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月に惑う愚者  作者: 南天
18/20

18:未熟者の魔術



 咆哮が、やけにうるさい。

 とうとう四ツ目には怒気が孕み、えらく人間的な視線でもってエヴァンを睨み付けていた。

 刺すような、引き裂くような鋭さをもったそれは睨まれるだけで骨まで断たれてしまいそうな圧がある。

 頭上から降り注ぐそれをエヴァンは抵抗もなく受け止め、そうして相手の次の動きを待つ。


(まだ……)


 じっと、期を待つだけ。

 繰り返される突進を受け止めては頃合いを見計らって脱出する。それを幾度もこなしてみせては、エヴァンの体はもう傷だらけになっていた。

 手のひらは皮膚が削れ落ちて、突進の威力を殺し続けた関節は各所で軋みを上げる。関節液や軟骨等の緩衝材が切れてしまったのか、肘も膝も曲げるだけで骨を削りあげるような痛みがある。



 立っているのもつらい。

 腕を上げること自体、難しい。


 拳銃もどこかに落としてしまっていた。

 唯一といっていい反抗手段を失ってすらいる。こうも暗くては、こうも厄介な邪魔者がいては、おちおち探すこともできない。

 潰されていないといいのだが。せいぜいそう祈るしかできない。


 限界が近かった。

 それを感じ取って、脳内が馬鹿みたいに騒がしい。

 人が立ち向かっていい相手ではない。今すぐにでも尻尾を巻いて逃げ出せ。わざわざ戦わずとも、隙を見て先に進めばいい。

 そう、好き勝手に言ってくれる。

 しかし頭の中のより深い部分で、それを冷静に俯瞰していた。どれも現実味のない、あるいは目的にそぐわないものとして人知れずあげられた代案を破棄していた。焦れそうになる体を必死に宥めていた。


 ただ、期を待つ。

 肉体ではない、精神の耐久勝負だ。


 そして、堪え性がなかったのは、向こうだった。

 いや、その実至極全うな手段だ。

 無駄と悟ったか、それとも面倒だと呆れたか、双頭の蛇は無暗矢鱈な突進をやめ、ゆらゆらともたげた首をじいと固定した。


 四つの眼が、エヴァンをただ静かに見据える。


「……ッ!?」


 視線の持つ重みが変わった。

 引き裂くような鋭さから、絡めとるような威圧に変わる。


「……そう、来たか。お前らほんと好きだな、そういうの」


 たったそれだけで、エヴァンの体はまさに蛇に睨まれた蛙のように動かなくなった。

 手を動かそうにも、足を動かそうにも力が入っているのかどうかも曖昧だ。立っていられるということがそれを証明してくれてはいるものの、そこから次の動作へと移すのはひどく難しい。


 だがシャルワトルに掛けられた術ほど拘束力はない。感覚が曖昧なだけで、体全体が重くなっただけで、きっと動かせないことはない。アミュレットに意識を注ぎ、そこから外部的に力を注いでやれば、ゆっくりと拘束にも抗えるだけの力が戻ってくる。


 しかし、そんなものを悠長に待ってはくれないようだ。

 四つの目が、にんまりと歪められたような気がした。


 辛うじて腕ばかりは動かせるようになり、エヴァンは先までのような突進へと構える。

 しかし蛇は愚直な行動はやめたようで、その長大な体を悠然とくねらせながらエヴァンの周囲を取り囲んだ。

 長い、広い、輪が出来上がる。

 輪はその径を徐々に縮め、そうして中心にある軸に絡みついた。


 ざらついた巨体に、ゆっくりと絞め上げられていく。一見滑らかなようで、しかしその実逆立った棘ように荒い鱗が服を裂き、肉を裂き、血の滲みを地面に作った。


しかしすぐさま擦り切れるようなことはない。すぐさま潰されてしまうようなことはない。

 強度を、質量すらも増大したのかと思われるほどに補強された体は蛇の締め付けにも抗って見せる。


(これは、きついな……!)


 土の御印が熱い。

 限界以上に力を要求され、それに応えて見せようにも酷使が過ぎたのか、熱を持ちすぎて溶け始めている。接した肌が焼けていく。


 じりじりと、焦げ臭いが鼻をついた。


 体のほうも力が抜けていく。

 補強された力が弱まり、圧し潰されぬよう気張るのが精いっぱいで、せいぜい腕一本を拘束の中から抜け出させることしかできなかった。

 締め上げる力に体が軋む。

 関節だけでなく、とうとう肋や背骨なんかも嫌な音を上げ始めた。

 筋肉はもう力こぶなど作れないほどに潰され、圧迫された内臓は呼吸すらも困難にさせる。

 体の中身が全部口から零れ落ちてしまいそうなくらいだ。



 締め上げられたまま、蛇を睨む。

 血液の流れすらも阻害され、酸素の足りなくなった頭でそれを見据える。

 それは最高の捕食の機会だというのに、食らいついてくる様子もない。

 慎重になったわけではない。

 確実に仕留めてから、という算段でもない。

 その目は嗤っていた。

 人間じみた縦に平らな顔を、深く裂けた口唇を歪に吊り上げ、それは嘲笑っていた。


 力が緩む。

 ここで、死ぬわけにはいかない。

 自分しかいないのだ。

 力が緩む。

 彼女を救い上げられるのは、自分でしかないのだ。

 その身を救うのは、きっと共に来ているデールにもできるのだろう。むしろ、彼のほうがうまくやってみせるのだろう。

 しかし、その心を救えるのは、自分しかいないのだ。


 力が緩む。




「……やっと、か」


 しかしそれはどちらの力が緩んでいたか。


「……効かないのかと思って、焦っちまったよ。やっぱ、図体のせいで効きが悪かったのかね」


 両方だ。

 締め付けが緩み、自由になった肺腑が空気を取り込み、勢いを取り戻した心臓が全身に血液を送り出す。

 むせる気力すらもなく。ただ押し込まれていた呼気の代わりに言葉を紡ぐ。


「魔術ってのは、どうにも馴染めなくてよ。感覚がこう、掴めないんだ」


 蛇の目が、瞼のない四つの瞳がどこか色を失っていく。釣り上げられた口角も緩み、間抜けに口が中途に開く。


「何が悪魔だか眷属だかの召喚だ。フリークショーで金貰ってる芸人どもだって壺から蛇呼び出すのが精一杯だってのに」


 軸に巻き付いた生々しい針金は撓んでしまい、地に渦巻き状の模様を作った。


「でも、ひとつだけ覚えたやつがあってさ……それは、まあ、なんでかって言うと……よく知った感覚なんだよ」


 それを使うには、対象に触れる必要があった。しかし熟練度のせいか手で触れてもなかなか通らず、そういう意味では全身に巻き付いてきたのは渡りに船だったのかもしれない。


「まあ、本当に使えるかはちょっと不安だったけどな。あの巨人どもには、効かなかったから。なんでだろうなあ。意思ってものがなかったからかな」


 幾筋の輪の中からゆっくりと、重苦しい足取りで抜け出して、そしてその先で一度膝に手をついた。

 そして酔っ払いのように、せりあがったものを地面にぶちまける。


「酒に酔った感覚なら、俺はよく知ってんだ……」


 真っ赤な吐瀉物が地面を汚した。


 ぐいと口元の血を拭う。

 べっとりと指に、手のひらに、袖に血がへばりつき、粘り気そのままに糸を引いた。


『深い夢への誘い』


 エヴァンの行使した魔術。

 それは夢の神に会いに行くかのような、無理やり会いに行かせるかのようなもの。

 意識を落とす。

 その方法は精神を無理やり眠りにつかせるような、脳の機能を低下させるような感覚を対象に注入するというもの。

 まるでアルコールのようだ。


 そしてただ、眠らせるだけではない。

 そう簡単に起きぬようにと、遠い遠い夢の世界へ意識という見えない体を飛ばしてしまうようなものでもある。



 蛇も夢を見るのだろうか。

 そんなも益体もないことを考えては、エヴァンは馬鹿らしいと鼻で笑い飛ばした。

 目の前にある光景が事実だ。



 エヴァンは重いからだを引きずって歩き出す。

 出口へ向けてではない。

 もと来た道を戻るのでも、当然無い。


 地にぶちまけた自身の血を、それを手のひらに塗りたくって歩き出す。


 双頭の蛇の眠るすぐそばで膝をついて、夢遊病のようにふらふらと這いずる。

 手を地面の上に滑らせ、赤いペンキで落書きでもするように汚していく。


「……それと。イメージは、できないけどさ」


 そして満足したのか、再びよろよろと立ち上がる。


「魔術ってのは、用意さえあれば、誰だって使えるんだとよ」


 できあがったのは、大きな落書き。

 落書きのような、血で描かれた紋様。

 どこか、胸に下げたアクセサリーの残骸に刻まれていたものと似ている。

 広大な自然を、森林を、大地を、山を現したかのような象形。中心にあるのは、偉大なる山羊の姿のようで、慈愛をたたえた女性のようにも見える。

 全体でみれば、ただの渦巻く煙か雲にしか見えないが。



 明確な形も、体系も持たない魔術という御業にとって、想像力というものは切っても切れないものだ。

 多くの者がその信仰心だけで導き出し、あるいは突然に狂気的なテレパシーとともに授けられ、あるいは未知への探求心でもって会得してきた超常の術。

 どれもどこか抽象的で、まっとうな精神では頭に絵を浮かべることも難しい。


 イメージができない。

 神秘に対する親和性、感受性が乏しい。

 だから、エヴァンには才能がない。

 だからなかなか習得できない。


 だが、物覚えはいいほうだった。そう自負すらしている。人間社会のより高みへと昇り詰めるため、勉強だけは得意と呼べるように、頭に物を詰め込む方法だけは会得している。

 だから、自分には不要だと思っていたはずのものでも覚えていた。


 こんなモノを、使う気はなかった。

 使うことはないだろうと思っていた。

 魔術は用意があれば、たいてい誰にでも行使できる。だが、その用意がネックとなるものが大半だ。


 特にこれは、多くの〝生贄〟を必要とする。

 生きた贄を、新鮮な命を必要とする。

 そんな、下衆な魔術だ。


 だが、自分には力が足りない。下衆にでも落ちなければ、人一人救うこともできないほどに無力だ。


 ならば受け入れよう。

 その程度の誹りは嗤って受け入れよう。


「それくらいしないと、俺には救えない……!」


 生贄は、ここにはたくさんある。

 周囲に転がった肉の虫。

 さんざん暴れまわってくれた蛇にひき潰されたものも多い。それでもなお足りるほどにここには歪な命が満ちている。


 何より、目の前にはこんなにも都合のいい大物がいる。


 瞳を閉じる。

 エヴァンの体から何かが抜けていき、それが地面へと伝わっていく。

 赤色が抜け落ち始めていた紋様は、しかし淡く不気味な光を放ち始める。


「イア・シュブ=ニグラス――――」


 そうして、かの女神を讃える呪文を紡ぐ。


 空気が濁る。

 暗闇の中でなお濁色の霧が立ち込め、肌を焼き腑の底までを侵すような霧に満ちる。

 黒い、冒涜的な悍ましい黒色が大地から幾本も伸び、生贄を絡めとっていく。


 それは、言ってしまえば給仕係だ。

 用意された料理を、食卓で待つ主へのもとへと運ぶだけの奉仕係。


 そも、エヴァンが行使したのは生贄を捧げるための魔術だった。

 血と肉の捧げものをいずこかに住まう強大な神格に奉納する魔術。

 それを受け取る役目を持つものが現れて、主のもとへと運び去る。

 ただそれだけ。


 そして生贄を捧げた者――術の行使者はその見返りにとほんの些細な力を授けられる。


 ただそれだけの儀式。

 決して、強大な敵を打ち倒す魔術ではない。

 それでも、その脅威となるはずの敵が贄にされれば充分だろう。



 すべてが呆気なく終わった。



 不気味な光は、触手が去るとともに消えていた。

 赤黒い紋様はすっかり色味を失い、今にも掠れて消えてしまいそうである。

 二度は、使えない。


 エヴァンは閉じていた目を開く。


 静謐な水面のように、しかし奥底に煌々と猛る灯が揺蕩う瞳が開かれる。

 開けた視界に、命の気配はどこにもなかった。


 痛みも、軋みも、重みもなくなった体をそっと揺らす。転がった拳銃を拾う。摘まみ上げて、ズタボロになったコートの裏側にしまい込んだ。



「今、会いに行く」



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