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3話

第3話

3日をかけて、馬車はようやくエルンスト公爵邸の門をくぐった。


長い道のりでこわばった体の疲れも、緊張に押し潰されそうな胸の鼓動の前では、まるで霞のように薄れていく。


視界の先には、広大な庭園と整然と刈り揃えられた深い緑が広がっていた。


どの枝も葉も、無駄なく計算されたかのように形作られ、自然でありながら、冷たく厳格な秩序を感じさせる。


馬車の車輪が石畳を刻む音さえ、邸宅の威圧感の前では小さく震えるように思えた。


見上げれば、堂々とそびえる建物は、まるで私の視線を押し潰すかのように高く、重厚な扉は一歩踏み入れただけで世界の空気を変えてしまうかのようだった。


「到着いたしました」


御者の低い声と同時に、重々しい扉がゆっくりと開かれ、ひんやりとした北部の空気が頬を撫でた。


夏のはずなのに、澄んだ冷気は肌に突き刺さるようで、首都の暖かさが遠い夢のように思える。


遠くの山々には白い雪が積もり、季節の違いを見せつけるように静かに輝いていた。


胸の奥がざわめいた。


ここで私は、孤独と絶望に沈み、自ら命を絶した。


思い出すのは、重苦しい沈黙と、冷たい空気の中で押し潰されていく自分の感覚。


あの時の恐怖や虚無感が、まるで背筋をなぞるかのように再び現れ、思わず身震いした。


だが、今は違う。


せっかく与えられた二度目の人生。


同じ過ちを繰り返さず、今度こそ最後まで生き抜こうと、必死に背筋を伸ばした。


‘次こそは……少しでも、幸せになれるのかな……?’


正直、あまり大きな期待は抱けないけれど、どうせなら誰かの温もりや小さな喜びを感じながら、今度こそ自分の人生を味わいたい。


そう思った。


馬車が静かに進み、石畳の音が遠ざかると、目の前の庭園と邸宅の威厳が、私の心に静かに、しかし確かに重くのしかかる。





重い扉をくぐると、使用人たちが整然と並んで出迎えていた。その奥には義父母とコーデリアの姿があった。


コーデリアは私より一歳年上で、いかにも高貴なお嬢様という感じの女性だった。公爵に似た青みがかった黒髪に明るい青の瞳の整った顔立ちに、袖を掴む仕草ひとつにまで知性がにじむ。


ろくに作法も教えてもらえず、見よう見まねで覚えていた私とは明らかに次元が違った。


‘…仲良くなれたらいいな……’


私はそんなことを考えながら、使用人たちがずらりと並ぶ道を歩いていった。


額に傷を持つ公爵が、堂々とした気配で私を見据えた。


「遠路はるばるよく来てくれた、エヴァリア・デ・ルミア・セレノア嬢。疲れただろう」


“ルミア”光を継ぐものに与えられるその名は、私をセレノアに縛りつけるものだった。


セレノアはかつて強い神聖力を誇っていた。建国当初から、帝国に忠誠を尽くしその神聖力で高い地位を保ってきた。


しかし、今ではそれは過去の栄光に過ぎなくなっていた。神聖力を持つ子が生まれなくなり、その地位が危うくなって来ていた。


そんな時に、私生児の私に神聖力があることに気づいた侯爵が私を引き取った。


神聖力があったとしてもそれを扱えるかどうかはその人の才能の問題だ。幸か不幸か私は才能がなかった。そのおかげで侯爵は早々に私に神聖力を使わせることを諦めた。


もし私がこの力を扱うことができたならもう少しいい暮らしをできたのだろうか。


そんなことを考えたりもしたけど、多分死ぬほどこき使われて終わっただろう。


役に立たないこの力のことを触れられると、私は自分に流れる血が忌々しくてしょうがなかった。


「お会いできて光栄です。お気遣いありがとうございます。」


私は怯まず堂々と礼を返した。


すると、義母が一歩進み出てきた。


「ルドウィグは緊急の要請で今はいないのだけれど…夜には戻るはずよ。あなたに初めて会う日なのにごめんなさいね」


一度聞いたことのあるその言葉に私はなぜか安心した。未来を知っていることへの安堵だった。


「そうかお気になさらないでください。理解しています。」


私はできるだけいい第一印象を残すために、優しく微笑みながら答えた。


夫妻の視線が一瞬だけ交わったのを私は見逃さなかった。


優しい言葉の裏に、私を試す疑念が潜んでいることは、言葉にされずともはっきり伝わった。


革命派のセレノア侯爵の娘。保守派のトップであるエルンスト公爵家から情報を盗むにはぴったりな立場だった。


その張り詰めた空気を解いてくれたのはコーデリアだった。


「それでは、私がお部屋にご案内いたしますね」


凛とした声が冷えた大広間に澄み渡る。

 

エヴァリアは優しく会釈し、微笑みを浮かべながらその後を歩き出した。

 

背後に残る公爵夫妻の視線を感じつつ、今度こそこの家で生き抜くために踏み出した。






大広間を抜け、長い廊下へと足を踏み入れると、ほんのりとした香りが鼻をかすめた。


花の香とも香木の香ともつかぬ、落ち着きのあるそれは、冷たい石造りの空気に柔らかな温もりを添えていた。


高い天井から下がる幾つものシャンデリアが、昼間の光を受けて淡く揺らめく。磨き込まれた床にきらきらと反射し、歩くたびに靴音が静かに反響した。


「北部は寒いでしょう?」


先を歩いていたコーデリアがふいに振り返り、控えめに声を掛けてきた。


「私は首都に行ったことがないのでよくわからないのですが、首都は暖かいと聞きます。」


「えぇ。暖かくて、とても心地がいいわ。」


微笑みながら答えた。その声は自然と優しくなり、嘘偽りのない言葉が口からこぼれ落ちた。


「……そうですか。いつか、行ってみたいです。」


コーデリアは小さく笑い、また前を向いて歩き出した。背筋は伸びていたが、その横顔にはまだ緊張の影が残っていた。


‘1度目の人生で私はこの言葉に何を返したっけ…’


1度目の人生では、ルドウィグが迎えに現れなかったことに苛立ち、心のやり場を失っていた。その怒りを、何の罪もないコーデリアにぶつけ、冷たい態度をとってしまったのだ。あのときの彼女の驚いた顔が、今も記憶に焼きついて離れない。


本当は初めから、愛のない政略結婚だと理解していたはずなのに、受け入れる勇気が持てず、弱さを誰かにぶつけてしまった。思い出すたびに悔恨の念が胸を締めつける。


だからこそ、今回は必ず生き抜くと決めた。孤独や絶望に押し潰されるのではなく、少しでも自分を支えてくれる縁を大切にしたい。


足を早め、コーデリアの横に並ぶように歩み寄った。


「あの、もしよろしければ…あなたともっと仲良くなりたいです。北部には友達がいないから…あなたと仲良くなる機会が欲しいです。」


自分でも驚くほど真っ直ぐな声が出た。


コーデリアは驚いたように目を瞬き、少しだけ唇を結んで考える素振りを見せた。けれどすぐに、花がほころぶように柔らかい笑みを浮かべる。


「……コーデリアよ、ディアって呼んで。仲良くしましょう?」


その言葉を聞いた瞬間、胸がぱっと明るく弾けた。冷たく固まっていた心に、柔らかな春風が吹き込んでいくようだった。


「ありがとう、ディア! 私のことはエヴァって呼んでね!」


思わずはじけるような笑顔を見せると、コーデリアもまた嬉しそうに頬を染めて笑った。


‘よかった……今回はあなたを傷つけなくて…’


廊下に射し込む光の粒が二人を包み込み、初めて距離が縮まったことを祝福しているかのようにきらめいていた。






部屋へと案内されると、広々とした窓から北部の澄んだ光が差し込んでいた。


厚いカーテンに囲まれた寝台と、暖炉の前に置かれた椅子。全てが上質でありながら、どこか冷たい空気が漂っている。


この家でいつも使っていた部屋なのにどこか雰囲気が違っていて、まるで別の場所に来た気分だった。


「こちらがエヴァのお部屋です。なにか必要なものがあったらいつでも言ってくださいね」


そう言って小さく頭を下げたコーデリアは、侍女たちに軽く指示をしてから静かに去っていった。


私は緊張から解けた安心と共に、胸の奥で微かに暖かい波を感じ、思わずクラッとした。


「お嬢様、大丈夫ですか?」


「ええ、大丈夫よ。少し旅の疲れが出ただけ」


これは単なる旅の疲れだけではなく、扱うことのできない神聖力のせいだ。


神聖力があるせいで、私は昔から体が弱かった。


少し歩いただけで息が上がり、気を抜くと足元がふらつく。


誰にも悟られないように微笑みを張り付けてはいるけれど、その笑みさえも時には耐えられなくなる。


それは歳を重ねるごとに酷くなっていった。


'役に立たない力のせいで苦しめられるなんて、皮肉な話よね……まぁ、もう慣れたけど……’


私は何も考えたくなくて椅子に腰を下ろし、窓の外を眺めた。


夏だというのに、肌に触れる空気はひんやりと澄んでいる。遠くの山並みが、薄い霧の向こうで静かに連なっていた。


「本当に…北部は首都とはまるで違いますね」


イーダの言葉に私は小さく頷いた。


「でも、不思議と嫌な気分はしないわ。首都は少し騒がしすぎるからむしろ心が落ち着く気がする」


そう言って目を細めると、イーダもほっとしたように微笑んだ。






窓の外に視線を投げると、庭の木々が静かに揺れているのが見えた。淡い陽光を受けた緑がきらきらと輝き、眺めているだけでまぶたが重くなっていく。


いつの間にか舟を漕ぎかけていた私を見かねたのだろう。


イーダがそっと近づき、「夕食まで少しお休みください」と優しく勧めてくれた。


彼女はいつも私の無理を見抜いてくれた。


その声に逆らう気力もなく、素直にベッドへと身を横たえる。


柔らかな枕に頬を押し当てると、張りつめていた力が糸のように解け、全身が心地よい重さに包まれた。


薄く開いた窓からは爽やかな風が吹き込み、部屋の空気をやさしく撫でていく。その風に揺られ、カーテンが小さく舞った。


その音に混じって、耳の奥で聞こえるはずのない旋律が聞こえたような気がした。


母の子守唄だった。


もう二度と聞けるはずがないとわかっているのに、風のざわめきが言葉になって、胸の奥をやさしく撫でていく。


目を閉じれば、懐かしい温もりまでもがそこにあるようで、胸がぎゅっと締めつけられた。



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