最終話 光明(ライト)
★
「ねぇ、陽子?」
マーマレードジャムが乗ったトーストをかじりながら、サラがポツリと言った。
『なに?』
「一度聞きたかったんだけど……あんた、潤一郎以上の大バカでしょ?」
予期せぬ言葉に飲んでいた紅茶を吹き出しそうになる私。
『な、なに失礼なこと言ってるのよ! しかも一度聞きたかったってことは「ずっと疑問に思ってた」ってこと!?』
「だって、こんなお荷物引き取ったうえに『サラちゃん、私、検事辞めちゃった』だもん。客観的に見て大バカ以外の何者でもないよ」
ナプキンで口元を拭う私に、サラはいつもの調子でサラリと言う。
あれから1年が経った。
イベントが終わると、私の身体は事件に遭う前の状態に、サラの身体はイベント前の状態に、それぞれ戻っていた。シャールが約束を守ったことに安堵の胸を撫で下ろす私だったが、「サラの目と足も治っていて欲しい」といった、願望のような思いが心のどこかにあった。さすがにそれは叶わなかったが、少しだけ進展はあった。
サラの目にぼんやりと物の外形が映るようになった。それは高感度カメラのシャッターが下りるぐらいのほんの一瞬の時間。しかも、不規則でいつ訪れるかわからない、気まぐれな時間。しかし、文字どおり暗闇に光が差したことで一縷の希望が見えた。潤一郎や担当の医師はしきりに「奇跡」という言葉を口にしたが、シャールの能力が何かしら影響しているのは明らかだった。
★★
「ねぇ、潤一郎……どうして何も聞かないの? 昨日の夜のこと」
眩い陽の光が差し込む、小児病棟の一室。
ベッドに腰掛けるサラが神妙な面持ちで話しかける。
「んっ? 昨日の夜? 何のことだ?」
「とぼけないで! わたしが血を吐きながら言ったこと聞いてたでしょ?」
「ああ……あれか。聞いてたよ」
いつもの調子で淡々と答える潤一郎。
「じゃあ、わかったでしょ? わたしが何者なのか」
シャールと対峙したとき、サラは自分の正体を明らかにした。
隣にいる潤一郎に聞こえないはずなどなかった。
「お前は『サラ・オースティン』。それ以上でもそれ以下でもない。寝ぼけてるのか? それとも、昨日の夜のパニック症状がまだ治ってないのか?」
「誤魔化さないで! わたし、潤一郎の知ってるサラじゃないんだよ。サラの身体を借りてる別人なんだよ。だから……もう潤一郎といっしょには……」
唇を噛んで下を向くサラ。すると、間髪を容れず潤一郎の大きな声が響き渡る。
「サラ! 今日は一日安静にしてろ! そんな訳の分からないこと言うなんて全然良くなってないじゃないか!」
椅子から立ち上がると、ドアの方へと歩き出す潤一郎。
「待って! 潤一郎。どこへ行くの?」
「陽子の様子を見てくる。1時間経ったら戻る。俺が戻る頃には、きっといつものお前に戻ってるだろうからな。何かあれば枕元の携帯で連絡してくれ……そうだ。お前の好きなエクレアを買ってくるよ。ただ、治ってなかったら食べさせられないな」
潤一郎はそそくさと病室を後にする。全身の力が抜けたようにその場にへたり込むサラ。そのとき、彼女の目に眩い光が映った。それはほんの一瞬の出来事。しかし、彼女にとって幸せを実感した瞬間だった。
不意にサラの顔に笑みが浮かぶ。
「相変わらず超のつくバカね。そんな三文芝居、子供だって騙されないよ。でも、可哀想だから騙されてあげる。あんたがずっとわたしのそばにいてくれるなら」
★★★
「よぉ、調子はどうだ?」
『おはよう、潤一郎。このとおり絶好調よ。今日の午後にだって退院できそうよ』
私の病室に潤一郎が様子を見にやって来た。検査の結果、私の身体には何の異常も認められなかった。「クリスマスイヴの奇跡」。その日のK大病院は私の話で持ちきりだった。
「陽子、調子に乗るなよ。お前は瀕死の重傷を負ってたんだ。今だから言うけど、余命宣告まで受けてたんだ……でも、そのクリティカルな症状が一晩で消えてなくなるなんて不思議なこともあるもんだ」
『世の中は不思議なことだらけよ。私たちがこうしていっしょにいられるのもその1つよ。それで? T国にはいつ戻るの?』
「今日の夕方の便で戻る予定だったが、キャンセルした。昨日の晩、サラがあんなことになったからな。検査の結果は特に異常は認められなかったが、しばらくゆっくりさせるよ。長旅のうえに大勢の人の前で話したことで、疲れやストレスが溜まっていたのかもしれない。あいつには悪いことをしたよ。元気になったら東京見物にでも連れて行こうかと思ってる」
潤一郎は昨晩のことをかなり気にしていた。それは当然だろう。目の前でサラが大量の血を吐き、息も絶え絶えの状態に陥ったのだから。
『それがいいよ。彼女、気丈に振舞ってはいるけれどまだ8歳だもの。きっと、いろいろ我慢してるんだよ。三十路に王手がかかった「斜陽の女」みたいに図太くないしね』
「それを言うなら『脂が乗ったいい女』じゃないのか?」
間髪を容れず、フォローする潤一郎。
『あら、ありがとう。しばらく会わないうちに口が上手くなったのね。6年前のあなたからは想像できないわ。海外では、その巧みな話術で医療活動以外に「夜の活動」なんかもしてたんじゃないの~?』
「バ、バカなこと言うな! そんな活動するわけないだろう! 俺は……その……陽子が……陽子のことが……」
『なに? なに? 最後の方がよく聞き取れなかったんだけど。ちゃぁんと聞えるように話そうよ。潤一郎く~ん』
「……う、うるさい! 話は終わりだ!」
照れた様子で必死に私の《《口撃》》を交わす潤一郎。
やはり彼は良い意味で変わっていない。
『あのさ、潤一郎……ちょっと相談があるんだけど……』
「なんだ? 俺にできることなら力になるぞ。言ってみろよ」
『サラちゃんのことなんだけど……彼女、私と合うと思う?』
想定外の質問に、眉間に皺を寄せて考える素振りを見せる潤一郎。
「……たぶん大丈夫だ。何せ俺なんかと上手く付き合えるんだからな。サラもお前も」
『ふ~ん。そう……よし! 決めた! いっしょに暮らそうよ。3人で』
★★★★
「ねぇ、陽子。ホントによかったの? 検事辞めちゃって」
『全然OKよ。悪い奴は私がほとんどやっつけちゃったから』
「茶化さないでよ。真面目に話しているんだから。バカ陽子」
ブルーベリーヨーグルトを山盛りに乗せたスプーンを子供のように頬張る私に、サラがムッとした表情を浮かべる。
『ごめん、ごめん。でも、気にしないで。私がそうしたかっただけだから。だって、サラちゃんは私の命の恩人で、私の大切な家族だもの。大切な人のために何かしてあげたいと思うのは当たり前のことよ』
イベントの次の日、私は3人で暮らすことを決めた。潤一郎は驚きを隠せない様子だったが、もともとサラが思春期に入る前に、彼女の世話をする女性が必要だと思っていたらしく、ふたつ返事でOKしてくれた。ただ、その直後「3人で暮らすこと」の意味を実感したようで、顔を真っ赤にして何かブツブツ言っていた。
3ヶ月後、私と潤一郎は入籍しサラを養女として迎え入れた。もちろん、サラには事前に話をして納得してもらった。いや、《《半分》》納得してもらった。彼女は自分が養女になることに対して2つの条件を出した。1つは、居心地が悪かったらすぐに出ていくこと。そして、もう1つは、戸籍上は潤一郎と私の娘になるが立場は対等であること。戸籍とは別に契約書を作成し、3人がサインをし私の両親が証人となった。サラがどこまで本気で言っているのかわからなかったが、それで話がまとまるなら楽なものだと思った。
「わたしの目……見えるようになるかな?」
カットしたオレンジがついた、フレッシュジュースのグラスを静かに置くと、サラはポツリと言った。
『潤一郎から聞いたでしょ? 一瞬だけど物の外形が見えるのは、症状が大きく好転した証拠だって。だから、潤一郎は何ヶ月も信用できるドクターと機関を探して世界中を飛び回っていたの。その結果、ここロンドンにたどり着いた。ドクターのことは聞いてるよね?』
「うん。まだ若いけど、将来はノーベル医学賞確実なんて言われてる人だって。でも、失明した人を見えるようにする技術はまだ実用化されていない。将来性は認めても、現段階で手術が成功するかどうかは別だよ」
ナプキンで口を拭きながら、サラは小さくため息をつく。
『潤一郎は何て言ってた?』
「『絶対大丈夫』だって。でも、あいつはいつもそんな風に言うの。バカのひとつ覚えみたいに」
『言われてみればそうね。でも、潤一郎が自信を持った言い方をするのは、自分自身が納得している証拠よ』
サラはオレンジジュースのストローで氷をカラカラと鳴らす。
どこか不安な様子が窺える。
『ねぇ、サラちゃん? そんな権威のあるドクターがどうして難しい手術を受けてくれたと思う? 成功事例がほとんどない中で失敗なんかしたら大きな批判を招く。そうなったら、これ見よがしに彼の足を引っ張る輩も現れるだろうし、研究費や補助金だって打ち切られるかもしれない。ドクターにとってはどう見てもリスクが大き過ぎる選択。普通に考えたら、WMSが組織をあげて頼んだってOKなんかしてくれないと思うよ』
「そうなんだ……どうして? どうしてそんなリスクを冒してまで手術をしてくれるの?」
小さく微笑むと、私はサラの耳元に顔を近づけた。
『理由は簡単。あのドクターはね、サラちゃんのお父さんの無二の親友なの。二人が命をかけて守ったあなたのためなら、何でもするって。たとえ、これまで築き上げてきたものを失っても惜しくないんだって』
ストローを持つ、サラの手が止まる。一筋の涙が頬を伝う。すると、それが何かの合図であるかのように、大きなダークブルーの瞳から真珠のような滴がポロポロとこぼれ出した。
「……いいのかな……わたしは彼女じゃないのに……あんたや潤一郎に……こんなに良くしてもらって……こんなに大切にしてもらって……」
私に背を向けてサラは両手で涙を拭う。
そんな彼女を私は後ろからしっかりと抱きしめた。
『いいんだよ。「彼女」だってそれを望んでいる。あなたが生きていることで「彼女」も生きていることになるの。口には出さないけれど潤一郎だってそう思ってる……大丈夫。あなたの目は絶対に見えるようになる。だって、これまで潤一郎が嘘をついたことは一度だってないんだから』
サラは、私の両手を取ると、自分の胸の前で強く握り締めた。
手の温もりよりも温かいものが私の手の上にこぼれ落ちる。
『サラちゃん……』
声を掛けようとした、そのときだった。
「……アリガトウ……オカアサン……」
サラが初めて発した、片言の日本語。
熱いものがこみ上げてきた私は思わず窓の外に目をやった。
さっきまで立ち込めていた、ピカデリーサーカスの霧はすっかり晴れ、赤と緑のクリスマスカラーに彩られた街並みがはっきりと見て取れた。
まるで、私たちの未来を暗示しているかのように。
おしまい
最後までお付き合いいただきありがとうございます。




