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第1章 姫君の帰還 2

「母は極めて健康です。当分は元気に生活するでしょう。だから、許してもらったのです。しばらく家を離れることを」


 シャルディンが答える。


「家を離れることにしたのか? なぜ?」

「私の主はナナトさまですからね。私はひとまず自分の目的を果たせたわけですし、アヌヴィムとして、やはり一旦はあの方の元に戻らなければ。ここであなたに出会えたのは、非常に運がよかった」


 シャルディンは、にっこりとカーラジルトに笑いかけた。


「カーラジルトさま。風の都に行かれるご予定は?」

「そろそろ帰ろうと思っていたところだが。長い間帰っていなかったし、今帰れば、ナナトさまにお会い出来るやもしれぬ」

「では、私を一緒に連れて行ってくださいませんか? 風の都までの旅のお供に、ぜひ私を……」


 シャルディンが言った。

 カーラジルトは、物怖じすることなく自分を真っ直ぐ見つめてくるシャルディンを、改めてまじまじと眺めた。

 突然そのような申し出をされるとは、思ってもみなかった。

 自分と共に旅をしたいなどと――。そんなことを考える人間が存在するとは。

 七都に会ったときも、その行動にかなり戸惑ったが、このアヌヴィムはそれ以上かもしれない。


「私と風の都まで同行したいと? 気が触れたとしか思えんが」

「私は、至って真面目ですよ」


 シャルディンは、真剣な表情をする。


「私が一人で行ったところで、風の都への扉がまともに開いてくれるとは考えられません。ナナトさまには、私のことを伝えておいて下さるようお願いはしたのですが、下のものたちがきちんとそうしてくれるという保証はありませんからね」

「そうだな。それに、扉に到着する前に、きみは通りがかりの魔貴族にさらわれてしまうかもしれないな。その容姿では」


 カーラジルトの不透明な目にじっと見据えられ、シャルディンは居心地悪そうに身を引いた。


「……では、連れて行ってくださいますか?」

「連れて行ってもいいが。条件がある」


 カーラジルトが言った。


「条件?」

「それなりの役割は受け持ってもらう、ということだ」

「役割とは?」

「なに、単にアヌヴィムとしての務めを果たしてくれればよい」


 シャルディンは、いつの間にか針のような細さになった、カーラジルトの銀の瞳を眺めた。

 そして、彼の言いたいことを理解する。

 そうだった。彼は魔神族なのだ。そして、彼の目の前にいる自分はアヌヴィム。

 たとえ主人が七都であり、その七都が自分を自由にしてくれているとはいえ、アヌヴィムであるということに変わりはない。


「エディシル……ですか。あなたに……提供しろと?」


 シャルディンは、声を絞り出すようにして呟いた。


「アヌヴィムを連れ歩くのは私の趣味ではないのだが、きみがそうしてくれれば、この先風の都に着くまで食料を探す手間がなくなるのでね。心穏やかに風の都へ急げるというものだ」

「私はまだ、私の主人であるナナトさまに自分のエディシルを差し上げていません。ナナトさまを差し置いてあなたに提供するのは、非常に心苦しい」

「私も、あの方よりも先にきみのエディシルを食べるのは心苦しいが。きみがどれだけ待っても、ナナトさまはきみのエディシルは召し上がらないだろう。私のエディシルも。おそらく他のどのアヌヴィムや魔神族のものも」


 カーラジルトが言った。


「……頑固ですからね、ナナトさまは」

「主人以外の魔神族にエディシルを与えるかどうかは、今はきみの意思になる。ナナトさまは、きみを縛ってはいないのだからな」


 シャルディンは、一瞬だけ唇を噛み、手を握りしめたが、やがてあきらめたように呟いた。


「そうですね。……わかりました。では、あなたの申し出を受けさせていただきましょう。今はそれを了承するしか選択肢はないようですし。ならば、迷わずにそうすべきでしょうね……」


 シャルディンが答えた途端、カーラジルトの瞳が大きくなる。二つの小さな丸い鏡のようだ。

 そしてシャルディンは、カーラジルトの手が自分の首筋に伸びていることに気づいた。

 ぞっとするような、魔神族の冷たい手だった。

 何千回、何万回触れられても、なじむことのないその異質な手。

 人間としての体が、その感触と体温を拒否している。

 シャルディンは、七都の手を懐かしく思い出す。

 ひいき目かもしれないが、あの方の手はもっとあたたかくて、人間味があった。やはり人間の血が混じっているからなのか……。

 カーラジルトの指が、シャルディンの首筋をゆっくりと這った。

 シャルディンは顔をしかめ、その不愉快な感覚を我慢する。


「悪くはないエディシルだ。やはりナナトさまの魔力をいただいただけのことはある」


 シャルディンのエディシルを調べ終えたカーラジルトが、満足そうに感想を述べる。


「先程目覚めてから、まだ食事はしていなかったものでね。さっそく仕事をしてもらおうか」


 カーラジルトの銀の瞳は、目からこぼれ出そうなくらいに大きく、丸く広がっていた。

 その瞳は、ゆっくりと近づいてくる。

 シャルディンはその瞳の中に、白い巨大な猫の気配を感じ取った。


「あなたは……グリアモスか?」


 シャルディンは、目の前の魔貴族に訊ねる。声が少しかすれていた。


「半分そうだ。母がグリアモスなものでね。グリアモスは好きではないのか、アヌヴィムどの?」

「苦手です。子供の頃、魔貴族の屋敷で、彼らにさんざんおもちゃにされた嫌な記憶がある……」

「それは気の毒だった。だが今は務めを果たしてもらわねばならぬ」


 カーラジルトはシャルディンの唇に、自分の冷たい唇を重ねた。

 二人のその行為に、周囲は総毛立つ。

 魔神族とアヌヴィムが交わす口づけ。

 店にいる全員がその意味を知っていた。その口づけがただの口づけではなく、魔神族の食事であることを。

 人々は、不自然に、だが完璧に二人を無視する。最初から彼らがそこに存在しなかったかのように。

 そこにあるのはテーブルと椅子。そこは空いた席。最初から誰も座ってなどいない。

 けれども、ざわめく店内にきれぎれに漏れ伝わってくる、アヌヴィムの耳障りな、くぐもったようなうめき声――。

 人々はその声を意識から追い出し、その禍々しい行為がすぐに終わるように、それぞれが心の隅で祈り続けた。


 食事を終えたカーラジルトは、椅子から立ち上がった。

 シャルディンは、テーブルに突っ伏していた。

 一見、酔っ払ってそうなってしまったように見える。

 その紅潮した頬も、どんよりと曇った半開きの目も、だらりと垂れた両手も、すべて酒の飲みすぎであるかのようだ。

 渦巻いたパールホワイトの髪だけが、健康的な明るいきらめきを放っていた。


「真夜中になったら、出かける。それまで動けるようになっておけよ、シャルディン」


 カーラジルトは声をかけたが、シャルディンは抜け殻――いや、残骸のように、テーブルに顔を伏せたままだった。


「私は、もう少し眠ることにする。空腹も満たされたし、当分食料の心配をする必要もなくなるからな。ゆっくりさせてもらうよ」


 カーラジルトは、ホールの通路を歩く。

 彼に掻き分けられる前に、人々は彼と接触せぬよう、そそくさと道を開けた。

 彼の不透明な翡翠色の目と視線を合わせることを避け、ただひたすら反対側に顔を向けて、各々のそれまでの演技をぎこちなく続ける。

 カーラジルトは人々の背中を冷たく一瞥し、カウンターに歩み寄った。

 そして、カウンターに金貨を一枚置く。

 妙に静まったそのあたりの空気の中に、それはカチリと乾いた金属音を響かせた。

 固まったままの店員は、目だけを動かして、その金貨を抜け目なく確認した

「あのアヌヴィムに、何か栄養のあるエサ……いや、食事を用意してやってくれ。酒は付けるなよ。エディシルがまずくなるからな」


 店員は、淡々とした口調で紡がれるカーラジルトの言葉に身を震わせる。

 カウンターにいた客たちは、全員うつむいて黙ったままだった。


 金貨を残したまま、カーラジルトの姿は、店の隅の闇の中に、溶け込むように消え去った。

 人々はほっと胸を撫で下ろし、店は再び賑やかさを取り戻す。


 シャルディンは、頭を抱えながら起き上がった。

 気分は最悪だ。頭全体が痛むし、体もひどくだるい。めまいもする。

 魔神族にエディシルを食べられることには、もうすっかり慣れてしまっているはずだった。

 だが、あの伯爵は――。

 化け猫だの、口が裂けているだの噂されるのは、そういうことか。

 グリアモスの血が混じっているからだ、かなり濃く。

 シャルディンは、ふうっと溜め息をつく。


「やはりグリアモスは苦手だ……。やつらは必要以上にエディシルを取って行く。これから風の都に着くまで、毎回ずっとこうか?」


 やがてシャルディンのテーブルに、出来立ての魅力的な料理が、たくさん運ばれる。

 もちろん、それはカーラジルトの注文通りの、アルコール抜きの豪華な夕食だった。

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