14:夜遊び
悔恨ばかりが、己を苛む。
憤怒ばかりが、己を立たせる。
一度押しのけられた恐怖という感情はもう決して出てくることはかなわず、エヴァンはただ奥歯を噛みしめながら、その身に籠った熱を延々と巡らせながら、その光景を睨み付けていた。
十五ばかりの醜悪な巨人。
大半はシャルワトルがティオラスを連れ去ると共に姿を消したが、今なおこの地には異形どもが残されていた。
それがゆっくりと、悠然と、余裕を見せつけるかのように歩く。
一歩踏みしめるたびに頑強な大地にかすかな揺れが走り、一歩踏みしめるたびにひしめく肉塊とゼリーのような体表が醜い水音をあげる。
彼らがどこを目指しているか?
そんなものは考えるまでもなくわかりきったことだ。
そして、こうなることもまた、わかっていたことだ。
逃すという約定は守られることはなかった。
今なお己を苛む拘束がその証。
今なお己を叩き潰すために振り上げられた拳がその証。
迫る拳に恐怖はない。怒りしかない。
崩れた体に、これ以上どこに込めればいいのかもわからない体にまだ力を注ぐ。筋肉が悲鳴を上げる。骨が軋む。圧に耐え切れず血管が弾け、肌の上に赤黒く血が滲む。
雄叫びすらも上げられず、無音のままに吼える。
それでも体は動かない。
術者であるシャルワトルが去ってから格段に重圧の緩んでいた拘束だったが、代わりに体すべてを今の形で固定されてしまったかのような感覚に支配されていた。
それゆえエヴァンにはただ、叩き付けられる拳を睨み付けることしかできず――
***
「――無茶をしすぎだよ」
エヴァンの身に迫った拳は、不自然に空中で静止していた。
否、止まっているのではなく、止められている。現に、込められた力の放出先を求めて巨腕がかすかに振動しているのが見て取れる。
不可視の何かに受け止められているのだ。
そして、その正体も極限まで精神を高ぶらせ、土の御印の力を借りた今のエヴァンならば目視することができた。
それは、曖昧な大気の歪み。色を持たず、特定の形を持たず、姿を持たず。しかしどこか相対する巨人の拳を写したもののようにも見える。
「これは、またよく耐えていられたものだね」
そうして静止したままの拳を、後続として迫る異形の巨人たちをまるで存在しないものかのように無視しながら、何処の文化圏のものかもわからない言葉を短く紡ぐ。それだけで、エヴァンを捕らえる闇色の鎖は腐食し尽くされ塵へと帰った。
急激な重圧からの解放に、一瞬宙に飛ばされたかのような感覚に陥る。内臓がひっくり返りそうで、もしかしたら目玉も一回転でもしてしまったかもしれない。
全身を巡る血液の流れが騒がしく、ぐわんぐわんと感覚器官すべてを揺さぶられるような気持ちの悪さが長く続く。力んでいたために呼吸も荒く、むせるようにして息を整えれば、目の前には更に複数の拳や巨体そのもの、槍のように先をとがらせた肉塊が静止していた。
膝をついた姿から立ち上がり、エヴァンはそれを為しただろう人物を両の目で見据える。
くたびれた外套と褪せたベスト。
短く適当に切られた茶髪と、いかにも不健康と評されそうな冷めた顔。
「助かったよ――――デール」
エヴァンにとって、まさかの人物がそこにいた。その身に灯った憤怒すらも心なしか鳴りを潜め、驚愕と、それと嬉しさのようなものが空いた隙間に入り込んだ。
「しかし、なんだってお前が」
再びデールが不明な言語を口走ると、歪んだ大気が一気にうねり、殺到していた巨人たちは数メートル先へと押し返された。そして後方に待機していた数体を巻き込んで地に転がる。
土埃が舞い、それも大質量の移動で起こされた風にさらわれる。
目先の危機が過ぎ去って、デールがその身に込めていた圧を僅かに霧散させた。
「なに、久々に夜遊びをするのも悪くない、そう考えただけさ」
しかしじっと正面を、立ち上がろうともがく巨人たちからは目を離すことはない。
それがエヴァンには、照れ隠しのようなものに思えた。
「そいつはいい! たまには気分転換でもしないとつまんないヤツになっちまうからな……ただ、もう少し肉をつけないと女の子も寄ってこないぜ?」
そう言って、こけた頬を軽く指で示す。
それに返事はなかったが、デールの手は静かに己の顔を撫でていた。
「まあ、いいや。今日の相手はちょっとお近づきになりたくないしな」
「それは同感だ。さっさと片付けて帰ろうじゃないか」
「いや」
しかしエヴァンは首を振る。エヴァンには、やらなければならないことがある。
「本命がいてね、そっちに会いに行かなきゃならないんだ」
デールはその言葉にじっと耳を傾けるだけ。
驚きも、否定もしない。
「まったくお前が来てくれて本当に助かったよ…………おかげで、まだ間に合う」
視線の先で起き上がる歪な肉塊たち。
司令塔を失い、動きに著しく精彩を欠いたそれらに、エヴァンは懲りずに銃口を向ける。
「……そんなもので、あれらをどうにかできるとでも?」
「先生お手製の特別製だぜ? あんな木偶どもは一撃さ」
「それは、興味深いね」
近寄ってきた一体に、銀の弾丸を捻じ込む。
肉の鎧も、あるかもわからない頭蓋の盾も何もかもを貫いて、生命そのものを停止させる。
「……ほらな?」
得意気に掲げて見せれば、窪んだ眼窩の下で濃緑の瞳が見開かれているような気がした。
気がしただけ。ほとんど無表情だ。
「もしかして、羨ましいのか?」
「……そんなんじゃないよ」
「そうか?」
「そんなものを君に渡しているなんて、思っていなかっただけさ」
「やっぱり羨ましいんだろ」
食い下がるエヴァンにデールは呆れたように息を吐きながら顔をそむけた。
「急ぐんだろう? なら、早く終わらせよう」
「……ああ、そうする」
冷静に促され、たったそれだけで揶揄うようだったエヴァンの声色は、底冷えするほどのものへと途端に変わる。
眼光も鋭く、そして鈍く濁る。
必要なもの以外をすべて排除して、残ったのは対象を映すという機能だけ。
対象は目の前の巨人たちであり、彼女を連れ去った男のみ。
憤怒は消え去ったわけじゃない。燻っているだけ。
焚き付ければ、すぐに燃え上がる。
「悪いが、友人のよしみだ。手を貸してくれ」
「いいよ。友人のよしみでね」
二人の姿を、再び顔をのぞかせた月だけが見守っていた。
***
「……どうやって開けるんだこれ」
瓦礫の中で、エヴァンはしゃがみ込んでいた。
壁の基部だけが残り、ブロック状の石灰でも敷き詰めていたのだろう腐食され切った床。
朽ちた長椅子が並ぶ間の身廊を進めば、祭壇か説教台でも鎮座していたのだろう低い三段の台座、その残骸が地に無機質な根を張っている。
「ここに、消えていったのかい?」
巨人どもを手早く片付けたのち、エヴァンとデールはその台座をしげしげと眺めていた。
「よく見てはいられなかったけど、たぶんこのあたりで急に消えたんだよ」
「ふうん」
口だけでうなずいて、デールは埃やら土やらで塗れた台座を拭った。
灰色にくすんだそれも、汚れがわずかにでも落とされて薄っすらと元の白色を取り戻す。
そこに現れたのは、掠れた線の集合体。幾何的な紋様だった。
エヴァンには一見それはただの傷にしか見えなかった。しかしどことなく門や扉のようなものを象っているような雰囲気もある。
「確かに、入り口のようだ」
「これが?」
「そう。どこに通じているかわからないけれど」
「おう?」
「なんて説明すればいいんだろうか、どこか別の場所に運んでくれる扉のようなもの、それを示した魔法陣かな」
「ふうん?」
曖昧に首をかしげる。いまいち想像がつかない。
「既に用意された道だから、特に何かトリガーも必要としない。君でも起動できるよ」
「そうか」
ならば迷うことはない。
エヴァンはよくわからないままに台座の上に手を当てる。
「いや、どれだけ負担があるかわからないから無暗に――」
……一瞬の暗転。
足場が失われ落下するような、あるいは浮遊するような不可思議な感覚を通過する。
一瞬の無重力はどこか不明な世界――想像するしかできないが、宇宙の片隅を泳いだかのような出来事で、精神を深い不安に陥れる。
再び地に足がついた時には、ほっとした。
「……暗いな」
そうしてたどり着いたのは、光の一切ない洞穴のような場だった。
本当にどこかに到着できたのか。
あの男が仕組んだ罠ではないのか。
そんな疑問が頭をよぎるが、補強された視界で目を凝らせばこの道はどこか遠くまで通じているようだった。
「先に進めば……それもわかるか。行こうぜ、デール……デール?」
共にいるはずのデールへと声をかけるが、返事がない。
まさか別のところに飛ばされたか、もしくは自分だけが来てしまったのか。
そう思いはしたが、横を見れば屈む人影があった。
「デール、どうした?」
屈み込み、じっと地面や壁を観察する。
その姿にどこか鬼気迫るものを覚え、邪魔をするのも気が引ける。いっそ先に行ってしまおうかとも思うくらいだった。
「……なんでもない。気にしないでくれ」
「そうか?」
立ち上がったデールの顔は、普段通りの仏頂面に見える。しかし違和感を覚えないでもない。いつも以上に平らな口元やしわの濃い眉間などから、より感情が削げ落ちた――あるいは繕う余裕がないように思える。
そんな引っ掛かりを覚えたまま、ひとまずは時間も惜しいとエヴァンは引き下がる。
そのまま、どちらともなしに歩き出した。
「とりあえず、アイビッドではあるようだ。おそらくはどこかの地下なんだろう」
「こんなところがあるなんて知らないぜ。坑道か? 石炭がアイビッド地下でとれるなんて話も聞いたことないが。パルストル山の地下か?」
「そもそも人が掘ったものではないだろう。おそらくは……いや、いい」
「気になるじゃないか」
「今は、関係のないことだよ。もう随分古いもののようだし」
「……そうかい」
エヴァンらは、建前とはいえ考古と名の付く研究室の一員である。それゆえ、古い時代のものに関心が行ってもおかしくはない。
そう無理やり己を納得させ、先を急ぐ。
「そういえば、そっちは何も聞かないんだな」
「何か、聞いてほしいことでもあるのかな」
「いや、そういうわけでもないけどさ」
彼がどれだけ魔術師として習熟しているのかは知らない。この程度のことは命の危機のうちに入らないだけの知識と技術を身に着けているのかもしれない。
それでもエヴァンとしては『危ないこと』だ。それは誰であろうと変わらない。
正直彼がいなかったらどうしようにもなかった。自身も死んでいたかもしれない。今も、助かっている。
だからこそ、何も話さないままつきあわせるというのはどうにも不誠実に思えたのだ。
「……事情なら、ある程度把握しているよ」
「……マジで?」
それも、一人で悩んでいただけのようだったが。
すべて承知の上らしい。
「教授が時折ぼやいているからね。それに、落第したはずの君が戻ってきたんだ、理由を知りたがるものだっている」
「落第言うんじゃねえ」
拍子抜けと、諸々の羞恥心にエヴァンは思わず鼻白む。
「それに、個人的な興味もある」
「興味?」
首肯も何もない。代わりに、深い影の中で何かを願うように目を細めたような気がした。
「君が救おうとしているのは、間違いなく向こう側の人だ。どうしようもないほどに闇に浸かった世界に生きている人だ。そんな人を、本当に掬い上げることができるのか。俺はそれが知りたいんだ」
デールはそれ以上何も喋らない。
自分では答えを知らない。だから知りたいのだと、そう言っている。そのはずなのに、エヴァンには『そうあってほしい』という願望もまた秘められているように思えた。
「そんなの、簡単なことだろ」
「……簡単か」
「そうさ」
わざとらしく、おどけて見せる。それが当然のことのように声とともに肩を揺らす。
「相手がそう望んでんなら、あとはこっちが受け入れればいい。それだけの話だろうに。生まれだ境遇だなんて知ったことか」
そう吐き捨てる。
デールは、何も言わなかった。
「そら、もうすぐだ」
遠くに、ほんの薄っすらとだが光が躍っている。
「知りたいなら、俺が教えてやる」
絶対にティオラスを救って見せる。こんな陰気臭い暗闇の世界から、掬い上げて見せる。
己の全てを掛けてでも。
***
「どういうこった、どこにも誰もいないじゃないかっ」
長い長い通路を抜けてたどり着いたのは地下に作られた巨大な施設だった。
逆構造に作られた複数の階層からなる居住施設。回廊を基礎構造に、その外と内にいくつもの部屋を設けている。
つくりは粗雑で、およそ現代の文明人が生活するには値しないようなものが半数以上を占めていることを除けば特段変哲のない施設だ。
迷う要素もなく、現在エヴァンとデールはそれぞれ分かれて施設内を探索していた。
エヴァンはより地下の階層へ、デールは上層へ。半ば無理やり決めた役割分担だったが、デールは不満を見せることはなかった。
だから今は、エヴァンは一人だ。
(こんなところで……こんなところで育ってきたのか。たった、一人で)
誰も足を踏み入れないような路地裏よりも、最後の受け皿であるイーストヘイルのスラム街よりもなお陰気臭く、腐敗の気配が恐ろしく濃いこの場所で。
(――早く、見つけよう)
この階にも誰もいない。
おかしなほどに何もない。
より深い闇の底へと潜るため、エヴァンは階段を駆け下りた。
***
駆け回るエヴァンとは対照的に、デールはひどく慎重に探索を進めていた。
階段を上り、新たな階層へと足を踏み入れてもそれは変わりなさそうだった。
少し歩いたところで、フロアの様子は下と変わらず静穏そのものだ。だが、どこに〝普通ではない〟仕掛けがあってもいいようにと、緊張を絶やさない。
しかしそれすらもない。
攻め込まれる想定がまるで無いのか、恐ろしく不用心だ。
それは自信の表れなのか、考えの足りない馬鹿なだけなのかはわからない。
本来の入り口にあたるのだろう、地上に集中しているのかもしれない。
それにしてもこの静けさは異常に思えた。
これだけの広さ。
アイビッド大学の新旧どちらかの校舎一つ分はあるだろう。それほどの規模ということは、それだけの人員がいてもおかしくはない。
そのはずなのに、異教の信者どもは一人も見当たらない。
皆、逃げたのか。
だとしたら、拍子抜けも甚だしい。
本当に、自身の助けもいらないレベルだったのかもしれない。
そう考えを改めている途中。
「なるほど、お前か。ティオラス様を誑かしていたのは」
一人分のしわがれた声が廊下に響いた。
小さく、弱々しい声だ。
しかし、腑の底まで染み込むような奇妙な浸食力がある。
ちょうど上層へと続く階段。そこからそれは現れた。
小汚い老人だ。
どれだけ長く生きたのか。背もすっかり曲がり、皺くちゃで、垢に塗れた手足や顔がより古くささというものを強調している。
ティオラス。その名をデールは知らない。
だが、想像はつく。
どうやら目の前の老人は、デールとエヴァンを勘違いしているのだろう。それは簡単に想像ついた。
「素人と報告を聞いていたがな、まさか門を起動できるとは。ああ、ああ、しかしこんなもののために我らの道を阻まれるとは。同朋が失われるとは。ああ、ああ、なんて嘆かわしい……」
ひどく冷淡で、淀み、味のない。
深みがあるような一方で耳障りに甲高く、そして見た目にそぐわないほどには早口だ。
一人で納得し、一人で嘆き。
己で完結した一人喋り。
まさに狂人じみた気味の悪い語り口でぶつぶつと続ける。
その顔は皺でつぶれ、わなわなと震え、目はどこか恐怖のような感情に塗り潰されている。
「なんだ、いるじゃないか。てっきり全員逃げ出したものだと思っていたよ」
「…………逃げる? 貴様なんぞから?」
その恐怖はデールに向けられたものではないらしい。
では、どこに?
一瞬浮かび上がった疑問は轟音にかき消される。
デールと老人のちょうど中間地点の壁が唐突にはじけ飛んだ。
そこは確か、ホールのような部屋だったはず。似たような作りの下の階層と照らし合わせ、そして壁に設けられた扉の間隔からそれはおよそ確かなことだろう。
続けざまに、一帯の粗末なドアが破壊される。どれもこれも内側から突き破られる形だ。
現れるのは、醜い手足。
滑る巨体。
流動性のある、変幻自在のひとがたをしただけの巨人。
蠢き、のたうち、じゅくりじゅくりとそれは膨れあがり呻きを上げる。
「てけり・り」
てけり・り、てけり・り、てけり・り――
太古の言葉が蘇り、意味を持たないはずのそれらがデールをまるで嘲笑うかのように投げかけられる。
「また、そいつらか」
それを、デールは冷めた目で見ていた。
囲まれた。
だが、均一とは言えず、層の密度には差がある。一番多いのはやはりデールの数メートル先にあったホール状の部屋付近。左右と背後にはやや余裕がある。
「神の御使いから賜った御業の一つだ。貴様程度を葬るには造作もない。そうだ……捻り潰した後は貴様も同朋に加えてやろう。原初に還してやろう……喜べっ! 我らが神のもとへと還る第一歩だ!!」
目の前に佇む木偶と大差ない、白痴に汚された瞳がくわと見開かれる。
己の勝利を疑わない。
疑うことすら許されていない、そんな哀れな姿がデールの眼には映っていた。




