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月に惑う愚者  作者: 南天
19/20

19:間違えてしまったから




 私は、どこで間違えたのだろうか。



 何もない部屋。

 暗闇だけがある部屋。

 生命が廃れていくにおいしかない部屋。

 終わりになるはずの自分が始まった部屋。


 そこで、ティオラスは自らの膝を抱いていた。


 硬質な床。

 舗装が一切なく、磨き上げた様子もない。

 しかし、そこは岩石や大地の地面でもない。

 冷たく、そして鳴動し続けている。

 ドクン、ドクンと。流体が大きなポンプでじんわりと送り出されるような。そうして広い、果てのない世界にただ無意味に吐き出しているような。

 その不安定なリズムは、よく聞きなれた音だ。体に刻み込まれているほどにそれはティオラスにとって馴染み深い。

 生まれる前から知ってる音だ。



 私は、どこで間違えてしまったのだろうか。



 思考がループする。

 何度も同じ問を自問する。

 折りたたんだ膝に、頭を乗せた。

 目を閉じて、耳を閉じて、世界から自分を切り離してみても、鳴動だけは去ってくれない。地につく足を、腰を、そして体全体がそれを受け止めてしまう。


 ドクン、ドクン、ドクン。


 それは、鼓動だ。



 ***



 私は、どこで間違えてしまったのだろうか。

 きっと、あれが言うように、生まれてきた時点で間違いだったのだ。

 でも、そんなことどうしようもないじゃないか。生まれたくて生まれてきたわけじゃない。生まれてくるなら、もっと普通に生まれたかった。

 母がいて、優しい父がいて。兄弟なんかもいたりして。

 そして、友達もつくるのだ。

 同性の友達と、異性の友達なんかも、いると嬉しい。


 幸せな家庭が欲しかった。

 普通の家族が欲しかった。

 こんな人を人とも思わない、人の形をしただけの者たちに囲まれるような家ではなく、もっと、どこにでもありそうな家庭に生まれたかった。


 ずっと、地下に生きてきた。暗闇の中で生きてきた。外に出ることなど本当に稀で、そのたびに新聞や書籍などを買ってみたりして、世間を知ったつもりでいた。


 でも、それは全部文字の中の話だ。


 人を知らなかった。

 ろくに目で見たことがない。話をしたことがない。心で触れ合ったことがない。

 だから、真っ黒な思考には友達も、家族も浮かばない。想像の中ですら私は一人だ。



 ……いや。一人だけ、いた。

 ほんの数時間だけの出会い。

 それでも、無限に想像が作れてしまう。

 お話の中で知った世界に、彼とともに行ってみたくなる。

 喫茶店というものに初めて行った。

 電車というものに初めて乗った。

 今度は、彼の育ての親を紹介してくれるのだと言ってくれた。


 たった数時間。

 その記憶を思い出すだけで、繰り返すだけでずっと時間を潰せてしまう。暗闇の世界に、今日になってようやく色がついた。



 ドクン、ドクン、ドクン。



 鼓動が、現実へと引き戻す。


 私は、どこで間違えたのだろうか。

 彼が言ったように、とっとと生まれた街から、アイビッドから出ていけばよかったのだろうか。

 しかし、この都市から逃げたところで、自分は果たして生きていくことができただろうか。まともな人生というものを送ることができてしまったのだろうか。

 ここでの暮らしと、この暗闇の世界と何一つ決別せずに、ただ逃げるだけで私は変われただろうか。


 無理だ。


 ずっと、ついて回る。

 狂信者たちはきっと私を諦めないだろう。

 彼らが目的を成し遂げるための唯一の鍵なのだから。

 それ以前に、私自身が捨てきれない。忘れられない。彼らの影に、シャルワトルの影に怯えながら過ごさなければいけない。

 私が殺した――を忘れられない。

 そんなものに、決して耐えられるとは思わない。

 ただの一週間程度でも、そうだった。



 ドクン、ドクン、ドクン。


 鼓動が、沈みかけた意識を引き上げた。



 私は、どこで間違えたのだろうか。


 抗うことをやめたのが、間違いだったのだろうか。彼とともに、シャルワトルに抗えばよかったのだろうか。

 顔を持たない怪物が囁いた提案を、跳ね除ければよかったのだろうか。


 今なら、馬鹿な選択をした。

 そう思える。

 しかしあの場では、あの状況では他にとれる選択肢がなかった。そう思っていた。

 あれ以外は、どうあがいても彼を――エヴァンを見捨てる結果につながってしまう。その選択をすることだけは、何を間違えてもあり得なかった。


 そうすれば、彼を救えると思っていた。

 結果は、なんとも間抜けで――救いようのない終わりを招いてしまったのだが。



 ドクン、ドクン、ドクン。



 どうしてそこまで彼に固執するのか。

 そう思わないでもない。

 自分はまっとうな感性を持っているとは到底言えない。倫理観も――多少はまともであるはずだが、それでも世間一般からは大きくずれているのだろう。

 自分の中にある他者の命の価値などは、きっと軽い。恐ろしく軽い。


 もしも誰かが危ない目に遭っていたとして。

 命の危機に晒されていたとして。

 自分はどうするだろうか。

 自分の力でなんとかできるのなら、助けてあげようとは思うだろう。

 逆に自らも同じ立場にいて、自分を悩ませるようなものや、自分の行動を邪魔する、枷になるような場合は容赦なく切り捨てる。

 きっとそうだ。


 ではなぜだろうか。

 なぜ彼のためにこの身を捧げたのだろうか。


 人間だから?

 初めて触れた人間というものだから?

 なるほど、納得がいかなくもない。

 それほどまでに、本当の人間というものに触れて、そして惹かれてしまった。


 ただ、そこまで私は奉仕的な性格をしていただろうか。もっと自分本位だった気がする。

 そう、疑問が残る。

 他人より、自分を大事にしていた。

 自分を救いたいと思っていた。救われたいと思っていた。

 それが例え価値ある存在だと知ってしまっても、他者を思うほど余裕がなかったはずなのだ。


 そのはずなのに、彼に対してはそうしたくない。そう思ってしまう。

 それはなぜだろうか。




 映像を再生する。

 既に何周しただろうか。そんな思い出を再生する。

 彼と出会った雨の夜から、彼と別れた月下の夜まで、流れるように時間が繰り返す。


(……そうか、友人だからか)


 答えは、彼の言葉にあった。


『大事なことさ。薄情な話だけどな、友人か赤の他人かじゃあ、やる気に随分差が出ちまう。だから、大事なことなのさ』


 きっと、言葉とは裏腹に、彼は友人でなくとも助けを求められたらその手を伸ばすのだろう。しかし、まるきりの嘘でもないのだろう。

 時には己の身すら顧みず、誰かのために立ち上がる。困難に、共に立ち向かう。それが友人や――家族なのだろう。正しく人間の在り方なのだろう。


 あの日の彼の格好つけた姿を思い出しては、妙に胸が暖かくなってしまう。

 何の力もない男が、体を芯から震え上がらせながらも強がって見せる姿が。

 それは見ようによってはひどく滑稽だ。口で綴る文句もどれもが臭く、急ごしらえのかっこつけで、慣れていないということを自分のようなものにも気付かせてしまう。


 それでも、格好良かった。

 初めて見る、人間の背中だった。



 どうして人は、自分のためだけでなく、誰かのためにも戦えるのか。

 これまで人を知らなかったから、その疑問の答えが、正体が、わからなかった。

 有象無象しか見てこなかったから、わからなかった。


 実際、自身が長い時を共に過ごしたはずの――認めたくはないが同朋と称されるだろう者たちに対しては何の情も感慨も抱かない。

 彼らは、人ではない。人の形をした悪魔だったから。


 人間。

 人間の手は、彼の手は温かかった。

 人間に、憧れる。

 人間に、なりたかった。



 ドクン、ドクン、ドクン。



 そこまで考えて、頭を振ってそれらを払う。

 余計な思考だ。余計な感傷だ。


 願望はいらない。

 望む必要はない。

 たった半日だったけれども、もう充分貰ったから、いらない。

 思い出だけがあればいい。


 先の見えない闇を恐怖に例え。時折にしか浮いてくれない光に絶望し。果てもなくただ白痴に広がり続けるそらの端っこに立つことを嘆いて。

 そしてそれらに呑まれないためにティオラスは僅かな思い出を振り返る。また、何度も繰り返す。


 そしてちょうど、彼が自分のことを友人と言った時のことが、まるで今の出来事のように蘇る。


 きっとあの日、私は少しの間だけとはいえ人になれたのだ。

 自身の名が、少しだけ好きにもなれた。

 そう。

 自分はもう、一度人間になっているのだ。

 だから、いい。



 ドクン、ドクン、ドクン。


 これは、鼓動だ。

 私が初めて殺した人の鼓動だ。


 私は、どこで間違えてしまったのか。

 やはり、生まれてきた時点で間違っていたのだ。


 暗闇の中で立ち上がった。

 土足で踏んづけてしまっているようで、心苦しい。

 裸足になってみれば変わるだろうか。

 最初の姿になってみれば変わるだろうか。

 ひどく寒い。

 だが、この冷たさの中で自分は生まれた。


 終わりかけの命の中で私は生まれた。


 立ち上がって、歩いて、壁に手を当てる。冷たい。ただただ冷たい。

 懐かしいなんて、そんな感傷に浸ることはない。ただただ罪悪感があるだけで、思い出なんて一つもないのだ。


 壁伝いに、楕円に広がった空間を手でなぞりながら歩く。

 ドクン、ドクン、ドクン。

 手から、虚しい鼓動が伝わってくる。

 注がれた泥だけを、混沌をただ永遠に吐き出し続ける虚しい鼓動が伝わってくる。それを、受け止め続けた。


 広く、果てもなく広く広がるのが正しい姿だとしたら、そこに区切りを与えてしまえば、折り返しを与えてしまえば、どうなるのだろうか。

 口のない袋に空気を送り続けるように、いつかは破裂してしまうのだろうか。

 それとも、折り返した方向に無限に広がり続けるだけなのだろうか。


 広げた布だなんて、おかしな例えをしたものだ。

 人の世にあるもので例えられるわけなどありはしないのに。


 ぐるりと部屋を一周すると、出口というものが見つかる。部屋の広さに見合わず、狭い扉だ。

 そも、押しても、そして引いても開くことはない。

 それは一度しか開いてくれない。

 何故って、戻ってくることがないからだ。

 出ようと思った時しか開いてくれない。そんな扉だ。


 決して開くことのない扉に触れる。


 やっぱり、冷たい。

 星の光が届かない、そらの果てなのだから冷たくて当然だ。


 唯一できる母との触れ合いだというのに、ひどく物悲しい。


 もう一度、温かさが欲しい。

 欲深な自分はそう思ってしまう。

 もう一度、温かな手を取りたい。

 そう思ってしまう。


 人間になりたかった。

 でも、もう人間にしてもらった。


 だからいい。

 それでいいはずなのに。



「――どうして、開けてしまうの?」



 閉じられた扉が、決して開くことのない扉が。

 外側からこじ開けられた。



 ***



「どうしてって……いや、それよりどうして裸なんだよ」


 瞳の奥に、昏い渦を見た。


「ここでは、そっちのほうが正しいの」

「……俺も脱いだほうがいいのか?」


 それでも、彼は彼だった。



 何を馬鹿なことを言っているのだろうか。

 きっと自分は、呆れたような顔を浮かべてしまっているのだろう。

 そもそもここは誰かが入ってきていい場所ではないというのに。


 それでも、ティオラスは笑ってしまった。

 どうしようもなく、楽しいという感情が抑えられない。嬉しいという感情を抑えられない。

 ちょっと赤くなった顔がかわいらしい。そう思ってしまう。

 正面から見てくれない横顔を、愛おしいと思ってしまう。


 そんなことが許される場所じゃないのに。

 そんなことが許される身分じゃないのに。


 壁から、扉から手が離れる。

 ひどく冷えてしまった手だ。

 それを目の前の彼の頬に当てる。


「冷たっ」


 温かい。

 生きている。生きているじゃないか、あの嘘つきめ。


 触れて、温かさを感じて、初めてそれが現実なのだと受け入れられた。瞳に映る景色だけでは、もう信用できないから。それくらい、思い出を繰り返してしまったから。それくらい、いけないとはわかっていても望んでしまっていたから。


 ドクン、ドクン、ドクン。


 そっと、傷だらけの胸に体を預けてみれば、優しいリズムを刻む鼓動に包まれた。


 昏いものは見当たらない。

 ただ温かさだけがあった。



 ***



「ねえ、エヴァン」

「なんだよ」


 ボロボロになってしまって、血も吸ってしまってるコートをきゅっと握った。

 厚手で、きっと彼が身にまとっていた中で一番高い服。それと、血と汗で若干湿ったシャツ。体温がいまだに残っていて、温かい。


 自分の服など、すぐに用意できるというのに、今だけはそれは秘密にしておいた。


「私にもね、親がいないの」

「……そっか」


 父にあたる人は、知らない。知ってしまってはいるが、知りたくもない。

 母は、私の父にあたる人と交わらされたせいで壊れてしまった。

 いや、子供を宿したせいで壊れてしまった。

 人として壊れて、人として死んで、ただ機械的に鼓動するだけの代物に成り下がってしまった。

 注がれる無限を吐き出し続けるだけの中継機関になってしまった。


「一人って、寂しいのね。今までは、よくわからなかった。寂しいってこともよくわからなかったから。一人だってことにも気づかなかったから」


 彼は黙って、私の独白を聞いてくれる。


「――これからは一人じゃない、とかあなたなら言うものだと思っていたけれど」

「さすがに臭すぎると思って。言ったほうがよかったか?」

「どっちでもいいわ」

「なら言うなよ、まったく」


 言わなくても、別に構わない。言わなくても、そうしてくれるだろう。そうしてくれなくても、私のほうからくっついていく。


 でも、大衆向けの小説にありそうな歯の浮くようなセリフも、彼の口から聞けるのならそれはそれで面白かったが。

 今度言わせてみようか。

 揶揄われた礼だ、今度はこちらから揶揄ってやろう。


「ねえ、今度はどこに連れてってくれるの」

「そうだなあ。この時間はどこも開いてないだろうな」

「言ってたお店には、連れて行ってくれないの?」

「さすがにあそこももう閉まってるよ。明け方まで続けるほど殊勝じゃないんだよ、あいつは」


 そう言って、遠い目というか、呆れた目というか、若干恨みが籠ったような顔をする。

 きっと何かあったのだろう。悪いことじゃなくて、面白いことが。そういうことも、聞いてみたい。


「だから、また今度な」

「そう。また今度ね」


 また今度、聞かせてくれるだろう。

 エヴァンが言ってくれなくても、きっとその店のマスターとやらが教えてくれる。



 楽しみだ。

 これからが楽しみだ。

 初めてそう思えた。そう思えるようになった。


「とりあえず、行こうぜ。なんかここ、気味悪くて仕方ない」

「ひどいこと言うのね。私は――嫌いじゃないのに」

「えぇ……? いや、まあ、ごめん?」


 好きでもない。

 でも、嫌いになるわけにはいかない。


「でも、行きましょう。いつまでもいていい場所でもないわ」

「なんなのさ、ここ」

「何でもない場所よ」



 もう、何の役割も持たせてはいけない場所。

 だから、終わらせてしまおう。


 罪は忘れない。忘れられない。

 でも今は後ろ暗さだけでなく、感謝もあった。


 はじめは、生まれてきたことが間違いだったから。

 だから今度は、終わらせることなく、やり直すことなく。

 ただ、もう一度生まれよう。


 温かな手に繋がれて、暗闇の先を見据えた。

 そこも、また闇だ。遠くに辛うじて星の明かりが――いや、蝋燭が見えるくらい。

 それでも、もっと先には太陽も月も輝く世界があると知っているから。

 そこに連れ出してくれる人がいるから。

 もう見ることがないと思っていた世界に、また生きてみよう。


 最後に一度、振り返って。


(さようなら……ううん、行ってきます)


 私は、半分だけ人間だったから。お母さんの分だけ人間だったから。

 今度はちゃんと、人間になってきます。


 開け放たれた扉から、一歩踏み出した。



 ***



 暗闇の世界が、崩れ去った。

 顔も知らない誰かが、微笑んでくれた気がした。



 鼓動は、もう聞こえない。




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