儂もう嫌なんじゃけど?
「ひっひっひっひぐ……ひっひっひっ」
大乱調で自滅の果てに、儂はマウンド上で過呼吸になっておった。
ぜ、全然ストライクが入らぬ。
なんじゃこれ、イップスにでもなったのではないか。
マウンドは孤独じゃ。ピッチャーはひとりぼっちじゃ。
今の儂には大牙の構えるミットまでの距離が遥か遠くに感じてしまう。
「しっかりしろ!」
その間、大牙は何かしら声かけをしておったのじゃが、今の儂には雑音でしかなかった。
もう早く解放されて楽になりたい。
心に浮かぶのは故郷の山。昔の楽しかった思い出の数々。
いかん。思考の現実逃避が過ぎて汚いミューズの神まで降ってきおった。汚いミューズが儂を詩的世界へ誘おうとしておる。
もう無理じゃ。もう投げとうない。これ以上生き恥を晒しとうない。
いつまで儂を投げさせつもりなのじゃ。早う降板させぬか。
儂は縋るような目でマウンドから北浜側のベンチを見た。
「監督、交代しなくていいんですか!? アイツもう限界っすよ!」
さすがにベンチでも騒ぎになっておるらしく、控えの部員たちが監督の見川に声を上げておる。
じゃが、見川はまるで動じておらぬようじゃ。
「ええ……森宮君には良い薬になるでしょう」
そして初めて見開かれた見川の目はまったく笑っておらんかった。
こやつ、儂を潰す気なのじゃろうか。
こんなのは晒し投げではないか。懲罰投球ではないか。
いずれこの事件は『森宮の161球』などと呼ばれて高校野球史に残るに相違ない。
「もう嫌じゃ……」
儂は気の抜けた投球を続けておったが、それが却って先程のような力強い球との落差で打ちづらくなったのか、首藤はフルカウントになるまで何度もファウルして無駄に粘っておった。
もうわざとフォアボールを与えて楽になろうかえ。
次もフォアボールならば九者連続四死球じゃ。
九者連続三振の後に九者連続四死球。
ある意味で伝説じゃろ、儂。
ある意味で爪痕を残したじゃろ、儂。
「もう……早う楽にしてくれ」
そして投じた10球目を打たれると、打球はライト側のフェンスに直撃し、外野がクッションボールの処理に手間取っておる間に走者一掃のタイムリー3ベースヒットになりおった。
これでスコアは0-11じゃ。
規定では5回10点差でコールドゲームになるらしい。
どうせ次の5回表の攻撃も打てんじゃろうから、これにて試合終了じゃな。
「終わりじゃ……」
儂の中でプツリと何かが途切れる音がした。
何球も粘られた末に痛打され、ランナーは依然として塁に残ったまま。
投手からすればこういうのが一番堪えるのじゃ。
「悪い。今のは俺のミスだ。もっと慎重にいくべきだった」
ここで再び守備のタイムを取った大牙がマウンドに駆け寄りながら珍しく謝罪を寄越してきおったが、既に儂の心はここに在らずじゃった。
「儂、もう嫌なんじゃけど……」
儂は卑屈な笑みを浮かべると、小声で諦めたように呟いた。
なぜこんな屈辱的な目に遭わねばならぬのか。
なぜこんなに苦しい思いをせねばならぬのか。
もうたくさんじゃった。
「は?」
「じゃから儂、もう嫌なんじゃけど……」
もう限界じゃった。もうウンザリじゃった。
一刻も早くこの場から逃げ出したい。
瞳はどこじゃ。瞳はどこにおる。瞳に会いたい。瞳の手料理が食べたい。瞳の乳を揉みたい。瞳と風呂に入りたい。瞳と一緒の布団でぐっすり眠りたい。
儂は虚ろな目をしながら瞳を想った。
「お前何を言って……」
「じゃからッ!」
「っ!?」
儂は事態が飲み込めぬのか何度も訊き返してくる大牙に、そして自分自身に言い聞かせるように大声を上げた。
「儂、もう嫌なんじゃけど……? もう投げたくないんじゃけど……? こ、降板……降板させてほしいのじゃけど……?」
半べそじゃった。
口を開けば開くほど惨めになったが、それでも泣き言は止まらんかった。
「大丈夫……じゃなさそうだな。とりあえず落ち着け。氷上先輩は怪我明けだから無理はさせたくないんだ。せめてこの回だけでも頑張ってくれないか?」
「嫌じゃ嫌じゃ! 儂もう嫌じゃぁあああああああああああああーッ!」
わあああああ、と決壊した儂がマウンドに崩れ落ちた。
そのただならぬ光景に他のナインたちも集まってくる。
「おいしっかりしろ!」
「もう嫌じゃ。なぜ儂がこんな惨めで恥ずかしい思いをせねばならぬのじゃ。儂、こんな思いがしたくて野球をやっとるんじゃない……」
儂は大粒の涙を流しながら嗚咽した。
「あぁ? ならお前は何のために野球をやってるんだ?」
見かねた大牙が声をかけた。
「そ、それはもちろんチヤホヤされたいからじゃ。儂の剛速球で打者をキリキリ舞いさせて、皆に崇め奉られたいからじゃ」
「そ、そうか。まぁ野球をやる理由なんて人それぞれだ。けどな、野球をやっていれば打たれることもあるし、思い通りにならないことだってある。喚いたって何も変わらないぞ」
大牙にしては穏やかな声じゃった。
いや、こやつもどうせこの試合はもう諦めておるのじゃろう。
「ぬしらのせいじゃ……」
よろよろと立ち上がった儂は内野陣を睨んだ。
「……は?」
「下手糞のぬしらが儂の足を引っ張るから悪いのじゃ!」
「はぁぁあああああああぁあああああああああ?」
そうとも。元はといえばこの回の悪夢はこやつらの情けないエラーから始まったのじゃ。
せっかく儂はそれまで気持ち良く投げておったというのに、こやつらのせいで台無しになってしもうたわい。
「おかげで儂は多大なる屈辱と精神的苦痛を味わった。この落とし前をどうつけてくれるのじゃ?」
「どうって……俺たちのせいにすんなよな。たしかにエラーで足引っ張ったのは悪かったけどよ……いやもうこの際はっきり言うわ。お前気に入らねぇんだよ、1年生のくせに何だその態度!」
「いつも偉そうにしやがって!」
「上級生を何だと思ってんだよ!」
北浜ナインから続々と抗議の声が上がる。
じゃが、もう儂にはどうでもよかった。
「ふん、辞めじゃ辞め。野球なんてもう辞めじゃ」
やがて元の守備位置に戻っていった雑魚共を睨みつけながら、儂は悪態をついた。
「もう全部ぶっ壊してやるわい。どうにでも……なれい!」
そしてど真ん中に向かって気の抜けたストレートを投げると、弾き返されたライナー性の打球は儂の顔面スレスレを通過した。
誰もがセンターに抜けると思うたのじゃが、セカンドの根岸が飛びついて捕球しおった。
そのまま即座に立ち上がると、3塁ランナーの首藤を走らせぬよう釘付けにしておった。
このファインプレーに球場からは拍手が巻き起こり、あの黒海学園側のベンチからも「倉敷の他にも動けるやつがいるじゃないか」と感嘆の声が上がっておる。
「ひとりで野球やってんじゃねえ!」
ユニフォームを泥塗れにした根岸が儂を怒鳴りつけた。
「やかましい! 今更格好つけてももう遅いのじゃ!」
儂も負けじと怒鳴り返す。
「ピッチャー交代」
「なっ!?」
ここで投手の交代が告げられ、背番号1をつけた3年生の氷上がマウンドにやってきた。
「ふ、ふん! 今頃交代かえ? 儂が苦しくてどうにもならぬ時に交代せず、あと1アウトで終わる今更交代かえ?」
氷上は何も言わず、ぽんっと儂の肩に手を乗せおった。
儂はまた泣きそうになりながらベンチに引っ込んだのじゃった。
「お疲れ様でした森宮君。後学のために先輩たちの姿をよく見ておくといいですよ」
敗走した儂を監督の見川が労った。
いつものようにニコニコと呑気に笑っておる。
「やかましい! 今更交代させおって! 何考えて生きとるんじゃ!?」
儂はベンチに蹴りを入れてからドカリと腰掛けた。
「森宮君は私を恨んでいるかもしれませんね」
「当たり前じゃ! 絶対に許さぬ! 顔も見とうない!」
「ですが、野球はひとりではできません。森宮君にはそのことを知っていただきたかったのです」
見川がこともなげにほざきおった。
何が野球はひとりではできませんじゃ。あの雑魚共が儂の足を引っ張ったのが悪いのじゃろうが。そしてホームランを打たれた時点で儂の心は折れておったのじゃから、監督ならばもっと早く交代させるべきじゃろうに。おかげで儂はあのような辱めを。あのような……。
「はい」
マネージャーの立花がタオルを寄越してきおった。
「うっ……うっ、ひくっ、ひっ、ひっ、うぶぅぅぅうううううううう!」
もうこれ以上泣くつもりはなかったのじゃが、タオルを受け取った瞬間、儂の涙腺は再び決壊した。
800年生きてきて、こうまで感情が揺さぶられることがあるじゃろうか。よもや人間の年寄りのように加齢で脳の前頭葉が劣化しとるのではあるまいな。
「2アウトー!」
「しまっていこー!」
儂よりも力の劣る氷上が登板したところでどうなるのじゃと思うたが、氷上の掛け声に他のナインが湧き立っておる。
なんじゃ、こやつら。儂のときはそんな元気なかったじゃろうが。これが信頼の差とでもいうのじゃろうか。
やがて氷上が5番打者をピッチャーゴロに打ち取り、4回裏の長い黒海学園の攻撃が終わった。
5回表の攻撃で最低でも2点入れねばコールド負けになるが、結局5番6番7番とあっさり三者凡退で試合は終了した。結果的に0対11の大敗じゃ。
誰もあの黒海学園の先発じゃった佐山とかいう小僧を攻略できんかった。
完膚無きまでに叩きのめされたというわけじゃ。
「ま、当然の結果だよ。ねぇ大牙、今からでもうちに転校してきたら? そんな弱っちいチームは辞めてさ」
試合終了の整列と礼の後に佐山が煽ってきおった。
大牙は悔しそうに無言で俯き、儂も何も言い返すことができんかった。
……惨めじゃ。実に惨めじゃ。




