15:魔術師
(とはいえ、この数はなかなかに厄介だな)
壁も何もかもを破壊するように現れた巨人どもの一部はもはや人型すらも保たず、限りのある地下空間を思い思いに動き回る。
その動きは粘度の高い油のようにひどく緩慢だ。しかし空間の狭さがデールに回避というものを難しくさせる。
「どうしたっ! 逃げるだけかぁっ!!」
皺くちゃの口がもごもごと動くと、虚空に歪みが生じる。歪みは霧へと変わり、老人の小さな体を覆った。
そして、霧の中から突然何かが飛び出した。
それは針だ。
長い管のついた針。
特定の色を持たず、特定の輝きを持たず、ちかちかと目の悪くするような光を放つ不気味な針だった。
巨体どもの間を縫って変光するそれは伸びてくる。触手のようにしなり、デールめがけて突き進んだ。
デールはそれを簡易な魔術で逸らす。
急に進行方向の曲げられたそれは勢いを止めることができず、傍まで迫っていた巨人の喉に突き刺さった。
巨体は針の刺さった部分から急速に萎み始め、同時に針の体は悍ましく輝きを増し、何色とも称せない瞬きを見せた。
「おっとぉ、すまんなぁ。間違えてしもうた」
針が抜き取られる。
黒に近い血液が跳ね、体の一部がぐしゃぐしゃに潰れた巨人が地に落ちた。
しかし、すぐに体は膨れ始める。
それが膨れきる前に、デールは逃げ道ができたとその傍を通り抜ける。
「次は、外さん」
しわがれた声が、先よりも力強く耳を打つ。
その顔は、その体は、どこか体に宿った古さが遠のいていたような気がした。
「趣味が悪い。吸魂の類か」
「最近はご無沙汰だったがな、長く生きるには必要なことなのだよ」
まとう狂気がより濃くなる。
胆力を増した一方で、知性の色はどこか薄れたように思えた。
「それより、余所見していていいのか?」
どす黒い吐息でも吐くかのように老人は口を開く。
周囲の巨人すらも巻き込んで、肉の塊が殺到する。
形も何もない。ただの塊。いや、ただの流れ。しかし圧倒的な質量は容易くデールを押し潰すことだろう。
何も抵抗しなければ、の話であるが。
流れは急激に押しとどめられる。
まるで壁にぶつかったかのように上に跳ね、飛沫のように小さな肉と粘液の粒が弾ける。
『万事への拮抗』
質量の暴力に対して、実体のない歪みが立ち塞がる。
それは迫るものが形を持たないゆえに無形ではあるが、本来ならば相対するものの姿を形どる虚像を作る魔術だ。
姿も、力も、それが持つ特異性すらも反映して見せる鏡の壁。
それを作り出し、デールは己を押し潰さんと迫る流れを防いで見せた。
しかし。
(重い……!)
拮抗にも、限界がある。
高い熟練度でもって会得した魔術であっても、たかが人間程度の力では反映できる許容量には限りがあった。
相手はその体積を容易く変異させる不定形の巨人。それも互いが重なり合うように、混ざり合うように絡まれば、それはもはや人でも動物でも、肉塊ですらない。
それは津波だ。
すべてが重なり合い、細胞単位で混ざり合うほどに肉が溶け合い、玉虫色で、不定形の波となり拮抗する無形を押し流そうとしている。
許容量は、もう限界が近い。
「おお! おお! ここまで人間性を放棄させられたとは! 喜ぶべきか! 嘆くべきか! 哀れな同朋よ、私がお前たちの無念を晴らして見せよう! 果てに辿り着いて見せよう! だから私を守るのだ!! そして邪魔者を食らい尽くせっ!!」
狂気と恐怖に染まった声が長い回廊に木霊する。
拮抗から外れた一部が方向も滅茶苦茶に突き進み、壁を、天井を破壊する。
場はもはや回廊と呼ぶには相応しくない。ところどころに仕切りが存在するだけのホールのような形になりつつあった。
「……ちっ」
加えて、攻撃が一切通らない。
肉塊を裂こうが千切ろうが押し潰そうが、一瞬の空白も待たずにすぐさま再生する。
(厄介極まりない性質だ)
先はデールが連中の動きを止め、エヴァンが魔道具でもって悠々ととどめを刺す、そういった方法で十五ばかりの巨人を葬った。
しかし二人が別々の行動をとっている以上、今はそれができない。
通じる手はないかと、デールは長々と呪文を言葉として刻む。
一年足らずの研鑽であったが、知識量でいえばかなりのものだ。有効打になりそうなものを探し出し、即座に実行する。
思い浮かべるのは『ショゴス』と名のつけられた怪生物に遭遇した魔術師が残した記述。
個体差というものはあるのかもしれない。
魔術師としての技量の違いはあるのかもしれない。
しかし、その中で通用したとされる魔術を行使する。
言葉は、呪文はすぐさま空間内に広がった。
そこにさざ波のように力が乗り始め、肉の津波へとぶつかり合う。
そして浸食でもされているかのように蠢くのをやめ、何かに抗うかのようにビクリビクリと肉体を震えさせる。
細かい振動は広い広い絨毯のように広がった全身へと伝播していった。
肉の波から呑まれたはずの巨腕が這い出で、見えない何かを振り払おうとする。
それも、重圧に負けるかのようにまた波に呑まれて消えた。
似たようなことがいたるところで繰り返される。
(効いたか……?)
デールは術の行使を止めぬまま、ショゴスを睨む。対面の老人を睨む。
ショゴスは動けない。
老人は動かない。
老人は、笑っていた。
(……駄目か)
脈動が勢いを取り戻し、全身に伝播していた振動は地鳴りのように激しさを増す。体液が沸騰でもしているかのようにぼこりぼこりと肉体が騒めきだし、そして一気に弾けた。
肉が弾け、飛び散り、天井も壁をも埋め尽くしていく。
千切れ飛んだ肉片に目ができ、口が生まれ、膨張し続けたのちにまた人の手足のようなものが生まれる。
「無駄だ、無駄だ。太古の生命に敵うはずなどないのだよ」
「……」
デールは老人の言葉には取り合わず、壁や天井から飛来する肉塊や生成された拳を叩き落す。
拮抗でもって動きを止め、己の陰から生み出した闇色の槍のような触手で刺し潰す。
……それでも、傍から再生してしまう。
「まったく、いやになる。こうも再生力が高いと恐れというものも持たなくなるのか」
迎撃され、叩き潰されるということを知っていながらもショゴスの群れは攻撃をやめない。突撃し、潰され、そしてまた再生し、時には合流し、新たな肉の塊となることを繰り返す。
死骸が出来上がることは一切なく、むしろ数が増えるかのようにその体積を増し続ける。
「そもそも、こやつらに恐れを抱くための感情と呼べるものは存在しない。痛みを知らず、恐怖を知らず、ただ我らの敵を食らうだけの兵器なのだよ。私の命令に従うだけのな」
得意げに語る老人はいつの間にか肉の海の中心にいた。
べちゃりべちゃりと肉を踏みしめ、時折の床に固い靴音を響かせ、余裕着々と歩み寄る。
「まさか、ショゴスをそこまで完全に支配するとは。いや、恐れ入ったよ」
「ハンッ! 今更媚びても遅い。そも、こいつらはショゴスではない。我らの同朋、我らの友の亡骸。原初へと還った人間どもだ。まあ、その身には有り余る神秘だったらしくてな、精神は完全に摩耗してしまってはいるが……おかげでほら、私の命令によく従ってくれる」
浮かび上がった肉柱の一つを皺くちゃの手で一撫でし、侮蔑の表情でもって地に叩き付ける。
「……なるほど。下衆な発想だ。自意識を〝殺して〟しまうなんて」
「なんとでも言うがよい。いずれは皆神の御許に還るのだ。そこに意識も何も必要ない」
どうせ、皆いずれは宇宙の中心の原初なる神と一つになる。それが彼らの望みであり、遂行すべき目的である。
いずれ訪れると確信する未来である。
「…………お前たちの願望になどは興味はないが、何にせよいいことを聞いた」
「なに?」
デールの言葉に、老人は歩みを止める。
訝しげに眉を顰め、さすがというべきか、身にまとう霧を濃くする。
針のついた管が数を増し、今か今かと突撃の指令を待ちわびる。
「つまりこいつらは精神支配で動かしているだけなのだろう? 命令によって自動で動かしているか、それとも直接操っているかの違いはあれども。精神支配の術なら、俺も心得ているよ」
老人の顔が歪む。
あまりにも皺が濃く、皮膚がたるみ、それが怒っているのか笑っているのか、どちらなのかもわからない。
「意志を持たないというのは操りやすいという点では便利かもしれないけれど、明確な欠点だ。こうして簡単に割り込むことができる。まったく、初めから試すべきだった」
「嘗めるなよ、貴様のような若造にこの私を超えられると思うなっ」
肉の波が震える。
先とは違う。
どう動くべきか、何をすべきかを迷うように体を右往左往と震わせているのだ。
粘液が頻りに波打ち、無意味に体を膨らませてははじけ飛ぶを繰り返す。
どこに発声器官をもつのかもわからない体で、てけり・り、と決して意味を持たない言葉を壊れたように繰り返す。
拮抗していた。
二人の支配者による愚者を従える競争だ。
否、拮抗ではない。
わずかに老人のほうが上手か、細かな触手がデールめがけて何度も振るわれる。
それを躱し、防ぎ、そしてそのどちらもを超えた触手に体が打たれる。
質量の格段に落ちた鞭では致命傷には至らない。それでも老人は笑みを深める。
まるでじわじわと嬲り殺しにでもしているかのような意地の悪い邪悪な笑みだった。
それに対し、デールは仏頂面のまま。
痛みに呻くことも、恐怖に顔を歪めることもしない。
「……別に、技比べをしようってんじゃない」
無言だったデールがそっと口を開く。
「お前を殺してから、ゆっくりと鎮めようと思っただけだよ」
そして、深い眼窩の下から覗く濃緑の眼光が老人を捉えた。
「んっ……なっ……!!」
ぴくり、ぴくりと体が震える。
しかしそれはショゴスもどきの体ではない。
バキリ、と嫌な音が鳴った。何かが折れるような、割れるような、砕けるような。
もともと小さかった体が、さらに一回り小さくなったように見える。
腕が潰れる。
濁った液体がそのまま弾けて、裂けた皮膚に張り付いた。
足が潰れる。骨が飛び出し、それもまた呆気なく潰れる。
胴が軋みを上げながら潰れていく。内容物が吐き出されるように腹が裂け、あるいはせりあがった末に口から零れだす。
一番固いのは、やはり頭蓋なのだろうか。
徐々に、徐々にその大きさを、形を保ちながら縮小していく。
「おっ……あっ……げっ…………」
濁った眼球が飛び出る。
それはいとも簡単に弾け飛んだ。
霧もすでに霧散し、光り輝いていた針などもうどこにもない。
いや、老人の体と呼べるものが既に存在しない。
「こうやって圧し潰せば殺しきれるかとは思ったんだけど、存外タフでね。だから別の方法を探してたんだが……お前に使えたから、無駄にはならなかったみたいでよかったよ」
フロアには、再び静寂が帰ってきた。
「……さて、どう処理しようか、こっちは」
命令が途絶え、すっかりと沈黙した狂信者のなれの果てを前に、デールは一人呟いた。




