第1章 姫君の帰還 6
七都とナチグロ=ロビン、そしてナチグロ=ロビンに抱かれたストーフィは、城壁に嵌め込まれた大きな白い扉の前に立った。
扉は一見金属のような材質で出来ていて、表面には鳥の羽根をモチーフにしたような模様が浮き彫りで刻まれている。
ぴったりと真ん中で固く閉じられたそれは、明らかに誰かがそこを通って中に入るのを阻んでいた。
けれども、自分は風の魔神族。おまけに王族の姫君だ。
ナチグロ=ロビンもいるし、扉は簡単に開くだろう。
わかってはいたが、それでも七都は何となく圧倒されて、白い扉を見上げた。
「ここが街への入り口の門だよ」
ナチグロ=ロビンが言った。
「門番さんはいないの?」
「いるわけないだろ。そんな余剰人員、あるわけない」
ナチグロ=ロビンが、七都の質問にぶっきらぼうに答える。
彼が一歩進み出ると、扉は音もたてず、ゆっくりと開いて行く。
「ここも自動ドア?」
「違う。風の城から操作している。ぼくらがここに来たことを確認したから、開けてくれたんだ」
七都はあたりをぐるっと見渡してみたが、カメラらしきものは見つからなかった。
いったいどこから見ているのだろう?
「もしかして、さっきのオサカナゲームも、お城から見られてたりする?」
「たぶんね。おもしろかったかもね。七都さん、結構コメディやっちゃってたし」
ナチグロ=ロビンが、失笑気味に言った。
うわ……。
あせりまくりながら魚をぶった切ってたところを、リュシフィンにおもいっきり観察されてたんだ……。
笑われたかもしれない。
剣の使い方もつたないし、動き方もぎこちなくて無様だし……。
あのチャコールグレーの長い髪の若者が、七都が必死で魚と戦っているところを機械の画面か何かで眺めながら、ぷっと吹き出している――。
そんなシーンを想像して、七都は頭を抱えたくなった。
七都たちは、大きく開け放たれた扉の真ん中を通り抜けた。
向こう側の広い空間に、街が現れる。
街もまた、白のイメージがあった。白い石とガラスで造られた、繊細な都市。
オフホワイトの石畳がメインストリートに敷き詰められ、透明な飾り柱があちこちに立っている。
建物のひとつひとつが、そこの主人の趣味なのか、設計者の好みなのか、それぞれユニークな意匠を凝らしており、しかも全体に統一感があった。
地の都や光の都に負けず劣らずの美しい都市に、七都は安堵する。
壊れていない。
七都は、通り過ぎて行く建物を順番に観察する。
壊滅状態と聞いてはいたが、建物に関しては特に変わった様子はない。
建物には、頭上の風の城や魔貴族の屋敷同様、破壊された痕跡は皆無だった。
建てられたときのまま、風雨などにその外壁が変色することも削り取られることもなく、ただ時間の見えない積み重ねだけが、その都市の建物たちに与えられた、唯一のマイナス要素――。そんな雰囲気だ。
けれども、妙に静かだった。
大きな都市のはずなのだが、人々がたてる音が一切聞こえない。
人々の会話。笑い声。靴の音――。
都市に存在すべき様々な生きている物音が、不気味なくらいにすっぽりと抜け落ちている。
さらにその当の人々の姿も、人々が操る機械の乗り物も。
街には動くものの影はなく、建物の中には人々の気配のかけらさえも感じられなかった。
聞こえてくるのは、石の猫が、その口から永遠のように透き通った水を吐き出している噴水――。その水が、地面に飛び散って撥ねる音。そして、どこかの屋敷の窓に取り付けられた、金の鈴を集めたような飾りが風の力で奏でる、しゃらしゃらという音。同じく風で鳴る仕掛けがされた、ガラスの棒を並べたような飾りのチリンチリンというかわいらしい音だった。
窓にそういう風で音が鳴る飾りを付けるのが、流行していたのかもしれない。他にも、建物の窓辺から何種類かの音が漂ってくる。
それらの音は涼しげで心地のいいものだったが、打ち捨てられた虚無感のような響きも持っていた。
その音を聞き、その音を愛でる対象が存在しない。ただ風の音に反応して、事務的に音が鳴っているだけだ。
七都は、がらんとした、どちらかと言えばだだっ広い石畳の広場のような雰囲気があるメインストリートの真ん中を、ナチグロ=ロビンに遅れないようについて行く。
「静かだね……」
あまりの静けさに不安を覚え、七都は遠慮がちに呟いてみる。
「誰もいないの? まるで、建物はそのままなのに、人だけが突然消えたみたいに……」
「たぶん、そうだったんだと思うね」
先を歩くナチグロ=ロビンが、前を向いたまま言った。
「太陽の光が、この都市を襲ったんだ。何の処理も施されていない光が降り注いで、人々は溶けてしまった」
七都は、立ち止まる。
「じゃあ、地の都の地面が裂けて、地の魔神族がたくさん死んでしまったみたいに、この風の都でも……」
「地の都の場合は、たぶん外部からの衝撃による避けられない事故。風の都は内部からで、事故じゃない」
「何代か前のリュシフィンさまが、引き起こしたんだよね?」
七都が訊ねると、ナチグロ=ロビンは振り返り、黙って頷いた。
「ここに住んでいた人たちは、みんな死んでしまったの? その……太陽に溶けて……」
「もちろん、助かった人たちもいたさ。でも、その人たちもここから出て行ってしまったらしく、都市はほとんど無人だ。たまに帰ってくる人たちがちらほらいるくらいだね」
七都は、しばし立ち尽くす。
ここは、やはり廃墟。たとえ外観がきれいでも、都市が破壊されていなくても。
人々は消されたのだ。七都の遠い先祖の一人かもしれない魔王によって。
七都は、身を切られるような罪悪感を覚えた。
じっと立っていると、どうかなってしまうかもしれない。体が震え始め、心が我慢できなくなって。
この都市の寂しさに、静けさに、そして消えてしまった沢山の市民たちの存在に。
そんな不安に包まれる。
七都は、不安に支配される前に、ナチグロ=ロビンに話しかけた。
「あなたは、もしかして、その事故の現場にいた?」
「いないよ。ぼくがここに来たのは、そのずっとずっとあと。その頃には風の都は、こういう状態になってから既に長い時間が過ぎていた」
「じゃあ、あなたは、ここで生まれたわけじゃないんだ?」
彼は、頷く。
「ぼくは、魔の領域の外で拾われた。ぼくの母ははぐれグリアモスで、発情期に通りすがりのグリアモスと交わってぼくを身ごもり、生み捨てたんだ。死にそうになっていたぼくを風の魔貴族が拾って、ここに連れてきてくれた。それ以来、ずっとここがぼくの故郷になっている」
「そうなの……」
何てフォローしていいのかわからない。
突然聞かされた身の上話にどう対応していいのか、七都は戸惑う。
ただ理解できるのは、彼もまた気の毒な境遇で、いろんなものを背負っているということ。
彼の生意気な性格も、そういう複雑なものの裏返しなのかもしれない。
ナチグロ=ロビンは、金色の目で七都を一瞥し、顔をしかめた。
「変な同情はいらないからな」
「べ、べつに同情なんて……」
「どうせぼくは、下級魔神族でグリアモスさ。魔神族から魔力を分けてもらっているから、こんなきれいな姿も保っていられる。王族の七都さんとは違うよ」
「……」
そんなに自虐的に卑下されると、取り付く島もなくなってしまう。
言おうとしていた何かが、頭の中で言葉に変化させる前に分解して行方不明になり、探せなくなってしまう。
七都は、ナチグロ=ロビンを視界の真ん中に止めたまま、結局黙り込む。
ストーフィが、ナチグロ=ロビンと七都をたぶん心配そうに交互に眺めた。
「行くぞ」
ナチグロ=ロビンは、すいっと七都から目を逸らして歩きかけたが、再び七都を振り返る。
たった今自虐的セリフを口にしたことは忘れてしまったかのように、彼は元通りの声のトーンに戻って七都に注意した。
「ああ、そうそう。あまりこの都市の中をじっくり眺めながら歩いちゃだめだよ。見なくてもいいものまで見えてしまうから」
「なんだよ、それ。幽霊でも見えちゃうってこと?」
七都も元通りの態度で、遠慮なく彼に質問を浴びせかける。
<風の都は、幽霊都市……>
そう告げたのは、見張り人。あの老婦人の記録係。
<この扉の向こうには、幽霊が閉じ込められている……>
そう説明したのは、ボランティアで扉の番人をしている、魔王らしき若者。
七都は、合わせて思い出す。
「風の都って、幽霊で溢れてるの?」
「幽霊? なんだよ、それ」
ナチグロ=ロビンが眉を寄せる。