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おにぎりの一粒の私  作者: anik
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再会のおはぎ

 翌日から私は毎朝十五分早く家を出るようになった。そして、放課後は図書室で過ごすようになった。いつも下校時の電車でこなしていた予習復習を済ませた後は、閉室までただひたすら活字を追う。現代文化を学ぶためと思しき月刊のファッション誌や古典漫画の類を手に取ったり、芸術表現に触れるためと思しきアニメDVDを観る日も多かったが、これも活字の仲間といって差し支えないだろう。これまで積極的に利用しようとは思わなかったが、私の高校の図書室はどうやら想像以上に自由な空間のようだ。通い始めて以来、日に日に居心地が良くなる。来年は図書委員になるのも悪くない。そんな充実した時間を過ごしているにも関わらず、ふとした瞬間にあの朝を思い返しては処理しきれない感情に包まれてしまう。物理的に遭遇を避けても、自分の心から逃げるのは難しい。


 米屋バイト少年はカズキと名乗った。苗字は聞かなかった。

 同年代の男子とまともに会話するのは小学校以来だった。耳慣れない低い声、骨と血管を感じさせる薄い手指。はしゃぐ子犬のような目で、彼はマイペースにころころと話を変えながら駅までの道のりをほぼ一人で喋り続けていた。私は相槌を打つのに精一杯で、何を話していたのかさっぱり覚えていない。なんで私なんかに話し掛けてきたのだろう、この人も毎朝この時間なのだろうか、米屋の前を通らずにマンションに帰るのは相当な大回りをしなくてはいけない、そんなもやもやした様々な考えがぐるぐるしていた。きっと彼にとっても全く楽しくない時間だっただろう。彼の通う男子校と私の通う女子校は逆方向で、同じ電車に乗らずに済むことに心底ほっとした。駅に着くとちょうど電車が近づくベルが聞こえて私はそそくさと彼と別れ、ホームへ急いだ。無事乗り込んだ電車が出発するとき、線路を挟んで向かい合うホームの彼と窓越しに目が合った。彼は笑顔でひらひらと手を振った。でも、私は気づかないふりをして目を逸らした。

 彼は異質だ。私の本能が彼と関わることを恐れていた。どうして私にあんな笑顔を向けるのか理解できない。どう対応していいかわからない。同じ空気を吸うのが怖い。自分でも不思議なほどに、私は彼が苦手なようだ。こんなのは初めてだ。

 もう関わらないようにするにはどうするか。米屋が閉まるまで前を通らず、朝家を出る時間を変えれば顔を見ることはないだろう。私は遭遇する可能性を潰すことにした。図書室で放課後を過ごして帰宅する日が続く。家に着く頃には日は沈み、駅からの道では風に乗って夕食を支度する匂いが鼻をくすぐった。魚を焼く香ばしさ、出汁の温かさ、油の甘さ。様々な家庭の様々な食卓を感じさせるその風は、私の心を少しだけヒリヒリさせた。母も家で料理をする。それも、私のために、だそうだ。けれど嫌々生み出される食べ物は、料理という言葉がしっくりこないものばかりだ。切っただけの野菜や焼いただけの肉片。これが母の最大限の手料理なのだった。幼いころは食べたいものをリクエストしたこともあったような気がする。けれどどんな単語を発したところで母のお決まりの返答は決まっていた。

「じゃあ今度の週末に食べにいきましょ。」

 いつしか私は手料理なんて幻想だと思うようになった。テレビやドラマの中の家庭料理なんてきっと幻だ。私には不満なんてない。決して、ハンバーグを作って、なんてお願いはしない。お願いしてはいけない。食べたいものなんてない。そう、私は何も望んでいないよ。


 ありふれた毎日が続き、いつしか耳先がきんとするような風が時折吹くようになった。そんなある日の下校時、私は彼と再会してしまった。

「よっ。」

 残念ながら彼は私のことを覚えていてくれた。毎日学校で顔を合わせているかのような気軽さで彼は私に声を掛けた。おはぎを買ったあの日は白い半袖Tシャツの上に店名がプリントされたエプロンという姿だったが、今は灰色のパーカーにエプロンだった。ゆったりした服なのに、手首が露わになっているせいか線の細さを感じさせる。

 米屋は既にシャッターが下りているので安心して前を通り過ぎようとしたのだが、彼もバイト帰りだったのだろうか。いや、それならばまだエプロン姿なのが不可解だ。まさか待ち伏せされていたのだろうか。

「あっ。どうも…おひさしぶりです。」

 彼は私の返答に満足気に笑顔を向けてくる。関わりたくないと避ける努力をしてきたはずなのに、瞳を輝かせる彼の姿が主人の帰りを待ちわびていた犬のように思え、私は噴き出してしまった。

「俺、何か面白かったかな。」

「ううんっ、そういうわけじゃないんだけど。つい。」

 彼は全く気にしない様子で、後ろ手に持っていた袋をガサガサさせた。

「これ。今日はしばらくぶりにおはぎが売れ残ったんだ。渡そうと思って待ってた。」

 まさかの予感的中。待っていれば私が通ると思っていたのは…正直ちょっと怖い話ではないか。口に出さずとも顔に出ていたようで彼は慌てた。

「やっ、ストーカーとかじゃなくて。ほら、前に美味しいって言ってくれたでしょ。売れ残りとはいっても毎日ばーちゃんがどれだけ一生懸命作ってるか見てるとさ、俺だけじゃなく美味しいのをわかってくれる人にお裾分けしたかったっていうか。」

「…うん。そっか。美味しいよね、おはぎ。貰っちゃっていいの?」

 お金払うよ、と財布を探そうとしたら腕を掴まれた。制服越しに指先の冷たさを感じた気がした。真剣な眼差し。

「俺があげるって言ってるんだから、お金なんていいよ。」

「う、うん。ありがとう。」

 掴まれた腕を見つめてしまう。彼もはっとした様子ですぐに放してくれた。ちょっと照れている、かも。この人は何を考えているのかわかりやすすぎる。面白い、かも。あんなに苦手意識を持っていたのが嘘のように、心が軽くなるのを感じた。私はなぜかほっとした気持ちでいっぱいになった。私の心の中で張りつめている糸みたいなものが緩む気がした。またね、そう言葉を交わして別れた。次があるのは悪くない、かも。その後ありがたくいただいたおはぎは、これまでに食べたどのときよりも優しい味がした。

更新空いてしまい、すみません。まだしばらく続けたいと思います。

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