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月に惑う愚者  作者: 南天
11/20

11:一転



「くっそ、疫病神か何かなのかな、俺はっ」

「……そろそろだとは思っていたわ。残念だけれど、あなたの恩人には会えなさそう」

「また今度、なっ」


 正面に立たれては、反対方向に逃げるのが普通だろう。エヴァンはティオラスを連れてもと来た道を駆け足で戻っていた。

 いつかの再現のよう。しかし空はまだ赤い。

 人目だって無いわけじゃない。そのことが少しの余裕を心に与えてくれる。



「チッ!」


 だがいいことばかりではない。そも、通りすがりの一般人にも商い中の店にも助けを求めるわけにはいかない。いたずらに被害を増やすだけ。それはわかってしまっている。

 自分たちが助かれば他はどうでもいい、そう割り切れるほどエヴァンは腐ってはいないつもりだった。


 遠くの角から唐突に現れた二人目にエヴァンは舌打ちをする。

 思わず、懐へと手が伸びかける。

 しかし、その手は取れない。

 人目があっては、撃てない。


 仕方なしにティオラスを連れて別の曲がり角を曲がる。

 そんなことを数度繰り返す。

 自然、どんどんと大通りから離れていくことになる。

 誘導されている。

 そう感じずにはいられない。


「待って、こっちは……」

「わかってる……でもこっちしかないんだ。他はだいたい行き止まりだ」


 四番街は開発が一番街などより遅れているせいか、区画の整備も疎らだ。おかげで意味のない通り、行き止まりにぶつかる隘路や、文字通り誰も通ることのない裏道などが幾つもある。エヴァンはそれらの多くを把握している。

 だから、撒く自信はあった。


 しかしその時その時に使える道を選んでいるはずなのだが、追い詰められているという感じが振り払えない。


「もう一回大通りに、せめて表通りに出られればっ」

「……」


 しかし無情にも、行く先々で道を塞がれる。

 いくつか選択肢は残されていても、どこに飛び込んでもそれは変わらない。

 上から俯瞰する何者かが、いじわるにも道を塞ぎ続けているようだ。

 幼い子供が蟻やダンゴムシで遊ぶように。

 虫は、エヴァンたちだ。



 ***



 どこまで駆けたか。

 どれだけ走ったか。

 四番街の端から端まで駆け抜けたか。

 それとも同じところをぐるぐる回っていただけか。


 いや、確実に進みはしていたようだ。

 鼻をつく異臭が強くなる。

 煤やら、汚物やら、化学薬品やらがガス状になった空気が風に乗り、不快感を煽る臭気を運んでくる。

 湿った風と、目に届く黒煙からエヴァンは自分がイーストタウン方面へと誘導されていることに気付いていた。

 遠くに聳え立つ工場の煙突の配置を見れば、ずいぶん北上もしているようだった。

 位置的にはおそらくは四番街の最北東、あるいは一番街の最南東。そのあたりか。


 もっとも、イーストタウンはルズベリー川の東側で、その反対である西側の帯状の地帯は何番街にも属さない、イーストヘイルのスラム街と呼ばれている。


 そこに住居はほとんどない。

 倉庫や零細の工場、ゴミの集積場、それと、土地不足のくせに解体に出す金を出し渋っているのか。いつからあるのかわからないような廃墟ばかりがある。

 それに合わせ、社会的地位のある者もまるでいない。休日も何もない工場での労働従事者はまだ勤務時間だし、時間外だとしても東側の粗末な寮に押し込まれている。


 だからここには何をされても、何を見ても相手にされない、地位も何もない者たちだけがいる。



「くっそ!!」


 汚物がそこらに転がる隘路で、佇むカーキのコートが膨れ上がった。座り込んで、襤褸の毛布にくるまった何かのことなどお構いなしだ。固まりあって暖をとる塊のことなどお構いなしだ。

 それを目にして、そして悲鳴を耳にしながらエヴァンはすぐに別の道へと飛び込む。

 ここらはもう、エヴァンも道を知らない。

 手を引かれるだけのティオラスも何も喋らず、ただがむしゃらに逃げ回るだけ。


 行く先々で現れるカーキ色から逃れようとするだけ。


「くっそ、なんでこうも都合よく! そんだけ数がいるってか!?」


 やり過ごしてきた数は既に百も越えようとしていた。

 中には例の化け物ではなくただ同じ格好をしただけのものもいたのかもしれないが、それでも果ての信奉者の構成員が多量にいることに変わりはない。そのことに、驚愕が隠せない。


「……いいえ、もっと少ないわ。短期間で増やしたとも思えない」

「なら、わざわざ先回りしてるって!?」

「それも、違うでしょうね」

「なら――っ!」


 なら。

 その続きは言葉にならない。する意味も余裕もない。


「……しくじったなぁ」


 少しだけ、広い空間に出た。

 高い建造物の密集地帯、その中の空白地帯。

 意図して設けられた通路でもない。もとはなにか建物でも立っていたのだろう。しかし今は崩れ去ったただの跡地。残骸が見て取れる。


 基部だけ残った壁や、酸の混じった雨にでも食われたのか、腐食しきった何かの調度品。

 朽ちているのは長椅子か何かだろうか。それがいくつも並ぶ。

 中央には広い通り道が用意され、先には何か、瓦礫に埋もれた台座が見える。


 それらを頭の中で組み立てれば、思い浮かぶのは教会だろうか。いつからあるのか。イーストヘイルがスラムと化す前からあるのか。

 技術躍進により急速に近代化を進める時代より前にあったのか。それはわからない。


 放棄され、長い時を風雨に曝された教会跡地。


 そこに、無数のコートが佇んでいる。


 逃げ道は――そう視線を走らせても、背後含めて目につく三本の小路にはすでに通せんぼのように立ち塞がるものがいる。



 道をすべて塞がれては、もう走ることもできない。


 陽はすでに落ち切っていた。


「……エヴァン」


 袖を引かれる。

 それに答えず、懐から拳銃を引き抜き、一番通り抜けられそうな広さの小路へと向ける。

 街灯もなければ、薄くかかった雲に月明かりも届かない。

 かつてのままならば視界すらも確保できなかっただろうが、今は視力を補う術を持つ。

 だから見える。最も可能性のある道を探し出せる。狙いをつけることができる。


「エヴァン――」


 もう一度、袖を引かれる。


「……あいつらをぶっ殺すから、倒れたら走れ」


 拳銃に込められているのは、アンナから貰った違法品。だがチープな偽装品ではなく、ある意味特注の上位互換。

 どんな効果を持つのかはわからない。

 弾数も予備も含め、この数を前にすれば心許ない。

 それでも彼女が渡すくらいなのだ、道を開くくらいはできるはず。


「もう、無理よ。もういいの。だから、あなたが行って。私は残るから。私を置いていけば、それで済むから」

「それはしないって、前も言ったろ」


 ティオラスが請う。

 何度も聞いた、エヴァンを遠ざけようとする言葉。


 それを耳にするたび、ずいぶんと惨めな気分になる。それは己の無力の証だ。浅慮の証だ。しかし彼女はそれを責めない。責めるのは己だけ。


 これはきっと、自分が招いた結果だ。

 自分は確実に、足手まといだ。

 わかっていたことのはず。だというのに、避けられなかった。

 そうエヴァンは己を責めた。だから、自分が何とかしなければならない。

 そう粋がって見せたところで、何の解決にもならない。

 自分が命を捧げたところで、何かが変わるわけではない。

 それもわかっている。


 それでも、認められない。

 わがままだ。子供のようなわがままだ。

 何の力もないくせに、自分の招いた現状であるくせに。己の尻も拭えないくせに。

 それでも、認められない。


 もっと自分に力があれば。

 もっと自分に才能が有れば。

 もっと早くアンナに師事することができていれば。


 そう、求めても仕方のない空想で思考を埋め尽くし、エヴァンは砕けそうになるほど奥歯を噛みしめる。



「……いったい、どういう手品を使ったってんだ。全員集合って感じじゃないか」


 集まったのは、広場の中心に十数体程度。

 それぞれの小路に四か五ずつ。その中のいくらかは、既にその姿を人から大きく変貌させている。

 微動だにもしない集団。

 迫ることもなく、ただ佇む。

 次のアクションは、誰かの指示でのみ動くのだろう。操り人形がごとき様。


 そんな、自意識を持たないという彼らに問いかけても、答えは返ってこない。

 いや、返って来ないはずだった。


「――簡単な話。移動させただけですよ。何か不思議なことがありますか?」


 だが答えはあった。

 いつの間にそこにいたのか、声は広場の中心から響く。

 よく通る声だ。

 薄気味悪さと、文字通りの生理的な嫌悪をもたらす不快な空気の中。それをまるで透けて通るかのような、そんな涼やかな声。


 声のもとには一人の男がいた。

 整った顔立ちで、品のあるそれに柔らかな笑みを浮かべている。上等そうな衣服に身を包み、首から大きな水晶を加工したような首飾りを下げている。その他は目立ったものはなく、その一つを除けばただ清潔な人物というだけにも見える。


 しかしこの場では異常だ。

 そして、彼のまとう空気も異常だ。

 何より、今なお人外に囲まれているというのに恐怖一つ浮かべない。それが彼が尋常の存在でないことをまざまざと教えてくれる。



 あれは、邪悪だ。

 そしてあれこそがティオラスを闇へと引き留める元凶なのだ。


 そう、エヴァンは無意識ながらに理解していた。



「……シャルワトル」

「これはこれはティオラス様。お久しぶりです。長々と席を空けてしまい、申し訳ありませんでした」

「そのまま開けたままでよかったのよ?」

「おや、これは手厳しい。まさかあなたからそんな言葉を掛けられるとは。それにしても……私は何か嫌われるようなことをしてしまったでしょうか」

「存在が不快よ、魔術師」


 切って捨てられても、笑みは崩れない。肩をすくめた程度だ。


「……誰だ?」

「そうね、指導者的な存在かしら」

「そんな奴がわざわざ出てくるとはな」


「ええ、頼まれてしまいましてね」


 聞いてもいないのに、自ら答える。にこにこと笑みを浮かべて、まるで害意など持たないのだとばかりに。

 しかしその笑みはどうにも胡散臭く、直視しているのも不愉快なほどの粘り気があった。

 柔らかく細められた目。瞼の下から覗くそれは、首に下げられた水晶のように透き通っている。

 悪意がこもっているようで、反対に何も映していないかのような透明な瞳。

 顕微鏡のレンズのように、こちらの意識を覗くようにして見ているように思える。


 似たような感覚を、エヴァンは知っていた。

 己の師にあたるアンナも、似たような視線をエヴァンへと向ける。あれはあれで恐ろしい。魂の根っこの部分を覗かれているようで、手でも足でも意識でも防げない視線は恐れを抱いても何らおかしくはないだろう。


 しかし目の前の男はそれと毛色が違う。

 見透かしているだけでなく。

 何か不気味な種でも植え付けられているような、汚濁を注がれているような気味の悪さがある。

 ちょうど、常識の枠組みから外れた文章を綴ったあの古書たちを読んでいるときの様な感覚がまたあるのだ。


 だから、エヴァンは前に立つ。

 せめて盾になるのだと。

 ティオラスを己の背の後ろに隠した。

 彼女の何か言いたそうな顔を見ないふりをして。


「……あれが出てきたというのなら、あなたに落ち度はないわ、エヴァン。あれは、私にもわからないもの。何もかも」


 絞りだされたような声に促されるようにして、エヴァンは眼前の男を睨む。


「ええ、あなたのために日々己を研鑽しておりますからね。そういう意味では、君の先達ということになるのかな」


 無機質な瞳はエヴァンをじっと捉えていた。


「あなたなんかと一緒にしないで」

「おや、ずいぶんと気に入られたようですね。羨ましい限りです」


 己を挟んでの言葉が飛び交う。

 片や辛辣に。片や表面上は穏やかでも、その下には不明な何かを潜ませた声音で。


「――それで、気は済みましたか? 気晴らしが済んだのならば、戻っていただけるとありがたいのですが。そうすれば彼らも安心してくれるでしょう」

「……」


 会話は唐突に終わる。

 シャルワトルと呼ばれた男に問われ、ティオラスは押し黙ってしまった。

 何かを悩む。答えたくもない何かを口にするか否かと。

 それも一瞬だ。一瞬の沈黙。

 彼女は答える。口を開く。開こうとした。


 それが気配でわかってしまったから、エヴァンは固まりかけていた思考を動かした。

 浅い呼吸をするための器官から、言葉を発する道具へと口唇が昇華する。


「帰りたくないってよ、お前たちのところには」


「――ふむ」


「っ! やめてっエヴァンッ――」


 悲痛な叫びは、気障ったらしく片手で制す。


「それにな。どれだけ身なりを繕おうが、臭いんだよ、お前は。お前なんかのそばに置いたら、ティオラスまでも汚れちまう」

「心配いりません。彼女は我々下賤なものに左右されるような方ではありませんから」

「当たり前だ。だがダメだ」

「論理が破綻していますよ」

「今回に限れば、必要ないからいいんだよ、別に」


 シャルワトルの登場とともに下げていた拳銃を、彼に向ける。

 明らかに他とは違う。人と同じ言葉を話し、人と同じように振る舞うそれに銃口を向ける。


 不気味な笑みは、変わらない。


「……お前が死ねば、万事解決だ」


 引き金を、引いた。



 ***



「死んだな、さすがに」


 ぽつりと、呟いた。

 そのまま背もたれにゆったりと背を預ける。

 小さな体はすっぽりと椅子に包まれた。

 開いただけの状態だった本を閉じ、同じく瞳も閉じる。

 視界が闇に閉ざされ、青錆びたガラス玉はもう何も映してない。


 そうしてアンナはどこかつまらなそうに肘掛を数度指で小突いた。


「何か、あったんですか?」


 数人が、顔を向けていた。それを目を開けずとも理解し、しかし改めて彼らを見るようなこともしない。

 ただ、口だけは動かすようだ。


「あのバカが、ゴミどもに追われているようだ」

「どのゴミのことを言っているのか、わかりませんね」


 一番近くにいた生徒――短めで癖のある赤毛の女生徒――が、大人びたような、子供の様な顔をアンナに向けている。

 考古文化人類学研究室に所属する院生の一人。今年で二年目。来年には博士号を取得するのだろう、そう目されている一人だ。

 彼女はアンナの返答を聞くと、一言だけを言ってあとは興味を失った。


「でも何とかするんでしょう?」

「しない」

「あら、それは意外です」


 お互い顔すら向けず、ただ形だけの会話が惰性に続く。耳を傾けていた数人も、もう意識を向けていない。


 一人を除いて。


「――助けようとは思わないので?」


 低く、落ち着いた声。若い男性の声が混じった。


「さすがにそこまでしてやる義理はない。警告もした。なら、従わなかったあいつが悪い」

「子供みたいな言い草ですね、見た目相応です」

「揶揄うな、ルシール」

「おお、怖い」


 無感動な言葉に何かを感じ取ったのか、茶々を入れていたルシールと呼ばれた女性はそれきり口を閉ざした。


 残るはアンナと、そして男だけとなった。


「あなたならば、簡単でしょうに」

「危機管理もできない愚図に割く労力はない。やはりあれには、芽はなかった。それだけのことだよ」

「ひどい言い方になりますが……それは最初からわかっていたことでしょう?」

「一応、別の期待は持っていた。それも育たなかった」

「それだけで捨てると」

「そうだ」


 そこでアンナは、ようやく瞑っていた目を開けた。存外、近くにまで来ていたのだなと、ぼうと考える。


「まだひと月も経っていません。見限るには早いのでは?」

「変わらんよ、あれは。見ればわかる」

「俺には見えません」

「当たり前だ。私にしか見えない」

「なら、俺にも見せてください」

「面倒だ」


 アンナの目には何が映っているか、それは本人以外はわからない。いや、わからなくても問題はない。何せ彼女にとってそれを共有するのに、それが言葉以外の媒体によるものだとしても少しの手間しかかからない。それは承知のことだった。

 だからこそ、そこに込められた意図を考えてしまう。僅かな手間をかける意味もない、と。



「――以前言ったことを、訂正しておきます。やはりあなたは、ひどい人だ」


 そう言い残して、男は――デール・フリントンは研究室を後にした。



 ***



「イライラしてますね、珍しく。いや、いつも通りかな」

「お前もいつも通りだな。余裕があるのなら……」


 椅子から立ち上がり、どこかから取り出した大判の紙束をルシールに押し付けた。


「追加だ」


 それに、ルシールは嫌な顔を隠そうともしない。それも、溜息とともに消え去ったが。


「エヴァンには、本当に期待していたんですか? 才能がない才能がないって、いっつもぼやいていたじゃないですか」

「お前と同じタイプなんだよ、あれは」

「それはまあ、なんとなくわかりますけど。それでも私の方が優秀です」


 わざとらしく胸を張って見せるが、アンナは見向きもしない。


「邪悪に立ち向かう力は、今のあいつにはない。それは、まあいい。だが抗う意志だけは持っていてもいいはずなんだよ」

「それがあるから、今もピンチになっているんじゃ?」

「――対象が違う」

「対象?」


 青錆びた瞳が、どこか遠くを見つめる。ここではないどこかを。


(――それもまあ、いい)


「それに、あれが行けば充分だろう」

「まさか焚き付けたんですか」

「勝手に燃えただけだ。あれも、存外まだまだ余裕があるようだ」


 ルシールのちょっとした疑問にはアンナは答えなかった。しかしそんなことは日常茶飯事で、ルシールはすぐに意識からはじき出した。

 代わりに「目をつけられて、かわいそうに」そう口の中で呟く。そして、また別のことが気になった。

 それは今度は、しまい込むことなく口にした。


「……あれ、そんなに簡単ならなんでイラついているので?」


 疑問の眼差しを隠すことなくアンナに向ける。機嫌を損ねればさらに追加が来るだろうことは容易に想像がつくのに、気にも留めない。

 そこにはもしかしたら、何かの確信があったのかもしれない。それくらいに、今のアンナはルシールが知らない顔をしていた。


「――嫌いな奴がいるとわかったからだよ」


 その声音は、ひどく平坦だった。

 いつもの数倍。本当の意味で、何の色味も持たない。そんな声だ。


 それだけ言うと、アンナもまた部屋を後にした。



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