第7章 新しい扉 1
「そろそろ帰らなくちゃ、元の世界に」
七都は、庭園をゆっくりと歩きながら呟いた。
ナイジェルがここを去ったのは、昨日。まだ太陽がまぶしく輝いていた頃。
その太陽は沈み、ここは闇に包まれ、それからまた太陽は昇った。
いつもと同じ有害な成分が遮断された光に、いつもと変わりなく明るく照らされた庭。
ルーアンの作品である花たちが、こぼれるくらいに咲き誇る。
機械で管理されているこの城は、激しい雨や強い風にさらされることもない。庭園を潤すための雨が、さっと降る程度だ。
そういう時には虹がいくつも出来て、それもまた美しく幻想的な光景として、七都を驚かせる。
ナイジェルがここにいたなんて、夢のようだ。
七都は、彼と一緒に歩いた道をひとりで辿る。
それぞれの場所で彼とした会話の内容。彼の表情。その全部を、ひとつずつ詳細に覚えている。
まだ新しく刻まれたばかりの記憶の引き出しから、そのすべてを取り出すことが出来る。
鮮やかな花たちが模様のようになって浮かんだ鏡の池、覆いかぶさる薄紅の小花で出来たトンネル、黄色い花の絡まった橋。
七都は、昨日の自分たちの残像を追いかけるように歩いた。
やがて、彼に抱えられ、ふざけあった白い花畑に出る。
七都は、今はもう誰もいないその花畑を眺めた。
透明な蝶たちが、七都の気を紛らわせてくれるかのように、ふわふわと飛び交う。
<ぼくは、いつかきみを抱く>
昨日ナイジェルが言ったことをふと思い出し、七都は顔を赤らめた。
(もう、ナイジェルったら。あんなこと言うから、心が乱れまくるよ……。想像がエロい方向にだって行っちゃうんだから……)
七都は、ほうっと溜め息をつく。
そんな七都をからかうように、蝶たちが髪にとまっては、また離れて飛んで行く。
「結局、ナイジェルに会えたものね。今回は会えないってあきらめてたのに。彼のほうから会いにきてくれるなんて、びっくりだ」
とても嬉しかった。
あまりにも嬉しくて、うきうきして、隣に彼がいるのが幻なんじゃないかって、何度もさわって確かめたくなった。
でも、その嬉しさは、あまり彼には伝わらなかったかもしれない。
彼のよくわからない行動に戸惑ったし、拒否してしまったし、泣いてしまった。
お母さんにも会って、怒られたって言ってたしな。
ナイジェル、へこんでないかな……。
それにナイジェルは、帰り際に気になることを言った。
<ユウリスには気をつけるほうがいい>
彼は七都の耳に唇をくっつけるようにして、七都だけに聞こえるようにささやいたのだ。
気をつけろって……? ユウリスさまに?
そんなの、気をつけようがないよ、ナイジェル。相手は生霊なんだし。
っていうか、透明人間。ううん、人間じゃなかった。もとい透明生霊、魔神族の。
見えないんだから、何をされたってわかんない。
七都は、ふと周囲を見回してみる。
もしかして、ユウリスがそのへんに立っているかもしれない。
そのへんどころではなく、ものすごく近いところにいるのかもしれない。
でも、わからないのだ、決して自分には。
七都は不安になったが、思い直す。
だって、お母さんもいるんじゃない。同じく、透明生霊で。
ユウリスが何かしそうになったら、もちろん止めてくれるよね。
ナイジェルを怒ったんなら、ユウリスさまにも怒ってくれなきゃ。
彼、わたしにストーカーしてるんだよ、お母さん。
ユウリスさま、やっぱりわたしにエヴァンレットの面影を見ているのかな。
だったら、あまり毛嫌いするのも、気の毒かな……。
「でもね、ユウリスさま。わたしにもプライバシーってものがありますので。あまり変なところまで覗かないでくださいよね」
七都は、誰もいない花畑に向かって、言ってみた。
何の反応もない。
花畑が風に吹かれ、ごく淡い緑の波が立った。
蝶たちが少しだけ風の影響を受けて、飛ぶ位置を変える。それだけだ。
七都は、城のほうを振り返ってみた。
静かだ。そこもまた、いつものように。いつもと変わることなく。
七都の部屋の窓に、ストーフィが両手を突っぱって、張り付いているのが見える。
オパール色の丸い目が、七都をじっと見下ろしていた。
<えー、もしかして置いていかれてるう?>とその目は訴えているかのようだった。
「だって、きみ、寝てたでしょ。わたしが起きたとき、動かなかったじゃない」
七都は、くすっと笑って、猫ロボットに話しかけた。
ストーフィは時々、全く動かなくなることがあった。
まるで壊れたロボットのように、呼んでも、たたいても無反応。魂がどこかに抜け出てしまったかのようになる。
もっとも、機械のストーフィが魂のようなものを持っているとは考えがたかったが。
けれども、このストーフィはやはり、他のストーフィとは違っている。
魂を持っていると言われると、納得してしまうような雰囲気が、確かにあった。
七都はストーフィが動かなくなるたびに心配したが、しばらくすると、必ずストーフィは何事もなかったかのようにそのへんを動き回っているのだった。
「それにね。何となく、ひとりで歩きたかったんだ」
七都が呟くと、<あ、そう>という感じで、ストーフィが頷いたような気がした。
(聞こえるはずないのに……)
七都は、少し妙な心地悪さを感じた。
それは、このストーフィが何か場違いなことを仕出かすたびに感じるものではあったが。
たまに「ほんっと、きみ、いったい何なんだよ!?」とか叫びながら、ストーフィの首をしめたい衝動にかられる。
「そういえば、ナチグロ、どこに行ったんだろ。ゆうべも一緒に寝たのに、朝から姿を見ない。ルーアンもいないよね。いつもこの時間には、庭園の手入れをしているのに……。彼が庭園にいないなんて……」
食事かな? 二人とも。普段よりも、少し遅めの朝食。
そうなのかもしれない。アヌヴィムが寝坊したとかで、たまたま遅くなったとか……。
七都は、適当に納得できる理由を探す。
二人の食事――。
もちろん、そのメニューはただひとつ、エディシル。アヌヴィムの生体エネルギーだ。
どのアヌヴィムのものかの違いだけ。
今朝選ばれるのは、誰なのか。
きらびやかな衣装をまとった女性たちの誰かか、それとも、ゲームに興じる男性たちの中から誰かが選び出されるのか。
誰になるにしろ、その者は若さと美しさを失い、当分の間皆の前から姿を消すことになる。
「わたしも食事にしようかな。きょうはお庭で。カトゥースも蝶も、そのへんにいっぱいあるし」
七都は、ふわふわと飛び交う蝶たち、そして小道のそばに何箇所も育っているカトゥースの花を順番に眺めた。
「ルーアンが庭に戻って来たら、言わなくちゃ。そろそろ帰るって。でも、いつ帰ろう。早いほうがいいよね。明日とか明後日とかじゃなくて、もう、きょう日が暮れてからにしちゃおうかな。ナチグロも一緒に帰ってくれるだろうし。まさかひとりで帰れなんて意地悪言わないよね。紀州のとれとれマグロも恋しいだろうし、果林さんも心配してるだろうし、一緒に帰ってもらわなくちゃ。夏休みは、少しでも残した状態にしなくちゃ。たとえ半日でも、一日でも。宿題やらなきゃならないもの」
宿題のことを考えると、うんざりする。
数学の宿題なんて、数センチの暑さがあった。
家庭科の宿題、美術の宿題なんかも残っている。
材料を買いに行くところから始めなければならない、めんどうな宿題だ。
でも、やらなければならない。もう先延ばしには出来ない。
帰ったら、普通の高校生に戻るのだ。
もう魔神族でも、姫君でもない。
誰もかしずいてはくれないし、尊敬語を使われることもなくなる。
自分のことも、すべて自分でやらなければならないのだ。
もちろん、『果林さん』という強力な主婦は、身近に存在してくれるとはいうものの。
「お呼びになりましたか?」
いつの間にか、七都のそばにルーアンが立っていた。
「そ。探してたんだよ、ルーアン。……えーっと……」
七都はルーアンに話しかけたが、言葉が続かなかった。
彼のあまりにも際立った美貌に見惚れたのだ。言うべき言葉を失ってしまうくらいに。
ルーアンは、総毛立つほどに美しかった。
昨日、彼のエディシルを食したあとのナイジェルに引けは取らない。
白い肌は、なまめかしいくらいに透き通っていた。
ワインレッドの目はさらに魅力的な輝きを増し、吸い込まれるような妖気を放っている。
銀色がかったチャコールグレーの髪は艶めいて、風にやわらかく舞った。
(やっぱり食事か……。エディシルに満たされているから、こんなにきれいなんだ)
七都は、ルーアンをじろじろと観察する。
これで額に金の冠が加われば、カンペキな魔王さまが出来上がる。七都は思った。
美貌に加えて、ルーアンは機嫌がいいようだった。
いつになくにこにこしながら、七都を見下ろしている。
(ユードほどじゃないけど、だいたいしかめっ面のことが多いのに、これはいったい? よっぽどおいしいエディシルでも食べたのかな)
「ルーアン、朝食終わったところ? なんかきれいになってるけど」
七都が訊ねると、彼はにっこりと笑って頷いた。
「良質のエディシルをいただきましたからね。あなたのおかげです。これから、あれをずっと摂取できるのかと思うと、とても嬉しいですよ」
(……?)




