10:親と子と
「それで、どこに連れていくつもりなの?」
これといった計画もない。探すことばかり考えて、その後をまるきり想定していなかった。
そのことに今更焦っても仕方なく、間に合わせとしてエヴァンは周囲を見回した。
「そうだなあ。この時間は大体どこも人がいるだろうし」
日中の一番街はどこを歩いても喧噪が離れていかない。休日ともなれば尚更だ。
広い歩道を練り歩き、見上げるほどの商業ビルに消えていく多くの買い物客。
どこか少しでも空いたスペースを見つければ移動式の屋台やストリートセラーが居座り、やかましい呼び込みをかけている。
大道芸やオルガンの路上演奏を披露する様がそこいらで見られ、そこには大小ばらばらな人の塊ができている。賑やかな音楽に紛れて時折歓声や拍手が巻き起こるのはそのせいだ。
休日の一番街は、華やかだ。
皆日頃の厳しい労働の鬱憤を晴らそうと、それこそ無理をしてでも楽しもうとする。
例えお金がなくてもその一団に紛れるだけで気分を味わえるし、何なら何か仕事を探すものもいる。いわゆる下位の貧困層に区分される彼らは、こういった休日が稼ぎ時だったりする。
人の波を縫って走り回り、身なりのいい誰かを見つけては声をかける子供たちがそのいい例だ。荷物運びを申し出ているのだろうか? 靴磨きか? それともどこかの職場に自分を売り込んでいるのだろうか。
よく見る光景だ。
そして、エヴァンはその光景があまり好きではない。
その先の光景が好きではない。
だいたいが鬱陶しそうに追い払われる。煙たがられる。そう相場は決まっている。
当然といえば当然だ。身元もわからない誰かに荷物など預けないし、お世辞にもきれいとは言えないクロスやブラシで靴を磨かれては落ちるどころか汚れが増してしまいそうだ。
ふと向けた視線の先にいたのは裕福そうなミドルエイジの男女。そして彼らに付きまとう、煤やらなにやらで汚れた少年。
少年の売込みに対して、物腰が柔らかいのだろう、男女はやんわりと断りを入れていた。
(そこで引けばいいのに……)
エヴァンは内心で呟いた。
それきり、視線をふっと外す。賑やかな喧噪の中、一瞬だけ怒声が混じった気がした。
しかし誰も気にしない。誰も見向きもしない。そも、誰も気づかない。
「――エヴァン?」
「ん、なんだ?」
「いえ、なんだか険しい顔をしていたから」
「そうか? まあ、あそこのオルガンライダー、下手くそだと思ってな」
「そう? 私は……いい音色だと思うけど」
「そうかねえ。俺はもっと気分が盛り上がるような曲を聴かせてもらいたいよ。あいつが弾くのは陰気くさくって仕方ない」
「それは、そうかもね」
言われてみればと笑みを浮かべる彼女を、エヴァンは直視しなかった。
「それにしても、どうしたもんか」
落ち着いて話ができそうなところはどこにも見当たらない。
広場はストリートパフォーマーの舞台になっているし、喫茶店ももうどこも満員に近い。
少なくとも一番街からは離れる必要がありそうだった。
候補を外にまで広げてみれば、一番良さそうなのは大学だ。エヴァンも所属する考古文化人類学研究室。
あそこなら事情も知った者ばかりなため、一般人に聞かれたら困る内緒話も問題ない。
ただ気がかりなのが。
(あの人が認めてくれるかどうか……)
以前、エヴァンはアンナに助けを求めたことがあった。自分のことではなく、ティオラスを助けてほしいと頼んだのだ。
しかしそれは素気無く断られた。
エヴァンとティオラスは違うと、アンナは彼女のことを拒絶した。
そこにどんな線引きがあったのかはわからない。ただ学生とそれ以外の違い、というものには思えなかった。何か深いところに原因を持つ、そんな明確な拒絶だったとエヴァンは認識している。
自宅に招くというのも、違うだろう。さすがにそこまで女たらしなつもりはない。
いっそのことザ・ブルーティットの個室でも借りようか。そう思考が見慣れた店内へと飛ぶ。
あそこなら、休日でも客の出入りはそう変わらない。隠れ家としても、そこそこ機能しそうだ。それに、ちょうどジャレッドも宣伝やら紹介やらと言っていたのを思い出す。
しかしそこでネックとなるのは他でもないジャレッドの存在だ。おまけに休日のこの時間帯ならウェイトレスであるシャノンもいるだろう。
彼らに絡まれては話どころではなくなるだろうことが容易に想像できた。
しかし他に候補も挙がらない。
ここにきてエヴァンは自身の行動範囲の狭さを知った。いや、行きつけの店というものが他に無いわけでもないのだが、静かな場所というものを知らなかった。
大体が学業の気晴らしに出かけるものであって、そういう時は凝り固まった精神をほぐすような騒がしい場所を好んでいたのだ。
「そっちは、どこかいい場所は知らないのか」
「そう言われても、私は――」
首を振って否定するティオラスの言葉は最後まで紡がれることはなかった。
近づいてくる物音に、二人ともが意識を向けたのだ。
「――路面電車か」
重苦しい電動機の鼓動と、石畳にひかれたレールの上を転がる複数の車輪。これだけでも充分だというのに、時折警笛を鳴らし己の存在を知らしめる。
道路の中心を悠々と走る電車は次第に速度を落とし、近くの駅に停車した。
長いこと電車に揺られたのだろう、人によっては伸びをしながら降りてくる。
これからの予定に胸を膨らませ、楽しそうに街のあちこちを指さすティーン。本を片手にした紳士や、お喋りに興じる団体。
最後は上品なロングスカートの婦人で、彼女が男性にエスコートされながらゆったりとステップから駅に移ったのを確認して、電車はまた警笛を上げた。乗客を吐き出して幾分軽くなったのか、どこか軽快な様子で走り去る。
大きな音というのはつい注意がいってしまうもの。これといって面白いものでもないのだが、何となく走り去る路面電車の後姿を眺めていたエヴァンだが、それも遠くなってからまた視線を戻した。
「……ティオラス?」
「――え、何?」
その後姿をいまだじいと眺めている人物が隣にいた。
その顔はどことなく興味深そうな表情で――もっと言えばとある欲求が透けて見える。
「……乗ってみるか?」
「えっと――うん」
***
待ち時間が短いからと適当に乗った電車は四番街方面行きだった。そのおかげで行先がもう決まったようなもので、エヴァンもまたのんびりと席に身を預けている。
「別に、楽しいもんでもないと思うけど」
電車に揺られ、流れていく景色をぼんやりと視界に映す。探し物をしていた少し前とは別の光景のようにも見えるが、何度も見た光景だ、感慨は何もない。
「乗ったことがないから、新鮮なのよ」
ただそれは彼女には当てはまらないらしい。
興味深げに車内と、そして車窓からの風景を眺めるさまは子供のようにも田舎から出たばかりのようにも見える。
そんな様子の彼女を尻目に、エヴァンは周囲を横目で伺う。幸い、こちらを気にするような人は不思議なほどにいなかった。
中心街から反対方向ともなると混雑はしていない。ただ、彼女ほど目を引く人物もいなさそうなものなのだが。そう疑問を浮かべながらも、不利益にならないのならとすぐに忘れてしまう。
「へえ。じゃあ移動はどうしてたんだよ。アイビッドだって結構広いぜ?」
アイビッド市内を快適に移動するにはいくつかの方法がある。もちろん、徒歩や自転車を除いてのこと。
もっとも主流なのは路面電車だ。
次いで、一番街から三番街までの主要区画をメインに運営されるバス。
最後に中層以下の労働者階級ではなかなか手が出せない乗用車。
地下鉄の開通はアイビッドでは見送られており、そしてかつては主流であった馬車はとっくの昔に姿を消していた。
「車がほとんどね」
彼女は少数派の一人のようだった。
「俺は車のほうが乗ったことないよ。あってもまあ、バスくらいだ」
「バスも、乗ったことないわ」
「筋金入りだな……」
流れていく景色の中には件のバスもあった。
でかでかと広告の載せられた二段構造のバス。隣の様子を窺えば、やはりよたよたと進むバスに視線が釘付けになっていた。
「あまり、一人にしてもらえなかったから。必ず誰かが付き添って、それで。いえ、そもそも外に出ることが滅多になかったわ」
「……そりゃ、そんなに白くもなるわな」
エヴァンの中で、彼女がこれまでどういった扱いを受けてきたのかが確固とした形を持ち始めた。
悪い扱いは、されてはこなかったのだろう。
しかしそれが良い扱い、普通の人間としての扱いに当てはまるかどうかは別だ。
言葉だけを聞くなら、どこかの令嬢のような生活だ。大きなお屋敷から出ることが許されず、礼儀や作法、そして教養をただ漫然と学ぶ毎日。たまの外出は両親やその友人らが催す社交界ばかり。
絵にかいたようなお嬢様な生活も、それはそれで退屈なものだろう。庶民には考えつかないような辛さや悩みがあるのだろう。
しかし彼女の場合はそれらをより暗く、どんよりとさせたものなのだ。境遇を考えれば想像も容易い。学ぶのは精神を汚すような暗黒の知識で、望まれるのは令嬢然とした姿ではなく優れた魔術師――あるいはそれに準ずる姿。自由がないことは変わらず。しかし与えられる苦痛は比にはならない、そんな軟禁生活だったのだろう。
「だから、本当に新鮮。本当に楽しいわ。ただ、本当はこんなことをしている場合なんかじゃないんでしょうけど」
「まあ、そうなんだろうなあ。連中が諦めるってことはないのか?」
「ないわね。今すぐ私の力が必要なんてことはないけれど……自分で言うのもなんだけれど、なかなか得難い存在なのよ、私は」
「へえ。なら友人である俺は自慢でもできるのかね」
「誰にするのよ」
「誰かだよ。少なくとも、世の男どもは羨むだろうさ」
「よくわからないわ」
「常識知らずってのはすごいねえ」
「……悪かったわね」
拗ねたように彼女がそっぽを向けば、少しの空白には周囲の会話が流れ込んでくる。
やれ職場やら家庭やらの愚痴。あそこの店はよかった、逆にあっちは悪かったという論評。最近はここの化粧品がいい、あそこのブランドが新作を出した、など人によっては有り難がられるだろう有益な情報。
環境音のように雑多で無形なそれらに茫然と耳を傾けていると、呟きほどにも小さく、そして静かな語りが滑り込んできた。
「必死になる、血眼になって探す。そんなことはないの。ただ当然のように連れ戻そうとする、手元に置いておこうとする。そして、必ず元通りになると疑っていない……私一人が必死になってる。どう足掻いても逃げられない。そんな気がする」
「私は、どうすればいいのかしらね」
それは、エヴァンに答えを求めたものではなかった。どちらかといえば自分へ向けたもの。
答えのない問い。それでも答えが欲しい、そんな問い。
誰にでもあるものだ。例えば、自身の将来を想像したときのような。大きな壁にぶつかって挫折してしまった時のような。そんな空々漠々とした問い。
「……」
それにエヴァンは答えたかった。道を示したいと思ってしまった。
しかし、それをなすだけの頭がない。無理を押し通すほどの力がない。
思いつくのはせいぜいどこかに隠れ家を用意すること、あるいは強力な庇護者を用意すること。
しかし、彼女の口ぶりからは望むのはそういった場当たり的な答えではないような気がした。もっと、それこそ宿命とすら表現されるだろう己の境遇を覆す、そんな答えを求めているような気がした。
先に挙げた二つすらも覚束ない自身に、それをなせるだけの力があるとは思えない。自身の力のなさが恨めしい。
自身にできることとといえば、せいぜいがアイビッドの外に彼女を連れ出すくらい。
そこで、余裕を作ったうえでゆっくりと解決策を考える。
問題を先送りにする。その程度。だが、現実それくらいしか不可能だ。
「……最悪、それも考えとくか」
「それって?」
「いや、何でもないよ」
***
「この街、前にも来たような気もするわ」
「ああ、ほら、雨の中走っただろ。あの日は夜だったけど」
以前はティオラスに手を引かれ、そしてエヴァンが手を引いて駆け抜けた道を、今度は並んでゆっくりと歩いていた。
ブランウィッドから、名前もついているのかどうかもわからない通りを駆け抜けて、一番街にまで走った。それをゆっくりとなぞる様に逆戻りに歩けば、ティオラスは納得したように頷いた。
「そっか、あの時の」
「そ。少し歩くけど、四番街には俺の行きつけの店があるんだよ。ちょうどあの日も飲んでたんだ。ほら、酔っ払ってたろ? まあ、そこならわけを話せば落ち着ける場所くらいは用意してくれるはずさ」
ザ・ブルーティットには静かに飲みたい人向けの個室も用意されている。もっとも、普段から客入りが悪く騒がしさを気にするほどでもない。おかげで利用されることなど滅多になかったが。
今日に限って埋まっている、なんてこともやはりないだろう。
「それにちょうど、宣伝しといてくれとも言われてたしな」
「宣伝?」
「マスターが一度会ってみたいんだとよ」
「へえ。私に? 変わってるのね」
「美人だって説明したら食いついてね」
「なんて説明をしているの」
「事実だろう。あんたと友達ってのは自慢できることなのさ」
「……あまり嬉しくないわ」
「心配せずともそんなことしないよ」
肩をすくめて見せれば、むくれた顔も元に戻る。
「行きつけ、ね。そういうのも憧れる」
「しみったれたパブだけどな」
「酷い言い様ね。お気に入りだから通ってるんじゃないの?」
「まあ、立地と客足以外は悪くはないよ。ただ、そうだなあ。家からも遠いし、正直通うのもなかなか面倒な場所にあるんだよな」
「ならどうして?」
「その店のマスターと付き合いが長くてね」
ジャレッドとは、それこそ子供の頃からの付き合いだ。あの頃は、彼ももっと若かった。
それこそ今のエヴァンと同じくらいに。それなのに、あの頃のジャレッドほど、自分は大人になっているとは露程にも思えない。
「どんな人なの?」
「どうしようもないやつさ。お節介で、それなのに空気は読めて。……まあ、いい人ではあるよ」
「そう、いいわね。そういう人と知り合えるっていうのは」
「ああ。俺にとって一、二を争うほどのいい出会いだよ」
今のエヴァンを形成するのは、彼から貰ったものが多い。考え方、生き方。仕事、そして住むところ。今は違うが、昔は学費も肩代わりしてくれた。
「……親代わりなんだよ、そいつは」
「親、代わり……?」
「そ。悪いな、急に変なこと言っちまって。ちょっと自慢したくなっちまった」
「……ううん、構わない」
なんとなく、話したくなった。
なぜだろうか。
今日は質問してばかりだったからだろか。
それとも、先の光景……路上で小銭を稼ごうとする子供の姿を見て、思うところがあったのだろうか。
あの子供は、いつかの自分とよく似ていた。
親を早くに亡くし、いつの間にか路地裏で暮らしていたエヴァンはゴミ漁りや溝浚いといった最底辺の仕事で食いつないできた。
まともな仕事に就けない子供にとって、休日の売り込みは実のところ命懸けだ。命の危険があるのではなく、そこで稼げなければ飢えて死ぬ。そういう意味で。どこかで雇ってもらえれば――たとえそれが工場での単純作業や炭鉱送りだったとしても、儲けものだ。
まだ安定して稼げるのだから。
ただ、子供の労働に関して法律で厳しく取り締まられるようになっていたから、昔よりは幼い子供を雇おうという雇用主もだいぶ減っていた。
そうなって困るのは子供だ。親のいない、いわゆる孤児。
孤児院にも当たりはずれがあり、何かの間違いで救貧院にでも入れられたらもう将来に目はない。
義務教育とはいっても学費の制度はまだまだ未発達だし、学費すら払えない子供は初等教育も受けられない。
学ぶ意欲があれば大人からでも取り返せはするが、それがどれだけ現実的か。
エヴァンは出だしから挫けていた。
あのままだったら大学どころではなく、今もどこかの劣悪な環境で安い賃金のために汗水流していたことだろう。
エヴァンは拾われた。
ジャレッドという、当時はまだ二十代もギリギリ前半という若さの男に拾われた。どうにもどこかの戦争で得た報奨金、ちょうど国の景気とともに羽振りがよかった時だったためなかなかの額だったらしいそれで開いたパブで、住み込みの手伝いとして拾われた。
エヴァンは救われた。
どうしようもないほどに頼る相手のいなかったエヴァンは、救われたのだ。
「まあ、だから大体十年以上の付き合いかね、あいつとは」
それを、かいつまんで話す。身の上を話すのはずいぶんと久しぶりのことで、妙にこそばゆさを感じた。
「……あなたも、いろいろあったのね」
「昔の話だがね。それにしても、どうせならもっと美人な人に拾ってもらいたかったもんだ。あ、そうだ。こんなこっぱずかしいこと言ってたのは内緒にしてくれよ」
「そうね。考えておいてあげる」
おどけたように話を締めれば、ある意味期待通りな、いや、期待以上な反応に、エヴァンは肩をすくめながらも笑った。
「なんとなくだけど、あなたのこと少しずつわかってきたわ。扱い方もね」
「相互理解は、いいことだ」
包み隠さずの関係なんて望まない。望まないし、望めない。必要じゃない。
これくらいでいいのだ。
「ああそれと、いいとこばかりでもないからな、あいつも。だいぶ枯れてきちゃいるみたいだが……外面以外は紳士には程遠い。だから視線には気をつけろ」
「視線?」
「……なんでもない」
エヴァンへの理解はともかく、彼女はもう少し自身への理解を深めた方がいい。これは頭を悩ませる機会が増えそうだ。
そんな予感を覚えながらも二人は静かな街を歩き続けた。
行く先は寂れた裏通りのパブリック・ハウス。
馴染みのマスターにさてどうやって彼女を紹介しようかと、思考の端で考えながら。
ジャレッドには恩がある。
同時に彼ならば、そんな浅い考えが無意識にでもあったのだろうか。
それとも、ジャレッドにティオラスを紹介するのが、あるいはティオラスにジャレッドを紹介するのが楽しみとでも思っていたのだろうか。
どちらにせよ、いつの間にか頭の中すべてを、意識のすべてを夢想の中に浸してしまっていたらしい。
だからそれに気付かない。
今更になって気付く。
忘れていた。
あまりにも順調で、平穏で、平和な一日過ぎて忘れていた。
人気も疎らな、中心街とは比べ物にならないほどに見通しのいい、緩やかなカーブを描くだけの広い通り。
その正面に、カーキ色が佇んでいた。




