~去る者、出逢う者~
抜けるような青空に、巧は目を細めた。
「嗚呼、良い天気だ」
そして、地上に目を戻す。
武家の別邸は着工と同時に作業を止められてしまった。
曰く。
――依頼主である武士が死んだ為。
現場に取り掛かってから、わずか一週間後の事だった。
死んだ男が買い取った此の土地は、次は誰が買い取るのだろうか。
其れは巧達には関係のない事だった。
巧達は黙々と基礎を解体し、材木を撤去している。
前払いで貰った報酬は返さなくて良い、と謂う。
普段から評判が良くない事は、知っていたのだろう。
死んだ武士の細君は、蒼白な表情を能面の様に固めて、報酬を返そうとする巧を押し留めた。
「此れも天罰でしょう。あの人がしてきた事が、此の程度の事で赦されるとも思っておりませぬが」
柳の様に細い武士の妻は、子供達を連れて故郷に帰ると、其の後小耳に挟んだ。
此の町を去ったのは、死んだ武士の妻と子供達だけではなかった。
「彼奴、何処に行ったんだ……」
ばりばりと巧は頭を掻いた。
武士が死んだから家は建てなくて良い、其の知らせを受けた日から、トキは姿を消していた。
女の悲鳴が辺りに響き渡った。
此の小さな別邸もまた、男の数多い別邸の一つであり、また妾を住まわせているものの一つだった。
叫び声に下女が慌てて寝室にしている座敷に向かうと、障子が赤黒く染まっている。
「ぎゃああぁっ」
下女は其の儘気を失って倒れたと謂う。
座敷の中の女も、疾うに気を失っている。
此の二つの叫び声に、夜も明けきらぬ早朝ながら、人が集まってきた。
普段から評判の良くない、後ろ指差している家から、断末魔の様な悲鳴が上がったとあれば、好奇心も止められず。
そっと庭先から入ると、むわり、と生暖かい空気が流れた。
只事ではない、と集まった近所の者は無礼を承知で邸内に上り込むと。
赤黒く汚れた障子の前で倒れている下女を見付け。
そして。
汚れた障子を恐る恐る開ければ。
頭を柘榴の様に割られた人間と。
其の隣で血に塗れた顔を恐怖で歪めたまま気を失っている女が、いた。
布団はぐっしょりと血を吸い、どろどろと固まりかけている。
気を失っている女は其の血を顔に受け、顔面が黒く塗り潰されたかの様な形相になっている。
「おいっ、しっかりしなせぇっ」
一人が女の頬を叩くと、顔に付いた血がぱらぱらと剥がれ落ちた。
やがて医者だお役人だと辺りが大騒ぎになった頃下女が息を吹き返し、血塗れの女も気が付いた。
ふと目が醒めたら隣に男の頭が砕けていたのだと、女は主張した。
役人は、何時までも日陰の身である事を恨んだ女が、男を殺したのだと考えた。
然し、二人が床を敷いた座敷には、鈍器になる様なものが一つもなかった。
他の部屋のもの、壺や文鎮も見聞されたが、血の跡は認められなかった。
庭石か、と一つ一つひっくり返してみても、動かされた跡はなく、そもそもどの石も女には持ち上げられなかったのだ。
下女は下女で、夜中に物音は聞こえなかった、と云った。
「お恥ずかしい話ですが」
まだあどけなさを残した其の下女は、云い辛そうにもじもじと着物の袖を弄りながら呟いた。
「その……旦那様とお嬢様のやり取りは……私の下がっている部屋に微かに聞こえるのです……」
其の晩も何時も通りで、変わった音はしなかったと云う。
見聞した処、普通の声量の話し声は聞こえなかったものの、ほんの少し大きな声を出せば何事かを云っているか解らずとも、微かな話し声として聞く事が出来た。
「争う様な事があれば、流石に気付くな……」
役人は溜息を吐いた。
男は寝ている間に何者かに頭を砕かれて殺された。
然し、下手人は同衾していた女ではない。
下女を疑ってみたものの、普段眠りが浅いと謂う女は、障子の開いた気配だけで目を醒ますと云う。
役人達は揃って首を傾げた。
男は眠っている間に、見えない鈍器で殴られて殺されたと謂うのだろうか。
「莫迦な」
そう吐き捨ててみたものの、やはり下手人は解らず。
時だけが過ぎていき、やがて忘れられていった。
+
色素の薄い髪を靡かせながら、トキは屋根の上を疾駆している。
隣には紅い髪を靡かせた漆黒の少女が並走している。
「貴様、貴様の様な下郎でも名はあるのかぇ?」
くすくすと笑う少女――夢姫――は、細くしなやかな足の筋肉を収縮させながら軽やかに問いかける。
トキは前方を見据えたまま「トキ」とだけ答える。
「トキ。何と詰まらぬ名よ」
たーん、と高く跳ぶと、夢姫は猫の様に空中で一回転して、着地すると再び同じ速さで走り出す。
(身体能力は、申し分ない)
トキは其の様子を横目に入れながらそう思った。
月夜に照らされた紅い髪が、黒ずんだ血の様で美しい。
トキはついさっき出逢ったばかりの夢姫の、髪の事だけ考えていた。
まるで血を細く細く伸ばして凝固させたかの様な色だ。
日の光の下では、どんな色をするのだろう、触れた感触は、やはり血の様に濡れているのだろうか。
トキの背骨を、ぞくぞくとした感覚が走り抜ける。
「貴様など、下郎で十分じゃ」
甚振る、少女特有の無邪気で残酷な表情を浮かべながら、夢姫はトキに云い放つ。
トキは正面を向いたまま、答えない。
「ふん、詰まらぬ男じゃ」
ほんの少し、夢姫は後悔した。
面白いものだと、思ったのだ。
興味深いと、思ったのだ。
そして何より。
美しいと、思ったのだ。
フェリシモとは違う、色を抜いていっただけの透明に光を透かしている様な髪の色も。
屋根の上を走り抜ける、着物の下に隠された筋肉の躍動も。
無様に瓦に叩き付けられた時の、不意打ちに驚く顔も。
初めて聞いた其の声も。
夢姫が出逢った人間の中で、一番美しいと、思ったのだ。
其れなのに。
此の愛想も感情もなさそうな人間は、其の美しさに相応しいだけの無関心さをやはり、持っていた。
如何してこちらを向かせようか。
夢姫が思案していると、トキの首元にきらりと光が一直線に、閃いた。
「フェリシモ!」
慌てて夢姫が制止する、其の声よりも早く、トキの身体はフェリシモの背後に回っていた。
夢姫が足を止め、トキの手によってまた、フェリシモの身体も其の場に縫い付けられた。
「やるな、お前」
ぴたりと頸動脈にトキの手刀を当てられたフェリシモが、憎々しげににやりと笑った。
夢姫はほぅ、と息を吐き、そして。
「下郎、放せ」
ひたり、と云い放つ。
夢姫の懸念とは裏腹にあっさりとフェリシモを放したトキは、其の場に立ち尽くしていた。
「姫様、参上が遅れまして申し訳ありませぬ」
「良い」
すっと素早く移動したフェリシモが、夢姫の手を取り、手の甲に口付けを落とす。
フェリシモの腰に手を回しながら、夢姫は顎でトキを示した。
「あれなる下郎こそ、吾等の捜していたものぞ」
「然様で御座いますか、ならば何故始末なさらないのですか」
フェリシモの問いに、夢姫はにたりと嗤った。
「飼ってみようと、思うての」
「そんな酔狂な。あれは」
フェリシモの言葉を、人差し指一本で制した夢姫は、くすくすと笑った。
「あれは死んでもいなければ生きてもおらぬそうじゃ。ならば何時でも捨て置けよう?」
「……お戯れも程々になさいませ」
「何、そなたが吾を護ってくれるであろう、フェリシモ……」
艶、と夢姫が微笑むと、同じくフェリシモが笑みを返した。
「解ったな、下郎。フェリシモに手を掛ける事は吾に手を掛けると同義ぞ」
「……御意」
すい、と流れる様な所作で片膝を付いたトキに、夢姫はびくりと肩を震わせた。
「姫様?」
「何でもない、行くぞ。夜明けの前に帰らねばならぬ」
フェリシモは夢姫を横抱きに抱くと、屋根の上を走り出す。
其の後をトキが続く。
「縁は如何した」
「今宵は男の元へ」
「哀れな男がまた去ぬな」
「あれに愛されるは至福でしょう」
「そなたも縁に愛されたいかぇ?」
「私は姫様以外の方など要りませぬ」
「ふふ、愛い奴よ」
二人は小声で話し続ける。
然し其の声は全てトキの耳に届いていた。
+
トキは垣根を直していた。
此の広い屋敷でトキは、雑用として住み込みで働く事になった。
夢姫に見付かって一週間が経とうとしていた。
あれ以来、夢姫には逢っていない。
宛がわれた小部屋では、今迄の様に夢を渡り歩く事が出来ない。
己の夢から、出られない。
何か特別な術が施されているのだろう。
恐らくはトキの力を知った夢姫の差し金だ。
然しトキは不満にも思わなかった。
己が夢の中でも、やる事は同じだ。
此の屋敷に来てから、外出もままならなくなったトキは、夢の中で思う存分に欲求を満たしていた。
否、満たしている、と思い込む事にしていた。
屋敷の人間を手にかける訳にはいかない。
巧く生きていかねばならない。
巧く立ち回るのだ。
普通の人間の様に。
トキは黙々と垣根を修繕した。
「終わりました」
「あら、早いのね、助かったわ。あそこから近所の子供とか野良犬が入り込んで困ってたのよ」
女中頭に修繕が終わった事を伝えると、何だか余計な事まで話された。
トキは其れを何時もの無表情で聞いていた。
「トキが来てくれて助かったわ、うちの男達は不器用なのばっかりだから」
最初は恰好良いけど無表情で怖いと怯えられていたが、段々と屋敷の使用人達と馴染む事が出来た。
「鳥渡休んでおいでよ。お茶淹れてあげるから」
「有難うございます」
そう云ってぺこりと頭を下げると、厭だそんな他人行儀な、と云って女中頭はからからと笑いながら奥に引っ込んだ。
トキは道具を傍らに置き、框に腰を下ろす。
長屋は放置してきてしまった。
馴染みの大工道具だけ、持ち出してきたが、其れ以外の家財は置いてきてしまった。
(巧さんは、捜しているだろうか)
捜しているかも知れない、あの人の好い男は、本当に俺の事を心配してくれているだろう。
あの場所は確かに居心地が良かった。
(其れでも、やはりあそこは俺の場所ではなかった)
そう感じてしまう事が、トキには少し残念だった。
逃げようと思っても、逃げられない。
トキは自嘲気味に笑った。
此の人生が如何転ぶか、トキには解らなかった。
「はい、お茶」
「有難うございます」
受け取った湯呑は温かく、何時か巧と一緒に食べた蕎麦の丼を思い出させた。
丼なんて。
何だか可笑しくなってしまった。
嗚呼、此れが普通と謂う事なのか。
じんわりと温かい湯呑を両手で包みながら、トキはぼんやりとそう思った。
+
こつこつ、と柱を叩く音でトキは目醒めた。
「流石だな」
気配で相手がフェリシモだと解っていたので、ひたりと背後に立った。
捩じり上げたフェリシモの手には、小刀が握られていた。
「離せよ」
「……」
トキの手がフェリシモの手首を放す。
「容赦ないな」
「……容赦していなければ、お前の腕は砕けている」
それだけぼそりと呟くと、トキは素早く着物に着替えた。
「俺が何しに来たのか、解るのか」
「夢姫のお呼びだろう」
「……」
フェリシモの顔が歪む。
「お前が俺の事を嫌いなのは解っている。そんな俺の処に来ると謂う事は夢姫に云い遣ったからだ」
「……お前、調子に乗るなよ」
揺れる金髪の向こうで、フェリシモが低く呻った。
「早くしろ。夢姫を待たせるは」
「黙れ。こっちだ」
殺気を隠そうともしないフェリシモにばれぬ様に笑みを零すと、トキは彼の後ろに続いた。
広い屋敷は、夜ともなれば寝、と静かだ。
フェリシモとトキの衣擦れの音がやけに響いた。
フェリシモは灯りを伴わずにすいすいと邸内を進んでいく。
途中でトキが転べば良いとさえ思いながら。
然し予想に反してトキは転ぶどころか壁にさえぶつかる事はなく、フェリシモの後ろをひたとついてくる。
空恐ろしい。
フェリシモの背中に一筋汗が流れた。
此奴は此の闇の中、俺の気配を追って歩いているのか。
自分とて腕の立つ暗殺者だった。
其れで国を追われ、此処まで流れてきたのだ。
然し此奴は、此のトキと謂う男は。
(俺は此の屋敷の間取りを完全に把握しているから歩ける。然し此奴は)
気配を察知して、歩いている。
そんな事が出来るのだろうか。
微かに人の気配を感じる事はあるだろう。
気付かれぬ様に気配を消す事もまた、出来るだろう。
ならば、と、フェリシモは己の気配を限りなく消してみた。
トキは動じない。
相変わらずひたりとフェリシモの後をなぞる様についてくる。
足を置いた場所さえ、寸分違っていない様だ。
只者ではないと思っていたが、此処までとは。
フェリシモは背後のトキに意識を向ける。
夢姫は何を思って此の男を傍に置く事にしたのだろうか。
真意を質そうにも、あの姫ははぐらかすだろう。
可愛らしく首を傾げて、甘えた声で彼の名を呼ぶのだ。
――のぅ、フェリシモ。恋しかったぞぇ。
夢姫の声を聴くだけで、全てが如何でも良くなってしまう。
十以上歳の離れた少女に、フェリシモは心酔していた。
嗚呼何と愛しき姫か。
其れだけに、トキの存在は赦し難かった。
夢姫に危害を加えようものなら、容赦なく。
殺す。
フェリシモは無音の背中で、トキに告げた。
気配を消された瞬間、トキは心の中で嘲笑った。
(俺を試しているな)
フェリシモが夢姫と恋仲にある事は直ぐに解った。
あの二人の様子を見て、其れに気付けぬ方がおかしいとさえ思いながら、トキはフェリシモの後をぴたりと尾け歩いた。
俺が壁にぶつかったり転んだりするのを期待しているのだろう。
トキにはフェリシモの思惑が手に取る様に解っていた。
此の男は嫉妬しているのだ、他でもない、トキに。
夢姫が獲物と定めた人間に罰を与えなかった事はないのだろう。
其れが、人を殺した俺を放免し、あまつさえ己が屋敷に置き、仕事を手伝わせようとしている。
屹度夢姫はフェリシモを御しているのだ。
そしてフェリシモも、あの幼気な少女に骨抜きにされているのだと、トキは正しく認識していた。
相変わらず茫洋とした気配のまま、トキは前方を歩くフェリシモを観察する。
見た目から推察して、歳は三十路位か、本当はもう少し上かも知れない、然し二十代半ばでも通る様な若々しさを、フェリシモは保っていた。
俺よりも少し年上か。
トキはほんの少し目を細める。
特徴的な金色の波打つ髪は、異国人のものである。
空の様に淡い色をした瞳も、此の国の者ではない事を物語っている。
言葉には全く違和感がないが、其れが却って不自然で、トキは何度か笑いそうになっていた。
纏った着物も、高すぎる身長の所為で、ぞろりと長い筒の様に見えた。
袴を穿いた、深夜の装いなら、其の長い脚が強調されて見惚れてしまうのに。
自分よりも頭一つ高いフェリシモの背中を、トキは見詰めた。
夢姫と並ぶと其の身長差が際立つ。
此の国の少女として、一般的な成長を遂げている夢姫は、常にフェリシモに片膝を付かせて話をさせている。
常の状態だと、見上げなくてはならないからだろう。
何とも可愛らしい要求をするものだ、トキはほくそ笑んだ。
大人びた表情と言動で彼らに君臨するあの少女は、まだ餓鬼ではないか。
背伸びした少女ほど、滑稽で愛らしい生物はない。
トキの指が己の着物の表面を撫でる。
少女の頬を撫でる様に、優しく。
其処で正面の気配が詰まり、何か障害があるのだとトキは感じだ。
そう思った瞬間に、フェリシモが足を止めた。
「此処から先が姫様の御座所だ」
「嗚呼」
「無礼は赦さん」
ぎろり、とフェリシモが暗闇の中からトキを睨み付けた。
其れを当然の様にトキが受け止めるのを感じたフェリシモは、小さく舌打ちをした後、襖を開いた。
途端に眩しい光が溢れたが、トキは両目を閉じて目が眩むのを防いだ。
目を閉じていても、気配を感じられれば困る事はない。
其れに、目も直ぐに慣れる。
幼い頃受けた教育は、トキの身体にしっかりと刻み込まれていた。
其処は、長い廊下の様になった屋だった。
最奥が遠過ぎて見えないほど、長い長い、部屋と形容するよりも廊下と形容するのが正しい、そんな座敷だった。
畳の敷かれた部屋の両側は、紅い格子が填められている。
最奥まで、ずらりと。
灯りは申し分のないほど密に点けられている為、昼の様に明るい。
然し其の灯りも、奥に進むにつれて少なくなっていく。
格子の填まった向こう側には、女の子が好きそうな人形や玩具が転がっている。
時折本も散らばっており、無造作に置かれた文机からは、手習いの後らしい文字で埋め尽くされた半紙が零れ落ちていた。
衣文掛けに掛けられた豪華な着物は、細かな花の刺繍が施され、一目で値の張るものだと解る。
桐の箪笥や鏡台、そんな女らしい家具に混ざって、太刀が二振り、飾られてもいた。
段々と薄暗くなっていく長い部屋の最奥は、高い窓が抜かれた空間だった。
丁度両側の格子で区切られた空間を繋ぐ様に、コの字になっている其の部分には、トキが見た事のない、柱と布が掛けられた大きな箱が置かれていた。
箱の四隅には細い柱が建てられ、柱が支える箱の天井には、何枚もの紗が掛けられ、畳にまで垂れている。
箱は巨大で、箱に合わせて作られたのだろう、同じ大きさの蒲団が何枚も重ねて置かれていた。
流石のトキも、此れには驚き、僅かに目を見開いた。
フェリシモはするすると格子に近付き、小さく切られた戸の部分からするりと中に入った。
ついて来い、と云われなかったトキは、格子の外に立っている。
「案外躾が良いんだな」
フェリシモが嘲笑気味に笑うのをトキは聞いていなかった。
此の箱は一体何なのか。
トキが考えている間に、フェリシモが箱の上の蒲団に上がり、中央まで進んでいく。
其処でやっと、布団の上に夢姫がいる事に気付いた。
気配だけで、何処にいるのかと思ったら。
トキはそう考えながらも、此の箱の正体を理解した。
寝具だったのか。
フェリシモは布団の上の夢姫に覆い被さり、ぐ、と顔を近付けた。
やがてフェリシモの唇が夢姫の唇に重なり、ふんわりと彼女が目を醒ました。
部屋に満ちた夢姫の気配が、開く花の様に綻んだのを、トキは感じた。
「姫様、トキを連れて参りました」
「遅い、フェリシモ。吾は待ち草臥れた」
「ご容赦を」
「ならぬ」
「困りましたね」
夜着を肌蹴た夢姫は、白々しく困った素振りを見せるフェリシモの着物の裾を足で捲り上げる。
白く細い脚が、夜着の裾を割って露わになる。
トキは其の足をじっと見詰めていた。
夢姫の足に、フェリシモの手が伸び、優しく撫で上げる。
「後程、お相手致します」
「……まぁ、良いか」
ぐい、と顔を上げた夢姫の唇にフェリシモがもう一度口付けを落とす。
其処でやっと、夢姫の目がトキに向いた。
「如何じゃ、此処の暮らしは」
其れは労わるものではなく、自慢げに問いかけられた言葉だった。
「悪くない」
「可愛くもない返事よ」
憎々しげに吐き捨てると、「縁よ」と声を上げた。
「御意、瞑様」
途端に何処からともなく黒髪に黒い着物を纏った女が現れる。
此の女は人間ではないな。
トキはそう考えた。
今の今まで気配は全くなかったのだ、其れが突然現れた。
トキの知る限り、完全に気配を消せる人間は此の世に存在しない。
その様な人間がいれば、其れは既に死んでいるか。
人間の形をした別のモノか。
兎に角人間ではない其等には、視覚や聴覚で認識する以外に存在を確かめる術はない。
認識しなければ居ないのと同義なのは、どれでも同じか。
トキはフェリシモに誘われながら箱の様な寝具を降り立つ夢姫を見ながら思った。
縁が几帳の影に夢姫を招き、やがてさらさらと衣擦れの音が響いた。
トキは唯立っていた。
息をしているのかしていないのか、解らぬほど微動だにせず、立っていた。
其の様子を見ていたフェリシモを、矢張り恐怖が襲った。
こんなモノに狙われたら、終わりだ。
如何したらこんなモノが出来上がるのか。
フェリシモの疑念に満ちた視線を受けても、トキは矢張り、動かなかった。
やがて几帳の裏から出てきた夢姫は、トキが初めて逢った時と同じ姿をしていた。
丈を短く詰めた漆黒の着物に、黒いさらしを巻いた足に地下足袋を履いている。
先ほど艶めかしくフェリシモの着物を捲った足と同じ足が禁欲的な黒に覆われている。
きりりと高い位置で一つに結われた髪が、着物の背に流れている。
「下郎、今宵は貴様の度量を見極める」
地下足袋のまま布団の上に飛び乗ると、夢姫は格子の中へ入る様にトキに命じた。
「今迄我流ながら吾等の領地を荒らした事、まぁ評価してやっても良い。然し、此れからは吾が貴様の領地じゃ。勝手は赦さぬ」
高くなった寝具の上に仁王立ちになった夢姫は、ぼんやりと立つトキに向かって話し続ける。
「貴様がどの程度使えるか、吾に示せ」
「あれでは足りぬか」
初めて出逢った宵、トキが夢の中で殺した武士の件は、世間では有耶無耶になっている。
「吾は貴様の手並みが見たいのじゃ」
今宵まで貴様を呼ばなかったのは、仕事がなかっただけじゃ。
夢姫はそう云って苦笑すると。
「上がれ」
布団の上に、トキを誘った。