第1章 姫君の帰還 4
七都たちの足元には、真っ白い石を隙間なく並べて造った古い道路が伸びていた。
霧の中におぼろげに広がるその道は、不透明な白い水の底に静かに沈む古代の遺跡のようにも思えた。
ナチグロ=ロビンは、その道を先に立って進んで行く。
やがて霧が消え、地の都と同じ澄んだラベンダー色の空が現れた。
けれども、一緒なのは空の色だけで、そこは地の都の風景とは全く異なっていた。
七都は思わず立ち止まる。
「風の城……?」
七都が呟くと、ナチグロ=ロビンは頷いた。ナチグロ=ロビンに抱かれたストーフィも、彼と同時に頷いたような気がした。
七都の真正面の空に雲がたくさん浮かんでいた。
真ん中の盛り上がった大きな雲を取り巻くように、小さな雲が並んでいる。
けれどもすぐに、それはただの雲ではなく、雲を絨毯のようにその下に敷いて浮かんでいる白い建物であることがわかってくる。
中心の何段重ねかのデコレーションケーキのような大きな城は、七都が幽体離脱したときに訪れたあの城だった。
庭園があり、きらびやかな女性たちが笑いさざめいていた場所。
そして、ナチグロ=ロビンがソファで眠っていて、七都と同じワインレッドの目とチャコールグレーの長い髪の若者――リュシフィンに会った場所。
その城を七都は今、地上からの景色として眺めていた。
あれが、風の城―――。
やっぱり空中に浮かんでるんだ。
庭園が途中で切れたようになっていたのも、そのせい……。
城は下に積雲を敷いていたが、そのてっぺんあたりにも薄いベールのような雲を従えていた。
それは、蜘蛛の巣が城の表面にふわりとかかっているようにも見えた。
雲の上の城など、普通は夢か幻想の中のもの。だが今、目の前に現実に存在している。
それは、いつかどこかで見たことがあったような、せつなくなるような懐かしい風景だった。
城はもちろん、魔法などで浮かんでいるのではなく、魔神族の科学や機械の力で宙に止め付けられているのだろう。
周囲のたくさんの小さな雲の上にも、それぞれ城や館が建っていた。
庭園のものらしいアーチなども見えている。建物の色が真っ白なので、雲と同化しているようだ。
「あの建物は?」
「ああ、あれは、魔貴族たちの住居だよ」
ナチグロ=ロビンが答えた。
「お城を中心にして、回ってるんだ」
七都は、改めて空を見上げた。
確かに雲たちは風の城を中心にして、ゆっくりと動いていた。
普通の景色では、雲は地平から反対側の地平へと流れて行く。
けれどもここでは流れ去ってしまわずに、ぐるぐると弧を描いて永遠に回り続ける。風の城を軸にして、魔貴族たちの館をその上に乗せたまま。
「あ、じゃあ、もしかしてカーラジルトのおうちも、あの中のどれかなんだ?」
「そういうこと。さ、行くよ、七都さん」
ナチグロ=ロビンが七都を促し、歩き始めた。
……ってことは、彼の婚約者のシイディアも、あのどこかのお屋敷に住んでるってことか。
ちょっと落ち着いたら、お邪魔させてもらおう。
場所わかるかな……。
シイディアは、オルテシス子爵の令嬢だとカーラジルトは言っていた。
つまりオルテシス子爵の屋敷を探せば、そこに彼女がいるということになる。
うん、だいじょうぶ。きっと簡単に見つかる。
何百も何千も、雲の上に建物があるわけじゃないみたいだし。
「ねえ。ところで、どうやって風の城に入るの? 瞬間移動? 飛んで行くとか?」
七都が訊ねると、ナチグロ=ロビンは、めんどうくさそうに振り返る。
「別にそうやって入ってもいいんだけどさ。ぼくはいつもここから飛んでって、テラスから入ってるし」
「じゃ、飛んで行く? ゆっくりなら、なんとか飛べるんじゃないかとは思うけど……」
幽体離脱したときにさんざん飛んだので、コツはだいたいわかるような気はする。
あの水槽のおかげで、エディシルも今はまだ十分体に満ちているし、案外うまく飛べるかもしれない。ナチグロ=ロビンに、「七都さん、遅っ!」とか何とか文句を言われるかもしれないとはいえ。
けれども、ナチグロ=ロビンは七都に言った。
「七都さんは初めてここに来たわけだから、やっぱり正面から正式に入るべきだろ」
「正面?」
ナチグロ=ロビンは、ストーフィを抱えていないほうの腕をまっすぐ伸ばし、前方を指差す。
建物を乗せた雲の群れの真下に、低い丘が見えた。
丘の上にはクリーム色の石の壁が、帯のようにうねっている。
「あれは?」
「市民たちの居住区の外壁。あれと風の城と風の魔貴族たちの屋敷。それからこの道路も空も、全部ひっくるめて風の都だ」
「風の都……」
七都は、その言葉を繰り返してみる。
今まで何度も何度も耳にし、口にしたその言葉。その名前。
そうだ。ついに来たのだ。幽体離脱の生霊ではなく、生身の体で。
風の都。ここが、風の都――。
メーベルルが七都を連れて来ようとした場所。
七都が目指していた場所。
自分の正体を知るため、母の消息を知るため、そして、風の魔王リュシフィンに会うために――。
リビングの緑の扉を開けて、散々な目に遭って……。
やっとたどり着いたのだ。今、自分は風の都の中にいる。
何気に無自覚にのんびりと歩いている。けれども、ここは風の都の中なのだ。
改めてそう意識すると、幾分気が引き締まる。
瞬きをするたびに風の都の景色がかすみそうになり、七都は慌てて目をごしごしとこすった。
「街の中に、お城への入り口がある。そこから入るから」
ナチグロ=ロビンが言った。
「そこが、風の城への正式な入り口ってこと?」
「その通り。そこからのほうがいいだろ?」
「うん」
もちろん正式に正面から風の城に入って、そしてリュシフィンに迎えてもらう。
当然のことよね。
だってわたしは、ここの姫君なんだもの。
七都は、ナチグロ=ロビンのあとについて、石畳の道路を歩いた。
道の両側には、木々が茂っている。
木々で構成された緑のグラデーションは、丘のふもとまで続いていた。
「これ、森? この木って?」
森にしては、どことなく不自然なものがあった。
人工的に植えられたような、どこか整然とした雰囲気。木の種類も組み合わせもよく考え抜かれ、そこに配置されたような……。
けれども、それを途中で放棄し、そのままほったらかしにしてしまったような、未完成っぽい妙な雰囲気も重なり合う。
もっとも魔の領域全体がつくりものらしいのだから、そんな感じがするのも当たり前なのかもしれなかったが。
「ここは元々、畑だったらしい」
ナチグロ=ロビンが言った。
「市民たちがいろんなものを作っていた。アヌヴィムの食料を確保するためにも、ここは大切な場所だったみたいだ。でも、今はこうなってる。手入れする人もいないからね。ぼくがここに来たときは、もう既にこんな感じだった」
「風の都って、人口が少ないんだったよね」
「少ないなんてもんじゃないさ」
ナチグロ=ロビンは、再び歩き出す。
植物の綿毛のような白いふわふわしたものが、時折風に混じって飛んでいる。
それらは種子の部分を金属的な銀色にきらめかせながら、七都たちの周りを所在なげに漂った。
風の都は壊滅状態になった。何代か前の風の魔王、リュシフィンの暴走によって――。
そう何度か聞かされた。いろんな人々から。
だったら、あの外壁の中の街は、目も当てられないほどに破壊されているのだろうか。
戦争とか地震が起こったみたいに?
建物は壊れ、とても悲惨な状況になっているのだろうか?
風の城や魔貴族たちの屋敷は、そんなふうには見えない。
雲の上の建物は、そのどれもが白く美しい。おそらく造られたときの形が完璧に保たれている。
七都はナチグロ=ロビンの後ろ姿を眺めながら、のろのろと石畳の道路を進んだ。
その時。
ヴィン、という奇妙な音を七都は聞いた。
ヴィン。
ヴィン――。
何か機械の音。
あまり心地のいい音ではない。
どちらかというと不快な音。注意を喚起するような耳障りな音だった。
「ロビン。何、あの音」
「そろそろ来た」
「え?」
「七都さん、剣の用意」
ナチグロ=ロビンが、そっけなく言う。
「ええっ?」
ナチグロ=ロビンはいつの間にか、ストーフィを抱えていないほうの手に、銀色にきらめく剣を握りしめていた。
少年の姿の彼が持つには長すぎるくらいの大きな剣だった。
今までそんな剣、持っていなかったのに?
いったいどこから出したのだ?
それよりも、何で剣なんかが必要になってくる?
「ちょっと待って。なぜ剣がいるの? ここは風の都じゃない。魔の領域の中だよ。わたしたちに危害を加えようとする何かがいるってこと? そんなの、おかしくない?」
七都が喋っている間にも、ヴィン、ヴィンという音は鳴り続けた。
何か平たい機械のようなものが、空気を突っ切って素早く動いている。そんな感じの音だ。
その不快な音が聞こえるたびに、七都は思わず顔をしかめる。
ナチグロ=ロビンは剣を高く掲げ、目だけを動かして、注意深くあたりを窺っていた。