第1章 姫君の帰還 7
「風の都は幽霊都市って呼ばれてるって。見張り人さんが言ってたじゃない。聞いてなかったの?」
「あまり聞いてなかった。白猫に舐めまくられて、それどころじゃなかった。あの猫、ぼくのことをなぜか気に入ってて、いつもあんな感じなんだ。だけど、幽霊なんて、そんなの、ぼくはここに来てから見たことないぞ」
「……そうなの?」
じゃあ、幽霊都市っていうのは、暇を持て余す魔貴族たちによる、単なる無責任な噂?
でも、火のないところに何とかって言うよね。
「事故で死んじゃった人たちが、幽霊になってさまよってるとか……って、あり得ない?」
「だったら、地の都の砂漠も幽霊だらけだろ。砂漠で幽霊、見たのかよ?」
「……見ない。わたしが見たのは、ロボットとサイボーグとイケメンさんと美女のお茶会」
七都は、ちらっとストーフィを眺める。
「ホラーじゃなくて、メルヘン風SFか。とにかく、基本的に亡くなった魔神族は、幽霊になって再登場したりなんかしないよ。伝説や物語の中でもね。みんなおとなしく死んでる。七都さんが生まれて育った世界とは、少し観念や文化が違うのさ。ま、確かに、この都市の中に雰囲気の悪さとかは、感じないことはないよ。うわ、ここ何となくやばい、みたいなね。だけど、それはたぶん、ぼくがいつも七都さんの世界で過ごしているから、そう感じるんだ。何しろ、家にいるときは、テレビを一日中見てるからね。影響されまくってる」
ナチグロ=ロビンが言った。
「でも、超敏感とか、霊感があったりする魔神族だったら、何か感じたりして? そういう魔神族がいればの話だけど」
七都が呟くと、彼はふと遠くを見るような表情をする。
「そういえば、美羽さんは、何か見えてたらしいけど」
「お母さんが!? 何を?」
「さあ。教えてくれなかった。それこそ幽霊なのかもね。ぼくは見えないことをぼくのこの目に感謝する」
「ロビン。この風の都のどこかに、幽霊を閉じ込めている部屋があるんだよ」
七都が言うと、ナチグロ=ロビンは、あんぐりと口を開ける。
思いもよらぬ怪談話を突然聞かされるはめになった、子供の表情だった。
「その部屋、どこにあるのか、知って……」
七都は、彼の反応を見て、口ごもる。
あまりホラー系は得意ではないのかもしれない。
「……るわけないよね?」
ナチグロ=ロビンは、七都を睨みながら頷いた。
「知らないね。知らないことにも感謝するさ」
それから彼は、脱線した話を元に戻した。
それ以上幽霊の話を聞きたくなかったに違いない。
「とにかく、あっちこっちよそ見しないで歩くこと。変なものを見ないためにも」
「だから、何が見えちゃうんだよ、幽霊じゃないならば?」
「過去の残像だよ」
ナチグロ=ロビンが答えた。幾分真面目な顔をして。
「過去の残像?」
「この風の都には、過去に起こったことの映像がいたるところに刻みつけられている。残留思念みたいなものかな。それか、何かの作用で、そこの磁場とかが記録しちゃったのかもしれない。ある意味、幽霊っぽくて、しかも幽霊よりやっかいかもね。その場所に行くと、繰り返し同じ映像が現れる。お化け屋敷の機械仕掛けのお化けの映像みたいにね。特に夜になると、その傾向が強くなる」
「残像って。たとえば、事故のときの悲惨な映像とかも?」
「あるだろうね。でも、男女がデートしてるっていう、微笑ましいのもあるらしいけど。だけど、そういうのが見えるのは、子供が多いらしい。やっぱり子供は敏感なのかもしれないね」
「あなたは見たことあるの? その残留映像」
「ないね。幸運にも。だけど七都さんには見えるかもしれないから、夜はここを歩いちゃだめだよ」
ナチグロ=ロビンは、小さな女の子に言い聞かすように、七都に言った。
「なによ、それ。わたしがまるで子供みたいに」
「子供だろ。その魔神族の姿になって、まだそんなに時間がたってないんだから」
彼が、七都を改めてじろじろと眺め回す。
キディアスに見られるときほど嫌悪感がないのは、彼が愛らしい少年の姿形をしていて、何よりもやはり七都の家の飼い猫として、長年一緒に過ごしたからなのかもしれない。
彼は七都が生まれたときから、いや、母のお腹の中にいた頃から、七都のことを知っているのだ。
最初は七都の叔父のような存在であり、七都が成長するにつれてそれが兄になり、今は弟兼幼なじみみたいなものだった。
もちろん『でも、飼い猫』というオチは、最後にやはり付いてしまうのだが。
「でもあなたは、その子供を置き去りにしたんじゃないよ。おかげでどれだけひどい目にあったか、想像も出来ないでしょ」
七都は、ちくりと嫌味を言った。
「出来ないね。だけど、ま、かわいい子供は、崖から突き落とさなくちゃ」と、ナチグロ=ロビン。
「その使い方、間違ってますけど。崖から突き落とすんじゃなくて、旅をさせよ、でしょうが」
「わざとだよ」
ナチグロ=ロビンは、再び前を向いて、歩き出す。
七都は、街の景色を眺めてみたが、特に変わったものは見えなかった。
夜になると見えやすいのか。
でも、少し見てみたい気もする。
今は誰もいないこの都市に、かつて生きていた人々の映像。
もし見られるものなら――。
別にデートの現場でも、ケンカしているところでも、何だっていい。
ここは、あまりにも寂しすぎる。
ここにいた人たちの何かを感じてみたい。
自分の同族の人たちが残した何かを。
刻み付けられている映像は、アーデリーズの部屋にあったあの二枚の絵と同じだ。
イデュアルとその家族。そしてメーベルル。彼女たちの絵と。
過去に存在した一瞬が、ここでは絵ではなく、映像として空間に刻み付けられている。
たとえそれが何らかの作用で偶然に刻まれたものだとしても、それは、その人たちが確かに存在した証しとなっている。
風の城が近くなる。
七都は、頭上を見上げた。
真下からは、雲の連なりにしか見えなかった。
もちろんそれは、まがいものの雲。城や建物を飾るために風の魔神族がつくった、人口の雲だ。
本物の雲よりも遥かに低いところにあり、何層にもなって、魔貴族たちの住居の底を覆っている。
七都は、手を伸ばしてみる。
すぐに手が届きそうなところに、雲はあった。
近い。瞬間移動したら、案外簡単に風の城まで飛べるかもしれない。
<ヤメテ……>
「え?」
その時、七都は、誰かの声を聞いた。
声というより、誰かの思念のようなものが頭に響いた。
七都は、周囲を見回す。
別に何も見えない。それまでと同じ、風の都の静かで寂しい風景。
ガラスの柱が太陽に反射し、家々の外壁と足元の石畳がまぶしいくらいに白い。
<ヤメテ……>
その声は、次第に近づいてくる。
不安を覚えるくらいのスピードだった。
<ヤメテ、ヤメテ、ヤメテ……!!>
上?
七都は、雲が渦巻く天を再び仰いだ。
「あ……っ!」
七都の見開いた赤紫の目に、何かが映った。
頭上から落ちてくる、何か。違う。誰か、だ。
人が落ちてくる!?
布の固まりのようなものにしか見えなかったその落下物は、七都の視界の中で、次第にはっきりとした姿を現す。
それは、若い男女だった。美しい青年と、まだ少女と呼べる年齢の歳若い娘。
その二人が、真っ逆さまに落ちてくる――。
二人は、抱き合っていた。抱き合っているというより、若者が娘を固く抱きしめていた。
若者の赤味がかった金色の長い髪と少女の漆黒の髪が、絡まりあって風を切る。
若者は近づく地面を見つめ、少女は足元に広がる空を眺めていた。
二人の眼差しは空虚だった。そして、静けさに満ちていた。若者のオレンジ色の目も、少女の闇色の目も。
あれは、死を覚悟したものの目。
迫り来る死を、何の怖れも不安も感じることなく、ただ穏やかに受け入れようとする、沈んだ悲しい眼差し。
<ヤメテ、ヤメテ、ヤメテェェ……!!!>
けれども、声が叫ぶ。
その声の主は、死を覚悟などしていなかった。
まだ生きたい。死にたくない。そう泣き叫んでいた。
「あ……。あ……」
七都は、ただ立ち尽くす。