蝦夷の秘宝 treasure of ainus
文政元年(1818)早春。一人の男が奥州街道を下っていた。年のころ六十五歳。とうに還暦を過ぎ、隠居して安穏に暮らしている筈だが、この男は違った。昌平坂学問所参与を勤め、退任後は生まれ故郷の日野で晴耕雨読の生活を送っていたが、突然奥州へと旅立ったのである。白髪頭は月代を剃っておらず、総髪を慈姑に結っている。痩せて背が高く六尺はありそうだ。人に会うと柔和な笑顔を振りまいて、好々爺そのものだが、一人道行く時は険しい眼差しで酷薄にさえ感じさせる。老人は名を安芸河鐡蔵と言った。腰に二本差、脚の運びや身のこなしからすると元は武士のようだが、海千山千のつわものとも見える。三度笠を被り、ぶっさき羽織にたっつけ袴。いずれも煮しめたように変色し元の色は定かでない。伊達藩六十二万石の城下を過ぎると、道中の人通りはめっきり減り、道も細く荒れていた。鐡蔵は宿場の中でも小さくて汚い旅篭に泊まり、他の旅客と言葉を交わすのを避けているようであった。
相去宿を過ぎ暫く行くと藩境。是より南部藩領だ。漸く来た。道は緩やかに西に折れ、彼方の松並木越しに鬼柳御番所の大きな藁葺き屋根が見える。右手は北上川の滔々たる流れである。空気は清澄で風が冷たい。鐡蔵は菅笠の紐を固く結び直し、心持ち足を早めた。御番所は関所を兼ねていて、鐡蔵が道中手形を示すと、役人が怪訝な面持ちで訊ねた。
「老人。何処から何処へまいる」
「へっ、へい。武蔵国日野郷から参りました。江戸で食い詰め、この先の江釣子村で昔馴染になった男の世話になろうと、遥々やって来たのでございます」
「江釣子で何をしようとしているのか」
「へい。百姓の真似事でも教わり、自給の暮らしを立てようかと思っております」
「爺。お前の歳では容易く無かろう。悪いことは言わん。江戸に戻って家族の世話になった方がいい」
「辛ェのは覚悟しておりやす。娘二人は嫁に出、江戸にゃ頼る人もおらんですけえ」
「気の毒とは思うが、江釣子で歓迎される訳も無かろうが」
役人は老人の持ち物、人別などを仔細に調べたが、特に犯罪などに手を染めた形跡も無く、寺社奉行発行の正式な手形を所持していたので、小半刻の取調べの末、関所を通ることを許した。関所を出ると街道は和賀川という北上一の支流にぶつかる。川幅は広く、幾つもの中州があって対岸は見通しにくい。川を渡るには少し和賀川沿いの道を遡り、鼠川原という部落で川原に降り、渡し舟に乗る。幸い年老いた船頭が人待顔で番屋で煙草を吹かしている。
「船頭さん。向こうへ渡りたいんだが、船出してくれんか」
「出してやってもいいが、お前ェさん船賃持ってるンか」
「幾らだ」
「五十文だ」
「ちいっと高いンで無いか」
「なら止めろ。この川渡るにゃ、船乗るしか無ェ」
「止むをえん。五十文払おう。出してくれ」
船頭は船を出した。五十文も取るだけあって、流れは急峻で横切るのは容易でない。船頭は巧みに竿と櫓を操り、流れに隠れている岩を避けて、飛沫を浴びながら対岸に着けた。
「爺さん。こっちは初めてじゃろ。此の上は五条丸と言ってな、古の豪族たちを祀った古墳が沢山ある。奇観だから見ていくがいいぜ」
「ご親切かたじけない。では見てまいると致すか」
船着場から先は急な上り坂。坂上は見渡す限りの青々と稲穂の育った田圃の中に川原石を五間もの高さに積み上げた円墳が、百基以上も延々と並び壮観である。古墳のある一帯は十五町歩余もあり、通りすがりの老婆に聞くと、先年蕨手刀という蝦夷独特の刀や多量の土器が出土したという。
「婆。ちいっとモノを訊ねるが、ここは江釣子村かいの」
「ンだ。此処は上江釣子じゃ」
「そうか。鳩岡崎へはどういったらいいのかな」
「鳩岡崎かいな。この道をまっすぐ北に向かって半里も無ェ。じき着くべえ。何処さ行きなさる?」
「伊藤弥ェ門殿のお館を訪ねる」
「ひいっ。だ、だ、大庄屋様!江釣子三千町歩を差配されておる、伊藤様のことでがんすか」
「そんなに偉い人なのか」
「ここいらじゃ、生き神様って言われとる。伊藤様のご先祖が和賀川より用水を導きなすったお陰で、荒地だったこの地が、天下無双の米処となったんじゃ。余所者が易々と弥ェ門殿などと言ったらいかん」
「では何とお呼びすればいいんですか」
「そうだの。大殿様といやあ、ここらじゃ弥ェ門様のことを指す」
「弥ェ門、イヤ大殿様に会うのでは御座らん。息子の一弥に会うために来た」
「バカもん!呼び捨てにするなど許されるこっちゃ無ェ。無礼が過ぎるぞ」
「で、ではこちらは何とお呼びすればいいんで?」
「若君か若様あたりが無難じゃろ。若様はの、先年江戸で学問を修めこの地に戻られた。弥ェ門様が生き神様なら、一弥様は救い主だ。眠れる熊などと蔑まれてきた北上の農民を一躍天下の江釣子と言わしめる、歴史上類を見ぬ地上最高の米を造り世に出したからな」
「お婆。わ、若様には会えるじゃろうか?」
「ふむ。突然訪ねてもまぁ無理じゃろ。若様は弥ェ門様のご名代を勤められ、大変多忙じゃ。近所に弥絵様っちゅう気風のいい実の姐さんが住んでおられる。弥絵様は渡世人に嫁いだだけあって面倒見がエエ。そこを訪ねてみいや。何か糸口が開けるかも知れん」
「ご親切にどうも」
「儂も大殿様の小作人の一人じゃ。遥々お江戸からお屋形様を訪ねてこられた、ご老人が困るのは見たか無ェからの。弥絵様の屋敷は、お前ェがいごうとしてる鳩岡崎の大きな森の脇にある。大殿様のお屋形はその屋敷のすぐ下だぁ」
「では、弥絵様のお屋敷を訪ねてみます。お婆も達者でな」
鐡蔵は若葉茂る木立を抜け、青々とした稲が植わった田圃の間の小道を辿った。江釣子は泉涌く地と言われる通り、網の目のように水路が巡り、見渡す限りに美田が広がって、豊かで明るい風土と見える。田圃は途切れることなく何処までも続き、小道は緩やかに登って弧を描きながら、次第に広がり、やがて川原石を丹念に突き硬めた岩だたみの道になった。道を尋ねながら歩くと、小半刻で鳩岡崎に出た。鬱蒼としたぶなの森にへばり付く様にした、あたりの農家とは明らかに違う、黒板の羽目に覆われた瓦葺の屋敷があった。門には巨大な高張り提灯が掲げられ、提灯には太く黒々と森居一家と書かれている。門を叩くと中から子供のような三下が顔を出した。
「爺。ここは森居一家と知って叩いたんだろな」
三下が凄む。
「へい。大姐御の弥絵様を訪ねてめえりました。も、申し遅れました。あ、あっし、生国と発しまするは・・」
「仁義は姐さんの前で切れ。名前ェは?」
「へ、へい。鐡蔵と申しやす。武州日野郷より参ェりました。姐さんには面識が御座ェませんが、弟御の一弥様にはちいっと訳ありでござんして・・」
「取り次いで遣らんでも無ェが、駄賃は?」
「如何程お包みすりゃよござんすか?」
「そうだな、ほんの一両も貰おうか」
「い、い、一両ですか・・・高値すぎる・・しかし姐さんに会わんことには話が進まん。已むを得ん。お払いしましょう。ほれ、一両」
三下は屋敷に引っ込み、暫くすると出てきて言う。
「爺さん。お前ェはウンがいい。姐さんが会って下さる。姐さんはキチっとしたお人。礼儀を尽くすンだぜ」
通された座敷は十五畳ほどあって、床の前に大きな長火鉢が置かれ、そこに緋牡丹を染め出した派手な着物を着た大姐御が片膝を立て、銀煙管を咥え座っていた。二十を少し越した位若妻、濡れ羽色の髪を後ろで束ねて巻き上げている。細い眉、切れ長な大きな目、ぽっちりした形の良い唇。鄙には珍しい美形だ。
「お、お控えなすっておくんなさい。手前、生国と発しますは武州でござんす。甲武の境、笠取の水干に発します多摩の水は東行、南進しまして日野郷に達します。産湯をこの多摩の清水に使い、生まれも育ちも日野でござんす。餓鬼の頃より学問を目指し、昌平坂は幕府のご学問所にて頭取補佐を相勤めたるの後、隠居して寓居に及んでおりました。而るに先般妻子と死に別れ、天涯孤独の身となりやんした。此処に一念発起、己が食い扶持を得んが為、自給できる農を目指したのでござんす。以前学問所にて共に机を並べ、学んだ姐御の弟君、伊藤一弥狗羆殿がこの地で帰農せられると聞き及び、農の教えを請おうと江戸より下って参ったのでござんす。失礼の段、重々承知乍、何卒姐さんに仲介の労を取っていただきたく参上仕りました」
「爺。鐡蔵とか申すのだな。バカも休み休み言え。私っちはナ、森居健吾親分の連れ合いじゃわい。森居親分は盛岡からこの黒沢尻までを傘下に治めている東北一の大親分。私っちはその恋女房じゃ。爺の戯言など聞くヒマなんか無ェ。消えナ、ボケナス」
「姐さん。口上で述べました如く、今は尾羽打ち枯らした老翁でござんすが、かっては幕府要職を務めました列記とした武士にござんす」
「それがどうした。この江釣子ではな、お武家なんかちっとも偉く無ェんだ。米や野菜を上手に作った百姓が一番偉い。お前ェなにか?痩せギスで非力の爺が農業やろうって?聞いて呆れるわい。農ってのはな、言わずもがなじゃけんど、身体でヤルもんだ。己の身体を極限まで酷使するから、天が恵みを与えてくれる。爺のような痩せ衰えた老人は年寄りの冷や水って言われるのがオチ。さっさと失せろ」
あまりの剣幕にたじたじとなった鐡蔵。オタオタと逃げ帰ると思ったが、顔つきを改め矢庭に立ち上がると弥絵様の脇にピタっと座った。
「爺。何さらすンじゃ」
「へ、へ、へ。弥絵様。いい乳をしてらっしゃる。揉んで差し上げましょう」
いきなり弥絵の襟元から手を突っ込んで胸を触る。
「げ、下郎!健吾親分にも滅多に触らせぬ私っちの胸弄ったナ。手打ちにしてくれる。者ども、狼藉者じゃ。出会え!切り殺せ!」
弥絵の金切り声を聞いた隣室で様子を伺っていた子分達が長ドス片手にドっと雪崩れ込む。
「曲者ォ。姐さんに狼藉働きやがって。只じゃ済まねェ!膾に刻んじまえ」
「おっと、貴様等三下はすっこんでいろイ。コレが目に入らんか。阿蘭陀渡りの最新型短筒じゃい。火縄と違い引き金を引きゃあ、一発で大ェ事な姐さんの心ノ臓から赤ェ血ィ噴出すぜ」
鐡蔵は隠し持った黒光りする短筒を懐から取り出し、弥絵の胸ぐらに突き立てる。
「手前ェ等!儂を単なるしょぼくれた老耄と考えちょると、大間違いダゼ。何も目的も無くこんなド田舎まで百五十里も歩いてくるもんか」
「あ、姐御。こやつ一体何が望みなんで?」
「私っちにもサッパリ解ンねえ。突然現れやがって、弟の一弥に取り次げと抜かしやがる」
鐡蔵は弥絵の胸ぐらに突き立てた短筒をグイっと捻る。
「い、痛ェ。爺ィ。何さらしやがる。大事な胸、痣になっちまうじゃ無ェか」
「姐さん。子分どもを下がらせろ。お前ェさんとサシで話がしてえ」
双の豊満な乳房が剥き出しにされ、そのアワイに黒い男根のような短筒をグイグイ捻じ込まれ、流石の弥絵も吐息を漏らす。
「て、て、手前ェら、下がれ。下がってくれ。コノママじゃドオにもならん」
已む無く子分達は二人を残し別室で控える。何かあればいつでも飛び出せるよう、各自長脇差を抜き身のまま握り締めている。
「おいっ。襖はキチっと閉めろい。隙間から覗いているのがミエミエじゃ」
子分は襖を閉じた。
「さあ、姐さん。これでやっと二人きりになれた。隣室で子分が見張っているのは気に入らん。屋敷の外へ出てもらおうか」
「爺ィ。何処まで付け上がるんじゃ」
「大口叩けるのはココ迄だ。ホレっ。これでドオじゃ」
鐡蔵は短筒を胸に突き立てたまま、弥絵を引き寄せ唇を奪い、乱暴に着物を引きちぎるように剥ぐ。双の乳房がすっかり露わになっただけでなく、白い両足が腿まで剥き出しになってアラレも無い姿。
「お前ェイイ身体してやがる。オカされたく無かったら、子分達を外に出せヤ」
「子分共。私っちに構わず外に出ろ」
弥絵の悲痛な声に子分達も已む無く屋敷の外に出た。鐡蔵はすばやく弥絵を素裸にひん剥いて後ろ手に縛り上げる。
「ふ、ふ、ふ。このマンマの格好で弥ェ門の屋敷に連れて行って貰おうか。素っ裸じゃ大声も出せねえだろ」
「き、き、貴様。親分が戻ったらドオなるか」
「減らず口はその位にしておけ。さぁ、立つんだ」
弥絵は丸裸で縛られたまま、鐡蔵に引き摺られて外に出る。短筒が首筋に押し当てられている。子分達は遠巻きに固唾を呑んで見守るしかない。伊藤弥ェ門の屋形は石畳の道を一丁ほど南に下ったところだ。伊藤一家の騒ぎを聞いた村人達も揃って田圃から出て、何事かと騒いでいる。弥ェ門の屋形の門は固く閉ざされていたが、森居一家の子分の一人が屋敷に駆け込み、注進に及んで下男が門戸を開く。弥絵は大勢の村人に一糸纏わぬ裸形を見られ、見ず知らずの老人に屈辱極まる辱めを受け、真っ赤になって俯いている。
「た、田吾作。お屋形様のところへ案内してくれ。一弥も同席させろ」
しどろもどろの掠れ声。下男は青くなって屋敷内にあたふたと入った。庭に回った鐡蔵が後手に縛った縄を荒々しく引き上げると、堪らず弥絵が哀れな悲鳴を上げる。座敷の障子が目一杯開かれる。弥ェ門と一弥が何事かと腰を浮かしている。
「や、弥絵。何事が出来致したのだ」
「父上。私としたことが油断しておりました。見知らぬこの老い耄れに欺かれ、斯様な狼藉を受けております」
「ご老人。私と一弥に御用がおありと聞いた。弥絵は歳若い娘。これ以上裸形を晒すのは親としてあまりに忍びない。戒めを解き、衣服を着せてくだされ」
「流石、江釣子三千町歩を治める大庄屋だけあって、落ち着いていやがる。いいだろう。お前ェさんの言う通りにしてやろう。だが儂の話を聞き、申すことを実行すると言うンなら、縄は解くゼ」
縄を解かれた弥絵は座敷に走りこんで、裸のママ弥ェ門に抱きつき号泣する。
「お父っつあん。あたい、生まれでから此ン方、こんな侮辱受けたことが無ェっす。か、仇を打っておくれ」
「随分と酷ェこと遣らかす爺ィだ。一体何の怨みがあって、斯様な暴挙に及んだ」
「何の怨みも抱いちゃいねえ。儂は弥絵やお前ェには用は無ェんだ。お前ェの横で格好つけてるバカ息子に問いただしたいことがある」
鐡蔵は土足のまま庭から座敷に上がり、短筒を息子の一弥に向けた。突如轟音一発。短筒が火を噴く。三人の後ろに置いてあった家宝の九谷の大花瓶が木っ端微塵に砕け飛ぶ。弥ェ門、弥絵、一弥の三人は花瓶の破片を全身に浴びて血みどろ。度を失ってへたり込む。
「ふっ、ふっ、ふっ。脅しじゃ無ェぜ。ちっとでも動いてみろ。今度は間違いなくお前ェ等の土手っ腹にドデカイ穴が開く。一弥。前に出ろ」
「わ、わ、私になに用で?」
「お前、三年前ェ、儂の下で学問を修めていたな」
「へ、へい」
「膨大な古文書を紐解き書き写してもいたな」
「そ、それが何か?」
「急に儂の元を出奔し此処へ戻った。儂は、どうも可笑しい、将来を嘱望された学業半ばで、いきなり故郷に戻った。何かあると睨んだが、その訳はどうしても解らなかった。執拗な探求は儂の得意とするところだ。アレから三年、ついにお前が江釣子に戻り帰った事由を突き止めた」
「理由など俺以外に誰も知らぬ」
「そうかな。お前が松前藩家老、蠣崎波響の夷酋列像の図譜を食い入るように眺めていた姿を儂は記憶している。文書庫に長く松前城主だった蠣崎氏の事跡を記した文書が多数保管してある。儂はその多数の文書を悉く紐解いて見た。その内の一冊が手垢で汚れ、或る頁は撚れ歪んで、貴様の涎らしきものが着いておった」
「お、俺が読んだという証拠は無い」
「うろたえよった。語るに堕ちるとはこのことだ。その文書に何が書いてあったか教えてやろう」
怯え震えていた弥ェ門も弥絵も全く感知しないことで、興味が涌いてきた。
「一弥。蠣崎氏って言えば蝦夷に住むアイヌ族を歴代に渡り弾圧し酷使した人物。アイヌに関係あることか?」
「姐さん。中々察しがいい。東北一のヤクザ者の女房になっただけのことはある」
「知らぬ。俺は何も知らぬ。そんな本読んだ覚えはござらん」
「この期に及んでまだシラを切る積もりか。全てお見通しだ。お前が黙秘するならそれはそれでいい。儂が語って聞かせてやる。今から三十年前ェの寛政元年(1789)のことだ。松前でクナシリ・メナシの乱が起こった。長年にわたる松前藩の暴虐にたまりかねた一部のアイヌたちが、クナシリの運上屋や、停泊していた商船を襲い、和人七十一名を殺害したのだ。蜂起したアイヌ達は松前藩の圧倒的武力の前に戦わずして降伏し、捉えられてしまう。捕虜の首領ツキノエを厳しく尋問したのが家老の蠣崎将監だ。問題の文書はこの尋問記録である。アイヌ語が混じり、独特の漢文で頗る読みにくいが、儂も一弥同様、とうとう読み下した」
「遠い蝦夷地でのアイヌの反乱とこの江釣子が何の関係があるっていうの?」
「ふん。江釣子とはアイヌ語のカムイ・エチリコホの転化。村じゃ誰も知っておろう。五条丸の古墳は古のアイヌの首魁、アテルイ配下の族長達の墓だといわれている。だがアテルイ本人の墳墓は不明であった。だが、驚く無かれ、アイヌ族では脈々とアテルイの事象が伝習され、墳墓や埋葬品の在り処が秘かに口承され続けていたのだ。蠣崎将監の度重なる筆舌に尽くせぬ拷問にツキノエは獄死する前、とうとうその秘密を将監に吐いてしまった。将監は事の重大さに恐れ戦き、生涯そのことを誰にも明かさなかった。だが、極秘に文書で残した。後の世の人がこの秘密を明かしてくれるのを期待してだ」
「ふむ。二十年以上前、村人の間にアテルイの墳墓がこの江釣子にあるという噂が流れたことがある。儂は埒も無い戯言と黙殺したのだが」
「極秘文書にはナ、墳墓の位置を示した奇っ怪な絵図がある。それは何と先ほど儂が居た鳩岡崎、つまり弥絵殿の屋敷裏の鬱蒼とした森付近の地形と酷似していた。儂はこの森を見て、すぐにここだと悟った」
「アテルイは我等江釣子村民にとって郷土が誇る英雄だ。だがその墳墓が発見されたとしても、学問上の価値はあるかも知れないが、儂らと何の関りも無いだろう」
「弥ェ門殿。此処からが重要なのだ。一弥は江釣子の戻り、夜陰に紛れ仲間と共に、この鳩岡崎の古墳を盗掘した。盗掘した本人も腰を抜かす、激烈な副葬品が見つかった筈。極秘文書によれば、死んだアテルイの全身を覆う、分厚い純金の延べ板が隙間無く埋め尽くし、顔面には黄金の仮面で覆われている。眼球は黒金剛石、口はルビーと称する安南国で産する紅玉で象られている筈だ。黄金の仮面は我が国で産する黄金の半量が費やされるほど、極厚の無垢。価は計り知れんが、幕府ご金蔵の全てを空にしても、十分の一にも届かぬ莫大な代物だ」
「ひいっ。そ、そ、それを一弥が掘り当てたのか?」
「知らん。俺は左様なこと一切関知しておらぬ」
「掘り当てた金縷衣と金髑髏は何処に隠した」
鐡蔵は短筒を構え、震えている一弥目掛けて弾丸を発射、一弥の右耳をブチ抜く。
「次は何処だ。足か。手か」
「こ、殺せ。言う位なら死ぬ方を選ぶ」
「ホオっ。いい覚悟だ。じゃ、死んで貰おうか」
再び閃光と轟音が響き渡る。耳を塞ぎ、目を閉じた弥ェ門と弥絵が目を開けると、脚を撃たれた一弥がのたうちまわっている。
「鐡蔵殿。お慈悲で御座る。これ以上我が息子を傷つけンでくれ。片輪になったら百姓は出来ぬ。殺すんなら儂を殺してくれ」
「お爺様。ワタシの身体欲しいでしょう。スキにしていいわ。その代わり弟を助けて」
「親子愛と兄弟愛。泣けるじゃ無ェか。一弥。年老いた親御さんと愛する姐さんの為だ。悪いことは言わん。トットと吐いちまいな」
「言わぬ。絶対言わぬ」
「そうか。言葉通り親父をぶっ殺し、姐貴を犯す。それでいいんだな」
「悪党!言う。全て話す。親父と姐は助けてくれ」
「良く言った。それでこそ江釣子の救い主。若様だ」
耳を半分以上吹き飛ばされ、腿に貫通する銃創を負った一弥は血まみれのまま、荒い吐息を吐いている。鐡蔵は酷薄にも銃口を喘ぐ一弥の口中に捻じ込んだ。
「さあ、言え。何処だ」
「グホっ。短筒を抜いてくれ。こ、これじゃ話せん」
銃を抜くと激しく咳き込み、嘔吐した。
「て、鐡蔵殿。ざ、財宝は造作中の離れの床下だ・・・」
「いい子だ。早く吐いちまえば、こんなに傷つけずにすんだものを。バカな親子だ。一弥。弥ェ門。弥絵。立ちませえ。儂を財宝の隠し場所に案内するんだ」
弥ェ門と弥絵に支えられ、耳を押さえ、脚を引き摺って一弥がノロノロ歩き出した。離れに着くと、鐡蔵は弥ェ門と弥絵に畳上げを命じた。畳と板や根太を取り除く。床下の黒土は盛り上がり明らかに最近ここに何かを埋めた形跡がある。
「土掘りはお手の物だろう。弥ェ門。掘れ。一弥や弥絵も手伝うんだ」
鍬を振るい三人が汗みどろになって一間ほど掘り窪めると鍬先がカチリと鳴る。徐々に石蓋らしきものが見えてくる。やがて幅四尺、長七尺、高四尺の巨大な石棺が姿を現した。周りの土を除き石棺を轆轤ところを使って引き摺り出す。
「三年かかった。蠣崎将監の尋問記録を読み解くに一年。アテルイの墳墓があるトゥトゥッチリ・オーカサーキという言葉が鳩岡崎と判るまで一年、古墳の出入り口を探し、墓を暴いて石棺を運び出し、それを地中に埋めるまで一年。気づかれぬよう離れ造作という偽装を施した。手伝った三人の仲間は厳重に口止めし、換金した場合は山分けにするという約束を交わしている」
「苦労したもんだナ。そんな苦労も水の泡になったようだ。お前ェが苦心惨憺秘匿したこの石棺の中にあるアテルイの金髑髏と金縷衣は儂の手に落ちた」
「確かに莫大な財宝だ。しかしこのような秘宝売り捌けるわけも無い。仮に小分けして売ったとしても、使い切るには千年もかかってしまう。余命幾許も無ェ、老い耄れが手に入れてどうする積もりだ」
「へっ、へっ、へっ。確かに斯様なおタカラ一度に売るのは困難だろう。この面の異常な猛々しさと身体の偉丈夫さは一目で莫大な富を秘匿したアテルイの遺品と解ってしまうからな。だがヨ、異国に売り払ったらどうだ。異国じゃ、古い珍しいお宝が珍重されている。莫大な金子で取引されるんだ。さあ、蓋を開けろ」
長い棒の先を蓋と石棺の間にこじ入れ、梃子を利用して持ち上げる。石と石が擦れるイヤな音をたて序序に蓋がずれ中が見え始める。始めに覗き込んだ鐡蔵、予想したとはいえ、黄金の燦然たる輝きに思わずたじろぐ。黄金面は今造ったかのようにピカピカに光り輝き、迫真の黄金の髑髏は今にも喋りだすのではないかと思わせる。全身を覆う数千枚の黄金の延べ板は分厚く、小判の十倍もある。延べ板は大小様々で取り付けられる位置により形や大きさが異なり、夫々の延べ板は黄金の細糸で結び合わされ繋がっている。小さな金無垢の仏像は見たことがあるが、是ほど巨大で人体そのものを模した像など見たことも無い。価値は想像を遥かに超える。
「鐡蔵殿。貴公はこの黄金像を独り占めするつもりであろうが、元々古墳は我等の所有する鳩岡崎にあり、それを発掘し自己の所有とするは、何の咎めも無い。しかし貴公は何の権利も無く、是を強奪したとあらば、強盗で死罪に値する。お恐れながらと訴え出ることも出来る。悪いことは言わん。お前とワシらで折半するのでは如何かな」
「馬鹿言っちゃいけねえ。江戸から江釣子まで百六十余里、三月も懸かった。路銀も相当使った。使い切れないって言ったな。冗談は休み休み言え。世の中に使い切れねえ金なんか存在しねえ。どれ程莫大な金子でもあっという間に浪費するなんて訳もねえ。別にヨ、世のため人のため使おうってんじゃねえ。お前ェの言うとおり老い先短ェ身だ。好きな女に黄金ばら撒き、この世の極楽を味わうンだ」
「情けねえ爺ィだ。そんなことすりゃあ腹上死しちまうのが関の山。普段貧乏な野郎が金掴んだ途端呆けて、使いモンにならんヨイヨイになっちまうのは良くあることだ」
「負け惜しみはそれ位で良かろう。ヤイ。弥ェ門、弥絵、一弥。おタカラは儂が貰い受けた。この財宝は江戸に運び、それから南蛮に売り渡す。お前ら、おタカラを運べるよう木箱を拵えろ。馬に積めるよう二つに分けてナ」
短筒を振り回し、逡巡すれば忽ち発砲する凶悪犯の前に、三人はなす術も無く、唯々諾々と命令に従う如かなかった。
その数時間後、花巻の松庵寺で賭場の開帳を行い、寺銭を稼いだ東北一の博徒、森居健吾は手下を引き連れ、意気揚々とヤサに戻ってきた。屋敷前で子分達がざわついている。
「お、親分。てえへんなことが起こりやした。江戸からやってきたてえ、風来坊の老い耄れが弥絵姐さんを短筒で脅し、素裸にひん剥いた上、伊藤弥ェ門様の屋敷に連れて行きました」
「な、何!お前ェら何故姐さんを取り戻しに行かんのか」
「お、老い耄れは滅法残虐なヤツでして、むやみに短筒をぶっ放し、手も足もでねえンでがんす」
「たわけっ!やくざがど素人の老い耄れに怯えてどうするんだっ!ものどもっ。出合いじゃ!手当たり次第武器を持って、その老い耄れを捉え、嬲り殺せっ!槍、鉄砲、差叉、刀何でもいい。相手は老い耄れたった一人だ。行けっ!」
健吾の配下二十人のあらくれが手に手に武具を持って、一丁先の弥ェ門の屋敷目掛けて、走り出す。各々猛々しい喚声をあげる。健吾親分と手下達が弥ェ門の屋敷に駆けつけた時、屋敷内は深閑と静まりかえっている。
「野郎共!油断すな。テキは何処に潜んでいるか解らん。老い耄れを炙り出せ」
子分達がだだ広い屋敷を隈なく探し回る。だが何処に消えたか、件の老い耄れはおろか、弥ェ門、弥絵、一弥の姿は掻き消すように消えていた。
その頃、北上川を一艘の平田船が菰を掛け、厳重に包んだ木箱二つと四人の人間を乗せ、川下へと下っていた。言わずと知れた鐡蔵と弥ェ門以下三人である。一弥は手傷を負っていたが、弥絵から応急の手当てを受け、今は眠りについている。
「これから、仙台に赴く。そこで風待ちしている千石船に乗り換え、江戸に向かう」
「鐡蔵殿。我等三名は一緒に行ったとて、何の役にも立たず、寧ろ足手纏いになるだけだ。仙台で解放してくだされ。蝦夷の秘宝を盗み出したのは、絶対口外せぬ。頼む。ご慈悲でござる」
「駄目だ。お前等は大事な人質だ。今解放すれば、必ず弥絵の亭主が追いかけてくるだろう。今頃我等を探して家捜しをし、いないと判って地団太踏んでいるだろう」
「しかし、人質は一人で宜しかろう。傷を負った一弥と娘の弥絵は許してくれ」
「それもそうだ、と言いたいところだが、そうはいかねえ。三人夫々使い道がある。一匹も許すわけにはいかぬ」
仙台に着くと、人質三人を知り合いの旅篭に閉じ込め、鐡蔵は金縷衣から取り除いても支障の無い部位から延べ板板を十枚引き剥がし、これを懇意の両替商で小判三百両に変えた。この金貨は忽ち威力を発揮、江戸へ向けて出帆間近の伊達藩御用船に鐡蔵と木箱と人質三人が乗り込むことを可能にした。御用船は伊達藩江戸屋敷に米五百石を運ぶところであった。
伊達藩江戸屋敷は芝汐留にあり、御用船は荷移しすることなく、屋敷前の桟橋に横付けできる。大藩の御用船のため大川の船番所で荷改めを受けることもなく、桟橋に着くと大勢の仲士たちが荷を降ろしにかかる。この雑踏に紛れ鐡蔵は難なく秘宝の木箱を下ろし、三人の人質を怪しまれることなく、屋敷場外に連れ出すことに成功した。船頭に大金を掴ませたお陰で、この脱出の手助けとして船手三名を手伝わせたのである。更に鐡蔵は金に物を言わせ、馬二頭を雇い深川越中島の、かねて用意した隠れ家に、荷と人質を運び込んだ。すぐに鐡蔵は口入屋から食い詰めた浪人や無宿の荒くれ渡世人を雇い、用心棒兼見張りとした。隠れ家の土間には雁字搦めに縛り上げられた人質三人が歯噛みして転がっている。
「おい。鐡蔵。儂等を一体どうする積もりだ」
「ふ、ふ、ふ。今に解る。お前ェ等、逃げ出そうなんて魂胆抱くなヨ。隣で腕利きの浪人達が始終見張っている。大人しくしていりゃ、メシは食わせてヤル。死ンじまうと困るんでな。便所も許す。垂れ流しは臭くって適わん。儂は疲れたんでちいっと寝るゼ」
「父上、姐上。ヤツは寝入ったようです。私は北上道場で目録を頂戴し、師範代を勤めております。百姓ながらあのような痩せ浪人の一人や二人、たちどころに切り伏せてみせます」
「一弥。お前威勢の良いことを申して。受けた傷の具合はどうだ?」
「はい。姐上の手当てが良く、幸い傷は塞がってまいりました。まずはこの縛めを抜けねばなりません。それと何か我等の武器になるような物、転がっていませんか?」
「そ、そう好都合に運べば苦労もいらんが・・ま、待てよ・・・其処の米俵の脇に落ちているのは鎌ではないか。天の助けだ。弥絵。お前が一番近くにいる。何とかあの鎌をとり、縄を断ち切るのじゃ」
「や、やってみます」
弥絵は蛆虫のように身体を伸び縮みさせ、米俵に近づく。首を擡げ、口で鎌の柄を咥えて、咥えたまま一弥のの方へにじり寄る。
「一弥。後ろを向け。縛めを私っちの方へ向けるんだ」
弥絵は小半刻かかって苦労しながら一弥の後手に縛った太縄を切った。縛めから逃れた一弥は即座に弥ェ門と弥絵の縄を切った。
「父上。ヤツが寝入っている間に逃げましょう」
十日前、森居健吾親分は鐡蔵達を仙台まで運んだ平田船の船頭を見つけ出し、船頭から彼等が伊達藩の御用船に乗り換え、江戸に向かったことを聞き出していた。健吾は腕の立つ十人の手下を選り抜いて、揃って江戸に急いだ。恋女房の弥絵と庇護者弥ェ門と一弥を救い出す為である。血気に逸り、百六十余里の道程をたった十三日で駆け抜けた。健吾は以前江戸市中に住んだことがあり、地理に明るかった。江戸で親とも仰ぐ花川戸の辰五郎親分の屋敷に草鞋を脱ぐ。暫くここで世話になりながら、鐡蔵の行方を捜す積りだ。
「大親分。お久しぶりでござんす。この度は子分共々ご厄介になります。よしなにお願ェ申し上げます」
「いいってことよ。森居ノ。お前ェ遥々遠ォィ江釣子くんだりから、遣って来るにゃ、屹度のっぴきならねえ事情があるに違ェ無ェ。そいつをおいらに聞かしてくんな」
「へい。大親分のお耳に入れるにゃぁ、ちいっとばかし気恥ずかしい出来事なんでござんすが、あっしの女房の弥絵がかどわかされたばかりか、弥絵の養い親であっしを庇護してくれている、江釣子の大庄屋弥ェ門様とご子息の一弥様まで揃って誘拐されたんでござんす」
「そいつは厄介なことだ。シテ、下手人は解っているのか?」
「へい。それが、何でも、一弥様が以前幕府の学問所にお勤めなさっていた際、上司に当たった鐡蔵とかいう他愛無い老い耄れでござんす。その老い耄れ、好々爺のフリで弥絵に近づき、懐に忍ばせた短筒で脅し、無体にも素裸にひん剥いて、村中を歩かせたのでござんす」
「ほォ。儂は以前お前ェさんと弥絵殿の婚儀の際、披露に招かれて参列したが、弥絵殿は稀に見る美形で、身体つきも実に見事でござった。さぞ見ものであったろう」
「大親分。揶揄っちゃ困ります。鐡蔵は弥絵を弥ェ門様の屋敷まで連れて行き、弥ェ門様と一弥様を短筒をぶっ放して脅し、蝦夷の秘宝とやらを強奪し、三人を連れこの江戸まで逃げ果せ、どこへやらに潜んでいるようでござんす」
「ふむ。何だ。その蝦夷の秘宝とやらは」
「しかとは解りませんが、大変な財宝らしく、先々で厳重に口止めをし、一部は仙台で換金した様子」
「江戸は広い。儂の目が届く範囲は何とか探し出せるが、其処を離れた場所に潜んでいれば、如何ともしようが無い」
「ご尤もにござんす。腕利きの子分、十人ばかり連れて来ておりやす。子分達に手分けし草の根掻き分けても探し出す所存です。大親分も何卒ご助成願ェます」
「解った、健吾。お前ェからは毎年多量の米と薦被りの祝儀を受けている。良かろう。手伝えることがありゃあ何でも言ってくれ。儂は傘下のテキヤ達に老い耄れの行方を聞いてやろう」
辰五郎と健吾は鐡蔵の行方を隈なく捜し始めた。だが一月しても二月たっても彼等の行方は杳として知れなかった。話は一弥達が縄を切って逃げ出そうとした二十日前に戻る。
秘かに脱出しようと板戸を開け、外に出ようとした途端である。引いた板戸に仕掛けがしてあった。ジャラン、ジャランと激しい音がして寝ていた鐡蔵が跳ね起きた。隣室に控えていた浪人達も慌てて部屋に飛び込んできた。
「オットお。そう簡単に逃げられちゃたまるか。戸には大鈴が五個も繋がって結んである。野郎共、しっかり見張っていろ。縛り上げろ。元より厳重にな。罰として当分飯はやらん。大小便も垂れ流せ」
「く、糞。悪党メが。こ、殺せ。一思いに殺してくれ。我等の秘宝を奪われた上、斯く為る恥辱を受けては、何の顔あって故郷に戻れようか」
「ひ、ひ、ひ。その心配ェは無ェ。お前等二度と故郷の地を踏むことは無いからサ」
翌日、鐡蔵は浪人達を隠れ家に残したまま、縛り上げた三人を三丁の辻駕籠に押し込み品川に向かった。一行は品川に着くと、長崎に向かう船を捜した。悪運強く、長崎港から南蛮からの渡来品を積んだ五百石積みの大型船が入港していた。船頭に大枚な金を支払うと、一行は船に乗ることが出来た。船中で三人は縛めを解かれ、自由に食事をしたり、排便もできるようになった。弥ェ門はすっかり気弱になり、直ぐに涙ぐんだり、哀れな声を上げたりした。弥絵と一弥も既に鐡蔵に歯向かう意欲は失せ、行動力溢れる鐡蔵が、次は何をするかと期待さえした。船旅は途中風待ちもあり二十日ほどで長崎大波戸港に着いた。港近くの宿に落ち着くと、鐡蔵は呉服商を呼び、自身と三人の身だしなみを整えさせた。逃げる意欲の失せた三人を鐡蔵は最早脅したり、苛めたりすることは無かった。仮令逃げられたとしても、路銀も無く、遥か遠い江釣子までの路も解る筈も無く、大人しく鐡蔵の命じるままに過ごす他無かったのである。
鐡蔵は十年ほど前、この長崎にも暫く滞在したことがあり、知己も多かった。出島近くの阿蘭陀交易を統括する長崎会所頭取もその一人だった。すっかり大人しくなった三人の人質を旅篭に残し、鐡蔵はその役人に面会した。
「石山殿。お久しぶりでございます。ご壮健にお見受けし、何よりでございます」
「ふむ。安芸河殿。かれこれ十年にもなりますかな。貴殿がこの長崎会所に訪ねてこられ、阿蘭陀交易の方法などを尋ねられたのは」
「覚えていただいて光栄です。私はあれから役所を退き、今はのんびり隠居暮らしを楽しんでおります。先日湯治を兼ね、遠くみちのく迄遊山の旅を致しました。場所は申せませんが、或るところで思わぬ品を入手致しました。これは恐らく異国人が大層喜ぶ品だろうと思い、石山様をお尋ねした訳でございます」
「それは如何なる品でござるか?」
「は、はい。恐縮ですがお人払いをお願いします」
石山は立ち会っている役人と小者を下がらせた。
「これに御座います」
そう言って鐡蔵は桐箱に収め、何重にも袱紗で包んだ、人の頭ほどの大きさの品を大事そうに取り出した。
「是よりお見せする品、会所のお役人衆はもとより、お奉行様にも絶対お漏らしなさらぬようお願い申し上げます。お約束いただけたらお見せしましょう」
元幕府学問所頭取補佐の要職にあった男の真剣な眼差しと明らかに貴重な品を扱う手つきに、石山はたじろぎ、興味深々、口外無用の約束を守ると告げた。
「私がわざわざこの長崎まで参った訳は、この品をご覧になれば了見されましょう」
鐡蔵はゆっくりと袱紗を開いた。日頃南蛮人の持ち込む珍奇な品、対する我が国の豪華貴重な逸品など高価な品を見慣れている石山も、安芸河が持ち来たった品を見て腰が抜けた。
見るものが映りこむほど磨き上げた金無垢実寸の髑髏。燦然と光芒を放つ面は今にも語りかけてくる迫真さ。目玉として埋め込まれた黒い金剛石は鶉の玉子ほどの大きさがある。唇を象る紅玉の生々しさ。両手でも持ち上げられぬ程ずっしりと重く、金の価だけでも想像を絶する。
「こ、こ、これは・・・」
石山は絶句し暫し呆けたように口をあんぐりと開けたまま。
「実は私が手に入れましたはこの面だけでは御座らん。人間の形に全身を覆う金縷衣という黄金の延べ板で造られた衣類というか、塑像と申すか、全身像も所有しているのです」
「ではこの面の下には、木乃伊があったのか」
「御明察です。古のとある貴人を葬るが時、あの世に旅立つ衣装として作られたのかと考えます。貴人の木乃伊を覆う空前絶後の衣装であったかと思います」
「以前阿蘭陀人カピタンから聞いたことがある。阿蘭陀のある欧羅巴のはるか南方に埃及と申す国があるそうだ。その国には我が国建国よりずっと以前に国を治める偉大な王がおり、王の死後は王の骸が永遠に残るよう木乃伊を造って、黄金の面や身体を覆う金の棺を拵えたとカピタンは申していた。しかし何ゆえみちのくで見つかったのだろうか?」
「奥州平泉にはかってその地を治めた藤原一族がおり、彼等の創建になる中尊寺金色堂の須弥壇には藤原氏三代のご遺体を納めた棺が安置されております。ご遺体は木乃伊と化しており、奥州には古くから遺体を保存する方法が言い伝えられておりました。叉奥州は我が国最大の金の産出で知られており、金色堂に代表される金加工の高度な技法も叉伝えられているのです。ですから、私は斯様なものがあるとすれば、奥州に違いないと睨んでおりました」
「言われてみれば尤もだ。出土した場所や葬られた貴人が誰なのか推察は出来たのか」
「或る程度の見当はついてございますが、此処では申し上げられません。私はこの逸品を阿蘭陀人に売ろうかと考えており、石河殿のご裁可をお願いしたいのでございます」
「左様な重大な決定、儂の一存では出来ぬ。お奉行様にお伺いを立てる必要がある」
「頭取石山様のご裁可があり、無事阿蘭陀人に売れた際には、売り上げの一分を差し上げます。仮に売値が五十万両と致せば、五千両が石山様の懐に転がり込みます」
「な、な、なんと。ご、五千両か。そのような大金見たこともないわ」
「悪いお話では無いと存じます。石山様は態々お奉行にお伺いを立てる手間が省け、私に良しとさえ言っていただき、認可の書付をいただければ、あとは寝て待っていてください。日を経ずして最低五千両は石山様の私有に帰すのでございます」
「良かろう。早速書付を作ろう」
五千両の威力は恐ろしい。長崎会所頭取の石山は、奉行に内緒で裁可を与えてしまった。
時の長崎奉行は偶然だが鐡蔵と昌平坂の学問所で同門だった筒井政憲が昨年から就任していた。筒井は将来を嘱望された俊才で、三十九歳の若さで奉行に就き、此の時四十歳。学問所では鐡蔵の後輩に当たるが、鐡蔵が落ちこぼれ気味で、無頼と交わったり、学問所頭取から始終論難され、口論が絶えなかったことに比して、筒井は優秀で早くから頭角を現し、旗本としては異例の累進を重ねている。
この年の前年の文化十四年(1817)暫く途絶えていたオランダ船が長崎に到着、出島阿蘭陀商館長に二度目となるヤン・コック・ブロムホフが着任し定期的な交易が再開した。ブロムホフは妻子と乳母、それに召使を同伴していたが、女子の入国を幕府が拒み、揉めている最中でもあった。
鐡蔵は陸奥の大商人という振れ込みで出島近くの江戸町に空き家を借り受け、そこに住むことにした。長期戦を覚悟してのことである。鐡蔵は会所頭取の石山博乃丞を通じて阿蘭陀船が舶載してきた産物を買い取り、自宅をこれら産物を販売する店舗に改造、その主人として活動を開始した。品物を売り捌くには、長崎奉行所発行の南蛮貿易商の鑑札が必要であった。
店に呉服屋、髪結い、化粧師、飾り職などを呼び、自身と人質三人の服装、髪型を改めさせた。鐡蔵は長崎の大商人、長崎屋鐡兵衛、弥ェ門は老番頭、弥絵は鐡兵衛の妾、一弥は手代として夫々相応しい服装や髪型、装具を設えた。人質だった三人は今ではすっかり鐡蔵に手懐けられ、与えられる職務を忠実にこなし、まるで始めから鐡蔵の使用人のように振舞い始めた。弥ェ門は新しい仕事に興味が涌き、物品の販売に熱をいれた。一弥は鐡蔵の薦めにより、阿蘭陀通詞に弟子入りして阿蘭陀語を学び、南蛮人の剣術道場で剣技の上達に努めている。弥絵は鐡蔵から様々な高価な化粧品や着物、装飾品などを購ってもらい、元々の美貌に磨きがかかってきた。逃亡する恐れが無くなった三人を、鐡蔵は自分の家族のように扱うことにした。鐡蔵は店の二階に居室を設け、三人は階下に部屋が夫々一つずつ与えられた。そんなある夜、弥絵が鐡蔵の部屋に忍んできた。
「もし。弥絵でございます。お部屋に入って宜しいでしょうか」
「夜分に何用だ。入れ」
弥絵は襦袢一つの寝巻き姿。この三月あまり、独り寝の寂しさに耐えられぬようで、鐡蔵に抱かれる覚悟を決めて来たらしい。弥絵が部屋に入ると、鐡蔵は簡単な酒肴を前に酒を飲んでいた。初めて入った部屋は三間あり、板間には小体な台所と水屋がついている。
「お一人でご酒でございますか。言ってくれたら、私がお作りして差し上げますのに」
「うむ。肴が足りぬところであった。弥絵殿、いま少し拵えてくれぬか」
「畏まりました。では・・」
弥絵は手際よく其処にあった材料でつまみを三品ほど作った。
「美味そうだ。お前も一杯やれ」
「は、はい。遠慮なく頂戴します」
弥絵は茶碗に注がれた酒を一気に飲み干す。
「ほ、ほう。いける口じゃノ。もう一献」
差して差されつ、酔いが回る。
「弥絵。対面ではちと遠い。こっちへ来なさい」
「はい」
弥絵は鐡蔵の隣にくっつくようにして座り、膝を崩す。
「鐡蔵サン。以前私の胸を弄いましたネ。あの時から妾、貴方のことが忘れられなくなりました」
「そうであったか。儂もそなたの胸の弾力が頭にこびりついておってな、叉触りたくなっておった」
「今日は存分に弄ってくださいまし。弥絵の身体疼いております」
「異人たちはきっすと称して日常的に口合わせをしている。長崎では左様に致すのが礼儀であろう」
鐡蔵は弥絵の襦袢の襟を大きく広げ、真っ白な上向きの見事な乳房を剥き出しにし、横に抱いて固くなった胸を鷲摑みに弄い、唇を合わせ舌をこじ入れる。
「そ、そのようなことをなされては・・・こ、声が出てしまいます」
「良いではないか。儂の為すがままにしなさい」
二人は何度も交わった。
一弥、弥ェ門は弥絵が鐡蔵に抱かれたことを黙認し、寧ろ有難く思っていた。弥絵が鐡蔵の女であるかぎり、自分たちを粗末に扱う筈は無いからである。
鐡蔵は会所頭取を通じ、商館長ブロムホフとの面談を申し込んでその日を待ち、その間立山にある広壮な長崎奉行所に貿易商開業の挨拶に出向いた。奉行所は城のような堅固な石垣があり、巨大な惣門と広い敷地に役所、奉行の私邸などが幾棟も建てられている。鐡蔵は私邸に奉行の筒井政憲を訪ねた。筒井は禄高五百石の旗本に過ぎぬが、長崎奉行は三代潤うと云われるうま味のある役職で出入りの商人や地方役人などから莫大な付け届けがあり、商館からの輸入品を京や江戸で高値で販売ができ、小大名を凌駕する収入がある。
「筒井様。お奉行就任、おめでとうございます。昌平坂に通っていた頃の非凡な若き貴殿の姿が思い出されてなりません。私は能力も無く、だらだらと隠居するまで学問所の片隅で肩身の狭い思いで過ごしました。昨年一念発起、この長崎にて昔取った杵柄の学問を生かした商いをやろうと思い立ち、つい先頃、江戸町に長崎屋という貿易商を開業致しました。昔の縁にすがり、取引認可の鑑札を頂きたく罷り越しました」
「相変わらずだのう、安芸河。鑑札というのは、縁があるからといって易々と発行できるものでは無い。商人達は数に限りある鑑札を巡って、それこそ血みどろの争いをして手に入れている。お主もそれを知らぬ訳は無かろう」
「承知しております。ですがお奉行、今の阿蘭陀国との交易は活況を呈しているとは申せぬと存じます。商人達は異人と交わるを忌避し、出島に出向くを尻込みしておると云うではありませぬか。欧州列強が虎視眈々と我が国の領土に侵攻するの気配が見えている昨今、交易を盛んにして国力をつけ、防備を固めねばなりません。私は異人など恐れませんし、交易を現在の五倍に増やす自信もございます」
「そこまで言うか。儂は赴任以来そのことに腐心してまいった。良かろう。帥に鑑札を与えることを検討しよう」
「有難き幸せ。ところでお奉行。久方ぶりにお目にかかり、昔話でも語りたくなりました。花街丸山の花月に一席設けてございます。如何でございますか」
「結果を見通していたと見える。手回しの良いことだ。しかしノ、安芸河、あそこはいい女がおらん。じゃから、丸山には中々足が向かんのだ」
「その辺に抜かりはございません。そう仰られると思い、お奉行好みの滅法いい女をご用意しております」
「気がきくヤツ。そのような気配りが学問の方へ僅かでも向けられれば、出世もしたものを」
夕刻、筒井奉行の乗った豪華な駕籠が思案橋を渡り、山間の遊郭、花月楼についた。玄関式台には太夫始め遊女達や芸子衆がずらりと並んで出迎える。
「お奉行様、お着きィ」
筒井は最上級の座敷に通され、上座に座る。下手には満面笑みを湛え揉み手をしながら長崎屋鐡兵衛こと安芸河鐡蔵、鐡蔵は奉行の前で挨拶する太夫を紹介する。
「弥絵に御座います。実は筒井様、弥絵は本当の太夫では御座いません。街娘を太夫の成りに仕立てました。ですからウブで全くすれておりません」
「うむ。中々の美形。色気がありながら恥らう様はオボコのようだノ。気に入った。今宵は借り切る」
「お気に召しまして何よりに御座います。弥絵には殿様の命じる何事にも応ぜよと言い含めております」
「ふむ。ますます気に入った。鐡蔵。おぬしに明日にでも鑑札を届けさせよう」
翌日、店に戻った弥絵は鐡蔵に呼ばれた。
「昨夜は花魁の真似をさせ、奉行の席に侍らして申し訳なかった。奉行に抱かれたのか」
「とんでもありません。いつも鐡蔵さんにしていただいている唇合わせだけはしてあげました。そしたら、奉行、ひどく喜んで俺の側室になれなんて言い出したのよ。妾は既にお世話になっている旦那様がいると言って断りました」
「それは良かった」
梅雨の始まった六月中旬、石畳の道は雨に濡れ、木立の若葉が雨露に打たれサラサラと音を立てていた。早朝、会所の小役人が頭取の伝言を伝えてきた。待ちに待ったブロムホフとの面談日が決まったというのである。直ぐに鐡蔵は会所に出向き、石河と面談した。
「安芸河殿。阿蘭陀甲比丹との会合決まりましたぞ。今日より一月後の七月二十五日でござる。時に貴公、先頃お奉行から交易御用の鑑札を受けたそうだの」
「はい。申し遅れましたが、お奉行筒井様とは幕府学問所で同門でございました。それを知った私はご挨拶に出向いたところ、直ぐに鑑札を発行してくださったのです」
「左様か。お奉行の後押しがあれば、万一今度の取引が露見しても罪に問われることはあるまい」
「そう思います。お奉行は夥しい賄賂を受け取っており、脛に傷もございますれば」
その二月前、長崎から遠く離れた江釣子では、妻弥絵と庇護を受ける庄屋弥ェ門、若き江釣子の担い手一弥を一挙に連れ去られた、森居健吾親分が子分達を集め、談合を重ねていた。
「親分。この間品川の老船頭を脅して問い詰めたところ、二月ほど前、鐡蔵が三人の人質、弥ェ門様、弥絵様、一弥様を連れ、長崎に逃げ延びたそうで」
「何っ!長崎だと。野郎。何処に逃げ果せても、愛する弥絵の仇、其れに大旦那弥ェ門様、一弥様をかどわかした張本人をノオノオと生かして置く訳にゃいがねえ」
「しかし、長崎ともなりやすと、おいそれと出向く訳にもいかねえでがんすが」
「黙れ。儂は奴を逃がしたママ放置するほどお人好しじゃ無ェ。長崎だろうと異国だろうと何処までも追い掛け、仕留めるンだ。権蔵。鐡蔵の奴腕が立つ。李を呼べ」
「へい。アノ棒術の達人にして少林拳師範、李承福センセイのことでがんすか?」
「そうだ。李は大阪からこの江釣子に流れてきて、北上に少林拳の道場を開いている。そんとき儂が世話をした。奴には一宿一飯の恩義がある筈だ。すぐに行ってこい。どんなことが在っても、李を引っ張って来るんだ」
健吾の一の子分権蔵は、走って李の道場に赴く。道場近くまで来ると中から激しい気合と誰かが道場の壁に叩きつけられた音が聞こえてくる。
「頼もう。江釣子森居一家のもんでがんす。師範にお取次ぎくだせえ」
稽古を終えた李が汗を拭きながら出迎える。
「なんだ。森居ンとこの若造じゃ無ェか。どうしなすった?」
「へい。先生を親分の屋形にお連れするよう申し付かっておりやす」
「なんでえ。藪から棒に。儂は忙しい」
「で、御座ェましょうが、是非にと親分が言っておりやす」
「仕方無ェのオ。儂ぁ、仁義を大切にする男じゃ。生まれこそ韓の国じゃが、日の本で暮らして二十年。心も身体もこの日本国に根付いている。ようがす。行きやしょう。ちいっとばかし支度するんで、其れまで待っておくんなせえ」
着替えた李は権蔵と共に健吾の屋形に急ぐ。
「早かったじゃ無ェか。李ィノ。お前ェ聞いとるじゃろうが、先般儂が留守しちょるノ時、江戸から流れ来たった、風来坊の老い耄れ鐡蔵、この悪に儂の恋女房弥絵を連れ去られたばかりか、世話になってる弥絵のテテゴ大庄屋弥ェ門様と弟御一弥様挙って老い耄れにかどわかされた。そンだけじゃ無ェ。この江釣子に眠る蝦夷の秘宝まで持ち去られた。儂は江戸まで奴を追ったんだが、なにせお江戸は広ェ。見失っちまった。ところがヨ、この権蔵が奴等今長崎に潜んでいることを突き止めたんじゃ。鐡蔵は腕が立つ。その上飛び道具の短筒まで使いやがる。お前ェの腕を見込んでの健吾、一生の願ェだ。儂や子分達と一緒に長崎に行き、奴を討ち果たしてくれ。ホレ、この通りだ」
「親分。頭を揚げてくんなせえ。ようがす。あっしも親分さんと姐さんには散々世話になった。それと弥ェ門、一弥様からぁ、道場開くに当たって、大枚の援助を受けておりやす。行きやしょう。出発はいつで?」
「道中手形の入手や武具の調達、便船の手配がある。そうだな五日もあれば良かろう。出発は六日後だ。北上より仙台まで。仙台からは一気に長崎まで行く船を捜す」
「ようがす。儂の棒術は飛び道具より早く相手に到達しやす。少林拳は奴の命を絶ちます」
「良く言った。李ィ。奴を討ち取った暁にゃぁ、お前ェの道場を二倍の大きさで建て替えてやる」
六日後、健吾は李、選り抜きの子分三人、金で雇った腕に自信がある浪人二人と共に長崎へ旅立った。上陸を果たしたのは出発の一月半後の六月二十日のことである。邪の道は蛇というが、健吾は鼻を利かせ、土地のヤクザ、鯨山惣五郎の下で草鞋を脱ぐ。惣五郎に聞くと鐡蔵の居所は直ぐに判明した。なんでも江戸町の目抜き通りに長崎屋という貿易商を開業し、大層賑わっているという。そこの主人、鐡兵衛が鐡蔵の風貌そっくり。しかも弥ェ門らしき人物がその店の番頭に納まっており、弥絵に似た女が鐡蔵の女房に座っているという。
「鯨山ノ。儂が探している奴に違いありやせん。親分さん、この辺りで仕留めるとすれば何処らあたりが宜しいンでござんしょう」
「おびき寄せて討ち取るンであれば、風頭山あたりが宜しかろう。あすこは山が深く人目につきにくい。麓にゃ寺や神社が固まっており、お仲間の助っ人が潜んでいるにゃもってこいの場所だ」
「ありがとサンでごんす。早速書状を鐡蔵のもとに遣わせ、呼び出すことと致しやしょう」
鐡蔵のもとに果たし状が届いたのはその日の夕刻。書状には前置きなしで明後日早暁六つ刻、風頭山頂上神社前で待つ、江釣子森居健吾とある。
鐡蔵は含み笑いをもらす。
「ふっ、ふっ、ふっ。健吾の野郎血迷いやがった。遥々長崎くんだりまでやってこようとは、お釈迦様でも気がつくめえ。既に三人とも完全に儂が手なづけた。明後日は一弥を連れて行こう。寝返って儂の手下になっている一弥をみりゃぁ、長崎出張が無駄だったことが解るてえもんだ」
その夜、弥絵と同衾した鐡蔵が尋ねた。
「弥絵。お前ェかって亭主だった健吾のことどう思っている?」
「健吾かえ。とっくのとうに愛想尽かしてる。所詮田舎のヤクザさ。品も無く粗暴でだらしが無ェ。それに達磨のように太り、面はいつも脂ぎってやがる。鐡蔵さんとは大違いだ。おまいさんが大好き」
「それを聞いて安心した。健吾に再会した途端、昔の亭主と縒りを戻されたンじゃ埒も無ェからよ」
「イヤだよ。ダンナ。アイツと縒り戻すなんて金輪際ありゃしないよ。それより今夜もたっぷり可愛がっておくれよ」
翌日鐡蔵は三人を自室に呼び作戦を練った。森居との決闘には供として一弥のみを連れて行くことにした。明けて六月二十三日。梅雨の盛りで横殴りの豪雨が昨夜から続いていた。風頭山へは寺町を抜け、店からは一刻ほどで着く。厳重に身支度した二人は夜の明けぬうちから店を出、山に向かった。一弥は油紙に包んだ重そうな荷車を曳いている。
「卑怯な森居のことだ。どんな手を使うか解らん。決して油断するで無いぞ」
「鐡蔵殿。よもや私が貴公のお味方とは森居も気づいておりますまい。其処が勝機かと存ずる」
風頭山は海抜二百尺余。低い山だが道は岩石や曲がりくねった木の根が至る所に露頭し歩くにくいこと夥しい。ましてこの一寸先も定かでない豪雨だ。二人が漸く頂上の祠にたどり着いたのは六つ刻丁度。頂上は遮るものも無く、風雨は一層激しさを増した。
「遅いぞ。鐡蔵。不倶戴天の仇敵、今日こそ討ち取ってくれる。覚悟せい」
「健吾。此処はナお前ェのようなド田舎者の来るところじゃ無ェ。是を見いや、両手に持ったるエミュール式短筒だ。このような荒天でも過たず狙った獲物を撃ち殺す。南蛮じゃヨ、二丁拳銃という。一発仕損じても、別の弾丸が貴様を射抜く。尤も相手がお前ェじゃ二発撃つ必要も無ェが」
「ご老体。今のうちに念仏でも唱えておくんだな。こっちにゃ、凄ェ助っ人がいる。おい。李ィ。出て来い」
「おうっ。待ちくたびれたわい。しょぼくれた老い耄れとひよわな小童相手に我輩が出張る必要も無ェが、世話になった健吾親分のたっての頼みじゃ。捻り潰してあの世に送ってやる」
李は背丈六尺五寸、上半身をむき出しにし、隆々たる筋骨は金剛力士を思わせる。伸ばした総髪を銅の鉢巻で押さえ、目を怒らせ、咆哮して威嚇する。獲物は使い込まれて黒光りした径三寸、長二間の樫の棒だ。両端は分厚い鉄環が被せられ、鉄環には尖った鉄鋲が無数に埋め込まれている。李はびゅうんと棒を振るう。飛沫をあげて雨滴が飛び散る。
「お相手仕る」
木陰からずいっと前に出たは、異形な装束を纏った男。全身を真っ黒い鋼鉄の甲冑に包まれ、顔面は開閉する面当て、頭蓋には鉄の羽飾りのような突起。動くと耳障り極まる擦過音がする。どうやら一弥は山頂まで重い荷車を曳いてきたが、荷車の中身はこの鉄の甲冑だったようだ。
「な、南蛮甲冑か・・そのような鎧兜では身動きも出来まい。地獄に送ってやる。喰らえっ!」
李は樫棒の握りを中央から端に持ち替えると、渾身の力を矯め振り下ろす。ぐわぁんとくぐもった金属音。
「ふっ、ふっ。そのような棍棒、儂には痛くも痒くも無いわ」
聞きにくい掠れ声。
「な、何者だ。貴様」
「教えて進ぜよう。儂は弥ェ門が嫡子、伊藤一弥。今はカズと名乗っておる」
「一弥とな。貴様寝返ったのか」
「左様。南蛮商館長崎屋主人安芸河鐡蔵の用心棒を勤めておる。李とか申したな。義に拠り貴公を処分致す」
「生意気な小童。南蛮かぶれの阿呆弥か。極悪人鐡蔵の味方をしたと知れれば、父君や姐君が嘆くであろうな」
「残念で御座った。父上、姐上共今は鐡蔵殿のお味方。姐上は鐡蔵殿の愛妾である。つまり森居、李両名及び石陰に潜み濡れて震えているお仲間達の敵である。四百里も離れた斯様な地まで追いかけて来た執拗さは褒めて遣わそう。然しながら、所詮田舎武術。この長崎にゃ、ご覧の如く諸外国から最新最高の武具や術が逸早く伝わっておる。南蛮剣の肥やしになるしかあるまい。行くぞっ」
天に構えた李の棒は唸りを上げ、振り下ろされる。一弥はそれを片手に持った鉄の盾で受け、盾の隙間から異様に太く、反りの無い南蛮剣を猛然と突き出した。南蛮甲冑を着た一弥は防御だけで攻撃する武器を持たぬと思い込んだ李は、突如繰り出された南蛮剣の切っ先をかわすことが出来なかった。ふかぶかと裸形の腹部を刺し抜かれ、李は悶絶した。
「ぎゃぁ〜あ」
「他愛ない奴。既に死んだ。次は森居、お前だ。哀れなもんだ、震えてやがる」
「や、野郎共。手強いぞ。全員で掛かれ」
「猪口才メが。弱虫が何匹かかろうが蚊が留まった程にも感じ無ェ」
浪人二人、子分三人、それと森居親分六人が一斉に抜刀し襲い掛かる。然し鉄壁の鎧は刀を打ち込むと弾き返されるだけでなく、刃毀れを起こしたり折れたりしてしまう。次々と一弥の繰り出す南蛮剣の餌食となって行く。最後に残されたのは森居親分ただ一人。
「森居。覚悟を決めナ。儂がたった今地獄へ送り込む」
「く、糞。愛する弥絵を追って遠い遠い長崎までやって来たが、要の弥絵は極悪非道の鐡蔵のの手に落ち、妾となっておった。何たる悲運。返す返すも口惜しい。虚仮の一発。喰らえっ」
健吾は死に物狂いで長脇差を振り回す。かぁ〜ん。嫌な金属音と共に長脇差が真っ二つ。そこに走りこんだ一弥は南蛮剣を鍔も通れと胸元目掛けて突き出すと、哀れ、森居の親分、心の臓腑を貫かれ、ドォっと噴出す血潮とともにあの世逝き。
「折角の二丁拳銃も使わずに済んだ。一弥、良くやった」
「口ほどで無い蛆虫でした。鐡蔵殿。私は少々空腹を覚えております。早々に店に戻り朝餉でも頂きましょうか」
「ふむ。貴公すっかり豪傑となりよった。嬉しいぞ」
「しかしこの南蛮甲冑重うございました」
一弥は甲冑を脱ぎ捨て空身になると、鐡蔵と共に山を降り、店に戻った。雨は上がり強い夏の日差しがまだ濡れた石畳を照らしていた。店では弥ェ門と弥絵が不安に慄きながら待っていた。
「ご、ご無事で・・・鐡蔵様。良くお戻りなされました。一心に諏訪の大社にご無事をお祈りしておりました。すっかりお濡れなすって。お風呂用意しております。すぐ着物を脱いでお入りくださいませ」
「大事無い。造作をかけた。儂はまるで戦わずに済んだのじゃ。全て一弥が仕留めてくれた。弥ェ門。一弥に飯を腹一杯食わせてやれ。儂は風呂を使う。弥絵。済まぬが背中を流してくれ」
「勿論でございます」
風呂場は別棟になっており、こじんまりした脱衣場と浴場がある。弥絵はいそいそと鐡蔵の衣服を脱がせ、自らも裸形となって風呂に二人で入る。
「ふう、気持ち良いぞ。疲れた後の風呂、応えられぬ」
「弥絵、とっても心配していました。万一貴方が森居の手に掛かってしまったらと想うと、居ても立っても居られませんでした」
「さもあろう。敵はかってのお前の亭主。お前の複雑な心根を想うと、儂は短筒を発射できなんだ。いとしいぞ。弥絵」
「旦那様。お早いお立ちでございましたから、昨夜は抱いていただけませんでした。今は共に裸形。心置きなく抱いてくださいまし」
「今は殺戮を見た後だ。気持ちが荒ぶっておる。少し乱暴に扱うが良いか」
「は、はい」
湯船に浸かったまま鐡蔵は後ろから弥絵を強く抱き、口を合わせ、貫いた。
「此処は母屋から遠い。存分に声を上げてよいぞ」
七月二十五日がやって来た。真夏の厳しい暑さの中、黒紋付羽織袴に威儀を正した鐡蔵は弥絵と共に出島阿蘭陀商館に向かった。弥絵の出で立ちは目にも鮮やかな金糸で極楽鳥の縫い取りのある真っ赤な艶やかな小紋。帯は逆に金の地色に赤い太帯の入った絹の丸帯。小紋の襟を大きく開いて、豊満な乳房を覗かせている。南蛮人はこうした肌を露出した服装を好むからである。前商館長ヘンドリック・ドゥーフが遊女と交わり子供を設けているが、昨年商館長に赴任した現カピタン、ヤン・コック・ブロムホフも又、女好きで知られる。ブロムホフは一緒に連れてきた妻子の入国が許されず、二人共母国へ送り返され、無念の思いをしているところであった。
鐡蔵は門にあたる水門を通り、役人詰め所で出島乙名に会所の印業が捺された通行許可の門鑑を差し出す。長崎奉行肥前守筒井政憲の花押を捺したの正式の紹介状もあり、一行はカピタン部屋と呼ばれる商館長の居宅に案内された。出島中で最大の華麗な建物である。二階の阿蘭陀甲比丹の部屋は、聞きしに勝る壮麗さ。床に深紅の段通を敷き詰め、壁は磨き上げられた厚い板張り。漆喰塗りの繰り天井からはギヤマンの灯具が下がって、夥しい蝋燭が灯されている。ブロムホフは此の時三十九歳の壮年。金刺繍の付いた濃紺の長い上着に茶革のチョッキ、青い短ずぼんを履き、白い長靴下に黒の短靴。金髪で薔薇色の頬、碧眼である。
「会所ノイシカワ様ヨリ、聞イテイマース。大変ナ宝モッテキマシタカ?」
「左様。是よりお見せ致すは、我が国開闢以来門外不出の秘宝でござる。弥絵。黄金像をこちらに」
「オオ、素晴ラシイ娘サンネ。バストイイデスヨ」
鐡蔵は揃いの半被を着た長崎屋の小僧達に、黒漆塗りの大きな長持ちを部屋の中に運び込ませた。弥絵はブロムホフにお色気たっぷりの思わせぶりの笑みを浮かべ、わざと胸を揺らして、小僧たちに蓋を開けるよう命じた。長持ちの中は最上の絹布で包まれた人間のような形の物体である。
「弥絵。袱紗布を取り除き甲比丹にお見せしなさい」
ゆっくりと絹布が一枚づつ取り除かれて行く。やがて金色燦然たる黄金の髑髏と体躯を覆う金縷衣が現れた。ギヤマンの灯具に照らされ眩い光芒を放ち、薄暗かった甲比丹の部屋は明るい光で満ちる。
「コ、コ、是ハ何デスカ?ワタシ驚イテイマース」
「今を去る一千年前、非業の死を遂げた我が国最高の英雄、阿弖流為の棺を覆うた、金縷金面でござる。我が入手致すまで苦闘を重ね、何人もの尊き命が失われた。元より異国人のそなた甲比丹に売り渡すべきもので無いことは承知している。だが、二百年を超える貴国との交誼に報いんが為、断腸の思いで譲渡することを決心した。百万両でお譲りする」
「ヒ、ヒ、百万!ソンナオ金持ッテ来テ、イマセーン。ゴ、五十万両ニ価スル金貨アリマス。アトハ、舶載ノ全商品ト引キ換エデドーデスカ?」
「甚だ不服ではあるが、貴官の誠実な態度に免じて応諾すると致そう。弥絵。ブロムホフ殿に口付けして差し上げなさい」
弥絵が熱い唇をブロムホフの頬に当てると、感激し弥絵を抱きすくめる。
「テツゾーサン。コノ人ワタシノオメカケサンニシタイデス」
「ブロンホフ殿。其れはお断り申す。弥絵は私の女だからだ」
「ザーンネーンデス。艦長、金貨ヲ全部持ッテ来ナサイ」
膨大な金貨と舶載品と引き換えにアテルイの金縷金面は阿蘭陀国のものとなった。莫大な金貨と
阿蘭陀船が今回運び来たった全商品を入手した鐡蔵は、数度に分けて長崎屋に持ち帰った。
「弥絵。今まで苦労をかけた。これからは思い切り贅沢をさせてやるぞ。大浦の高台に儂とお前の為の屋敷を借りよう。最高の衣服、最高の装身具、最高の食事。何でも思うがままだぞ」
「はい。でも私は何も無くてもいいの。鐡蔵さんさえ優しくしてくださったら」
「愛いことを言う。今晩は一晩中愛し合おう」
「嬉しいわ。鐡サマ」
それから五十年の時が流れた。大浦の高台にある鐡蔵と弥絵の屋敷は昨年英国人トーマス・ブレーク・グラバーに譲渡されていたが、今も訪れると歓迎し使わせてくれる。広い芝生の広場からは眼下に入り組んだ長崎湾の碧い海と対岸の稲佐山の優美な姿が見えた。今正に夕日が稲佐山の陰に沈み、湾内が黄金色に輝き始めた。弥絵は七十一歳、一弥は六十八歳になっていた。老いた二人の姉弟は寄り添うようにしてその雄大な景色を眺めていた。
「姉さん。何度見ても美しい景色ですね」
「一弥。色々ありました。私が鐡蔵さんの妻となり、この屋敷に住んだ十年あまりは誠に幸せな時でした。鐡蔵さんとは孫子ほど歳が離れていましたが、彼はこよなく私を愛してくれました。今考えると、あのような贅沢三昧は夢だったと思います。毎日新しい着物や装身具が届けられ、数えきれぬ女中達に囲まれ、花よ蝶よと可愛がられ、まるで将軍家の御台所のような生活でした。鐡蔵さんは屋敷を作ると、父とお前に長崎屋を与え、自分は私と愛に溢れる暮らしをしてくれました。鐡弥という一人息子に恵まれ、長崎屋の跡を継いでいますね。私もお前もこの世でありとあらゆる歓楽を尽くしました。もう思い残すことはありません」
「この湾の景色を見ていますと、五十年前のあの日、三本の帆柱に一杯の帆を張った阿蘭陀船が、沢山の日本の小船に取り囲まれ、出航していった時が思い起こされます。あの船が蝦夷の秘宝、黄金像を阿蘭陀国に持ち去ったのです」
「あの時はこの屋敷で鐡蔵さんと出航の様子を見ていました。私はその少し前、お前が私の以前の亭主と決闘して戻って来た日が印象深いのです。下着までずぶぬれになり、血糊があちこちに付いていたお前を誇らしく思いました」
「決闘した時、西洋の鎧を着けて戦いましたが、重くて重くて、動くことさえ困難でした」
「そうでしょうね。その鎧を着けたお前を見たかった・・戦って良く勝ちましたね。森居を始め七人ものならず者相手に立ち向かうなんて・・・考えただけでも恐ろしい」
「姉さんも殆ど諸肌を脱いだようなお色気たっぷりな格好をして、阿蘭陀商館に出向いた時はびっくりしましたし、心配しておりました」
「あとになって、鐡蔵殿がお前のお陰で黄金像が売れたと褒めてくださいました。あのような格好をするのはとても勇気がいるのです」
「鐡蔵殿は時に伝法な口を利いたり、手荒なことをしたことがありましたが、根はとても優しい男気のある人でした」
「良く解っております。黄金像を売却し多額の資金を入手してからは、父上と私を親身になって支えてくださりました。設立した長崎屋を父上にお譲りくだされ、ご自分は後見人として陰で物心両面から庇護してくれました。私は嫁も世話して頂いたのです。お陰で子供を授かり、息子の二弥は父上弥ェ門の死後、長崎屋主人を継がれた鐡弥さんを補佐する筆頭番頭になることができました」
「鐡蔵殿と父弥ェ門が相次いで亡くなった時は呆然と致しました。私はすでに隠居の身。姉上もご夫君を亡くされ、息子殿も立派に成人され少しお寂しくなったのではありませんか。どうです。私と二人、故郷江釣子に戻り、自然とふれあいながら、のんびり生きていきませんか」
「そうですね。私もそう思っていました。あれほど隆盛だった徳川幕府も今年四月に瓦解し、天皇様の御世になりました。今は有り余るお金を持っていても、使うことも無く増えるばかりです。このお金で江釣子全部の土地を買い、住んでいる村人を豊かにしましょう。学校や病院、色んなお店や役場を建てましょう」
「嬉しいです。姫御寮の生活をなさった姉上が、故郷のためにお金を使って頂くとは。感激です」
降り積もった雪が風に煽られ、地吹雪となって舞っている。強烈な寒気が五十年ぶりに故郷に戻った二人の頬を刺した。老松の葉に浅く積もった雪が肩に降りかかる。真っ白く雪を抱いた奥羽の連山がどこまでも続いていた。眼前の見渡す限りの田は、田の形そのままの様々文様を描いて、白く美しかった。
「一弥。久しぶりの冷気を浴び、生き返るような気がします。南国の暮らしは永かったけれど、私は身に染み付いた凍えるような寒気を心のどこかで待ち望んでいたのかも知れません」
「同感です。我が身が引き締まり、叫びだしたいような気分に囚われております」
老いた二人が江釣子に戻ったのは、明治元年の暮のことであった。




