第6章 招かれざる客人 8
「きみに、ぼくの愛人になれ、だなんてね。きみは愛人どころか、魔王の正妃にだってなれる身分の人なのに」
ナイジェルが、明るく言う。
う。やっぱり。
そうやって笑顔で受け流しちゃうんだ。どういう反応を示したか、なんて確認することも出来ないうちに。
わたし、傷ついてしまう。ナイジェル……。
「そ、そうだよね。キディアスはやり手だから、先回りして行動しちゃうんだよね」
七都も、めいっぱい明るく言った。
なんでこういう時に、わざわざキディアスを褒めなきゃいけないんだろ、なんでこういうことしか言えないんだろ、と自己嫌悪に陥りながら。
そして、この話題は、二人で軽く笑い合いながら終わりになり、別の話題へと移って行く……。
七都がそう思ったとき、ナイジェルが七都に言った。透明な水色の目で、七都をじっと見ながら。
「でも、きみは断ったらしいね、キディアスの申し出を」
え?
もしかして、ナイジェル、残念がってる?
「そそれは……。だって、わたしは風の都に行く旅の途中だったんだよ。水の都になんて寄ってる暇なんかない。そりゃあ、あなたには会いたかったけど。あ、愛人とかの話は別としてね」
「彼が、きみをぼくの愛人として水の都に連れて来ていたら……。ぼくは、それはそれで嬉しかったかもしれないんだけどね」
え? え……?
嬉しかった?
七都は、まじまじとナイジェルを見つめた。
じゃあ、キディアスに私を突然目の前に連れて来られて、「はい、あなたの愛人ですよ」なんて言われても、別に困ったりしなかったんだ?
「ナナト。きみは……ぼくの正妃になる気がある?」
ナイジェルが、言う。少しためらいがちに。いや、おそらくきっと照れ気味に。
七都は、硬直する。
正妃……?
それって……。
それって、もしかして、プロポーズ!?
全身の毛が逆立ち、体温が上昇したような気がした。
逆に寒気のようなものも、背中にびりびりと感じる。
七都は、いきなり異次元にでも舞い上がって行きそうになる気持ちを、無理やり地面に引きずり下ろした。
待って。待って。
落ち着こう。ちょっと落ち着くんだ。
胸がぎゅっと締め付けられて、息をするのが苦しい。
七都は、深く息を吸い込んだ。
「ナイジェル……。それ……私に求婚してるの?」
七都は、彼に訊ねてみる。
彼の言葉の真意を確認したいというのもあった。
けれども、言ってしまったあと、やはり後悔する。
しまった。質問が直接的すぎた。
もっと表現を選べばよかった……。
ナイジェルは、戸惑ったように頷いた。
「うん。まあ、そういうことになるね」
彼の答えを聞いて、七都は、踊りそうになる自分の気持ちを、さらに押さえつけた。
最初にそうしておかないと、きっとコントロールがきかなくなる。
落ち着け、わたし。
「ねえ、ナイジェル。私たち、会うの二回目だよね?」
七都は、彼に言う。
冷静に、冷静に。口元に微笑みなどをたたえて。
実際、笑えていたかどうか、自信は全くなかったが。
「三回目じゃない? この間の悲惨なきみも入れれば」
ナイジェルが、明るく言った。
「あれは、会ったっていうのかな。あんな状態で。わたしは生身じゃなかったもの。あなたに触れることも出来なかったし、姿も透き通ってたでしょ?」
「確かに。じゃあ、二回目と少し、にしとこうか」
ナイジェルが、のんびりと幾分無邪気に思えるくらいの口調で言う。
「二回目と少しで、もう求婚しちゃうの?」
先程ルーアンに、『会った回数と時間じゃない』と言い訳したことなど、どこかに飛んで行ってしまっていた。
詰問するような口調の七都の質問に、ナイジェルは笑う。
「いけない? 初めて会って、いきなりそうする人もいるよ」
「だって。早すぎるよ、わたしの感覚では。それに、わたしはまだそんなの考えられる年齢じゃない。あなたの本当の歳は知らないけど、あなただって、まだとても若いんでしょう?」
「早すぎるか……。そうなんだろうね、きみのいる世界の常識ではね。でも、魔神族の常識では、きみは婚約も結婚もできる年だよ」
「キディアスもそう言ったけど。わたしはまだ、魔神族の常識は受け入れられない。それに、ナイジェル……」
七都は、手をぎゅっと握りしめる。
「あなたって……わたしのこと、好きだったの? わたしのこと、思っててくれたの?」
訊ねてから、再び七都は後悔する。
あ、言ってしまった。また直接的なことを、ずばりと……。
自分の首を絞めるようなことを彼に投げかけてしまった……。
七都は、本当に自分で自分の首を絞めたくなった。
「これは、お姫さまは、悲しいことをおっしゃる」
ナイジェルが微笑んだ。
「疑ってるの? そういう感情がなければ、きみにそんなこと訊かないと思うけど?」
「だって……。あまりにも意外だったんだもの。あまりにもいきなりで、展開が急激だし……。キディアスの言うことを真に受けたりとか……」
七都は呟いた。
「確かに、きみを正妃にというのは、キディアスの希望でもあるけどね。ぼくは彼の意向には影響されないよ。ぼくは、ぼくの意思で動く」
ナイジェルが言った。
「そ、そう……。だよね。あなたはそういう人だものね……」
まさか初めてのデートでプロポーズだなんて。
そりゃあ、嬉しいけど。照れちゃうけど。そうなんだけど。
間がすっぱりと抜けてるよ、ナイジェル……。
きちんと段階を踏んでほしいっていうのは、わたしの我ままなのかな。
ううん、それ以前に、結婚とかそういうの、やっぱりまだ早いよ……。
ケーキが食べたかったのに、いきなりステーキを出されたような心境だ……。
「で、きみはどうなの?」
ナイジェルが訊ねる。
「え?」
「ぼくのこと、どう思ってる?」
真剣な眼差しだった。
口元からも、微笑みが消えている。
ナイジェルは、本気なんだ……。
でも、どう答えよう。
『好きです!』だなんて、恥ずかしくて言えやしない。
好きなのは、それは事実なんだけど、でも、もしそう答えたらどうなるんだろ。
わたしの世界で、たとえば同級生とか先輩に告白されて、『私も好きです』って答えるのとは、全然違う。
ここでは、いきなり正妃になるはめになっちゃうのかな。
<それも悪くはないんじゃない?>
七都の心のどこかで、甘い誘惑がささやく。
勉強に追いまくられてへろへろになってる高校生の生活なんか捨てて、異世界で魔王さまのお妃になっちゃえば? 楽しそうだよ。
少なくとも、風の魔王リュシフィンになって、あの冠をかぶるよりは楽そうだ。
責任ないし、王妃さまとして侍女にかしずかれていればいい。きれいに着飾って、永遠に若く、美しい姿のままで。
時々ナイジェルの許可をもらって、元の世界に帰ればいい。
なんなら、週末婚とか月末婚なんかにして、高校生を続けることだって……。
思いは、とめどもなく飛躍していく。
だめだよ、だめだ。
先のことはわからないけど、でも、今はそんなの、だめだ。
「ナイジェル。あなたのことは、好き。でも……」
七都は、彼に言う。
彼の、せつなくなるほどの透き通った水色の目を見つめながら。
「正妃になる気はない?」
ナイジェルが、やさしく訊ねた。
七都は、うつむく。
「もし、あるって言ったら?」
「うーん、そうだね。きみを水の都にさらっていこうかな」
「だめだよ! やっぱりそうなっっちゃうわけ?」
七都は、思わず声を荒げて叫ぶ。
ナイジェルは、あははと明るく笑った。
「わかってるよ。風の姫君。きみの居場所は、きみの世界だってこと。きみはそこで暮らさなきゃならないからね」
ナイジェルに改めてそう言われると、七都は気の遠くなるような寂しさを感じた。
なんて勝手なわたし。
自分で元の世界で暮らすことを望んでいるというのに。そこでの生活を守りたいって思ってるのに。
何なんだろう、この寂しさ。悲しさ。情けなさ。
しっかりしなくちゃ。一時の感情に流されちゃだめだ。
「ごめんなさい……。結婚なんて考えるには、わたしにはまだまだ時間がいるの。そういうことの前に、わたしには、元の世界でやらなきゃいけないことが山ほどある……。でも、この世界には頻繁に来ようと思ってるよ。お母さんみたいに行き来する。あなたにもいっぱい会いたい。会って、いっぱい話したい」
「でも、ぼくは心配だよ。きみの世界でのきみは、そうかもしれない。でも、この世界ではきみの体は、ある時期が来ると、きみの思いからかけ離れたところに行ってしまう。きみの意思を無視して、暴走してしまうんだ」
ナイジェルが言う。
「それは……。発情のことを言ってるの?」
七都が訊ねると、ナイジェルは頷いた。
「ルーアンが言ってた。わたしは発情しない確率が高いって。わたしのお父さんは異世界の人間だけど、お母さんのお母さま……つまりわたしのおばあさまも人間だったみたいなの。だから、わたしは人間の血が濃い……」
「だけど、確率が高いだけで、絶対そうならないってルーアンも言い切れないだろう。実際、きみの体はエルフルドとは違って、人間の食べ物は食べられないわけだしね」
「そりゃそうだけど。だいじょうぶ。わたしが発情したら、ナチグロ=ロビンがわたしを部屋に閉じ込めて、あなたを呼びに行くって言ってたし……」
「ナチグロ? ああ、ロビーディアングールズリリズベットティエルアンクピエレルか」
ナイジェルは、相変わらず、すらすらとナチグロ=ロビンの本名を口にした。
「あ、でもね。だからといって、わたしはまだお母さんにはなりたくないし、発情に対処するためにあなたを連れて来られても、とても困るかも……」
「困るのかい?」
ナイジェルが、少し不満げに顔をしかめてみせる。
「あ、その。まだ早いからって意味だよ。とにかく、我慢するから。指輪をいっぱいして。ルーアンみたいに、手の指全部と足の指全部」
「きみが我慢できなくなって、ルーアンを選ばないってなぜ言えるんだい?」
ナイジェルが訊ねる。
「ルーアン? 選ぶわけないでしょ。彼はわたしには興味ないみたいだし」
「彼がきみに興味がなくても、きみが発情して彼に迫れば、彼は応じるしかなくなるよ。魔神族の性としてね」
「やーだ、ナイジェル。もしかして、ルーアンに妬いてたりする? 彼は単なる親戚のおじさんだよ。だいじょうぶ。彼もキディアス以上にしっかりしてるから、わたしが発情し始めたら避難すると思う。後はナチグロ=ロビンに任せてね。でも、そうなるとナチグロ=ロビンも危ないかな。まかり間違って、わたしが彼に迫ったら……。じゃあ、彼にも避難してもらって、侍女のサリアに、わたしを閉じ込めるように頼んでおこうかな……」
「ロビーディアングールズリリズベットティエルアンクピエレルは、発情したきみを見ても、なんとも思わないだろうけどね。その点、彼は信頼できるよ」
ナイジェルが言った。
「え? それ、どういうこと?」
七都が見上げると、彼は七都の視線をやさしく受け止める。
「知らないの? じゃあ、彼に聞いてごらん」
「うん……?」
そういえばルーアンは、いつも母と親しく一緒にいたカーラジルトは警戒していたものの、ナチグロ=ロビンには、全くそんなことはなかった。
それどころか、異世界での母のボディガード……いや、監視役……いや、表向きペットとして、彼を付けていた。
もちろん、何か理由があるのだ。彼がそう出来る理由が。
今度機会があったら、ナチグロ=ロビンに訊いてみよう。素直に答えてくれるかどうかは疑問だが。
七都は、思った。