視したりはしないだろう。
そうして走り続けること幾ばくか。
いつの間にか引かれていた手は反対に引く方へと回り、疲れの見えてきた彼女を先導する形になっていた。
追手の姿は振り返っても見当たらない。
視界ももうはっきりしている。エヴァンはもういちど入念に周囲を見回した後、ようやく一度足を止めた。
足は自然と中心街へと向かっていたようだった。中心街の最南端。端っことはいえ、周囲はブランウィッドとは一風変わった、近代建築のやや目立つ繁華街へと移っている。建物の密集具合はさして変わらないが、立ち並ぶのは高層のビル群が多く、個人店よりもデパートのような大型店舗が目立つ。
ストリートも広く、都市内を巡るバスやタクシーの停留所、そして路面電車の線路なども引かれている。
大きな通り以外にも、こまごまと目の粗い格子のような大き目の通りが幾つもあり、所狭しと店舗が並ぶ。
それでも。道行く人はやはりいない。
「……大丈夫か?」
「……平気」
視線を僅かにおろすと、膝に手をつき、肩で息をする女性の姿が目に映る。
先ほどはそこまで気が回らなかったが、改めて見ると彼女はどうも自身と同年代くらいに見えた。一目では大人びて見え、年上の女性をイメージしていたのだが、こうして見ると顔には若干幼さが残っている。やや赤みの強い、大粒のアメジストのような瞳なんて子供っぽさすら覚える。
何とか酒が飲める歳、といったところだろうか。
「……災難だったな、あんなのに追っかけられて。ストーカーか? それとも元恋人だったりするのか?」
「そういうのでは、ないわ」
どちらに対する否定か、それともどちらともか。深く追及はしない。場を和ませようという軽口だったが、話題を間違えてしまったらしい。きっぱりと、そしてどこか冷淡な気配がビシビシと頬に突き刺さった。
らしからぬ失言はまだ酔いが残っているせいだろう。それか動転しているのだ。そういうことにした。
「……その、あなたこそ、大丈夫?」
「ん? ああ、そういえばっ……!」
思い出したかのように肩がじくりと痛み出す。酔いと、それと興奮か。それらが収まりつつあるためだろう。
感触から幸い骨にまでは届かなかったようだが、衝撃を一手に引き受けた僧帽筋が潰れてしまったのではないか、そう心配になるほどの痛みが蘇ってくる。
「その、ごめんなさい。巻き込んでしまって」
「……いや、自分から首を突っ込んだだけだから、気にしないでくれ」
痛みに震えそうになる声を何とか堪え、エヴァンは平然を装う。心配をかけたくない、見栄を張りたい。この二つを支えに軽い笑みさえ浮かべて見せるが、ぎこちなさが隠せない。強がりだと、見抜かれているだろうか。
「何か、何かできるといいのだけれど……」
「いやあ、打撲だからな、冷やすことくらいしかできないし」
「なら、せめてあなたは医者に」
「いいさ、こんな時間だ。どこも開いてない。そんなことより警察だよ。あんなヤバいやつに追われてんだ、早いとことっ捕まえて貰わなきゃな」
冷やすだけなら、不本意だがこの冷たい雨で十分そうだ。
真っ当な手当が遅れれば痛みも長引くだろうが、それでも緊急性は今のところ低い。より優先すべきことがあるのだ。
しかしその優先すべき事案に対処するための提案してみるも、何故か彼女の顔は曇りを見せた。
「……警察がどうこうできる相手じゃないわ」
「いや、戦車か何かに乗ってるわけじゃあるまいし。最悪拳銃一つでどうとでもなるだろ」
そう、己の懐を薄く意識しながらエヴァンは告げる。
彼女の言い分に少し不可思議なものを覚えつつも、できるだけごく当たり前という態度を意識してとっていた。
彼女は今、少し神経質になっているのかもしれない、胸中では不安が先行しているのだろう、そう考えてのことだ。
「でも、」
「大丈夫だって。連中怠慢さこそ目立つけど、軍人崩ればっかりだからな、荒事にだけは慣れてるだろうさ」
「……」
「心配するならストーカー程度で相手してくれるか、ってことくらいだよ。書類仕事ができないから仕事増やしたくないんだよ、あいつら」
納得したのかそうでないのか、彼女は黙ったままだ。
「……どうした?」
思わず、声をかける。
彼女のまとう沈黙には、なぜか重力すら伴いそうな不明な圧があった。
思わず、一歩たじろいでしまう。
気まずい空気がまるで意思を持ったように彼女の周りでぐるぐると渦巻いている。そんな光景を幻視しそうだ。
機嫌を損ねたのだろうか。
それともこちらが信用できないだけか。
なんにせよ、判別のできない理由をもとに彼女は静止してしまった。会話が途切れてしまった。
複雑な心境であるだろう彼女にかける言葉が、何かうまい言葉というものが思いつかない。思いつかない以上次の言葉を待って、こうして雨に濡れ続けるしかエヴァンにはできない。
(どうしたもんかな……)
焦れったい。
困ったように頭をかいてみるも、何も変わらない。
何もできずに立ち尽くしていれば、その焦れったさも次第に雨に溶けていくようだった。
ざあざあと、雨粒だけが音を支配する。
路面の上でばちばちと弾け、浅い、真水の海を形成していく。
リズムも何もなく。ただ間断なく響き続ける雨の音だけが耳の中で繰り返される。
ノッポの建物も、出されたままの屋台も、洒落た看板も単なる鉄のポールも、街頭も。
どれもが濡れるのを静かに受け入れる。
自分も、その一つに加わってしまっている。
意識というものが曖昧になり、自身とそれ以外の境界が曖昧になっていく。このままでは雨という無音の中、自らも背景の一つになってしまう。
おかしな感覚だ。
夜の闇の中、降りしきる雨の中、こうして佇んでいるというのはどうにも変な感覚だった。どちらのときも屋内にいることが通常となってしまっているため、落ち着かないのだ。
浮足立った、というのだろうか。
自分の立ち位置にすら違和感を覚えてしまう。
その違和感が、少しずつ強くなっていく。
自分の今の境遇も、そして彼女の態度にもそうだが、痛いほどの騒がしい静寂が……地面を打つ雨音くらいしか聞こえないこの街に、正体不明のズレを覚える。
違和感に抗うように思考を回せば、ごく単純な原因が思い浮かんだ。
(……疲れてんのか?)
それとも、動揺しているのだろうか。
そしてそれはきっとどちらも間違いない。
しかし、脳内を占拠する不明瞭なものは本当にそれで片付けていいものだろうか。
もっと考慮すべきではないのか。
何かに気付くべきではないか。
本能ではない、どちらかといえば好奇心に似たものによる忠告だ。手持無沙汰な以上、その忠告にすんなりと従い、それを探ろうと更に思考を傾けてみる。
そうしてみれば、もう一つの忠告が頭の中に警鐘を鳴らした。これはおそらく、本能によるものだ。
強い警告だ。
どれだけ深い眠りに落ちても、一瞬で引きずり起してしまうくらいに強い警鐘だ。
しかしもう遅い。
思考は、目は、もうすでに眼前の――あるいは夢想上の光景へと向けられてしまった。
覗いてしまった。
はじめは、力場のようなものだった。
彼女の放つ沈黙が。彼女を取り巻く空気が。
形のないはずのものが、はっきりと形を持っていた。手で触れれば掴めてしまいそうな空気の塊のようなものだった。それだけならばよかった。しかし、その発生源までをも探ってしまっていた。
〝目〟を凝らしてしまえば、心の奥底を掻き立てるような歪な影が形を作っていた。
この影は、どこから来るのか。
目の前にある気がした。
そして、同種の――あるいはまったく系統だけは違う不明瞭さが、周囲一帯にもある気がした。
いくつも。
いくつも。
いくつも。
この都市中に、いや――
「……どうして?」
小さく、そう聞こえた気がした。
空へと向けられそうになった意識が、そちらに向いた。
ひどく、恨めしそうな声だった。
人の声だ。
人ではない何かの声だ。
得体のしれない何かが、目の前に存在している気がした。
(……疲れているんだ)
かぶりを振って、不穏な思考を努めて頭から追い出そうとする。
目の前の〝彼女〟がそれだと、根拠のない、そして極めて失礼な妄執を排除しようとする。
いつの間にか〝目〟を閉じてしまっていたらしい。真っ暗な視界がゆっくりと光を、頼りない街灯の明かりを認識し始めた。
なら、今さっき見ていたものはやはり夢か何かなのだろう。
あのいかれた野郎にあてられたのだ、そう適当に理由付けをする。
下手をすれば、当事者である彼女より自分のほうが動揺しているのかもしれない。
沈黙なんて、もはや気にしていられない。
気にしている余裕なんて、きっとない。そう、根拠のない自信――否、焦りに端を発する確信がエヴァンに行動を促した。
「とにかく行こうぜ。なんにしても屋根のある所にいたいよ。このままじゃ風邪ひいちまう」
そう、いつの間にか呼吸も整っており、しっかりと立ち上がっていた彼女に向けて手を差し出す。
精一杯の行動だ。
声が、手が。もしかしたら、震えてすらいたかもしれない。
しかし。
「……大丈夫、私の家はこの辺りだから、もういいわ。ありがとう」
そう、精一杯に差し出した手のひらは、今までよりもなお冷涼な声で切って捨てられた。
「家って……まず警察に」
「明日でも、いいでしょう?」
それは、情けないことにエヴァンにとって甘い誘惑だった。
そして何より、思わず乗ってしまいそうな不思議な魅力と――強制力があった。
「早いほうがいいと思うぜ。放っておいたらどこかに隠れちまうかもしれない。あいつ、家にだって、押しかけるかも」
「大丈夫よ、それくらい」
「大丈夫なわけが――」
「大丈夫だから。あなたは早く帰って」
それでも己の矜持が、彼女の提案を否定する。
頑なに誰かの助けを拒むかのような、そんな彼女をどうにも放っておけない。
しかし有無を言わせぬほどきっぱりと、とうとう拒絶の意思がはっきりとわかるほどの口調でもって、彼女に告げられてしまう。おまけとばかりに睨まれてしまっては、エヴァンは口をつぐむしかなかった。
口をつぐみながら、彼女の顔をじっと見つめた。
雨音すらどこかへ掻き消え、今は激しく主張する心音しか聞き取れない。
冷涼な視線と、高まりゆく緊張感。
粘つく視線と、世界から切り離されたかのような不安感。
そんな中で、彼女を見つめた。
そちらを向くだけでも、よくわからない不安に襲われるというのに、目は自然と彼女の顔を捉えていた。
偶然だろうか。いや、違うだろう。
怖いもの見たさだろうか。いや、違うだろう。
目を逸らせなくなっただけかもしれない。
何か、切って捨ててはいけない何かが胸の中に芽生えていたのかもしれない。
もしかしたら、単に魅せられていただけなのかもしれない。
何だっていい。確信があった。
彼女はやっぱり、エヴァンの目を見ていない。
エヴァンの背後を見ていた。
(……なんだ)
震えが少し、収まった。
体を苛んでいた不安感が少しだけ霧散した。
残ったものへ対処できるくらいには、心にも余裕が戻ってくる。
なんだ。
冷たいように思えて、まるきり反対ではないか。〝恐ろしい〟なんて、やはり思い込みではないか。
否、それが真実だとして。
もう一つの真実を――彼女が優しい人だということだけを見ないふりをするなんて、一人背負おうとする悲しい覚悟を知らないふりでやり過ごすわけにはいかないだろう。
駄目だよなあ。
情けないよなあ。
怖がってしまうなんて。
逃げだしたい、そう思ってしまうなんて。
放っておくなんて、できないよなあ。
誰に向けた弁明でもない。一番近いとしたら、自分自身に向けた叱責だ。
胸の中だけで、そう呟いた。
溜息だってつきたい気分だ。
どうしてそこまでする必要がある? そう頭の中で誰かがこぼした。誰かなんて決まっている。自分だった。
ここまで来たらさすがにわかる。
これは尋常な事件ではない。
ストーカーなんて生温いものじゃない。
彼女はもっと深刻な、きっと自分程度には想像もつかないような事態に晒されているらしい。
そして、彼女自身にも〝何か〟がある。
ここには、無機質な邪悪がいくつも渦巻いていた。
当然、自分が華麗に解決するなんて万一にもあり得ない。
そう簡単にわかってしまう。
それでもだ。
それでもなお、懐に手を伸ばす。
しみったれたシャツの上から吊るしたそれへと手をかける。とっくに冷え切ってしまった指よりもなお冷たい感触を神経が拾う。
鈍い金属の指ざわりと、ざらついたグリップを手のひら越しに認識する。
それを、しっかりと握りしめた。
「人のこと言えないけどよ」
彼女が、意図がわからないと眉をしかめる。
当然だろう。彼女に向けたものではないのだから。
「――あんまりしつこいと、嫌われるぜ?」
怖い。
恐ろしい。
悍ましい。
わめきだしたい。
今すぐベッドに飛び込んで無様に震えているほうが百倍ましだ。
それでも、不思議と体も心も真反対の行動をとってしまう。
せめて格好つけよう。
そうすれば少しは紛れるだろう。
右手にずっしりとした重みが加わる。
それをまっすぐ前へ――背後へと振り返り、眼前にいたものへと向ける。
セーフティが外され、撃鉄が起こされる。
ゆっくりと、確実にそれらの動作をこなしていく。
初めて握るわけではない。
それでも、これほど重く感じたことはない。
初めて構えたわけではない。
それでも、これほど覚悟を込めたことはない。
手のひらよりも大きな、鉄の塊。
立ちはだかるものすべてを穿つように、愚直に前だけを向く穿孔。鋼鉄の矢を番えた回転式のシリンダー。
獲物を食らうに十分すぎる機構を備えたそれは、目の前の襲撃者をしっかりと捉えていた。




