1:プロローグ
ザアザアと雨が降る。
地上を打つ雨音が、暗く寒い石の世界にまで届く。
密閉され息苦しい世界。
常人であれば鼻が曲がるような臭気に満ちた世界。
質量すら持っていそうな粘つく闇に囲われ、蝋燭の橙色がわずかにそれを払うだけの、寂しい世界。
そんな中で粗末な椅子に腰かけて、開いた本のページを捲ることもなく、ただひたすらに雨音に耳を傾けていた。
「……どうかされましたか」
不意にしわがれた声が耳朶を打った。
酷く無味で、囁くようなか細い声だ。それでも一瞬でも雨音を遮ったそれに、意識を割かずにはいられない。
そのことが酷く不快だった。
暗闇にぼうっと青白い顔が浮かび上がる。
深い皺が刻まれ、垂れ下がった皮に暗く影を落とした悍ましい顔。不揃いな白髪が遠くの蝋燭の灯に照らされ、石室に歪な影を作っている。
「考え事でしょうか。何か、入用でしょうか。用意させましょうか」
不相応に早口で。
矢継ぎ早に紡がれる言葉は自身を気遣ったもの。しかしそのことに特別何かを思うことはない。いや、強いて言うならやはり不快か。
しわがれた声が口をつくたびに饐えた臭いが広がる。密閉され、息苦しさすら覚えるここでそれは決して望まれない。
感情というものを麻痺させる状況でなければ。きっと盛大に不快感に顔を顰めていたことだろう。
「……いえ」
「そうですか」
短く否定すればまたしても沈黙が戻ってきた。皺くちゃの顔は影に消え、饐えた臭いだけが僅かに残った。
雨音だけが静かに響く沈黙。
世界だけでなく、心にも静寂が返ってくる。
小気味のいい雨音が心に積もった何もかもを洗い流していくようだ。
別に、雨が好きなわけではない。
どちらかといえば、陰鬱とするそれは好きではなかった。それでも、この代り映えがなく、色味がなく、永遠の憂鬱を押し込めたような景色よりはどれだけましか。狂気に満ちた世界よりは、どれだけましか。
今、外はどんな景色が広がっているのだろうか。
この雨が止めば、あの白く美しい月は今日も昇るのだろうか。
***
雨上がりの寒さに身を震わせる。
かじかむ指をポケットに押し込んで、ほうと息を吐けば白い靄となる。
とうの昔に夏は過ぎ、寒々しい風が吹く季節となった。
灰色の空と合わせて、まるで自分の行く末を表したかのようだ。
寂しい通りにぽつんと佇む青年――エヴァンは見上げた曇り空から視線を下ろし、そう思った。
「……ダメだなぁ」
がしがしと、ブルネットの髪を乱暴に掻き上げる。
どうも、思考がネガティブに偏り気味だ。
不吉な思い込みを屑籠に投げ捨てて、エヴァンは目的を思い出したかのようにゆっくりと歩き出した。
薄っすらと油が浮いた水たまりを避けながら、石畳の上をつかつかと歩く。それだけで頭の中でとぐろを巻いていた漠然とした不安感が若干だが霧散していく。
運動も逃避先の候補にでも入れておこう。
そう一人無言で頷く。
今の気分を紛らわせるにはなるべく無心になれる状況が好ましい。もしくは意識を別のものに持っていくか。
最善策はもう少し後にしか取れないことはわかっていたので、ならば次善策をと視線を周囲に彷徨わせた。何か興味の惹かれるものでもないかと探ってみるのだが、生憎どこもかしこも見慣れた景色で、注意が一どころに収まらない。
ここアイビッドはそれなりに大きな都市だ。
しかしそれは土地の広さの話ではなく、規模の話。近代都市としての文化の成熟具合の話。
西は山地で河川を挟んだ東側は氾濫原。
いまいち土地の拡張には適さない立地ゆえ、単純な面積では南北に多少広がりを持つ程度で大都市とはとても呼べないだろう。
小さくもないが大きくもない。
しかし拡張性のない土地に雑多に物を詰め込んで、結果的に狭苦しくなってしまった。
そんな街だ。
いつかは東西の開発にも取り組むのだろう。
だが今はこの窮屈さを仕方なく享受している。
そしてその窮屈さを誤魔化すためか、隙間など作らせないようぴったりとくっつきあう建物はどれもこれもが長身だ。さらに詰められたスペースを最大限に生かすため、余計な遊びをまったくと言っていいほど持っていない。
おかげで規格化されたような建物が視線の届くどこまでも並んでいる。
外装はレンガ、そして時折漆喰壁が混じる程度の違いしかないこともそれを助長していた。
特にここブランウィッドと呼ばれる通りでは年代物が多く、中心街のような煌びやかな装飾や外装を持ったものが少ないためひどく味気ない。
繁栄を形にしたかのような一番街を中心に据え、それを支える二番街が北側に、落ち着いた雰囲気の三番街が西側に。そしてな四番街――ブランウィッドのある区画が南にある。
たしかに、よく言えば閑静な住宅街と言ったところだろう。
ぎゅっと圧縮されたような都市の主要区画、それらを取り囲む外周部である五番街以降を除けば最も静かで、穏やかな午睡も約束されている。
内訳としては民家や、あるいは民家をベースとした個人店がほとんどで、時折屋根の合間からごくありふれた教会がとんがり頭を突き出す程度。
路地に並ぶ吊り看板も派手さ――悪く言えば下品なほどに鮮烈――が足りず、趣深い――悪く言えば古臭い――落ち着いたものしか見当たらない。
時代の流れに合わせてどんどんと新しい建物ができて行く中、古くから住宅街として土地が使い尽くされているせいかここらは開発の影響が薄かった。
時代に合わせて常に開発が進められている区画は、やはり中心街か、それか都市の北側から東へと流れるルズベリー川の東岸、イースト街にまで行かなければ見れないだろう。
しかしこちらも目を楽しませるという役割は果たせない。
イースト街は言ってしまえば工場地帯だ。
かつてはいろいろと区画もあったようだが、今は一くくりにそう呼ばれている。
ただでさえ狭い土地を占有するかのようにどしんと腰を構えて、その上肺を真っ黒にしそうな排煙や、見るだけで気分を悪くしそうな汚水を垂れ流す工場はだいたいこのイースト街に押し込められている。
ただし隔離は完璧ではない。
閉めた蓋は内側の膨張に耐え切れずガタガタと揺れている。
現時点でおよそアイビッドの三分の一を占めるこの工場地帯は、今なお拡大を続ける技術の先進化に伴って徐々に徐々にアイビッドという街を侵食しつつあった。
都市の発展という貢献とは裏腹に、住民にとっては不衛生の象徴、害虫並みに嫌われた存在だ。
そんなところに気分転換のためだけに足を向けようなど、露にも思わない。
イーストタウンのような独特な地はさておき。
画一化されているかのように整った、悪く言えば没個性的である代わりに調和という美しさを得たブランウィッドの街並みは、ある一つの懸念を除いていつも通りの風景を作り出していた。
不意に覗き込んだ服屋は、近所の住人は皆衣替えの用意を済ませてしまったのか、暇そうな主人がカウンターでうつらうつらと舟をこいでいる。
昼時のラッシュが過ぎたからか、幾分寂しくなった陳列棚をパン屋の娘が掃除をしている。
隣の雑貨屋は店番すら用意せずに開店休業状態だ。
繁華街の賑わいとはまた違う、穏やかな風景。
真新しさの欠片もない風景。
ごくごくありふれた光景が広がっていた。
つまるところ何の解決も得られないわけだ。
目に映る光景が平凡すぎてどれもこれもが無意識の中で処理されてしまう。
都合の悪いことに、今日に限ってあの煩いばかりの喧騒もどこへやら。世間話の一つも聞こえて来やしない。
いくら中心街から離れた通りとはいえ普段はもう少し賑やかだ。
これでは穏やかどころか寂れているといったほうが正しいのではないか。それくらいには今日は静かだった。
静かすぎて、また陰気臭い思考がはい出てきそうだ。
……もっとも、それも杞憂となったが。
眉を顰めたくなるようなネガティブ・シンキングが顔を出し始めたちょうどその時、けたたましい音がそれを轢き潰してしまった。
半歩隣の車道を、最近幅を利かせ始めたガソリン車が横切った。
びゅうと風が吹くのに合わせ、鼠色の外套がバタバタとはためいた。
エンジン音が遠のいていく中、真黒な排気ガスが風に乗って吹き付ける。
目に染みるほどのそれから顔を庇おうとコートの襟を立ててみるも、効果はあまりない。
「……クソッタレ」
初めの一台を皮切りに、後続車が何台も通り過ぎていく。その度に排煙にさらされ、土埃をも巻き上げる。
汚らしい吐息をまき散らす車道から離れてみても変わらない。
通り過ぎていく車に向けて睨みを利かせてみても、やはり変わらない。いっそ不気味なくらいに不愛想な運転手どもは歩行者のことなど意識にも入っていないようだった。
完全に独り相撲だ。
それどころか顔を上げた分、余計真黒な風を受けてしまった。
今度はむせそうになる。
ひどく馬鹿らしい。
いつもは気にならないほどの排煙も、重苦しい寒空も、今ばかりは無性に腹立たしい。
そんなものに苛立ちを上げる自分がまた惨めで、エヴァンは逃げるように暗い路地へと入り込んだ。
***
薄暗い。
灰色の空すら狭くなった路地裏で、転がったゴミやら吐瀉物やらを器用に避けながら歩を進める。
表通りとはまた別の臭いが鼻を苛むが、今更だ。
排ガスから黴臭い、湿っぽい空気に代わるだけで結局のところ不快感からは逃れられていないのだが、風のない日のアイビッドは屋内でもなければきれいな空気というものにはなかなかありつけない。
風下のはずのイーストタウンからじんわりと煤がにじり寄り、最近では我が物顔で都市を縦断するようになったガソリン車がそこかしこに吐息をまきちらしていく。
それを考えると、きっと気にしてもしょうがないことなのだろう。
咳き込まない分、こちらのほうがマシでもある。
湿った地面を踏みしめる。
ブーツの裏っ側に何か柔らかいものがへばりついた。
どうも脆い絨毯を踏み抜いてしまったらしい。
恵みの雨が通り過ぎた後だからか、至る所に繁茂した苔がえらく元気だ。ふっくらと体を膨らませ、灰色ばかりが占める中濃い緑の気配を醸している。
田園とも公園とも自然林とも縁遠いアイビッドではこのコケ類が唯一の緑だろうか。他は、せいぜい一部の邸宅の庭や花屋くらい。
鉢植え程度では酸性の雨や風にすぐ枯れてしまう。
水気を堪能するのに忙しい苔たちの間を縫って、蛇行する細道を道なりに進んで行けば少し開けた場所に出る。
足を踏み入れたのはブランウィッドの裏通り。
華やかさ、鮮やかさ、そして賑やかさというものに途轍もない程に欠け、経年劣化の著しい古い世代の建物に囲まれた寂しい区画。
途切れのない技術革新という時代の波にさらされながらもなお歴史を重んじる。そんな意識を忘れないお国柄であったが、それにしてもここらは群を抜いていた。
文化の保存――というより、時代に置き去りにされたというべきか。
病の苗床となりかねない、粗雑な長屋が乱造されるよりはまだましなのだろうか。
解体すらろくに行われないためか、空白を埋めるように開発の進められている中心街やイーストタウンよりもさらに狭苦しい。アイビッド自体が物置のようだとしたら、この裏通りはまるで使い古しを積み上げたゴミ箱のような通りだ。
摩耗し、風化し、寂れていく一方の街並みは手入れというものがまるで行き届いておらず、後々歴史的価値すら見いだされるだろう古い建築様式の建造物すら荒れかけている。
この古臭い景色と黴臭い世界は、昨今成長著しい都市アイビッドの裏側を覗けば簡単にたどり着くことができるだろう。
急速な成長の裏側であり、もしかしたらこれがアイビッドの本当の姿なのかもしれない。
意図して残されたわけではない。ここも時代の波にのまれて、いずれ消えていく運命だ。
そうエヴァンは認識している。
ただ、このしっけた風景は案外嫌いじゃなかった。
***
「いらっしゃい……なんだ、お前か」
控えめな鈴の音とともにドアをくぐれば、見知った顔がエヴァンを迎えた。呆れたように眉を顰めた彼は、エヴァンにとって古い付き合いの男だ。
人気も途絶える裏通りなんぞに青と黄色の小鳥の看板をぶら下げる変わり者。
アイビッド中に無数にあるパブリック・ハウスの中で、こんな辺鄙なところに店を構え――そして長く続けているのは彼くらいではないだろうか。
少なくとも、エヴァンはここ〝ザ・ブルーティット〟しか知らなかった。
「昼間っから学生が酒を飲みに来るのは、感心しないな」
「いいんだよ、今日からは」
薄暗さは外と変わらず。しかし柔らかな暖色の光に薄っすらと照らされた店内は小ぎれいだ。
あの寂れた裏通りとはドア一枚隔てただけの別世界なのではないかと思えるほどで、エボニーで一通り揃えられた内装はいっそ高級感すら感じさせる。歩くたびに若干軋むフロアだけが、気後れしそうになるのを唯一和らげてくれるだろう。
店の奥、別室のほうはわからないが、店内をぐるりと見渡しても客はエヴァンを含め三人しかいない。
四つあるうちの一つだけが埋まったテーブル席。ランチタイムらしい。高齢の男女が油気の少ない軽食をつついていた。
残り三つは客が座るのを待ち構え、丁寧に磨かれた天板をきらりと反射させ客を引こうとアピールしている。
が、こちらを一人で占有する気にはならず、結局カウンター席の一つへと向かう。
腰高のカウンターチェアを乱暴に引き、そのままどかりと腰を下ろした。
「荒れてんな」
座るや否や早々に頬杖をついたエヴァンに向かって、マスター――ジャレッドが揶揄うように口を開いた。格調高い店の雰囲気において到底許されないだろう気安さだ。
「うるせぇ」
エヴァンが軽いため息とともに一蹴すると、ジャレッドは「おお怖い」とわざとらしく肩をすくめた。
それに何かを思うのも億劫で、エヴァンは沈んだままの声でひとまずのオーダーをジャレッドに告げた。少しして、この店一番の安酒のグラスがエヴァンの目の前に現れた。
ショットグラスに注がれた無色透明のスピリッツ。苦学生なエヴァンが頼むのは、もっぱらこのジンだった。
エヴァンは憂鬱そうにグラスを摘み上げ、軽く口をつける。
少しハーブの香りが強い。ここらで一番評判のよくない蒸留所で作られたものだ。なんでもクセが強いためカクテルとして生かしにくいそうで、その分需要が低く価格が安い。
一方でただ酔えればそれでいい、そんなタイプの人間にとってはこれ以上にないほどぴったりな酒で、エヴァンもよく愛飲していた。
特に、今日みたいな日は。
エヴァンが求めていた頭の中を空っぽにする最善策。
簡単な方法だ。酔って忘れてしまえばいい。
一口、二口と喉を熱く焼く液体をちびちび流し込んでいく。その特別な効果が頭にまで現れるのはまだ先の話だ。それでも逃げ道へとたどり着いたことで、ため込んでいたものを吐き出すための栓が滑らかに捻られる。
酒の力を前借りして、エヴァンはようやく重々しい口を開いた。
「……研究室、クビになったんだよ」
「ああ? クビ?」
「そうだよ、クビクビ。明日から来なくていい、だってよ。苦労して入ったってのに、チクショウめ」
「……そいつは、ご愁傷さまだな」
胸に抱えていたものを吐き捨てるように告げると、さすがに揶揄えるような内容ではなかったのかジャレッドは声のトーンを一段落とした。
「あそこ出ればエリート確実だってのに」
情けない愚痴とともに盛大に溜息を吐き出せば、薬香とともにアルコール独特の匂いがわずかに鼻をくすぐった。体から抜け出ていった分を補給するように、再びグラスに口をつける。それもまたしても溜息に消える。
「なんだ、心配してみれば結局それか」
重大そうだと気構えていたジャレッドは気が抜けたように肩を落とした。
いや、重大といえば重大なのだ。何せ卒業が遠のいたのだから。人生という修正の難しいレールからも外れかけだ。
しかし拗ねたようなエヴァンの口調は、どうしても深刻さよりもしょうもなさが勝ってしまう。それに加えてエヴァンは常から〝エリート〟を話に持ち出していたということもあった。それも茶化すように。
ゆえに新鮮味と真剣味に欠ける。
おかげで緊張感など霧散してしまった。
「大事なことだろうがよう」
「そりゃまあ、否定はしないがな」
エヴァンがぐってりと突っ伏す一方で、興味の幾分削がれた様子のジャレッドはグラス磨きに精を出し始めた。
「別のところに行けばいいじゃないか。あの大学を出たってだけで、十分だと思うがね」
「入れないんだよ」
「なんでだよ。研究室から追い出されただけで、退学にされたわけじゃあないんだろ?」
「そうだけどよう」
上体をカウンターに投げ出したまま、顔だけを上げてグラスを呷る。行儀の悪さなど承知の上だ。
「あそこから追い出されたやつ、ドロップアウト組より扱いひでえんだぜ? なんてったって約束された成功が霞に消えるんだからな。これまでの嫉妬と羨望も相まって見下されるったらなんの」
「それくらい耐えろよ」
「ムリ」
「根性ねえな」
二杯目を注がれ、口を突き出して啜る。
エヴァンが所属していた考古文化人類学研究室には学生の他にも多くの院生や研究生が所属している。それほど人気のある研究室だ。
その理由の一つは多数の政治家や官僚を輩出している実績から。輝かしい将来への足掛かりとして最高の環境なのだ。
最上級の職でなくとも、卒業生はその悉くが行政の要職に就いており、まさしく出世街道の入口と言えるだろう。
何事もなければエヴァンもその仲間入りだったはずなのだ。
「チクショウあの年増幼女め……何が見込みなしだっ」
怒りの矛先は自然と首切りを宣言した張本人、歳不相応の見た目の教授へと向けられる。
エヴァンに対する興味など全く失ってしまったかのような無表情を、どこか人形めいた薄ら寒い顔を思い出してしまう。
思い出して、頭の中で舌をつき出して罵倒した。
自分の無能さばかりを棚に上げた八つ当たりではない。これでも真面目に勉学に勤しんでいたし、成績もエリート街道を歩む一員に相応しいほどにはよかった。
そのはずなのだ。
だからこそ、エヴァンはどうしても納得がいってなかった。
今日は悪酔いしそうだ。
グチグチと恨みつらみを吐き出すばかりの口とは別に、酔いの回り始めたばかりの頭でぼんやりとそう考えた。
「ま、そう気を落とさないこった。アイビッド大学に入れたってだけで引く手はそこそこあるだろうさ」
突っ伏すエヴァンの鼻先に、普段は飲まないような上品なカクテルがそっと置かれた。
「そいつはサービスだ」
「なんだ、気前いいじゃないか」
「一杯だけな」
「やっぱりケチだ」
そう言いながらも、エヴァンは一息にグラスを呷った。
***
息苦しい。
眩暈がする。
慣れない運動に加え、拭い切れない焦燥が健全な鼓動を阻害する。
身に着けたただの衣服すら体を地に縛り付ける拘束具のように、ずっしりと重い。そう感じてしまう。
水気を吸い体に張り付いたそれは圧迫感をも備えているのだから、なおたちが悪い。
(ここまで、来れば……)
肩で息をするのを感じながら、そっと周囲を見渡す。
真っ暗だ。
雲に覆われ、雨に隠され、月は空に浮かばない。路上の街頭や建物から漏れ出す地上の灯は心に降りた影を払うほどの力はない。
夜の帳も落ち切った後だからか道行く人は僅かだ。その誰も彼もが雨に濡れぬよう早足で、あるいは傘に隠れてその顔色まで伺うことはできない。
だが、それで十分だ。とてもシンプルで、何も違和感のない。そしてごく当たり前で、ひどく人間的な行動をとっている。それだけで彼らは問題ない。
時折こちらに奇異の目を向けるだけで、その意識もすぐに霧散する。
それだけで、問題ないと判を押せる。
息が整うのと同時に、安堵に胸中が包まれる。早足だった歩調も自然とゆっくりとなり、体を包んでいた重い緊張感も和らいでいく――
――パシャリ、と水をはじく音がした。
足元を見る。
水たまりに足を踏み入れたわけではなかった。
周りへと目を走らせる。
近くを歩いていた人々はいつの間にかもう遥か視界の端だ。彼らでもない。
――ならば。
収まりつつあった心臓の音がにわかに騒がしくなる。
――ならば。
安堵は瞬く間に塵に帰り、精神はじわじわと赤黒い何かが蝕んでいく。
まだわからない。
まだ、何かが落ちただけかもしれない。
認識外にあった一般人がいただけかもしれない。
微かな、そして半ば信じていない希望を頼りにして、固まりゆく体をゆっくりとひねる。
唯一視線を向けていない、背後へと振り返る。
ああ、いた。
見つけてしまった。
一見すれば特筆することもない、凡俗の者。
しかしよく見ればどことなく不気味な者。
そして視覚情報に頼ることなく見たそれは、尋常のソレとは明らかに異なる異質さに包まれている、モノ。
狭い路地裏から顔をのぞかせた褪せたカーキのレインコート。長い袖から覗く革の手袋と、泥をはね上げた、体重を感じさせないほどにフラフラと、しかししっかりと地を踏み進む雨靴。
その顔はフードに隠され半分も見えず、口元だけがわずかに見て取れる。それは固く引き結んでいるようで、一方でただ白紙に一本線を引いただけのような何の感動も感情も持たない。
全身のほとんどを被覆され男か女かもよくわからない。
唯一の判断材料である体格から察するに、きっと男なのだろう。
不意に、強いライトに照らされる。
気付かぬ内に、視線の向こうから一台の自動車が近づいていたようだ。それは暗闇から逃げるかのように煌々とライトを照らし、影に落ちた街を早足で駆けていく。
逆光に目が眩む。
目に映る世界が光に溶け、しかしそれを拒むかのようにたった一つの影だけがぼうと佇む。
浮き上がったそのシルエットは嫌に歪に、そして大きく見えた。
ソレの横を、車が勢いよく通っていった。
路上に溜まった水が跳ね上げられ、ソレへと降りかかる。
微動だにしない。
まるで些末にも劣ると。意識するに値しないと。それは微動だにしない。
微動だにせず、ソレは一転を見つめ続けていた。
走り去った車が巻き起こした風にコートがはためき、顔を覆っていたフードがわずかに捲れた。
――目の眩みも、もう晴れていた。
暗闇の中、白い肌はよく映える。
皺の一つもない、つるりとした顔。
無性のようなあっさりとした顔。
情動というものを持たない、ひどく空疎な顔。
その中で唯一色を持つものが。
闇に紛れて、闇よりも深い瞳が。
じいと、私を見つめていた。




