第1章 姫君の帰還 1
彼は、店の最も奥のあまり光が届かない席に座り、軽く目を閉じていた。
太陽はとうに地平に隠れ、まだその名残の真珠色が、青黒く染まりかけた空に残る時間――。
店の素朴な灯りは、早々と酔いが回った客たちの火照った顔を照らし出し、賑やかな話し声や食器の音が、狭い空間に溢れかえる。
旅人たちは疲れを忘れてくだを巻き、店員たちは彼らの間を通り抜けて、食事や酒を忙しく運び続けた。
彼は、目を閉じながらも耳を澄ます。
客たちの会話の中に、彼にとっての重要な情報が紛れ込んでいることが多いからだ。
彼にとってのキーワード。人々の話の中で、ひそやかに、且つ遠慮がちに語られる『魔神族』。あるいは『グリアモス』。そういう言葉――。
それらは日々の糧を得るための手掛かりであり、彼のこれからの行動を決めることにもなる。
彼のテーブルには、陶器に入れられた高級酒が置かれていた。
けれどもそれは、彼がその席に滞在するためだけに、店に多めに支払った代金の単なる領収証のようなもの。
彼がその酒を口にすることはない。他の客たちの多くが注文する料理の類も、そこに置かれることはなかった。
彼が飲み、食するのは、全く別のものなのだ。
そのことをふと思い出すだけで怖気を震い、店全体が総毛立ってしまうような恐ろしいもの。
周囲の客も店員も、そのことをよく知っていた。
それだからこそ、たまに彼を遠慮がちにちらりと眺めやることはあっても、彼をずけずけと凝視したり、声をかけてきたりするものは皆無だった。
人々が彼に抱くのは恐怖と畏怖。決して関わり合いになってはならない人物なのだ。
こちらから何も仕掛けなければ、彼はそこにただ座っているだけ。何の危険もない、気前のよい、見た目も美しい客――。
人々は彼の存在を心のどこかに気にかけながらも、各々の穏やかな時間を過ごしていく。
知りすぎるくらいによく知っている彼の正体を、酔いに任せて己の唇が勝手に喋り出さぬよう、細心の注意を払いながら。
「ご一緒させていただいてもよろしいですか?」
誰かが、彼に声をかけた。
店内の空気が、一瞬凍りつく。
だがそれも、すぐに店の忙しい喧騒の中に飲み込まれてしまった。
人々はその無謀な勇者の行動に眉をしかめ、おののいたが、自分たちの視界からその二人を強制的に遮断した。
これはますます関わり合いになってはならない。そう心に決め込んだかのように。
彼は、めんどうそうに薄く目を開けた。
彼の前に、灯りを遮るような感じで一人の若者が立っていた。
人懐っこそうな笑顔が彼に向けられている。
彼に笑顔を向ける人間など、ほとんど存在しないはずだった。
ごく最近、彼を抱きしめ、笑顔をくれた美しい少女がいたが。それはまだ記憶に新しいことだ。
彼は、翡翠色の不透明な目をちらりとその勇気のある若者に注いだ。
そして、返事の代わりに片手を少し上げて、テーブルを指差す。
「どうも」
若者は会釈して、彼の隣に座った。
その若者もまた、彼に対抗し得るぐらいの見目麗しい容姿をしていた。
もちろん若者は、多少は魔法の匂いが感じられるとはいえ確実に人間であったし、彼のような禍々しいくらいに妖しい美しさは持ち合わせてはいなかったが。
「お会いできて光栄ですね、魔神狩人化け猫カーラジルトどの。いや、カーラジルト・アールズロア伯爵さまとお呼びしたほうがよろしいですか?」
彼は、じろりとその若者を見た。
若者は怖れた様子もなく、彼の視線を受け止める。その明るい薔薇のような赤い目で。
「ただのカーラジルトで結構、シャルディン」
若者は、思いもかけず突然名前を呼ばれ、初めて顔をこわばらせた。
「私のことをご存知なのですか? 初対面のはずですが」
「シャルディン。アヌヴィムの魔法使い。風の王族の姫君ナナトさまの最初のアヌヴィム」
彼――カーラジルトは、淡い銀の髪と赤い目をし、額にアヌヴィムの印であるV字形の輪をはめたその若者を、視線をはずさぬまま、じっと眺めた。
「まあ、とにかく、説明する手間は省けたわけですね」
シャルディンは再び彼に微笑みかけ、少し体を楽にして、ゆったりと椅子に座り直した。
それから改めて、カーラジルトを観察するように見つめ返す。
「なんだ?」
にやにやしているシャルディンに、カーラジルトが訊ねた。
「いえ。やはり口が裂けているわけではないのですね。そんな気配さえもない。実に美しい唇をされている」
「きみだな。ナナトさまに妙なことを吹き込んだのは」
カーラジルトは、唐突に彼の口の両端をつまんで『裂けてない……』と呟いた七都を思い出した。
「そういう噂が飛び交っていたから、素直にお伝えしたまでですよ」
シャルディンは悪びれる様子もなく、言い訳をする。
「ある意味、的を射た噂だがな……」
カーラジルトは、ひとりごとを言うようにぼそりと呟いた。
「カーラジルトさま。あなたとはこの先、おそらく四六時中顔を合わさせていただくことになる。もしあなたがナナトさまの側近になられるのであれば」
シャルディンが言った。
「そうだな。そして、きみがナナトさまのアヌヴィムであり続けるのならば、そういうことになるかもしれぬな」
「私は、そのつもりですよ」
シャルディンが、にっこりと笑う。
「あの方が好きですから、ずっとおそばにいますとも。あなたもそうされるおつもりでしょう?」
「あの方がそう望まれるのであれば、そうするだろう」
カーラジルトは答えた。
「では、ぜひ仲良くしていただきたいですね。ところで私のことをご存知だということは、やはりナナトさまから私のことを?」
シャルディンが訊ねた。
「説明を受けたわけではない。ナナトさまの中に入ったとき、きみのことが見えた。記憶として」
そしてカーラジルトは、たちまち微笑みが吹っ飛んで物凄い形相になったシャルディンに眉を寄せる。
「近いぞ、シャルディン」
彼は、視点が合わぬくらいの至近距離に詰め寄ったシャルディンに注意した。
「ナナトさまの中に入ったとは? どういうことですか?」
カーラジルトは、うんざりしたように溜め息をついた。
「きみもアヌヴィムの魔法使いなら知っているだろう。そういう術があることを。意識を他人の体に移して、その人物を思いのままに動かす」
「ナナトさまを思いのままに動かしたと?」
シャルディンの赤い眼が、炎のように燃えていた。
カーラジルトは、ますますうんざりした表情をする。
「剣の使い方を教えてさしあげただけだ。手っ取り早く習得出来る」
「そうですか……」
シャルディンは安堵したようにカーラジルトから離れ、自分の椅子に落ち着いた。
「で? 習得されたのですか、ナナトさまは。剣の使い方を?」
カーラジルトは、首を振った。
「いや。残念ながら、実践ではあまり役に立たぬだろう。魔力を使われたほうがまだましだ。もっともその魔力も、もう少し何とかしていただかないと」
「ではあなたは、剣も使えぬ、魔力も何とかなっていないあの方をひとりで行かせてしまわれたと? ひどい怪我もされているというのに?」
「私を責めるのか?」
カーラジルトは、シャルディンをじろっと見据える。どこか機嫌が悪い猫を思わせる目つきで。
「ひとりで風の都に行くことをナナトさまは望んでおられた。もしそれがリュシフィンさまのご意思でもあるのなら、私は従わねばならぬ。それにきみも、自分の家族を優先して、ナナトさまの元から去ってしまったのだろう?」
今度はシャルディンが、カーラジルトを睨む。
「ナナトさまのご命令です。ご自分のことより私のことを気にかけて下さった。私はそれに甘えてしまったが、おかげで父の死に目に立ち会うことが出来た。あの方には感謝しています」
「異世界から来られたあの方の言動には、理解不能なところがあるが。というより、あの方ご自身の性格かもしれぬがな」
「確かに、魔神族にしては珍しい性格の持ち主でいらっしゃるかもしれませんね」
シャルディンは同意した。幾分カーラジルトを眺める表情が穏やかになる。
「私は、少し後悔している。ナナトさまに私のエディシルを召し上がっていただかなかったことを。それを拒否しておられたゆえ、逆らわずに従ってしまった。けれども、無理やりにでも召し上がっていただいたほうがよかったのかもしれぬ。血止めの薬は持っていただいたが、果たしてそれをちゃんと飲んでくださっているのかどうか……」
カーラジルトが言う。
「ナナトさまのお怪我は、ひどくなっていますよ」
シャルディンが、思いつめたように呟いた。
「なに……?」
カーラジルトが、翡翠色の目をシャルディンに向ける。
「私には見えませんでしたが、ナナトさまは、私の元に来られたらしい。そう、あなたが今さっき口にされた術です。私の身内の少女の中に、おそらく一瞬だけだが、入られた。あれは確かにナナトさまでした」
「あの方は、そのような高度な魔力は、まだ使えぬはずだ……」
「だが、現に使っておられた。身内の少女の話からすると、どうやらお怪我は、私が知っているものよりひどくなっているらしいのです」
カーラジルトは片手を上げた。その指で、七都の怪我の位置を示して見せる。
「もっとです。もっと、ずっと下」
カーラジルトは、自分の胸のあたりで止めていた手を、さらに腰まで伸ばす。
「そう。そのあたりまで。それくらい怪我は大きくなっているのです」
「では、私が知っている怪我よりも、やはりひどくなっているということになる」
カーラジルトは、沈み込んだ口調で言った。
「……ご覧になったのですか? あなたが? ナナトさまのお怪我を?」
シャルディンはカーラジルトに、棘を含んだ質問をやんわりと差し向ける。
確かにカーラジルトは風の魔貴族。七都の同族ではあるが……。
怪我を見ることが出来るような立場であるはずがない。
将来、七都の側近になる人物かもしれないが、今はまだそうではないのだ。
それに、たとえ現在側近であったとしても、王族の姫君が異性の前で裸体をさらしたりはしない。自分のアヌヴィム以外には。
「包帯を巻いて差し上げた。ご自分で出来ないとおっしゃられたので。その過程だ」
それからカーラジルトは、おもしろがるように付け加えた。
「ちなみに私は、ナナトさまと抱き合って寝た。それも一応報告しておこうか、アヌヴィムどの」
「……!」
再びひきつった表情でにらめっこが出来るくらいに接近したシャルディンを、カーラジルトは無表情に眺める。
「落ち着け。避難所が冷えて寒そうにしておられたから、私の体で暖を取っていただいただけだ。全く人間はやっかいだな。言葉を自分で勝手に、その通りに解釈して受け止める。言葉の奥に何があるかとか、どういう意味を含んでいるのかなど、全く考えぬ。単純というか素直というか……。まあ、ナナトさまもそうだが」
「あいにく魔神族のように、複雑怪奇には出来ていませんからね」
シャルディンは、再び自分の椅子につく。
暖を取るためなら、仕方がない。それ以上の意味はないだろう。そう自分に言い聞かせながら。
「あの方には、魔王さまお二人の口づけの印がある。そのような方に手を出すのは、よほど無謀なものか悪意を持つものか、あるいはそのお二人の魔王さまのうちのどちらか、ということになる」
カーラジルトが言った。
「私は、あの方のお体を隅々まで鑑賞させていただいたが……そのような印は……」
「口づけの印は額にある。残念ながら人間には見えぬ」
カーラジルトの言葉を聞いて、シャルディンは露骨に不満そうな顔つきをする。
「見えぬほうが楽だと思うぞ。あの方のお顔を拝見する度に、魔王さま方にどこからかじっと観察されているような、そんな錯覚が起きてしまうからな」
カーラジルトが慰めるように追加したが、シャルディンはますます気を悪くしたようだった。
七都の最初のアヌヴィムでありながら、そのような大切なものに気づけず、見ることも出来ない自分にいらだったのかもしれない。
「ところで、きみはなぜここにいる? この町は魔の領域に近い。きみの家からはかなり距離があるはず。ナナトさまに家に帰るように命令されたのだろう? 家にはまだ母上がおられるのでは? そばにいなくてもいいのか?」
カーラジルトが訊ねた。